子易こやす

比比多神社

  「比比多(ひびた)神社」は別名を「子易大明神」といい、安産の守護神として崇敬されている「木花咲耶姫命(神吾田鹿葦津姫命(かむあたかあしつひめのみこと))」を祭神とする。木花咲耶姫命が出産のおり、産家に火をかけて出産されたという神話から安産子育信仰が生まれたものである。境内社は菅原社・稲荷社・八雲社がある。
  社殿の創立年月は不詳だが天平年間(729〜749年)とされる。以後、寛文2年(1662年)に修築され(神官鵜川権太夫直積代)、享保2年(1717年)に再建をしている(神官従五位下行鵜川大隈守藤原朝臣直賢代)。現在の社殿の工匠は荻野の宮大工である。また、明和5年(1768年)6月に燈籠2基が寄進され、享和2年(1802年)12月には厚木市荻野出身の浮世絵師「歌川国経(うたがわくにつね)の筆になる「美人図絵馬」があげられており、この絵馬は県指定の重要文化財となっている。
  「天平の頃、当国守護の任にあたりし染谷太郎時忠(藤原鎌足の玄孫で関東総追捕使)が当国安土・子宝を願い勧請す。後、その内宝懐胎に及び信仰益々篤く、ひたすら安産の祈祷奉るに忽ち霊験現る。依って、社頭以下設備怠りなく造営す」と云う。後に、醍醐天皇の勅願所となり、神階・御告文その他旧記等宝殿に蔵せられしが、天正(てんしょう)18年(1590年)の小田原落城のおり惜しくも亡失す。爾来、信号を「易産大明神」又は「子易大明神」と称え、朝野の別なく尊神きわめて篤く、安産守護神として崇敬される。
  伴信友の『神名帳考証』には次のような記事を載せている。「先年同郡(大住郡)子安村に子易明神と云ふ淫祠ありけるを、同郡上糟屋村へ遷し、安産を守る神也と云ひふらし、助大夫と云へるものの子神主と称しけるが、三宮神主に内談し、比々多神主の称をかり、吉田家の許状をうけ来り、鵜川氏を名のり、近年となりて、比々多神社子易大明神と二行に書きたる額をうち、守礼には相模国十三座之内比々多神社としるせる由なりとて訴へ歎きたりき」
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によるとかつての上粕屋村は下糟屋村(成瀬地区)と一緒であったが、中世末にそれぞれ独立したらしい。村内には小名子易と隣村の上子安下子安の鎮守であった「子易明神社」をはじめ、小名山王原の鎮守「山王社」、小名秋山や辻の鎮守「熊野社」、小名川上の鎮守「熊野社」、それに「五霊社(2社)」・「神明社(4社)」・「住吉社」・「天狗神社」・「八幡宮」・「稲荷社(5社)」・「山神社」・「石神社」・「若宮八幡宮」・「白髭社」・「白山社」など多くの社が祀られていた。寺院も「洞昌院(曹洞宗)」・「宗源寺(曹洞宗)」・「金光寺」・「徳雲寺」・「宝泉寺(臨済宗)」・「智光寺(臨済宗)」・「捕陀寺(黄檗宗)」・「白性寺(古義真言宗)」・「吉祥院(古義真言宗)」・「実相院(古義真言宗)」・「寿昌院」・「善応院」・「地蔵堂(2堂)」・「閻魔堂」・「不動堂(2堂)」などがあった。

比比多神社社号柱
燈籠・鳥居神社由緒
狛犬狛犬
手水舎社務所
拝殿本殿・幣殿
神楽殿
隣接する公園
裏側の燈籠・鳥居境内

  拝殿の正面にある2本の向拝柱は暖地に自生するなぎ(マキ科の常緑香木)で、わが国では古くから熊野の速玉神社や伊豆の白浜神社・伊豆山神社などで御神木として崇められ、奈良の春日神社には梛の群生林がある。梛の葉には竹の様に平行脈が走っており、葉の一片一片に神霊が宿るとされ、古くよりこれを鏡の裏や守り袋に秘めて招福厄除とした。
  梛の木には「女梛」と「男梛」があり、当神社梛は球形の種子を結ぶ女梛のほうである。この葉を肌身につけていると、素敵な異性にめぐりあい、夫婦仲も円満にそして女性には愛くるしい子宝をもたらすといわれている。拝殿に向かって左側の柱が男子・右が女子出産祈願と言い、煎じて飲むと安産できると信じられ、往年より参拝者が安産の符として少量ずつ持ち帰ったため柱はやせ細ってきた。願いが叶うと底をゆいた竹製の小柄杓をあげて御礼するのが礼であったが、その理由は詳かでない。現在の柱は三代目と言われ、針金と鉄骨を巻きつけて保護され柱を削ることはできない。
  尚、梛は寒さや霜に弱いため、この地方の気候ではある程度大きくなるまで霜よけをしないと育たなく、現在、市指定保存木になっている。



例大祭

  『風土記稿』によると大祭日は旧歴の6月15日で、小祭が7月7日であった。その後は7月15日になり、現在ではその前後の日曜日となっている。以前は境内で芝居などが行われ、太鼓が叩かれ、神輿渡御が行われるなど大変な賑わいであった。



青年会

  子易では「実践会」と称する19〜25歳前後の青年の組織が形成されていた。比比多神社の祭礼において山車を運行し太鼓を披露することを何よりの楽しみとし、その資金を作るため共有山でマキやソダを作って販売したり、大山の節分祭に集まる人々の自転車預かり所を明神前に開いて預かり賃を貯えた。

太鼓

  かつては祭礼時に山車を引っ張っていた。



神輿

  



子易地区

  大正時代中頃まで比比多神社前あたりは大山登拝の昇り口にあたっており、関東各地とその周辺諸県からの幾条もの大山街道がここで1本に収束していた。そのため春山や夏山(盆山)期間中、節分の時などには大山参詣の道者で賑わった場所である。子易明神の裏手あたりから上は大山への参詣道が石段になっていたので、馬車や人力車で来た人々はすべて明神前で降りなければならなかった。ここはまた徒歩で来た人にとっても、いよいよ石段が多くなり大山へ登るのだとの気持ちを新たにする場所でもあった。そのようなわけで、ここには平塚駅から来ていた乗合馬車や人力車の発着所、大山参詣者が利用する山駕籠の溜り場、旅館、茶屋などがあった。


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