石田
子安神社
「子安(こやす)神社」は石田の鎮守社で、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では「子安明神社」とあり、当社は古義真言宗で高座郡河原口村惣持院の末寺である「円光院(石田子安寺)」が別当をつとめていた。社はこのほかに「石神社」・「弁天社」があった。寺には愛甲郡三田村清源院の末寺「雨宝東光寺(曹洞宗)」があり、天正年中の起立とされ、慶安4年(1651年)に領主松平昌吉が境内・田畑を除地としている。また鎌倉光明寺の末寺の「栖岩山宝珠院浄心寺(浄土宗)」は、天正2年(1574年)に周貞により小堂を一寺とし、寛永2年(1625年)に岩崎外記により諸堂宇が建立された。これにより周貞を開山、外記を開基とする。この他には江戸青山鳳閣寺配下の本山修験で「光明院」・「大宝院」があった。
当社の創建年代は不詳であるが、おそらく石田城に三浦党石田爲景、石田次郎爲久の頃から守護神として祀られていたと推測される。天正19年(1591年)には徳川家康から社領三石の御朱印を賜った。伝承では、家康がこの地で鷹狩を行ったときに鷹が行方不明になり、その時の名主半右衛門という者が子安明神に折誓(折願)したところ間もなくして鷹が帰ってきたので、喜んで御朱印(書付)を出しお宮に三石(米三石)を毎年納めることになったとしている。
子安神社の祭神は「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」と「伊弉冊尊(いざなみのみこと)」の2座を祀り、御神体は神体木像(長さ約15cm)である。相殿として「貴船駒形」を祀る。円光院は神仏合体時代は子安神社の別当を司ったが、明治初年の神仏分離により現在の場所に移転し、その際に子安神社の本地仏子安観音三体を引き取り安置した。明治6年7月に村社に列せられた。また、神楽殿は昭和8年(1933年)に新築され、間口5間、3間の組み立て式で花道がある。鐘楼には寛保3年(1743年)に鐘をかかげたが、太平洋戦争の時に供出してなくなり、現在の鐘は昭和51年(1976年)に復元されてものである。
子安神社 | 社号柱 |
鳥居・燈籠 | 手水舎 |
梵鐘 | 狛犬 |
拝殿 | 本殿・幣殿 |
神楽殿(昭和8年新築) | |
天念記念物子安松 | 境内 |
石田自治会館 |
境内にはかつて御神木として「子安松」が存在し、高さ30m、目通6m、樹齢378年まで数えられたが、昭和40年(1965年)に残念ながら枯れてしまった。
例大祭
本祭の祭日は『風土記稿』によると旧暦の6月12日で、明治20年(1887年)の『下糟屋村外六ケ村地誌』によると4月12日になっている。かつては7月17日が祭日であったが、疫病がはやったために4月に移行したという。現在は4月第2日曜日になっている。子安神社の祭りは「大祭」と「小祭」に分けられており、大祭には元旦祭と本祭、小祭には祈年祭(2月中)と感謝祭(11月中)がある。
戦争中まではヨミヤに神楽や芝居を呼び、子易神社の境内にはたくさんの露天商が並んでにぎわった。大祭当日は高部屋神社の宮司が来て祭典を行い、式典の供物はコブ・オコワ・カガミモチ・野菜・御神酒などである。昔は地元の人による素人歌舞伎や神代神楽、相撲や俵かつぎ大会、剣道の奉納試合などがあって大変な賑わいをみせいていた。大祭翌日には後片付けが行われ、余り物などを寄せてハチハライをする。以前はこのときに井戸替えの相談をするのが恒例となっていた。
太鼓
昭和51年(1976年)に石田囃子太鼓の復元式が行われ、青年会を中心にして太鼓連がつくられている。
神輿
かつては神輿の
ビルマ首相来村
昭和30年7月21日にビルマ(現ミャンマー)のウーヌー首相が石田村に来村して一泊した。そこで25日の夏祭りを21日に繰り上げて、子安神社境内にて夕方から神楽や盆踊り、そして青年団による祭ばやしを観賞した。ウーヌー首相を迎えるにあたって、青年団では太鼓を新調しており、当時の集会所で撮影された写真ではロープで締められた附け太鼓を見る事が出来る。
ビルマ首相来村記念碑 |
石田の歴史
当地は『和名類聚鈔』に記される石田郷に否定され、村の中心部分は元暦元年(1184年)1月20日に近江国粟津(大津市)で木曾義仲を討った相模国住人石田次郎が鎌倉時代の初めに居館を築いた場所とされる。永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』には中郡石田とあり、『中郡勢誌』によれば村名の由来は美しい田、良田の地の意としている。
江戸時代当初は直轄地で、寛永10年(1633年)の地方直しにより直轄地を分割して松平昌吉領となった。寛文元年(1661年)に昌吉の孫の昌永は家督にあたり、領地を分割して弟の甫昌に譲ったが、同2年(1662年)に兄は継嗣のいないまま亡くなり、甫昌が本家の養子となり、分家分の領地は幕府に収められて直轄地となった。同12年(1672年)に直轄地が分割されて甲斐庄正親領になり、元禄10年(1697年)の地方直しで残りの直轄地は本間季光領になり、以後、松平・甲斐庄・本間氏の三給の村として幕末まで続いた。検地については寛文12年(1672年)に幕領に実施された。
石田村の小名には「塚本(つかもと)」・「引地(ひきち)」・「西ノ前(にしのまえ)」・「割地(わるじ)」・「峰(みね)」があり、高札場が2ヶ所あった。道は大山道が幅二間で愛甲村より高森村へ通り、平塚宿道が幅一丈で見附島村より村内に入って愛甲村へと向っていた。塚は3ヶ所あり、「永神塚」はかつて永神という尼が入定した地と伝えられ、「万蔵院塚」は万蔵院の跡と伝えられている。また、「二ツ塚」の伝承はないが、2つ並ぶ形状からこう呼ばれたとしている。
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