田中
十二柱神社
田中の鎮守である「十二柱(とうふたはしら)神社」の祭神は天御中主神(あまのみなかぬしのおおかみ)・高皇産火神(たかみむすびのかみ)・神皇産火神(かみむすびのかみ)・宇比地邇神(うひぢにのみこと)・宇麻志葦彦神(うましあしひこのかみ)・大斗地神(おおとのぢのかみ)・天之底立神(あまのそこだちのかみ)・国之底立神(くにのそこだちのかみ)・伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・面足神(おもだるのかみ)・角?神(つぬぐいのかみ)である。当社は天神七代字地神五代を祭神とし明神系譜神社である。神仏習合により仏教の十二の護世の天、すなわち「日天(にってん)」、「月天(がってん)」、「梵天(ぼんてん)」、「地天(ちてん)」、「帝釈天(たいしゃくてん)」、「火天(ひてん)」、「閻魔天(えんまてん)」、「羅刹天(らせつてん)」、「水天(すいてん)」、「風天(ふうてん)」、「毘沙門天(びしゃもんてん)」、「伊舎那天」を祀ったものであると思われる。おそらく、密教信徒の勧請と思われる。
古来「十二天宮」または「鎮守十二神」と称し、特に武門武将の篤き崇敬を受けた神社で、徳川時代広義より免田(十二天免、御供免と称す)を寄進され、年々初穂米七斗九合三勺を献せられ、よって武運長久を祈った。嘉永年間(1848〜54年)に本殿以下拝殿幣殿の再建にあたり、当地の地頭であった安藤飯河の両所より御造営費を献じ、武運長久を祈ったことが社伝に記してある。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると田中村の鎮守は「十二天社(じゅうにてんしゃ)」で、神社はほかに「稲荷社」・「天神社」・「吾妻権現社」・「御嶽社」・「聖権現社」・「石神社」・「第六天社」・「三島社」・「神明社」などがあった。寺院にはは臨済宗の田中山「耕雲寺」があり、鎌倉建長寺の末寺でここの領主だった桑原修理大夫某によって、永禄元年(1558年)4月に創建されたと伝えられる。同じ臨済宗で大光山「鑑照寺」は足柄下郡湯本村早雲寺の末寺で、かつては耕雲寺の茶毘所として大日堂が設けられていた場所に、寛文年間(1661〜72年)頃に創建されたと伝えられている。また、伝えられている寺跡として黄檗宗の大聖山「常楽寺」があるが、廃寺の年代など詳細は不明である。
十二柱神社 | 社号柱 |
鳥居(平成12年再建) | 水鉢 |
鐘楼 | 狛犬 |
拝殿 | 本殿 |
石祠 | 神社由緒 |
田中の歴史
永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』には「中郡田中郷(なかごおりたなかごう)」とみえ、『中郡勢誌』では地名の由来を水田の中に台地が突き出したような形状から、田中の呼び名になったとしている。江戸時代には伊勢原村より続く大山道の東側に商家が軒を並べ、「片町」と称して賑わった。明治初年には田が一七町三反余、畑は四六町九反余で畑がちの村であった。
江戸時代当初は直轄地であったが、寛永10年(1633年)の地方直しにより一部が飯河盛政領になった。残余の直轄地は元禄10年(1697年)の地方直しにより安藤重玄領になり、飯河氏・安藤氏領の旗本二給の村として幕末まで続いた。検地は明暦元年(1655年)に飯河盛政によって自領になされ、これ以外の直轄地は延宝6年(1678年)に代官成瀬五左衛門重頼・八木仁兵衛長信によって実施され、ここは後に安藤領になった。
田中村の西側は台地で、東側には水田が広がる。村内には2本の往還が通過し、幅二間の矢倉沢道と幅八尺の日向薬師道が通る。村の北側には渋田川が東西に幅五間で通り、ここには堰が2ヶ所に設けられ田の用水に利用された。字「深町」の田の中から湧き出る清水は筒川の水源になり、他に字「上谷戸」にも湧水がある。小名は上記の「片町(かたまち)」があり、高札場は1ヶ所であった。平塚宿の大助郷になり、文政寄場(改革)組合では伊勢原村外二四ヶ村組合に属した。
渋田川が村内に入るあたりに「せきど(咳止)橋」と呼ばれた橋が架けられ、対岸の上粕屋村側にあたる橋のたもとに地蔵尊が祀られいていて、咳止めの御利益で有名であった。このことからすぐ近くに架かる橋のことを人々は「せきど橋」と呼ぶようになったと伝えられている。『中郡勢誌』にはせきど橋について別の由来を記し、用水取水用に水を留める堰が設けられ、その場所ということから「堰所(せきど)」になったとしている。
例大祭
『風土記稿』によるとかつては旧暦の6月23日に例大祭が行われていた。近年は4月10日で、現在は・・・。
戦前までは東大竹の八幡神社、田中の十二柱神社、旧岡崎村の岡崎神社、山王原?の上粕屋神社、三ノ宮の比々多神社などの例祭のときに草競馬が盛んに行われた。馬場には直線コースの「鉄砲馬場」と回転コースの「回り馬場」とがあり、後者の回り馬場は田中の十二柱神社付近(現在の武道館が建っているあたりがコースになっていた)の1ヵ所のみで、他の馬場は全て鉄砲馬場であった。
囃子
田中には昭和50年(1975年)4月に作成された「相模囃子(祭り太鼓)」の冊子が残されており、当時の「相模囃子振興会」により作成された。その冊子の冒頭には十二柱神社氏子総代の代表であった成田勝治により、次の文章が記載されている。
序
相模には古くから祭り囃子の伝統が有り、古老の言に依れば百年以上前よりとのこと正確な資料は求めることが出来ませんでしたが、想うに昔より浄瑠璃と並び青年の娯楽の双璧で有り明治、大正、昭和に亘り広く楽しまれて来て居りました。
昭和初期には最も盛んで有り各鎮守の祭典には多い神社では七組も八組も、少ない神社でも三組位が集りその技の競い合を致しました。其の后人手、物資共に不足を来し、更に戦后はラジオ、テレビ等の普及に依り全く一時期そうした催も無くなりました。最近に至り急激に関心が高まりつつ有りますが、この伝統技術を知る人は氏子中にも数少なくなり、ここに保存と振興のため小冊子を作成し、同好の方々のご参考に供せれば幸いに思います。
下記に同書に記載されている打順を表にまとめる。曲名として11曲が記載されているが、現在伝承されている曲は「屋台囃子」・「宮聖殿」・「自聖殿」・「神枕」・「四丁目」・「人馬」の6曲で、「神田丸」・「大間聖殿」・「十角」・「国固め」・「与助」の5曲は伝承されていない。
番号 | 曲名 | 備考 | |
一 | 屋台囃子 | 繰返し刻みに入る | |
二 | 宮聖殿 | 同上 | |
三 | イ | 自聖殿 | 同上 |
ロ | 神田丸 | 1回 | |
ハ | 大間聖殿 | 2回 | |
二 | 十角 | 3回 | |
ホ | 国固め | 1回 | |
へ | 神枕 | 繰返し | |
ト | 四丁目 | 同上 | |
チ | 人馬 | 同上 刻みに入る | |
リ | 与助 |
●考察
次に、私が譜面を分析した考察を記載する。打順の後に続く譜面は全て「テケテン テレスク」の様に唄い方で表記された太鼓の譜面で、一部に「ヒャウ ヒャウ」などの様に笛と思われるリズムが記載されている。この譜面からは正確なリズムを読み取ることは出来ないが、同系統の囃子を経験した者には凡その曲調は理解ができる。なお、田中の祭り囃子にはかつては笛が入っていたと思われるが、この冊子が発行された昭和50年(1975年)には既に笛は消滅しており、笛のリズムは殆ど記載されていない。また、意識はしていないと思うが「打順」と表記している時点で、既に太鼓を主とした囃子であったことが伺える。
@屋台囃子
冊子には同じ「屋台」という曲名で(1)と(2)の2種類の譜面があり、双方とも一般でいう「付け前座」から始まっているが、付け前座とは一般で言う”ぶっこみ”のことである。2つの違いは付け前座の後に入る屋台の繋がる位置で、(1)は屋台の前半、(2)は屋台の後半に繋がる。これとは別に「大太鼓(屋台)」という名称で大太鼓専用の譜面が存在する。
打順には曲名として含まれていないが、上記3種類の屋台の次の譜面は「刻み」と思われるリズムで始まり、その後に「乱拍子」と「巻上げ」が記載されている。乱拍子と巻上げは共に刻みと屋台囃子を繋ぐフレーズで、乱拍子の方がフレーズが若干長く、この2つは屋台へ繋がる位置が異なる。なお、乱拍子と巻上げの使い分けについては、譜面から読み取ることは出来ない。ちなみに、”巻上げ”に似た名称として、平塚市城所の城所ばやしでは”巻上がり”という名称が存在する。
A宮聖殿
宮聖殿は「前座」から始まり、繰り返すときはこの前座は除くという内容の注記が記載されている。宮聖殿の後には「ヒャウ ヒャウ ヒャウ」という笛のようなフレーズに続いて「キザミ」のリズムが記載際されている。
B自聖殿、神田丸
自聖殿は「前座」から始まり、記載はされていないが繰り返すときはこの前座は叩かないと思われる。自聖殿の後にはキザミのリズムは記載さ入れていないが、「神田丸」が後に続いているため、自聖殿→刻み→乱拍子or巻上げ→屋台囃子のパターンと、自聖殿→神田丸〜人馬→刻み→乱拍子or巻上げ→屋台囃子のパターンがあると推測される。神田丸の最後には「チビャチャ」という珍しい言葉が記載されているが、どのような演奏をするかは想像がつかない。
C大間昇殿、十角、国固め
この3曲は全て短いフレーズで、どの曲も非常に珍しいと言える。平塚市入野の「大間昇殿」は長めの曲であるのに対し、田中の場合は短いだけではなく、殆ど笛のリズムと思われる唄い方が記載されており、括弧内に「笛が二回入る」という記載もあることから、笛がメインの曲であった可能性が考えられる。また、「十角」と「国固め」は私の知る限り田中でしか見たことがなく、どの様な経緯で田中に伝承されたかは非常に興味深い。
国固めの最後は括弧内に「ぴりーひ」という笛と思われるリズムが記載されているため、これら3曲は笛が主体となって連続して演奏していた可能性があり、1つの曲のような感じで演奏されていた可能性も考えられる。
D神枕、四丁目、人馬
最後の譜面は最初に太字で「神枕」という題名があり、その中に「四丁目」・「人馬」が含まれている構成で、譜面には表記が無いが俗に言う「蝶々蜻蛉(チョウチョトンボ)」の唄も記載さ入れている。田中では蝶々蜻蛉の事を「口囃子」と呼んでおり、太鼓は叩かずに唄のみの曲として伝わっている。曲順としては神枕(繰返し)→四丁目(繰返す)→人馬(繰返す)→口囃子(蝶々蜻蛉)→人馬(繰返す)の順で、笛と思われる「ヒャウ ヒャウ ヒャウ」といリズムの後に刻みのリズムが続いている。譜面はここで終わっているが、刻みから屋台囃子に移ると思われる。
田中では神枕を「かみまくら」、四丁目を「しちょうもく」、人馬を「じんば」と呼んでいて、神枕は一般的には「鎌倉(かまくら)」と記載するが、伊勢原市池端では神枕と書いて「かまくら」と呼んでいる。四丁目は「しちょうめ」と呼ぶ地区が多いと思われるが、「しちょうもく」と呼ぶ地区は今のところ田中しか知らない。また、人馬は一般的に「にんば」と呼ばれる曲であるが、「人馬」・「じんば」共に田中だけの表記と呼び方である。
E与助
打順の最後に「与助」という曲目が記載されているが、譜面としては残されておらず、同系統の祭り囃子では与助という曲は存在しないため、どのような曲であったかは全く想像がつかない。与助という名称は鉦を叩く人を指す説があり、鉦に関する曲の可能性も否定できないが、打順の最後に記載されていることから平塚市城所や伊勢原市下糟屋の「切りばち(キリバチ)」の可能性も考えられる。
最後にこの冊子の題名である「相模囃子」について述べさせていただく、祭り囃子の名称としては平塚市の重要文化財に指定されている田村の「田村ばやし」や四之宮の「前鳥囃子」などの様に、固有の地名や神社名を入れるパターンと、二宮町の「大山囃子」や「鎌倉囃子」などの様に囃子の流派を指すパターンがあるが、田中の相模囃子という名称は後者に当たる。因みに、二宮町の大山囃子と田中の囃子は同系統の囃子である。
「相模」が旧相模国を意図するならばほぼ現在の神奈川県の範囲となるので、そこまでは想定していないと思われるが、国府祭(コウノマチ)に参加する相模国の一之宮から四之宮の範囲を意図するのであれば、あくまで私の感覚であるが5割以上は田中と同系統の祭り囃子と言えるので、相模囃子という名称はある意味的を得ていると思われる。田中の十二柱神社は相模国三之宮の比々多神社が管轄しており、このことも相模を使った理由の一つに含まれていると推測される。
私は平成10年(1998年)に祭り囃子を録音したCDを、平塚市大神の清水太鼓店で販売して頂いたが、そのCDのタイトルは「相模囃子」を採用した。あれから30年近く経った現在で、私が相模囃子を採用するかどうかは迷うところではあるが、当時の私は田中の方々と同じ思想であったのであろう。
以上、長々と田中の相模囃子に関して述べさせていただいたが、実は、私は平成8年(1996年)以前にこの冊子を作成した中心メンバーの一人であった石井二郎氏に、田中の「自聖殿」・「四丁目」・「人馬」・「キザミ」・「乱拍子」を指導して頂いた経験がある。石井二郎氏の御子息が私が住む笠窪に婿養子として移住した関係で、笠窪の神明神社の例大祭で石井二郎氏に来ていただいたのである。あれから約30年後の令和6年(2024年)11月4日(月)に、田中の宇田川秀治氏(昭和20年生まれ)とお会いし、田中の祭り囃子についてお話を伺うことが出来た。更に、田中公民館にて宇田川氏を含めた3名の方と囃子を共演させて頂いたことは、非常に感慨深い出来事であった。
現状の田中は祭り囃子の伝承が危ぶまれている状況であり、かつて旺盛を極めていたであろうこの相模囃子を、少しでも後世に伝え残せればとの思いであります。
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