入野いの

八坂神社

  「八坂神社」は入野の鎮守で、祭神は「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」である。創建年代は不詳だが、寛文5年(1665年)の検地帳に「宮面(免)」があることから、少なくともこのころまでには成立していたものと考えられる。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「牛頭天王社」との名称で、「村の鎮守なり。本地仏・釈迦・多寶・寶生・薬師・弥陀の五躯を安ずと傳ふれど、今銅像二躯及仏像鑄出せし銅鏡(各古物なり)一面を安ず。 (中略) 村民持」とある。鐘楼には寶永三年新造の鐘を掛け、末社には「天神」・「山王」・「蔵王」が記載されている。入野の社寺に関する記載の中にはこの他に、成願寺持の「神明社」と村民持の「山王社」、松林寺(臨済宗)の「稲荷社」と「天神社」、成願寺(天台宗)の「稲荷社」と「護摩堂」、常福寺(天台宗)、福田寺(曹洞宗)の「白山社」と「地蔵堂」、福田寺持ちの「阿弥陀堂」の名がみられる。
  明治3年(1870年)の村明細帳には「神社壱ヶ所 八坂社 社地社外共高三石三斗 此反別三反歩」とみえる。明治時代初期に八坂神社と改称し今日に至っている。明治41年(1908年)に御神体と神輿以外を火災で失ったが、大正15年(1926年)に社殿を再建した。

鳥居・参道入野さくら公園
太鼓橋(旧)太鼓橋(新)
八坂神社手水舎
鐘楼石碑
神社由緒燈籠
狛犬燈籠
拝殿覆殿・幣殿
倉庫入野自治会館
境内けやき

  境内の隅に木製の祠とコンクリート製の祠があり、末社の天神・山王・蔵王がこれに該当する可能性がある。なお、神明社と山王社の所在は確認できていない。入野には48基の石造物があるが、その大部分が寺院と神社に集約されている。これは昭和40年代に行われた入野の中央部を貫く道路の拡張工事に伴い、路傍の石仏が八坂神社の境内に移設されたためである。
  道祖神は西町を除く田中町・東町・川崎町・仲町・向町の町内ごとに入野の辻辻(十字路ごと)に立てられ、1月14日には小屋を立ててダンゴヤキを行っていたが、道路拡張に伴い昭和45年(1970年)頃に全ての道祖神が八坂神社の境内に寄せられた。田中町の道祖神はもともと八坂神社にあり、これは鳥居柱の貫穴部を利用したように見える。安政4年(1857年)の造立であることから、安政2年(1855年)10月の大地震で倒壊した鳥居を利用した可能性もある。また、向町の道祖神は「堅牢地神」と刻まれた金田地区唯一の地神塔で、明治30年(1897年)に造立された自然石型の供養塔である。正月用のダンゴヤキは境内で行うほか、入野飯島では金目川の河川敷で行っている。

道祖神


準備(開始9:00)

  例大祭の前日は午前9時から準備が行われ、境内の飾り付けのほか、2台の山車の組立、大神輿と子供神輿の飾り付けなどが行われる。かつては入野の氏子全員によって神社の掃除や幟立てをし、奉納神楽や芝居を行う舞台を作り、太鼓を叩く櫓も拵えた。ここからは平成27年(2015年)4月4日の例大祭前日の様子を紹介する。

○境内の準備
  社殿横の倉庫から山車の材料や提灯枠を取り出し、飾りつけを行っていく。提灯枠は境内入口に十一提灯(提灯11個)と自治会館前に奉納花提灯(提灯35個)を設置し、参道にも花提灯を取り付けていく。

準備は9時開始予定ですが8時半頃から既に準備が始まる
倉庫から材木を運び出し社殿からは荷物を外に出す
榊を水に浸すこちらは山車の提灯枠
境内に飾る提灯枠も運び出す
倉庫から次々と材料を運び出し
倉庫は殆ど空に忌竹を積んだ軽トラが到着
提灯の入ったボックスを運び出す提灯だけでもかなりの量です
山車のトラックが到着時間と共に氏子の数も増え
9時頃になると宮総代代表の挨拶で改めて準備開始
轅を抱え台輪の棒穴へ
自治会館前ではテント張り鈴緒を持ち上げると
轅を抱え神輿を社殿から
外へ出し境内を移動して
自治会館前におろす奥から子供神輿を移動
トラックでは山車の組立パイプテントの屋根を張ると
神輿を再び抱え上げテント内へ移動
山車では柱を立てて梁を渡す会館内では子供神輿の飾りつけ
提灯枠の組立神輿の提灯を運ぶ
境内入口でも提灯枠の組立山車の柱と梁が組み上がる
後方では2基目の山車の準備こちらはのしの掲示板の準備
社殿内では掃除会館前の提灯枠が組み上がり
柱を地面に固定沢山提灯が付きそうです
子供神輿に綱を巻く2基目の山車も骨組みが完成
1基目の山車は屋根を載せる輿棒に紅白テープを巻き付ける
10時頃に休憩を挟み再び作業開始
提灯枠に電球を取り付ける境内入口の枠に屋根を付ける
駐車場では軽トラのアオリをおろし神輿に人が集まる
ブルシートを一旦広げる馬を移動
ブルシートをたたみ荷台の上に敷く
神輿の轅を抱え馬を抜くと移動開始
テントが低いので梁を避けるのにも一苦労
地面すれすれまで神輿を下げテントを出ると
駐車場まで移動し神輿を担ぎ上げ
馬の上におろし楔を抜く
軽トラをそのままバックさせ神輿の下に荷台を入れると
轅に肩を入れて馬を抜き荷台に神輿をおろす
台輪から轅を抜く
境内入口には11個の提灯が自治会館前には35個の提灯
境内の準備は終盤に差し掛かる

○神輿準備(開始10:40、終了15:20)
  神輿を八坂神社の境内からJA湘南の倉庫前へ移動し、捩り掛けと飾り付けを行う。捩り掛け後は神輿を担いでお宮へ戻る。

10時30分頃になると神輿をのせた軽トラが出発
ワゴン車に提灯や鳳凰などを積み
神輿を追ってお宮を出発しJA湘南の金田支店に到着
ワゴンから積んできた荷物をおろす
台輪の下へ潜り込み楔で轅を固定すると
馬をずらして轅でささえ脚立をセット
晒を巻いた鳳凰を持って脚立に上がり
鳳凰の足を露盤へ差し込む
鳳凰から四隅に晒を渡し捩り掛けが始まる
最初に対角線上に晒を引っ張り
蕨手の根元に巻き付ける
そのまま真下へおろし弛みが無くなるまで引っ張り
轅に結び付けて1か所目を終える
対角側も同様に晒を引っ張り
轅に固定するが・・・緩みがあったため
一旦ゆるめてもう一度やり直す
結び方にもコツがあるようです
今度は反対の対角線上に晒を伸ばし
先ほどと同様に引っ張って蕨手の根元に固定
捩り掛けはかなりの重労働です
晒が緩まない様に気を使います
最後に轅に固定して捩り掛けの前半が終了
時刻は11時40分二手に分かれて
昼食を取り13時に戻ってきました
神輿では歯ブラシで彫刻を掃除中
13時20分頃から捩り掛けを再開
晒を轅に巻き付け蕨手に掛けると
晒を張りながら蕨手に結び付け
反対側の蕨手に掛けて晒を張っていく
蕨手に晒を巻き付けその下の轅に晒を掛けると
晒をしごきながら横へ引っ張る
上に折り返して張り上げ蕨手に結び付けると
次の蕨手に渡し手の摩擦力で晒を張る
呼吸を合わせることが重要なポイントです
真下の轅に晒を落としテンションを掛けると
2辺を跨いだところで轅に固定する
次の晒を追加し終わった位置に結び付けると
真上の蕨手に渡し晒をしごいていく
摩擦熱で手を火傷しそうですこの作業が一番苦しそうです
次の蕨手に晒を渡し同様に晒を張り上げる
捩り掛けの大変さを改めて感じます
習得するにはかなりの経験を要します
晒を蕨手に巻き付け最初の蕨手へ渡す
今回は指導を含めた作業でしたので
私自身も大変勉強になりました
最後に轅へ結び付けると短い晒を取り出し
4箇所の轅の根元で最後の仕上げに入る
既に巻き付けた晒を包み込むように覆い
上に向かって玉垣付近まで巻き付ける
蕨手の上に小鳥を差し込み晒で結び付けて固定
隅木の下で捩りを結び寄せ鈴を結び付ける
白い網を広げ胴回りを覆う
轅の先端に手綱を取り付け鳥居には榊を結びつける
手綱にもコツが必要です四隅には八坂神社の赤提灯
荷物を片付け手綱の取り付けが終わると
神輿の周りに集まり担ぎ上げる
時刻は15時23分お宮へ向けて
JA湘南の金田支店を出発
右手は平塚市金田保育園正面のバス通りを
右折して直ぐに左折
住宅地に入りどっこいに切り替わる
東へ直進し売店を通過
T字路をそのまま直進し
次のT字路で右折すると左手にお宮が見える
そのまま裏から宮入りし
社殿横で一旦神輿をおろす
駐車場に到着した車から神輿関係の荷物を降ろす
神輿の進路を塞いでいた山車を移動させると
再び神輿を担ぎ上げる太鼓を山車へ運ぶ
社殿前を通過し自治会館前で
180度旋回し15時40分に無事に宮付け


長持・熊野神社(出発15:45、到着17:10)

  神輿がお宮へ戻ると山車に太鼓をセットし、寺田縄の山車と合流して長持の熊野神社へ移動する。寺田縄の例大祭は入野と同じ日曜日で、長持の例大祭は入野の前日の土曜日であることから、最近になり3地区の交流を深めるために集まるようになった。なお、長持には太鼓の山車がないので、境内に櫓を組んで太鼓を演奏している。

自治会館から大太鼓を運び山車の柱に結び付ける
締太鼓を枠に入れボルトに棒を通して固定
叩き手が山車へ乗り込み裏口からお宮を出発
北側のT字路で切り替えし西へ向かって移動
突き当りのバス通りを右折して北へ
東海道新幹線の高架橋を潜り
道路脇で待機東側に寺田縄の山車が見える
太鼓の音が抜ける様に後ろのアオリを下す
北東から寺田縄の山車が登場豊田の山車と同じように
サイズが大きいです寺田縄の山車は
2台で参加ガード下で暫く待機し
16時頃に寺田縄の山車がガード下を出発
入野の山車も後を追い
来た道を引き返す囃子には笛が入る
金田保育園昼食を頂いた相棒
入野前田バス停ファミリーマートを通過
道沿いにカーブして成願寺バス停を通過
長持根下バス停から長持地区左手に熊野神社が見える
長持も太鼓でお出迎え寺田縄の山車に続いて
16時15分頃に境内へ入り3台の山車が並ぶ
現在は長持に山車はなく終日櫓で太鼓を叩く
地元の氏子による露店手作りの子供神輿が2基
熊野神社の例大祭は入野の前日になる土曜日です
境内で暫く太鼓の叩き合い
5分ほどで演奏を終え山車の前に
べニアのテーブルを設置3地区での交流は
数年前から始まりました30分程でテーブルを片付け
山車へ乗り込み
再び太鼓を叩くと寺田縄から
山車を移動させ境内を出発
2基目が出発すると
最後に入野の山車が17時頃に出発
バス通りを右折し来た道を引き返す
入野地区を巡回し裏口からお宮へ入り
熊野神社から10分ほどで到着会館では子供たちが食事中


宵宮(開始18:00、終了21:30)

○山車巡回
  入野の宵宮は18時から始まり、2台の山車が入野地区を巡回する。子供たちは17時頃にお宮へ集合し、自治会館で食事を取り、半纏を着て2台の山車へ乗り込む。

宵宮に向けて自治会館奥の和室では太鼓を締める
夜には神輿の渡御もあります私ののしも張って頂きました
半纏を来た子供たちは境内へ出る
自治会館から太鼓を運び大太鼓を柱へセット
締太鼓を枠へセット
掲示板にのしが張られる拝殿が受付です
もう一組太鼓を運び出し境内の外へ移動
もう一基の山車に太鼓をセット出発の準備が完了
出発の予定時刻は6時ですが今年は少し遅れました
境内の外に停車していた山車が裏口から入り
社殿横に停車し子供たちが乗り込む
約30分遅れで山車が出発1基目は北側へ
2基目も続けて出発し裏口を出て
こちらは境内横を通過し南側へ向かう

○境内での囃子演奏(開始18:40)
  2台の山車がお宮を出発すると、境内では自治会館前のテント下に太鼓を1カラ設置し、囃子が演奏される。宵宮には他の地区から叩き手が訪れ、他地区との太鼓の交流の場ともなっている。

神輿の提灯に明かりが灯る自治会館から
太鼓の台と太鼓を運び出し
テント下で太鼓の準備
境内で囃子の演奏が始まる
私も一緒に叩かせて頂きました
20分程叩き相棒で食事をとります

○神輿担ぎ(開始19:50、終了21:30)
  宵宮では境内にて神輿担ぎが行われ、休憩を挟みながら宵宮の最後まで続けられる。

入野地区を巡回していた山車が境内に戻ると
神輿では一本締めて神輿担ぎが始まる
肩を入れて神輿を担ぎ上げ
社殿へ向かい甚句を入れる
社殿を離れ境内を反時計回りに
一周山車では子供達が太鼓を叩く
間に甚句を交え
境内を2周
3周と回る
社殿へ向かい甚句を入れて
社殿前で暫く揉むと腰をおろして休憩
20時頃に太鼓の山車2台が再び町内巡回に向けて出発
境内では太鼓の演奏が始まる担ぎ手は自治会館内で休憩
お客さんを交えて盛り上がる囃子太鼓
20時15分頃になると一本締めて
肩を入れ再び境内での
神輿担ぎが始まる総代代表も肩を入れる
今度は境内を回らず社殿横を通過し
境内を出て左折し南へ向かって練り歩く
私も途中で肩を入れさせて頂きました
正面から巡回中の山車が1台通過
参道横を練り歩き鳥居まで来ると
旋回して正面を社殿方向へ向け
甚句を交えて揉むと鳥居前で神輿をおろす
もう1台の山車が現れお宮へ向かって移動
神輿と一緒に記念撮影をし再び神輿を担ぎ上げる
以前、神輿を桜の枝に当てたので鳥居は潜らずに
参道横の道路を進む夜桜が綺麗です
甚句を交えお宮を目指す
正面から境内に入らずそのまま直進
境内では囃子が盛り上がる甚句を交え
境内横を通過し裏口から
宮入りここでも甚句が入る
境内中央で旋回し
社殿へ向かって神輿を揉み
20時50分に腰をおろす
テント下では再び太鼓演奏
担ぎ手は会館内で休憩神輿に劣らず盛り上がる太鼓
寺田縄の山車が出迎え入野の山車に叩き手が乗り
21時20分に境内を出発し寺田縄へ向かう
宮総代代表により一本締め神輿を担ぎ上げ
宵宮3度目の神輿担ぎ拡声器を使わずに
甚句を入れ境内を
1周疲れが見えてきましたが
甚句を入れて2周目
こちらは担ぎながらの甚句境内を3周して
最後の担ぎを終えると宮総代代表の一本締め
神輿から馬を抜き轅を抱えて
テント下へ神輿を移動
テントを持ち上げ低い馬を入れる
天気が悪いので山車とテントは雨対策
社殿の戸は閉める宵宮の仕事を終え
この日は夜遅くまで盛り上がる明日は天候が持ちますように

囃子

  かつてはワカイシュがもっぱら太鼓をたたいて楽しむ太鼓連中で、青年団から選出された太鼓世話人がいたが、戦争の影響で一時期は中断を余儀なくされた。昭和45年(1970年)頃に各町内の道祖神が八坂神社へ寄せられ、同じ頃に太鼓の復活の話が持ち上がった。それまでは戦後の生活の苦しさを考えて遠慮していて、上に立つ人達もむしろ消極的であった。各地でバクチが流行っていたことへの対策の意味もあって復活の話が決められた。太鼓を地蔵堂に置き、叩くときは鐘つき堂(鐘は供出でなくなった)にくくりつけていた。
  昔から入野は「太鼓がうまい」といわれ、近隣へ教えに行ったようである。入野の祭礼では主に「ハヤシ(囃子)」が叩かれ、「バカッパヤシ」または「ブッツケ」などと呼んでいる。この他には宮入り時に「ミヤショウデン(宮昇殿)」が叩かれ、「キザミ」を入れて「ハヤシ」へ繋がれる。入野ではこれ以外に「間物(まもの)」と呼ばれる組曲が残されており、曲名は「ジショウデン(寺・治昇殿)」・「オオマショウデン(大間昇殿)」・「カンダマル(神田丸)」・「トウガク(唐楽)」・「カマクラ(鎌倉)」・「シッチョウメ」・「ニンバ」の7曲で、間物の後に「キザミ」を入れて「ハヤシ」へ繋ぐ。なお、曲名は口伝で伝わってきているため、括弧内の漢字は予想されるものである。
  以上のように入野ではキザミを含めると計10曲が残されており、平塚市の重要文化財に指定されている「田村ばやし」と「前鳥囃子」の様にこれだけの曲が絶えず伝承されていることは非常に珍しいといえる。しかしながら、かつて全曲に入っていたといわれる笛(キザミはなかったようである)は残念ながら途絶えてしまい、現在吹かれている笛は伊勢原市笠窪の譜面を元にしてハヤシ(屋台)だけを取り入れている。囃子の構成は締太鼓2と大太鼓1で、入野の囃子は現在「入野太鼓保存会」によって伝承されている。

山車(側面)山車(正面)
山車(側面)山車(正面)
境内ではテント下で叩く囃子は大太鼓が1つ
締太鼓が2つ時々笛が入る
囃子


神輿

  入野の八坂神社神輿は「寒川のほうから来たものだ」という伝承があったが、入野にはこれまで記録に残るものは何も伝わっていなかった。しかし、平成9年(1997年)の調査により西岡田村(現在の寒川町岡田)の八坂神社(明治42年に神明宮に合祀されて菅谷神社となる)から譲渡された可能性が高くなった。入野の八坂神社神輿と菅谷神社の天保神輿の大きさは次のような規模で、ほぼ同規模ながら入野の方がほんのわずかだけ大きいことが分かる。

入野八坂神社神輿と菅谷神社神輿(天保神輿)の比較
測定箇所八坂神社
神輿
菅谷神社
神輿
備考
総高231cm222cm台框下から鳳凰の最頂部まで
最大幅159cm150cm蕨手の両端の幅
台框高28cm23cm最下部から台座最上部まで
台框縦125cm123cm台座の両端の幅
鳥居高51cm53cm
鳥居幅64cm65cm

  重さは量ったことがないので不明とのことであるが、「米三俵分はない」と言伝えられている。米一俵は約60kgであるから150〜160kg程度ではないだろうかといわれ、実際の経験からも8人いればどうにか担いで歩けるとのことである。
  大正15年(1926年)の社殿再建のおりに神輿の彫刻も若干の補修を行ったといわれ、その彫刻とは四方の欄間にあしらわれた龍・花・獅子鼻などで、大変精緻なものである。その上辺あたりの内側にそれぞれ墨書の銘文があり、神輿内部に記されたこの銘文には以下の文字が確認されている。

  奥・・・「文化九年壬申三月吉日再興之 西岡田村」
  右側・・・「東都本白銀町三丁目 東叡山御用」
  手前・・・「大仏師 森光雲」
  左側中央・・・「嘉永」
  左側奥・・・「前」

  さらに奥の銘文の書かれた板に垂直に組まれた柱には「明治廿七年 七月廿八日」とある。これらの文字からこの神輿は文化9年(1812年)に江戸本銀町(現東京都中央区)の仏師森光雲によって再興された西岡田村の神輿で、この神輿を明治27年7月に修理したものであると考えられる。台框(だいかまち)の中央にある「格狭間(こうざま)」の形や模様が、寒川神社および菅谷神社に現存する神輿と酷似しているのも、その可能性を高める要素といえる。西岡田村は明治29年(1896年)頃に中郡金田村入野へこの神輿を売却したようである。
  以上のことから『風土記稿』に記されている神輿は現在の神輿ではなく、さらに古い神輿ということになる。

八坂神社神輿路盤と屋根大紋
唐破風軒蕨手
組物(桝組)頭貫木鼻
唐戸戸脇
鳥居腰羽目
格狭間箱台輪
箪笥金具交換前の古い物です
神輿内部・唐戸裏神輿内部・屋根裏
捩り掛け・飾り付け後子供神輿


神輿渡御

  昭和30年(1955年)頃までは例祭の当日に神輿(「コシ」といった)を担いでいた。村内東端にある八坂神社を出発し、「テンノーミチ」と呼ばれる通りを西方へ一直線に進み、金目川にかかる水神橋の少し上流で川に入って禊をした。その後、川の西側を少しまわってから下流で再び川を渡り、村内各所をまわって八坂神社へ戻るというコースをたどった。また、神社を出発した神輿が水神塔がある場所まで渡御し、そこで神主に祝詞をあげてもらったという話もある。そこには竹を4本立てて四方に注連が張ってあり、神輿を安置して神酒をいただいた。そこからムラに戻って各町内を渡御して歩いた。神輿は誰でも担ぐことができたし、コシダイを持つ者も特に決まっていなかった。
  戦後は担ぎ手が減少したことや、経済的負担が大きかったことから毎年担ぐことができなくなった。若い衆は担ぎたくてたまらなかったが、年長者がやむなくそれを押し留めるというせめぎ合いが何年も続いたという。そして神輿自体の老朽化もあいまって、昭和30年頃を境に担がなくなった。現在では4月の例祭に神輿を装飾して担いでいるが、昔のように境内を出て入野地区を巡回することはない。また、他地区でみられる神輿保存会や神輿愛好会といった神輿を管理する団体は入野では組織はされていない。

掛け声


例大祭

  『風土記稿』によると旧暦の6月14日が例祭日と記され、金目川で神輿の渡御が行われていたという。例祭日はその後4月2日になったが、雨の日や寒い日が多いので神輿を担ぐのに不都合だった為、戦前の昭和15年くらいに4月20日に変更した。しかし、農作業(特に苗作り)の関係で元の4月2日に戻したという。現在は4月第1日曜日である。
  かつて祭りの当日には三之宮比々多神社から神主がやってきて、祝詞をあげて式典を行った。夜になると茅ヶ崎の円蔵から神楽師を呼んで神楽を奉納した。芝居は10年に1回ぐらいの割合で行ったという。こうした余興については、旅芸人がまわってくる他の村々から何処の芸人がよいかを聞いて頼んできた。各家では祭りの当日にオコワと煮〆を作り、オコワ1重、煮〆1重をコウジブタにのせて奉納したという。コウジブタというのは麺をねかせる専用の木箱で、3尺1寸5分×9寸5分×3寸5分の長方形のものである。各家ではかつて10枚ほどは持っていたという。
  祭りの翌日をハチハライといい、神楽舞台や櫓などを解体し、幟を倒して掃除をする。こられの後片付けを終えてから、神社の境内で一杯飲んだ。以下に平成27年(2015年)4月5日の例大祭の様子を紹介する。

○準備(開始8:00)
  例大祭当日は朝8時頃から準備が始まり、社殿では式典の準備、自治会館では直会の準備が行われる。

時刻は朝の7時55分宮総代が集まり始める
今日はいつ雨が降ってもおかしくない天候です
自治会館の鍵が開き戸を開けるバチには血痕が
テーブルを並べて直会の準備社殿では椅子が並べられる
太鼓と神輿の募集ポスター例大祭は9時から15時です
自治会館では掃除機をかけゴミを社殿横へ運ぶ
境内では掃き掃除つまみと飲み物を並べる
8時30分頃に三之宮比々多神社の宮司が
到着し社殿へ入り式典の準備入口の戸を取り外す
掲示板が埋まってきました自治会館から
子供神輿を運び
玄関から外へ出す
提灯枠の前におろし雨除けにブルーシートを掛ける
会館で着替えを済ませた宮司と関係者が社殿へ上がる
子供達が境内に集まり始め間もなく式典です

○式典(開始9:00)
  9時からは関係者が社殿へ集まり、三之宮比々多神社の宮司により例大祭の式典が執り行われる。式典に参加する玉串奉納者は次の通りである。宮総代代表、自治会会長、農業土木委員長、巡回責任者、太鼓指導者、神輿責任者、育成会会長。

9時に太鼓が叩かれ例大祭の式典が始まる
子供たちは境内に整列出席者を修祓
神輿と山車もお祓い
最後に子供たちをお祓い続いて玉串拝礼
子供たちも一緒に二礼二拍手一礼
太鼓の合図で9時35分に式典が終了
宮司と関係者が車に乗り水神様の参拝へ向かう

  式典終了後は水神橋へ移動し、水神様の祈祷を行う。このときの出席者は比々多神社の宮司と神職1名、農業土木委員、自治会会長、宮総代代表となる。


○子供神輿・山車出発(10:00)
  式典終了後は境内で出発の準備をし、入野地区を巡回する。先導車両には社殿内の大太鼓を荷台へ取り付け、飲み物を積み込む。子供神輿は小学1〜3年生が担ぎ、小学4年生以上は2台の山車へ乗り込んで太鼓を叩く。

社殿奥から大太鼓を出し外に軽トラックを準備
台を運び出し荷台へ乗せてアオリをおろす
大太鼓はかなりの大きさです台の上にセット
子供たちは社殿前に集まり記念撮影
子供神輿からブルーシートを外す宮総代副代表から
巡回の注意事項を説明もう直ぐお宮を出発です
神輿に補助用の棒を結びつける山車に乗り込む子供たち
子供たちが神輿を担ぎ移動開始
社殿横を通り裏口へ向かう
大太鼓を載せた軽トラックが最初に出発
続いて子供神輿が出発し南へ向かって練り歩く
続いて2台の山車が出発入野地区の巡回が始まる


  このあとは神輿・山車巡回へ。



○子供神輿帰着(13:40)
  子供神輿は鳥居前で一旦おろされ、担ぎ手が子供たちから母親たちへ代わり、鳥居を潜って参道から社殿へ向かう。

神輿を担ぎ上げると鳥居を潜る
お宮までは子供ではなくお母さんたちが担ぎます
子供神輿は枝に当たらないので参道を通ることが出来ます
桜の下を担ぐ神輿は気持ちがよさそうです
橋を渡ると
境内の入口では神輿を通す準備が始まる
テント下では太鼓が叩かれる枠から提灯を外す
神輿が近づき太鼓も盛り上がってきました
提灯用の下枠を抜き取ると神輿が階段を上がり
提灯枠を潜り抜ける
神輿を迎える囃子には笛も入ります
笛と太鼓に囃され神輿は
境内を反時計回りで一周
最後は社殿へ向かい
大人神輿の横に輿をおろす
無事宮付けし子供神輿の前で記念撮影

○神輿担ぎ(開始13:50、終了14:30)
  子供神輿が境内へ到着すると、今度は大神輿の渡御が行われ、宵宮と同様に社殿と鳥居を1往復する。大神輿は参道を通ると桜の枝に接触してしまうため、参道横の道路を担いで移動する。

子供神輿の宮付け後も囃子の演奏が続く
入野の太鼓はレベルが高いです
山車でも太鼓を叩く神輿に担ぎ手が集まり
太鼓を止めるとこれから神輿担ぎが始まる
一本締めて肩を入れ
担ぎ上げるドッコイ♪ ドッコイ♪
左に旋回し社殿から遠ざかる
宵宮では裏口から出ましたが大祭では自治会館前を通過し
そのまま直進提灯枠では轅を抱え
ゆっくりと潜り抜けるとそのまま階段を降り
再び神輿を担ぎ上げる参道から外れ
右手の道路へ出ると鳥居を目指して練り歩く
かつての祭礼ではこの神輿が入野を練り歩いていました
桜の下の渡御は気持ちがよさそうです
鳥居前まで来ると反時計回りに
旋回し正面を鳥居側へ向け
馬の上に神輿をおろし休憩を取る
休憩中ですが神輿を一旦抱え上げ
鳥居側へ背を向けると写真の撮影会が始まる
写真のデータはそのうち届けます
15分ほど休憩を取ると肩を入れ
神輿を担ぎ上げて時計回りに
旋回し再び正面を鳥居側へ向ける
鳥居を潜って参道を練り歩きたいところですが
宵宮と同様に道路を引き返します
入野の八坂神社神輿は歴史の古い神輿です
お宮を目指しどっこいで練り歩く
桜並木を抜けると右に寄り
参道を練り歩く
境内では迎えの太鼓が始まる階段の手前まで来ると
轅を抱えて進み提灯枠を潜る
境内へ入ると再び神輿を担ぎ上げ
宮入りした神輿は境内の中央へ進み
時計回りに旋回
奥のテントでは太鼓が打ち鳴らされる
一回転して再び社殿へ向き
前進して暫く揉むと
馬を入れて神輿をおろす
宮総代代表が挨拶し三本締めで神輿担ぎが終了

○神輿収め
  大神輿の渡御が終わると、神輿を拝殿へ収め、一部片付けが行われる。その後は自治会館で直会が行われるが、太鼓は合間で叩かれ、16時30分頃まで続く。

テント下では再び太鼓が叩かれ山車でも太鼓が叩かれる
神輿を一旦持ち上げ正面を
鳥居側へ向けて馬の上に載せると
記念撮影太鼓はまだまだ続きます
子供神輿は自治会館へ山車は
2台とも太鼓が叩かれる神輿では低い馬に交換
テント下では間物を披露
神輿の飾りと捩りを外す
間物が終わり屋台の演奏へ戻る
神輿を抱え上げ社殿へ移動
拝殿へ収めると轅を抜き取る
抜いた轅は裏へ運び
社殿横の倉庫へ収納社殿へ収められた神輿
太鼓はまだまだ続きます馬も倉庫へしまう
太鼓を一旦止めてテントを移動
幕を外し折り畳む
パイプを折り畳み時刻は15時
後片付けは進むが太鼓は続きます
来年まで叩く機会がないので最後の叩き納めです
私がお世話になっている方は家族で太鼓
こちらも家族太鼓で盛り上がる
神輿には幕が掛けられ社殿内も後片付け
かつて入野では近隣に太鼓を教えていたようです
入野は沢山コバチが入ります社殿では国旗を撤去
15時20分に一旦太鼓を止め記念撮影
自治会館へ集まり宮総代代表の挨拶
乾杯の挨拶があり直会が始まる
途中で博物館の学芸員の方から挨拶を頂きました
直会中ですが直ぐに太鼓を再開
皆さん太鼓が好きそうです16時30分頃に太鼓が終わり
太鼓を自治会館へ運ぶ
太鼓は3カラ分なのでかなりの数になります
皆で分担して締め太鼓をバラす
会館内では食事の後片付け受け継がれる太鼓の技術
明日は最後の後片付け入野の皆様お疲れ様でした

  後片付けは例大祭の翌日の月曜日に行われ、後片付け後は鉢払いが行われる。



入野の歴史

  入野村は初め旗本青山忠成の知行地であったが、後に幕府領となるも元禄10年(1697年)の蔵米采地替えに際し、旗本佐野勝由と同堀直元の給地として与えられ、旗本領2給地として明治に至る。『風土記稿』による入野村の戸数は56戸で、明治24年(1891年)は86戸(人口475人)、昭和57年(1982年)の町内会名簿を見ると約460戸にもなり、平成25年(2013年)は1149世帯(3097人)である。
  『風土記稿』には小名として「東町」・「西町」・「向町」・「田中町」・「四ツ谷」・「入野飯島」が記載されているが、現在は「田中町」・「東町」・「川崎町」・「仲町」・「向町」・「西町」の町内に区分されている。このうち西町はかつて鈴川沿いにあった字「根下」の家々が水害に遭い、宝永噴火の翌年宝永5年(1708年)に移転して形成された町内といわれている。入野には各町内で祀っていた道祖神が八坂神社に集められているが、西町には道祖神がなく、正月14日のダンゴヤキのときには西町の家々は川崎町などの元屋敷の町内のダンゴヤキに分散して参加していた。なお、『風土記稿』の四ツ谷は現在の西町の一部になっており、入野飯島は金目川右岸の数軒を指し、町内区分では西町に属している。
  金目川は『風土記稿』に「昔は村の中程を、斜に疎通し、巽方にて鈴川に合せしが、屡水溢せしを以て宝永三年命ありて今の如く掘替れり」とあるように、元禄16年(1703年)の地震の影響で河床が高くなった金目川を、宝永3年(1706年)に筋変え工事を実施してほぼ現在の金目川の流路になった。筋変え前の金目川は現在の水神橋付近から天王道にほぼ沿って東南東へ流れ、成願寺の北側から東へ長持境付近を流れていた。かつては大山道(地蔵道)と天王道が交差する所にケヤキの大木があり、これは金目川の舟を繋いでおく木であったといわれている。なお、宝永噴火の宝永4年(1707年)による降砂の堆積でさらに水が溜まりやすくなり、川崎町から西町への移転がなされたと考えられる。
  古道については『風土記稿』に「伊勢原道(幅八尺)、曾屋道(幅二尺)」とあり、伊勢原道は地区内の主要道で長持から寺田縄へ南北に通じ、入野では地蔵道や大山道と呼ばれた。地蔵道とはこの道端に地蔵があったことに由来し、地蔵は昭和45年(1970年)頃に道路拡張に伴い福田寺へ移された。曾屋道は現在の主要地方道平塚秦野線である。また、水神橋から東へ伸び、八坂神社の鳥居前を通る道を天王道といった。
  氏子総代は2人で、古くは経済的に豊かな人がなり任期はなかったが、近年では任期が4年となった。入野には6つのチョウナイ(町内)があり、町内毎に会合を持ってその席上で相談をして推薦者を決め、1月20日付近に行われるムラの総会で決めるようになった。総会は組長だけが参加して公民館で行われるが、かつては福田寺の地蔵堂で行われていた。



水神

  水神橋袂の天王道路(入野508)傍らに「水神之塔」と彫られた水神があり、集落では西町にあたる。金田地区は金目川の恩恵に浴しながらも、その水害防止に苦労した歴史がある。水は稲作を中心とした農業にとって必要不可欠なものであり、この水神は大切に祀られてきた。かつては八坂神社の祭礼において神輿が天王道を通ってこの地まで渡御し、神主に祝詞をあげてもらっていたが、現在は神輿が境内を出ることはなく、神主が祝詞をあげるのみである。

水神橋の近くに水神様がある
石碑には『水神之塔』の文字が刻まれる


ワカイシュ

  八坂神社の祭礼を催すには大変手数のかかる手続きがあり、ムラの各年齢層が次々に関係してくるようになっていた。大正2年(1913年)生まれの話者がワカイシュであった頃には次のようになっていた。
  16歳から18歳くらいまでのワカイシュが「青年団(学校卒で25歳まで)」の幹事(20歳過ぎ位の者)に寄ってもらい、稲の出来具合などを口実にして神輿を出してもらいたいと願い出る。4人の幹事は改めて集まって相談を行う。次いで「トシカサ」にその件を申し出るが、トシカサは青年会(満17〜40歳)の役員以外の25歳までの者で、青年団を抜けるとトシカサと呼ばれるのである。この後、トシカサ達は青年会役員(8人)に集まってもらい要件を伝え、その結果が総代に知らされてゴチョウが召集されて相談する。このような運びになると、祭礼の決定には7〜8日もかかったという。
  祭典の仕事は長男・次男に関係なく若い衆が加入していた青年会が一任されていたので、幟立てや小屋作りなどをしたという。昭和26・27年(1951・52年)には青年会に70数人の会員がいて、仕事を割り振るのが大変だったといわれる。青年会はヨミヤだと称して神社に籠り、櫓の上で太鼓を叩く者もいたという。



               



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