長持ながもち

熊野神社

  「熊野神社」は宝永元年(1704年)に相州大住郡長持村13戸の発願により、同郡吉沢村高麗に鎮座していた熊野大権現の御分霊を勧請して奉祀したといわれている。昔は南を向いていたが、今のように西向きにしたのは明治元年(1868年)だったといい、明治元年に熊野神社と改称する。祭神は「伊邪那美命(イザナミノミコト)」・「速玉之男命」・「事解之男命」である。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には村の鎮守として「熊野社」が記載され、「神楽殿建り」とある。鐘楼には宝暦6年(1756年)の鋳鐘を掛け、本地堂には三尊弥陀を安ずとある。末社には「天神」・「山王」・「稲荷」があり、別当は安養院(天台宗)で熊野山浄光寺と号した。長持村のこの他の社には村民持ちの「貴船社」・「十二天社」・「神明社」があり、十二天社については「享保七年(1722年)造立せし石の小祠にて、右の方に、文和壬辰(1352年)以前と刻せり。壬辰は元年なり。是は勧請の年なるにや」とある。
  貴船社は不明だが十二天社は神社の東の畑の中に石祠として祀られ、これには「享保七年造立 城田氏平左衛門」と刻まれていた。神明社は長瀬にあったが現在は不明だという。東側の鈴川に近いほうに「古屋敷」という字名があり、昔は村がこの古屋敷にあったと伝えられている。鈴川の水が氾濫するので、約300年前(1700年頃か)に土地の高い方に移ったそうである。このとき、浄信寺と鎮守の熊野神社も移ったようである。かつては神社持ちの地所がたくさんあったが、川の側であったので河川改修の時になくなり、また、戦後の農地解放でもなくなった。

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熊野神社鳥居
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神社由緒
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手水舎狛犬
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拝殿覆殿・幣殿
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社務所・長持自治会館
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お札納所境内

  神社の氏子総代は宮総代(氏子代表とも役員ともいわれる)といわれ、任期はなくムラなどに功績のあった人が選ばれるといい、かつては2、3人であったが、近年には6人となった。長持は上・中・下の3組に分かれていて、各組より2人の割合で選ばれている。

囃子

  昔は太鼓連は入野と一緒であった。入野の太鼓連を招待して太鼓の競争をし、太鼓連が2組出たので盛んであった。かつては浦島太郎の模様が描かれた山車(屋台)が1台あって賑やかであった。



神輿

  祭神がイザナミノミコトで女の神様だから神輿はないという。



長持の歴史

  鎌倉時代に入り長持郷が新田氏の軍功により所領に加えられた。長持は当時「永用ノ郷」といわれ、永用の転訛が長持になったという。
  長持村は幕府領であったが、元禄12年(1699年)に旗本米倉昌尹の加増の給地に替えられた。後に米倉忠仰の代の時に武蔵国久良岐郡金沢(六浦藩)に移されたため、長持村は六浦藩領となった。長持入部は金目川の西にある水田地帯で、民家がなく公所村役人が管理していた。初めは幕府領であったが寛文3年(1663年)に小田原宿救米地(高8石)に割き、残るところの幕府領も元禄10年(1697年)に旗本倉橋久富の知行地となった。従って、小田原藩領と旗本領で明治に至った。
  かつての長持の人家は鈴川付近の字古屋敷の地にあったが、度重なる水害のため1700年前後の頃に土地の高い西方へ移転したと伝えられている。鎮守の熊野神社と浄信寺も移転したといわれ、浄信寺に関しては元禄8年(1695年)に移転したことが『風土記稿』に記されている。『風土記稿』による天保年間の長持村は26戸で、明治24年(1891年)は37戸(270人)、平成25年(2013年)は1574世帯(3942人)で金田地区の中では世帯数と人口ともに最多である。
  長持の内部は金目川寄りの西から東へかけて順に上町・中町・下町に三区分され、宮世話人の選出や道祖神祭の祭祀単位になっていた。戦後になって南端の南原に接する場所に宅地が増え、現在は長瀬という自治会を形成している。また、金目川右岸は一面の水田であったが、昭和30年代後半から住宅が増え始め、霞町と呼ばれている。このように現在の長持は旧来の集落が母体となった長持自治会と、戦後に住宅地が形成された長瀬自治会とで構成されている。
  古道については『風土記稿』に「脇往還二條あり(一は伊勢原道幅九尺、一は曾屋道幅一丈二尺)」とある。伊勢原道は長持の南端で平塚秦野線から分岐し、熊野神社を南北に貫く道で、曾屋道は現在の主要地方道平塚秦野線にあたる。



青年会

  男は15歳になると酒を一升買って青年会に挨拶して仲間になり、40歳までであった。青年会は主に熊野神社の祭りのことを受け持ち、神楽や芝居を主催した。昔、金目川の土手に桜が沢山あった頃には4月に花見が賑わい、このなかで喧嘩や事件が起きないように青年会で見張りもしたという。
  村外からの嫁に対しては婿方の青年がムラ境まで迎えに出る。青年達は集会所で酒を飲んでいて、一行が到着するという知らせを受けて出迎えに出る。青年達は道の端に提灯を持って並び、嫁の一行はそこで車を降りてその間を歩いて婿の家へ向かう。青年達にはオメデタの酒が出されるので、これを受け取って再び集会所などで酒盛りをする。



ヨミヤ

  祭日の前日はヨミヤともいうが、氏子達が神社に出てきて宮掃除をし、氏子代表が幟を立てた。幟立てはかつて氏子全員が集まって行ったという。幟は境内に保管されているが、かつては蔵のある家で保管していた。青年会が余興を受け持つので、昼間に神楽殿の舞台を組み立てた。舞台の装置は社殿の縁下に保管されていた。
  また、かつては青年会の若者が拝殿の下にあったお堂に集まって、酒などを飲んで徹夜をしてお籠りをした。若者の人数が少なかったので、ほとんど全員がいつも参加したという。近年ではお堂の跡地に建ったという集会所に若い人達が集まるが、徹夜はしなくなったという。



例大祭

  祭礼日は『風土記稿』によると旧暦の6月15日であったが、伝承によると明治の頃は4月5日で、大正になると10月5日となり、昭和になって元の4月5日に戻り、平成に入った頃から4月第1日曜日になっている。
  祭りの当日は伊勢原から神主がやってきて、祝詞をあげて式典を行った。昭和35年(1960年)頃までは村芝居を呼んでいた。また、青年会が余興を余興を受持ち茅ヶ崎の円蔵や愛甲石田から神楽師を呼んだといい、演目についてはその都度、警察の許可を得たという。宵宮から3日は遊んで過ごしたという。余興が終わるまでは露店が境内から道路まで出たといい、綿菓子・お面売り・おでん屋などの店があった。各家では新年やイキミタと同じように、祭りの時には嫁に出ている者などを始めとして、親戚の者が多数集まって楽しかったという。
  祭日の翌日はハチハライといって、幟や舞台など祭りの後片付けを全て済ませてから、観音堂に集まって魚や酒などで共同飲食をした。


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