公所ぐぞ

神社の紹介

  「公所神社」は公所の氏神社で、明治6年(1873年)に「熊野神社」から公所神社と改称した。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると公所村の鎮守として「熊野社」があり、神体は束帯木像であった。この他には同じ村内に「稲荷」を末社とする「八剣明神社(神体石)」、「天王神明号社」、「御岳社」・「八幡宮」・「天神社(神体木像)」・「弁天社」があった。
  熊野神社は上記の八剣(明)神社を合祀したと思われる。

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公所神社社号柱
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鳥居手水舎
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拝殿覆殿
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地神社
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公所さくら会館境内

  公所では氏神の境内に天王サンが祀ってあるが、太平洋戦争前までは青年が中心となって7月9日に祭りをいった。赤い飯(小豆飯)を炊いて握り飯を作り、お詣りにきた人々に配った。皆は賽銭をあげて御礼(その版木は神主の家にある)を貰い、下痢をしないようにといってその札を食べたそうである。その後、これが不潔だということで止んでしまい、祭りそのものも昭和60年(1985年)頃には行われなくなった。



例大祭

  かつて公所・根坂間河内という3つの村は一つで「坂間村」と称し、その時の鎮守は八剣神社であった。そのような関係から公所では『風土記稿』にあるように旧暦の正月7日に熊野社、3月7日に上記の八剣明神社と隔年に祭祀を執行していたことがある。現在でも「八剣社」という石額を残しており、これは公所と八剣神社との歴史的証明として重要な額である。
  大正15年(1926年)4月7日に改築したのを機に例祭日が4月7日となり、昭和50年(1975年)頃から子供の都合をいって日曜日になった。その後は4月の第1土曜日になり、現在は4月7日近くの日曜日になっている。
  公所神社の祭礼には幟を立て、余興には神楽や芝居などをしたという。30軒ほどの露店が出て賑やかであった。公所では俳句が盛んで、参道には枠に紙を貼り、その中でろうそくの火を点した灯籠が20本ばかり立ったという。公所においても祭りは青年会が一切を仕切っていた。青年達が農閑期に義太夫を習い、祭礼の余興としてどこかの家を借りて義太夫を語ったので、公所の人々はこの義太夫を聴きに行ったという。

太鼓

  



神輿

  



青年会

  青年会は各村で農業に携わる者を中心に組織され、各種の助け合いや祭りの世話、あるいは修養のための活動をした。16歳で義務的に加入し、40〜45歳まで入っていた。行事に用いる幕などには「若衆連」・「若連」と染めていあるので、かつてはそのように呼ばれていたことが分かる。明治42年(1909年)に「旭村青年会」が結成され、翌明治43年(1910年)には各字に青年会館を設置した。「女子青年」もあって、小学校で裁縫を教えられたりしたが、希望者が加入することになっていて、それほどしっかりした組織ではなかった。
  宮世話人が6名いるが、実際に祭りの仕事を担ってきたのは青年会であった。お宮さん(公所神社)で祭りの前日に幟を立て、前の晩からおこもり(ヨミヤ)をして太鼓を叩き、近年では祭日に子供に樽神輿を担がせて村の中を回らせるなどした。また、かつては「天王さん」の祭りが7月9日のに盛大に行われ、青年会がヨシズをはった所で村の中の子供に赤飯を配ってくれた。戦後も2〜3年の間は青年会で粉で作ったパンを配ったこともあった。
  旭地区として結成された青年団もこれと並存しており、小学校を出てから任意で加入し、25歳位までが団員になっていた。大正9年(1920年)に青年団と改称し、大正14年(1925年)に女子青年団が開設されたようである。


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