見附島みつけじま

八幡神社

  「八幡神社」は見附島の鎮守で、祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)である。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によれば見附島村の鎮守は「八幡社」と称した。八幡社の別当は平塚新宿の等覚院の末寺「見島山光養院宗福寺(古義真言宗)」で、正保3年(1646年)8月に真雄大僧都によって開かれたとするが、明治末年には廃寺となっている。社はこのほかに「神明社」や「子ノ権現社」もあった(神社誌には末社天王金比羅天神稲荷とあり、風土記稿を確認すること)。

八幡神社鳥居
神楽殿
狛犬手水舎
鐘楼社殿
  


例大祭

  本祭の祭日は『風土記稿』によると旧暦の8月15日で、明治20年(1887年)の『下糟屋村外六ケ村地誌』によると10月5日になっている。その後は昭和初期まで3月28日であった祭日がやがて9月15日になり、戦後から4月15日になったが養蚕が忙しいなどの理由で10月5日に行われたりしている。大祭のほか正月、2月、7月、11月に小祭を営む。高部屋神社の神職清水氏が見附島の八幡神社の宮司を兼ねている。
  見附島では15,16歳から60歳までの男衆全員がヨミヤの朝から出て幟立てをした。そして大正期には神楽や芝居が盛んに行われ、昭和10年(1935年)頃までは愛甲から神楽師をよんで、夕方から八幡神社で神楽を楽しんでいた。また、若い衆は神社に泊り込んでいた。こうしたヨミヤの行事は青年会が中心になって行われ、農作業に雇われてきた若者たちも青年会とともに祭りに参加していた。式典の供物はオコワ・海幸(カツブシなど)・山幸(果物・野菜など)・御神酒などである。
  大正期には大祭用の当番として「宮番」と「神楽番」の2人が立っていたが、以後は氏子総代制となり、毎年回りで番で1戸が務めることになった。ただし昭和35,36年(1960,61年)以前には氏子総代を務める家の両隣りが福総代となり、総代に協力する体制がとられた。つまり氏子総代を務める前年と翌年は隣家を補助するシステムである。当時は氏子総代の家は神官が着替えや休憩をするための「中宿」にもなった。神官は宿に到着後に風呂へ入って体を清めてから、半紙で口を覆い幣束を切ったといい、氏子総代が日傘をさして神社にお供したのである。さらに氏子総代は直会の酒食も準備しなければならなかった。しかしその後、神社の整備と直会の準備のみが氏子総代の役割となって、1戸ですべてを賄う方法に変わった。



青年会

  成瀬地区においては明治44年(1911年)5月に成瀬村統一青年会が成立する以前から各集落に若者の組織があり、ムラの生活の中でさまざまな役割を担ってきた。この青年会に統一される以前の若者の組織は集落個々に名称を持ち、見附島では「栄楽会」と称したことがあった。
  見附島では大正期までは祭礼に神楽や芝居を披露し、若者が活発に活動したというが、大正期以降は成瀬村青年会の下部組織に埋没した15〜25歳までの団体となり、戦後は農協青年部の成立とともに退会者が増えて旧来の青年団は解消した。戦前までは各家とも子供が多く小規模な集落であっても青年団の構成員は保たれたが、青年団固有の役割はとくになく、例えば幟立てや桟敷作りなどの祭礼の準備も青年団が中心とはいえ人数が不足した。そこで、当時見附島のほぼ全土に雇われていた男衆(奉公人)を含め、男はほぼ全員が立ち合わなければならなかった。男手のない家では祭礼の準備のために石田小金塚などの隣接地から日当を払って2人の男を雇う必要があった。見附島は戦前にはすべての家が地主であり、小作の家から容易に人を雇えたのである。
  戦前に消滅する直前の青年団員は、詩や俳句に関心を持ち文集作りに熱心な者や、バスを借りたりオートバイを連ねて川崎市方面の農薬・肥料工場や農業試験場の見学などに熱心な者などさまざまで、こうした活動を通じて見附島の若者たちはより外の世界に目を向けていたという。また十五夜には青年が各家の縁側に飾られた団子を盗み歩き、青年団の楽しみとなっていた。

太鼓

  



神輿

  



見附島の歴史

  見附島村は石田村と高森村の台地の南に広がる水田地帯の中に浮かぶ島のように、独立した小さな台地上に作られた集落で、知名にある島のような形状をしている。永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』には中郡見附島とみえる。『中郡勢誌』では地名の語源を、外部から見ると最初に見える集落の姿から「見付け」とし、『下糟屋村外六ケ村地誌』では石田の城館の見附が設けられた場所ともしている。
  江戸時代当初は直轄地で、寛永10年(1633年)の地方直しにより土岐頼久領になり、一部が石田村の領主松平昌吉の越石になり、幕末まで両氏による二給の村として続いていた。慶応元年(1865年)に土岐頼善は不行跡を叱責され、領地の半分が没収されて直轄地となり、以降、直轄地と旗本土岐・松平氏の三給の村となった。検地は寛文5年(1665年)に実施されたとあるが、役人などについての詳細は不明である。
  村内を大山道が上谷村より道幅二間で通り、高森村へと向った。河川は戸張川が村の東部を幅六尺で流れ、東方の下落合村との境界を餅田川が幅八尺で流れた。この餅田川は下落合村の字「ひいた」を流れることから「ひいた川」とも呼ばれ、この両河川は村の南部で合流する。また、南西部には歌川幅二間で流れていた。


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