入野
八坂神社
「八坂神社」は入野の鎮守で、祭神は「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」である。創建年代は不詳だが、寛文5年(1665年)の検地帳に「宮面(免)」があることから、少なくともこのころまでには成立していたものと考えられる。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「牛頭天王社」との名称で、「村の鎮守なり。本地仏・釈迦・多寶・寶生・薬師・弥陀の五躯を安ずと傳ふれど、今銅像二躯及仏像鑄出せし銅鏡(各古物なり)一面を安ず。 (中略) 村民持」とある。鐘楼には寶永三年新造の鐘を掛け、末社には「天神」・「山王」・「蔵王」が記載されている。入野の社寺に関する記載の中にはこの他に、成願寺持の「神明社」と村民持の「山王社」、松林寺(臨済宗)の「稲荷社」と「天神社」、成願寺(天台宗)の「稲荷社」と「護摩堂」、常福寺(天台宗)、福田寺(曹洞宗)の「白山社」と「地蔵堂」、福田寺持ちの「阿弥陀堂」の名がみられる。
明治3年(1870年)の村明細帳には「神社壱ヶ所 八坂社 社地社外共高三石三斗 此反別三反歩」とみえる。明治時代初期に八坂神社と改称し今日に至っている。明治41年(1908年)に御神体と神輿以外を火災で失ったが、大正15年(1926年)に社殿を再建した。
鳥居・参道 | 入野さくら公園 |
太鼓橋(旧) | 太鼓橋(新) |
八坂神社 | 手水舎 |
鐘楼 | 石碑 |
神社由緒 | 燈籠 |
狛犬 | 燈籠 |
拝殿 | 覆殿・幣殿 |
倉庫 | 入野自治会館 |
境内 | けやき |
境内の隅に木製の祠とコンクリート製の祠があり、末社の天神・山王・蔵王がこれに該当する可能性がある。なお、神明社と山王社の所在は確認できていない。入野には48基の石造物があるが、その大部分が寺院と神社に集約されている。これは昭和40年代に行われた入野の中央部を貫く道路の拡張工事に伴い、路傍の石仏が八坂神社の境内に移設されたためである。
道祖神は西町を除く田中町・東町・川崎町・仲町・向町の町内ごとに入野の辻辻(十字路ごと)に立てられ、1月14日には小屋を立ててダンゴヤキを行っていたが、道路拡張に伴い昭和45年(1970年)頃に全ての道祖神が八坂神社の境内に寄せられた。田中町の道祖神はもともと八坂神社にあり、これは鳥居柱の貫穴部を利用したように見える。安政4年(1857年)の造立であることから、安政2年(1855年)10月の大地震で倒壊した鳥居を利用した可能性もある。また、向町の道祖神は「堅牢地神」と刻まれた金田地区唯一の地神塔で、明治30年(1897年)に造立された自然石型の供養塔である。正月用のダンゴヤキは境内で行うほか、入野飯島では金目川の河川敷で行っている。
祠 | 道祖神 |
準備(開始9:00)
例大祭の前日は午前9時から準備が行われ、境内の飾り付けのほか、2台の山車の組立、大神輿と子供神輿の飾り付けなどが行われる。かつては入野の氏子全員によって神社の掃除や幟立てをし、奉納神楽や芝居を行う舞台を作り、太鼓を叩く櫓も拵えた。ここからは平成27年(2015年)4月4日の例大祭前日の様子を紹介する。
○境内の準備
社殿横の倉庫から山車の材料や提灯枠を取り出し、飾りつけを行っていく。提灯枠は境内入口に十一提灯(提灯11個)と自治会館前に奉納花提灯(提灯35個)を設置し、参道にも花提灯を取り付けていく。
準備は9時開始予定ですが | 8時半頃から既に準備が始まる |
倉庫から材木を運び出し | 社殿からは荷物を外に出す |
榊を水に浸す | こちらは山車の提灯枠 |
境内に飾る提灯枠も | 運び出す |
倉庫から次々と | 材料を運び出し |
倉庫は殆ど空に | 忌竹を積んだ軽トラが到着 |
提灯の入ったボックスを運び出す | 提灯だけでもかなりの量です |
山車のトラックが到着 | 時間と共に氏子の数も増え |
9時頃になると宮総代代表の | 挨拶で改めて準備開始 |
轅を抱え | 台輪の棒穴へ |
自治会館前ではテント張り | 鈴緒を持ち上げると |
轅を抱え | 神輿を社殿から |
外へ出し | 境内を移動して |
自治会館前におろす | 奥から子供神輿を移動 |
トラックでは山車の組立 | パイプテントの屋根を張ると |
神輿を再び抱え上げ | テント内へ移動 |
山車では柱を立てて梁を渡す | 会館内では子供神輿の飾りつけ |
提灯枠の組立 | 神輿の提灯を運ぶ |
境内入口でも提灯枠の組立 | 山車の柱と梁が組み上がる |
後方では2基目の山車の準備 | こちらはのしの掲示板の準備 |
社殿内では掃除 | 会館前の提灯枠が組み上がり |
柱を地面に固定 | 沢山提灯が付きそうです |
子供神輿に綱を巻く | 2基目の山車も骨組みが完成 |
1基目の山車は屋根を載せる | 輿棒に紅白テープを巻き付ける |
10時頃に休憩を挟み | 再び作業開始 |
提灯枠に電球を取り付ける | 境内入口の枠に屋根を付ける |
駐車場では軽トラのアオリをおろし | 神輿に人が集まる |
ブルシートを一旦広げる | 馬を移動 |
ブルシートをたたみ | 荷台の上に敷く |
神輿の轅を抱え | 馬を抜くと移動開始 |
テントが低いので | 梁を避けるのにも一苦労 |
地面すれすれまで神輿を下げ | テントを出ると |
駐車場まで移動し | 神輿を担ぎ上げ |
馬の上におろし | 楔を抜く |
軽トラをそのままバックさせ | 神輿の下に荷台を入れると |
轅に肩を入れて馬を抜き | 荷台に神輿をおろす |
台輪から | 轅を抜く |
境内入口には11個の提灯が | 自治会館前には35個の提灯 |
境内の準備は | 終盤に差し掛かる |
○神輿準備(開始10:40、終了15:20)
神輿を八坂神社の境内からJA湘南の倉庫前へ移動し、捩り掛けと飾り付けを行う。捩り掛け後は神輿を担いでお宮へ戻る。
10時30分頃になると | 神輿をのせた軽トラが出発 |
ワゴン車に提灯や | 鳳凰などを積み |
神輿を追ってお宮を出発し | JA湘南の金田支店に到着 |
ワゴンから | 積んできた荷物をおろす |
台輪の下へ潜り込み | 楔で轅を固定すると |
馬をずらして轅でささえ | 脚立をセット |
晒を巻いた鳳凰を持って | 脚立に上がり |
鳳凰の足を | 露盤へ差し込む |
鳳凰から四隅に晒を渡し | 捩り掛けが始まる |
最初に対角線上に | 晒を引っ張り |
蕨手の根元に | 巻き付ける |
そのまま真下へおろし | 弛みが無くなるまで引っ張り |
轅に結び付けて | 1か所目を終える |
対角側も同様に | 晒を引っ張り |
轅に固定するが・・・ | 緩みがあったため |
一旦ゆるめて | もう一度やり直す |
結び方にも | コツがあるようです |
今度は反対の対角線上に | 晒を伸ばし |
先ほどと同様に引っ張って | 蕨手の根元に固定 |
捩り掛けは | かなりの重労働です |
晒が緩まない様に | 気を使います |
最後に轅に固定して | 捩り掛けの前半が終了 |
時刻は11時40分 | 二手に分かれて |
昼食を取り | 13時に戻ってきました |
神輿では歯ブラシで | 彫刻を掃除中 |
13時20分頃から | 捩り掛けを再開 |
晒を轅に巻き付け | 蕨手に掛けると |
晒を張りながら | 蕨手に結び付け |
反対側の蕨手に掛けて | 晒を張っていく |
蕨手に晒を巻き付け | その下の轅に晒を掛けると |
晒をしごきながら | 横へ引っ張る |
上に折り返して張り上げ | 蕨手に結び付けると |
次の蕨手に渡し | 手の摩擦力で晒を張る |
呼吸を合わせることが | 重要なポイントです |
真下の轅に晒を落とし | テンションを掛けると |
2辺を跨いだところで | 轅に固定する |
次の晒を追加し | 終わった位置に結び付けると |
真上の蕨手に渡し | 晒をしごいていく |
摩擦熱で手を火傷しそうです | この作業が一番苦しそうです |
次の蕨手に晒を渡し | 同様に晒を張り上げる |
捩り掛けの大変さを | 改めて感じます |
習得するには | かなりの経験を要します |
晒を蕨手に巻き付け | 最初の蕨手へ渡す |
今回は指導を含めた | 作業でしたので |
私自身も | 大変勉強になりました |
最後に轅へ結び付けると | 短い晒を取り出し |
4箇所の轅の根元で | 最後の仕上げに入る |
既に巻き付けた晒を | 包み込むように覆い |
上に向かって | 玉垣付近まで巻き付ける |
蕨手の上に小鳥を差し込み | 晒で結び付けて固定 |
隅木の下で捩りを結び寄せ | 鈴を結び付ける |
白い網を広げ | 胴回りを覆う |
轅の先端に手綱を取り付け | 鳥居には榊を結びつける |
手綱にもコツが必要です | 四隅には八坂神社の赤提灯 |
荷物を片付け | 手綱の取り付けが終わると |
神輿の周りに集まり | 担ぎ上げる |
時刻は15時23分 | お宮へ向けて |
JA湘南の金田支店を | 出発 |
右手は平塚市金田保育園 | 正面のバス通りを |
右折して | 直ぐに左折 |
住宅地に入り | どっこいに切り替わる |
東へ直進し | 売店を通過 |
T字路を | そのまま直進し |
次のT字路で右折すると | 左手にお宮が見える |
そのまま裏から | 宮入りし |
社殿横で | 一旦神輿をおろす |
駐車場に到着した車から | 神輿関係の荷物を降ろす |
神輿の進路を塞いでいた | 山車を移動させると |
再び神輿を担ぎ上げる | 太鼓を山車へ運ぶ |
社殿前を通過し | 自治会館前で |
180度旋回し | 15時40分に無事に宮付け |
長持・熊野神社(出発15:45、到着17:10)
神輿がお宮へ戻ると山車に太鼓をセットし、寺田縄の山車と合流して長持の熊野神社へ移動する。寺田縄の例大祭は入野と同じ日曜日で、長持の例大祭は入野の前日の土曜日であることから、最近になり3地区の交流を深めるために集まるようになった。なお、長持には太鼓の山車がないので、境内に櫓を組んで太鼓を演奏している。
自治会館から大太鼓を運び | 山車の柱に結び付ける |
締太鼓を枠に入れ | ボルトに棒を通して固定 |
叩き手が山車へ乗り込み | 裏口からお宮を出発 |
北側のT字路で切り替えし | 西へ向かって移動 |
突き当りのバス通りを | 右折して北へ |
東海道新幹線の | 高架橋を潜り |
道路脇で待機 | 東側に寺田縄の山車が見える |
太鼓の音が抜ける様に | 後ろのアオリを下す |
北東から寺田縄の山車が登場 | 豊田の山車と同じように |
サイズが大きいです | 寺田縄の山車は |
2台で参加 | ガード下で暫く待機し |
16時頃に寺田縄の山車が | ガード下を出発 |
入野の山車も | 後を追い |
来た道を引き返す | 囃子には笛が入る |
金田保育園 | 昼食を頂いた相棒 |
入野前田バス停 | ファミリーマートを通過 |
道沿いにカーブして | 成願寺バス停を通過 |
長持根下バス停から長持地区 | 左手に熊野神社が見える |
長持も太鼓でお出迎え | 寺田縄の山車に続いて |
16時15分頃に境内へ入り | 3台の山車が並ぶ |
現在は長持に山車はなく | 終日櫓で太鼓を叩く |
地元の氏子による露店 | 手作りの子供神輿が2基 |
熊野神社の例大祭は | 入野の前日になる土曜日です |
境内で暫く | 太鼓の叩き合い |
5分ほどで演奏を終え | 山車の前に |
べニアのテーブルを設置 | 3地区での交流は |
数年前から始まりました | 30分程でテーブルを片付け |
山車へ | 乗り込み |
再び太鼓を叩くと | 寺田縄から |
山車を移動させ | 境内を出発 |
2基目が | 出発すると |
最後に入野の山車が | 17時頃に出発 |
バス通りを右折し | 来た道を引き返す |
入野地区を巡回し | 裏口からお宮へ入り |
熊野神社から10分ほどで到着 | 会館では子供たちが食事中 |
宵宮(開始18:00、終了21:30)
○山車巡回
入野の宵宮は18時から始まり、2台の山車が入野地区を巡回する。子供たちは17時頃にお宮へ集合し、自治会館で食事を取り、半纏を着て2台の山車へ乗り込む。
宵宮に向けて自治会館奥の | 和室では太鼓を締める |
夜には神輿の渡御もあります | 私ののしも張って頂きました |
半纏を来た子供たちは | 境内へ出る |
自治会館から太鼓を運び | 大太鼓を柱へセット |
締太鼓を | 枠へセット |
掲示板にのしが張られる | 拝殿が受付です |
もう一組太鼓を運び出し | 境内の外へ移動 |
もう一基の山車に太鼓をセット | 出発の準備が完了 |
出発の予定時刻は6時ですが | 今年は少し遅れました |
境内の外に停車していた山車が | 裏口から入り |
社殿横に停車し | 子供たちが乗り込む |
約30分遅れで山車が出発 | 1基目は北側へ |
2基目も続けて出発し | 裏口を出て |
こちらは境内横を通過し | 南側へ向かう |
○境内での囃子演奏(開始18:40)
2台の山車がお宮を出発すると、境内では自治会館前のテント下に太鼓を1カラ設置し、囃子が演奏される。宵宮には他の地区から叩き手が訪れ、他地区との太鼓の交流の場ともなっている。
神輿の提灯に明かりが灯る | 自治会館から |
太鼓の台と | 太鼓を運び出し |
テント下で | 太鼓の準備 |
境内で | 囃子の演奏が始まる |
私も一緒に | 叩かせて頂きました |
20分程叩き | 相棒で食事をとります |
○神輿担ぎ(開始19:50、終了21:30)
宵宮では境内にて神輿担ぎが行われ、休憩を挟みながら宵宮の最後まで続けられる。
入野地区を巡回していた | 山車が境内に戻ると |
神輿では一本締めて | 神輿担ぎが始まる |
肩を入れて | 神輿を担ぎ上げ |
社殿へ向かい | 甚句を入れる |
社殿を離れ | 境内を反時計回りに |
一周 | 山車では子供達が太鼓を叩く |
間に | 甚句を交え |
境内を | 2周 |
3周と | 回る |
社殿へ向かい | 甚句を入れて |
社殿前で暫く揉むと | 腰をおろして休憩 |
20時頃に太鼓の山車2台が | 再び町内巡回に向けて出発 |
境内では太鼓の演奏が始まる | 担ぎ手は自治会館内で休憩 |
お客さんを交えて | 盛り上がる囃子太鼓 |
20時15分頃になると | 一本締めて |
肩を入れ | 再び境内での |
神輿担ぎが始まる | 総代代表も肩を入れる |
今度は境内を回らず | 社殿横を通過し |
境内を出て左折し | 南へ向かって練り歩く |
私も途中で | 肩を入れさせて頂きました |
正面から巡回中の山車が | 1台通過 |
参道横を練り歩き | 鳥居まで来ると |
旋回して | 正面を社殿方向へ向け |
甚句を交えて揉むと | 鳥居前で神輿をおろす |
もう1台の山車が現れ | お宮へ向かって移動 |
神輿と一緒に記念撮影をし | 再び神輿を担ぎ上げる |
以前、神輿を桜の枝に | 当てたので鳥居は潜らずに |
参道横の道路を進む | 夜桜が綺麗です |
甚句を交え | お宮を目指す |
正面から境内に入らず | そのまま直進 |
境内では囃子が盛り上がる | 甚句を交え |
境内横を通過し | 裏口から |
宮入り | ここでも甚句が入る |
境内中央で | 旋回し |
社殿へ向かって | 神輿を揉み |
20時50分に | 腰をおろす |
テント下では | 再び太鼓演奏 |
担ぎ手は会館内で休憩 | 神輿に劣らず盛り上がる太鼓 |
寺田縄の山車が出迎え | 入野の山車に叩き手が乗り |
21時20分に境内を出発し | 寺田縄へ向かう |
宮総代代表により一本締め | 神輿を担ぎ上げ |
宵宮3度目の神輿担ぎ | 拡声器を使わずに |
甚句を入れ | 境内を |
1周 | 疲れが見えてきましたが |
甚句を入れて | 2周目 |
こちらは担ぎながらの甚句 | 境内を3周して |
最後の担ぎを終えると | 宮総代代表の一本締め |
神輿から馬を抜き | 轅を抱えて |
テント下へ | 神輿を移動 |
テントを持ち上げ | 低い馬を入れる |
天気が悪いので山車と | テントは雨対策 |
社殿の戸は閉める | 宵宮の仕事を終え |
この日は夜遅くまで盛り上がる | 明日は天候が持ちますように |
囃子
かつてはワカイシュがもっぱら太鼓をたたいて楽しむ太鼓連中で、青年団から選出された太鼓世話人がいたが、戦争の影響で一時期は中断を余儀なくされた。昭和45年(1970年)頃に各町内の道祖神が八坂神社へ寄せられ、同じ頃に太鼓の復活の話が持ち上がった。それまでは戦後の生活の苦しさを考えて遠慮していて、上に立つ人達もむしろ消極的であった。各地でバクチが流行っていたことへの対策の意味もあって復活の話が決められた。太鼓を地蔵堂に置き、叩くときは鐘つき堂(鐘は供出でなくなった)にくくりつけていた。
昔から入野は「太鼓がうまい」といわれ、近隣へ教えに行ったようである。入野の祭礼では主に「ハヤシ(囃子)」が叩かれ、「バカッパヤシ」または「ブッツケ」などと呼んでいる。この他には宮入り時に「ミヤショウデン(宮昇殿)」が叩かれ、「キザミ」を入れて「ハヤシ」へ繋がれる。入野ではこれ以外に「間物(まもの)」と呼ばれる組曲が残されており、曲名は「ジショウデン(寺・治昇殿)」・「オオマショウデン(大間昇殿)」・「カンダマル(神田丸)」・「トウガク(唐楽)」・「カマクラ(鎌倉)」・「シッチョウメ」・「ニンバ」の7曲で、間物の後に「キザミ」を入れて「ハヤシ」へ繋ぐ。なお、曲名は口伝で伝わってきているため、括弧内の漢字は予想されるものである。
以上のように入野ではキザミを含めると計10曲が残されており、平塚市の重要文化財に指定されている「田村ばやし」と「前鳥囃子」の様にこれだけの曲が絶えず伝承されていることは非常に珍しいといえる。しかしながら、かつて全曲に入っていたといわれる笛(キザミはなかったようである)は残念ながら途絶えてしまい、現在吹かれている笛は伊勢原市笠窪の譜面を元にしてハヤシ(屋台)だけを取り入れている。囃子の構成は締太鼓2と大太鼓1で、入野の囃子は現在「入野太鼓保存会」によって伝承されている。
山車(側面) | 山車(正面) |
山車(側面) | 山車(正面) |
境内ではテント下で叩く | 囃子は大太鼓が1つ |
締太鼓が2つ | 時々笛が入る |
囃子 |
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神輿
入野の八坂神社神輿は「寒川のほうから来たものだ」という伝承があったが、入野にはこれまで記録に残るものは何も伝わっていなかった。しかし、平成9年(1997年)の調査により西岡田村(現在の寒川町岡田)の八坂神社(明治42年に神明宮に合祀されて菅谷神社となる)から譲渡された可能性が高くなった。入野の八坂神社神輿と菅谷神社の天保神輿の大きさは次のような規模で、ほぼ同規模ながら入野の方がほんのわずかだけ大きいことが分かる。
測定箇所 | 八坂神社 神輿 | 菅谷神社 神輿 | 備考 |
総高 | 231cm | 222cm | 台框下から鳳凰の最頂部まで |
最大幅 | 159cm | 150cm | 蕨手の両端の幅 |
台框高 | 28cm | 23cm | 最下部から台座最上部まで |
台框縦 | 125cm | 123cm | 台座の両端の幅 |
鳥居高 | 51cm | 53cm | |
鳥居幅 | 64cm | 65cm |
重さは量ったことがないので不明とのことであるが、「米三俵分はない」と言伝えられている。米一俵は約60kgであるから150〜160kg程度ではないだろうかといわれ、実際の経験からも8人いればどうにか担いで歩けるとのことである。
大正15年(1926年)の社殿再建のおりに神輿の彫刻も若干の補修を行ったといわれ、その彫刻とは四方の欄間にあしらわれた龍・花・獅子鼻などで、大変精緻なものである。その上辺あたりの内側にそれぞれ墨書の銘文があり、神輿内部に記されたこの銘文には以下の文字が確認されている。
奥・・・「文化九年壬申三月吉日再興之 西岡田村」
右側・・・「東都本白銀町三丁目 東叡山御用」
手前・・・「大仏師 森光雲」
左側中央・・・「嘉永」
左側奥・・・「前」
さらに奥の銘文の書かれた板に垂直に組まれた柱には「明治廿七年 七月廿八日」とある。これらの文字からこの神輿は文化9年(1812年)に江戸本銀町(現東京都中央区)の仏師森光雲によって再興された西岡田村の神輿で、この神輿を明治27年7月に修理したものであると考えられる。台框(だいかまち)の中央にある「格狭間(こうざま)」の形や模様が、寒川神社および菅谷神社に現存する神輿と酷似しているのも、その可能性を高める要素といえる。西岡田村は明治29年(1896年)頃に中郡金田村入野へこの神輿を売却したようである。
以上のことから『風土記稿』に記されている神輿は現在の神輿ではなく、さらに古い神輿ということになる。
八坂神社神輿 | 路盤と屋根大紋 |
唐破風軒 | 蕨手 |
組物(桝組) | 頭貫木鼻 |
唐戸 | 戸脇 |
鳥居 | 腰羽目 |
格狭間 | 箱台輪 |
箪笥金具 | 交換前の古い物です |
神輿内部・唐戸裏 | 神輿内部・屋根裏 |
捩り掛け・飾り付け後 | 子供神輿 |
神輿渡御
昭和30年(1955年)頃までは例祭の当日に神輿(「コシ」といった)を担いでいた。村内東端にある八坂神社を出発し、「テンノーミチ」と呼ばれる通りを西方へ一直線に進み、金目川にかかる水神橋の少し上流で川に入って禊をした。その後、川の西側を少しまわってから下流で再び川を渡り、村内各所をまわって八坂神社へ戻るというコースをたどった。また、神社を出発した神輿が水神塔がある場所まで渡御し、そこで神主に祝詞をあげてもらったという話もある。そこには竹を4本立てて四方に注連が張ってあり、神輿を安置して神酒をいただいた。そこからムラに戻って各町内を渡御して歩いた。神輿は誰でも担ぐことができたし、コシダイを持つ者も特に決まっていなかった。
戦後は担ぎ手が減少したことや、経済的負担が大きかったことから毎年担ぐことができなくなった。若い衆は担ぎたくてたまらなかったが、年長者がやむなくそれを押し留めるというせめぎ合いが何年も続いたという。そして神輿自体の老朽化もあいまって、昭和30年頃を境に担がなくなった。現在では4月の例祭に神輿を装飾して担いでいるが、昔のように境内を出て入野地区を巡回することはない。また、他地区でみられる神輿保存会や神輿愛好会といった神輿を管理する団体は入野では組織はされていない。
掛け声 |
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例大祭
『風土記稿』によると旧暦の6月14日が例祭日と記され、金目川で神輿の渡御が行われていたという。例祭日はその後4月2日になったが、雨の日や寒い日が多いので神輿を担ぐのに不都合だった為、戦前の昭和15年くらいに4月20日に変更した。しかし、農作業(特に苗作り)の関係で元の4月2日に戻したという。現在は4月第1日曜日である。
かつて祭りの当日には三之宮比々多神社から神主がやってきて、祝詞をあげて式典を行った。夜になると茅ヶ崎の円蔵から神楽師を呼んで神楽を奉納した。芝居は10年に1回ぐらいの割合で行ったという。こうした余興については、旅芸人がまわってくる他の村々から何処の芸人がよいかを聞いて頼んできた。各家では祭りの当日にオコワと煮〆を作り、オコワ1重、煮〆1重をコウジブタにのせて奉納したという。コウジブタというのは麺をねかせる専用の木箱で、3尺1寸5分×9寸5分×3寸5分の長方形のものである。各家ではかつて10枚ほどは持っていたという。
祭りの翌日をハチハライといい、神楽舞台や櫓などを解体し、幟を倒して掃除をする。こられの後片付けを終えてから、神社の境内で一杯飲んだ。以下に平成27年(2015年)4月5日の例大祭の様子を紹介する。
○準備(開始8:00)
例大祭当日は朝8時頃から準備が始まり、社殿では式典の準備、自治会館では直会の準備が行われる。
時刻は朝の7時55分 | 宮総代が集まり始める |
今日はいつ雨が降っても | おかしくない天候です |
自治会館の鍵が開き戸を開ける | バチには血痕が |
テーブルを並べて直会の準備 | 社殿では椅子が並べられる |
太鼓と神輿の募集ポスター | 例大祭は9時から15時です |
自治会館では掃除機をかけ | ゴミを社殿横へ運ぶ |
境内では掃き掃除 | つまみと飲み物を並べる |
8時30分頃に | 三之宮比々多神社の宮司が |
到着し社殿へ入り式典の準備 | 入口の戸を取り外す |
掲示板が埋まってきました | 自治会館から |
子供神輿を | 運び |
玄関から | 外へ出す |
提灯枠の前におろし | 雨除けにブルーシートを掛ける |
会館で着替えを済ませた宮司と | 関係者が社殿へ上がる |
子供達が境内に集まり始め | 間もなく式典です |
○式典(開始9:00)
9時からは関係者が社殿へ集まり、三之宮比々多神社の宮司により例大祭の式典が執り行われる。式典に参加する玉串奉納者は次の通りである。宮総代代表、自治会会長、農業土木委員長、巡回責任者、太鼓指導者、神輿責任者、育成会会長。
9時に太鼓が叩かれ | 例大祭の式典が始まる |
子供たちは境内に整列 | 出席者を修祓 |
神輿と | 山車もお祓い |
最後に子供たちをお祓い | 続いて玉串拝礼 |
子供たちも一緒に二礼 | 二拍手一礼 |
太鼓の合図で | 9時35分に式典が終了 |
宮司と関係者が車に乗り | 水神様の参拝へ向かう |
式典終了後は水神橋へ移動し、水神様の祈祷を行う。このときの出席者は比々多神社の宮司と神職1名、農業土木委員、自治会会長、宮総代代表となる。
○子供神輿・山車出発(10:00)
式典終了後は境内で出発の準備をし、入野地区を巡回する。先導車両には社殿内の大太鼓を荷台へ取り付け、飲み物を積み込む。子供神輿は小学1〜3年生が担ぎ、小学4年生以上は2台の山車へ乗り込んで太鼓を叩く。
社殿奥から大太鼓を出し | 外に軽トラックを準備 |
台を運び出し | 荷台へ乗せてアオリをおろす |
大太鼓はかなりの大きさです | 台の上にセット |
子供たちは社殿前に集まり | 記念撮影 |
子供神輿からブルーシートを外す | 宮総代副代表から |
巡回の注意事項を説明 | もう直ぐお宮を出発です |
神輿に補助用の棒を結びつける | 山車に乗り込む子供たち |
子供たちが神輿を担ぎ | 移動開始 |
社殿横を通り | 裏口へ向かう |
大太鼓を載せた | 軽トラックが最初に出発 |
続いて子供神輿が出発し | 南へ向かって練り歩く |
続いて2台の山車が出発 | 入野地区の巡回が始まる |
このあとは神輿・山車巡回へ。
○子供神輿帰着(13:40)
子供神輿は鳥居前で一旦おろされ、担ぎ手が子供たちから母親たちへ代わり、鳥居を潜って参道から社殿へ向かう。
神輿を担ぎ上げると | 鳥居を潜る |
お宮までは子供ではなく | お母さんたちが担ぎます |
子供神輿は枝に当たらないので | 参道を通ることが出来ます |
桜の下を担ぐ神輿は | 気持ちがよさそうです |
橋を | 渡ると |
境内の入口では | 神輿を通す準備が始まる |
テント下では太鼓が叩かれる | 枠から提灯を外す |
神輿が近づき | 太鼓も盛り上がってきました |
提灯用の下枠を抜き取ると | 神輿が階段を上がり |
提灯枠を | 潜り抜ける |
神輿を迎える囃子には | 笛も入ります |
笛と太鼓に囃され | 神輿は |
境内を | 反時計回りで一周 |
最後は | 社殿へ向かい |
大人神輿の横に | 輿をおろす |
無事宮付けし | 子供神輿の前で記念撮影 |
○神輿担ぎ(開始13:50、終了14:30)
子供神輿が境内へ到着すると、今度は大神輿の渡御が行われ、宵宮と同様に社殿と鳥居を1往復する。大神輿は参道を通ると桜の枝に接触してしまうため、参道横の道路を担いで移動する。
子供神輿の宮付け後も | 囃子の演奏が続く |
入野の太鼓は | レベルが高いです |
山車でも太鼓を叩く | 神輿に担ぎ手が集まり |
太鼓を止めると | これから神輿担ぎが始まる |
一本締めて | 肩を入れ |
担ぎ上げる | ドッコイ♪ ドッコイ♪ |
左に旋回し | 社殿から遠ざかる |
宵宮では裏口から出ましたが | 大祭では自治会館前を通過し |
そのまま直進 | 提灯枠では轅を抱え |
ゆっくりと潜り抜けると | そのまま階段を降り |
再び神輿を担ぎ上げる | 参道から外れ |
右手の道路へ出ると | 鳥居を目指して練り歩く |
かつての祭礼ではこの神輿が | 入野を練り歩いていました |
桜の下の渡御は | 気持ちがよさそうです |
鳥居前まで来ると | 反時計回りに |
旋回し | 正面を鳥居側へ向け |
馬の上に神輿をおろし | 休憩を取る |
休憩中ですが | 神輿を一旦抱え上げ |
鳥居側へ背を向けると | 写真の撮影会が始まる |
写真のデータは | そのうち届けます |
15分ほど休憩を取ると | 肩を入れ |
神輿を担ぎ上げて | 時計回りに |
旋回し | 再び正面を鳥居側へ向ける |
鳥居を潜って参道を | 練り歩きたいところですが |
宵宮と同様に | 道路を引き返します |
入野の八坂神社神輿は | 歴史の古い神輿です |
お宮を目指し | どっこいで練り歩く |
桜並木を抜けると | 右に寄り |
参道を | 練り歩く |
境内では迎えの太鼓が始まる | 階段の手前まで来ると |
轅を抱えて進み | 提灯枠を潜る |
境内へ入ると | 再び神輿を担ぎ上げ |
宮入りした神輿は | 境内の中央へ進み |
時計回りに | 旋回 |
奥のテントでは | 太鼓が打ち鳴らされる |
一回転して | 再び社殿へ向き |
前進して | 暫く揉むと |
馬を入れて | 神輿をおろす |
宮総代代表が挨拶し | 三本締めで神輿担ぎが終了 |
○神輿収め
大神輿の渡御が終わると、神輿を拝殿へ収め、一部片付けが行われる。その後は自治会館で直会が行われるが、太鼓は合間で叩かれ、16時30分頃まで続く。
テント下では再び太鼓が叩かれ | 山車でも太鼓が叩かれる |
神輿を一旦持ち上げ | 正面を |
鳥居側へ向けて | 馬の上に載せると |
記念撮影 | 太鼓はまだまだ続きます |
子供神輿は自治会館へ | 山車は |
2台とも太鼓が叩かれる | 神輿では低い馬に交換 |
テント下では | 間物を披露 |
神輿の飾りと | 捩りを外す |
間物が終わり | 屋台の演奏へ戻る |
神輿を抱え上げ | 社殿へ移動 |
拝殿へ収めると | 轅を抜き取る |
抜いた轅は | 裏へ運び |
社殿横の倉庫へ収納 | 社殿へ収められた神輿 |
太鼓はまだまだ続きます | 馬も倉庫へしまう |
太鼓を一旦止めて | テントを移動 |
幕を外し | 折り畳む |
パイプを折り畳み | 時刻は15時 |
後片付けは進むが | 太鼓は続きます |
来年まで叩く機会がないので | 最後の叩き納めです |
私がお世話になっている方は | 家族で太鼓 |
こちらも | 家族太鼓で盛り上がる |
神輿には幕が掛けられ | 社殿内も後片付け |
かつて入野では近隣に | 太鼓を教えていたようです |
入野は沢山コバチが入ります | 社殿では国旗を撤去 |
15時20分に一旦太鼓を止め | 記念撮影 |
自治会館へ集まり | 宮総代代表の挨拶 |
乾杯の挨拶があり | 直会が始まる |
途中で博物館の学芸員の | 方から挨拶を頂きました |
直会中ですが | 直ぐに太鼓を再開 |
皆さん太鼓が好きそうです | 16時30分頃に太鼓が終わり |
太鼓を | 自治会館へ運ぶ |
太鼓は3カラ分なので | かなりの数になります |
皆で分担して | 締め太鼓をバラす |
会館内では食事の後片付け | 受け継がれる太鼓の技術 |
明日は最後の後片付け | 入野の皆様お疲れ様でした |
後片付けは例大祭の翌日の月曜日に行われ、後片付け後は鉢払いが行われる。
入野の歴史
入野村は初め旗本青山忠成の知行地であったが、後に幕府領となるも元禄10年(1697年)の蔵米采地替えに際し、旗本佐野勝由と同堀直元の給地として与えられ、旗本領2給地として明治に至る。『風土記稿』による入野村の戸数は56戸で、明治24年(1891年)は86戸(人口475人)、昭和57年(1982年)の町内会名簿を見ると約460戸にもなり、平成25年(2013年)は1149世帯(3097人)である。
『風土記稿』には小名として「東町」・「西町」・「向町」・「田中町」・「四ツ谷」・「入野飯島」が記載されているが、現在は「田中町」・「東町」・「川崎町」・「仲町」・「向町」・「西町」の町内に区分されている。このうち西町はかつて鈴川沿いにあった字「根下」の家々が水害に遭い、宝永噴火の翌年宝永5年(1708年)に移転して形成された町内といわれている。入野には各町内で祀っていた道祖神が八坂神社に集められているが、西町には道祖神がなく、正月14日のダンゴヤキのときには西町の家々は川崎町などの元屋敷の町内のダンゴヤキに分散して参加していた。なお、『風土記稿』の四ツ谷は現在の西町の一部になっており、入野飯島は金目川右岸の数軒を指し、町内区分では西町に属している。
金目川は『風土記稿』に「昔は村の中程を、斜に疎通し、巽方にて鈴川に合せしが、屡水溢せしを以て宝永三年命ありて今の如く掘替れり」とあるように、元禄16年(1703年)の地震の影響で河床が高くなった金目川を、宝永3年(1706年)に筋変え工事を実施してほぼ現在の金目川の流路になった。筋変え前の金目川は現在の水神橋付近から天王道にほぼ沿って東南東へ流れ、成願寺の北側から東へ長持境付近を流れていた。かつては大山道(地蔵道)と天王道が交差する所にケヤキの大木があり、これは金目川の舟を繋いでおく木であったといわれている。なお、宝永噴火の宝永4年(1707年)による降砂の堆積でさらに水が溜まりやすくなり、川崎町から西町への移転がなされたと考えられる。
古道については『風土記稿』に「伊勢原道(幅八尺)、曾屋道(幅二尺)」とあり、伊勢原道は地区内の主要道で長持から寺田縄へ南北に通じ、入野では地蔵道や大山道と呼ばれた。地蔵道とはこの道端に地蔵があったことに由来し、地蔵は昭和45年(1970年)頃に道路拡張に伴い福田寺へ移された。曾屋道は現在の主要地方道平塚秦野線である。また、水神橋から東へ伸び、八坂神社の鳥居前を通る道を天王道といった。
氏子総代は2人で、古くは経済的に豊かな人がなり任期はなかったが、近年では任期が4年となった。入野には6つのチョウナイ(町内)があり、町内毎に会合を持ってその席上で相談をして推薦者を決め、1月20日付近に行われるムラの総会で決めるようになった。総会は組長だけが参加して公民館で行われるが、かつては福田寺の地蔵堂で行われていた。
水神
水神橋袂の天王道路(入野508)傍らに「水神之塔」と彫られた水神があり、集落では西町にあたる。金田地区は金目川の恩恵に浴しながらも、その水害防止に苦労した歴史がある。水は稲作を中心とした農業にとって必要不可欠なものであり、この水神は大切に祀られてきた。かつては八坂神社の祭礼において神輿が天王道を通ってこの地まで渡御し、神主に祝詞をあげてもらっていたが、現在は神輿が境内を出ることはなく、神主が祝詞をあげるのみである。
水神橋の近くに | 水神様がある |
石碑には | 『水神之塔』の文字が刻まれる |
ワカイシュ
八坂神社の祭礼を催すには大変手数のかかる手続きがあり、ムラの各年齢層が次々に関係してくるようになっていた。大正2年(1913年)生まれの話者がワカイシュであった頃には次のようになっていた。
16歳から18歳くらいまでのワカイシュが「青年団(学校卒で25歳まで)」の幹事(20歳過ぎ位の者)に寄ってもらい、稲の出来具合などを口実にして神輿を出してもらいたいと願い出る。4人の幹事は改めて集まって相談を行う。次いで「トシカサ」にその件を申し出るが、トシカサは青年会(満17〜40歳)の役員以外の25歳までの者で、青年団を抜けるとトシカサと呼ばれるのである。この後、トシカサ達は青年会役員(8人)に集まってもらい要件を伝え、その結果が総代に知らされてゴチョウが召集されて相談する。このような運びになると、祭礼の決定には7〜8日もかかったという。
祭典の仕事は長男・次男に関係なく若い衆が加入していた青年会が一任されていたので、幟立てや小屋作りなどをしたという。昭和26・27年(1951・52年)には青年会に70数人の会員がいて、仕事を割り振るのが大変だったといわれる。青年会はヨミヤだと称して神社に籠り、櫓の上で太鼓を叩く者もいたという。
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