根坂間
神社の紹介
「八剣神社」の創立年代は不詳だが、平安末期より旧根坂間郷(現根坂間・公所・河内)の総鎮守として現根坂間と公所の中間鳥居戸に鎮座し、「八劔明神」と称した。元歴?元年6月に当社氏子相撲新三郎家具、鎌倉将軍頼朝若宮の相撲奉仕の功により給田諸役免除・・・(吾妻鏡)とあり、往昔より相撲を当社の祭事としていた。天正19年(1591年)に御朱印三石を賜る。
慶安2年(1649年)に根坂間郷は根坂間・公所・河内に分村したので、神霊も公所の熊野社に分祀し御朱印は二石とされた(相模風土記)。分祀前の根坂間の氏神は「山王(神?)社」だったといい、分祀する際に公所が社殿を持って行き、根坂間は石段を取ったという。昭和11年(1936年)頃に山王さんを八剣神社に持ってきたことがあるが、永田家で災難があり平塚の柳町のおがみやさんに見てもらったところ、山王さんの遷宮が原因だといわれて村の総集会に掛けて元の所に戻した所があるという。
寛文5年(1665年)6月に八坂社のある現地に移し「胡宮明神(えびすのみやみょうじん)」と称した。寛文8年(1668年)11月には社殿を新築し、その棟札にも胡宮明神と記されている。後宝永4年(1707年)の富士大噴火の年に八劔明神の古名に復し、例祭日は1月7日と9月7日にした。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると根坂間村の鎮守として「八劔明神」の名があり、寛永8年(1631年)11月の棟札にも記されているように古くは「胡宮明神」を唱えていたと記載されている。また、寛永4年(1627年)に八劔明神の社号に改めたとある。この他に同村には「山王社」・「子神社」・「牛頭天王社」・「飯綱社」・「神明社」が記載されている。
明治5年(1872年)7月7日に八劔神社と改称した。昭和19年(1944年)に鐘楼及文政元年(1817年)再鋳の鐘を失った。境内社は八坂社(牛頭天王社)と子神社(ねのかみしゃ)である。
八剣神社 | 鳥居 |
水鉢 | 石碑 |
拝殿 | 覆殿・幣殿 |
境内 |
太鼓
神輿
例大祭
『風土記稿』によると例祭日は旧暦の正月7日と9月7日であったが、その後は秋の9月27日になり、近年は9月の日曜日に変えた。
青年会・青年団
「青年会」は尋常小学校を卒業し、最初は38歳までだったが、後に40歳までとなった。祭りのときなどは神輿担ぎは青年会が受け持つ仕事で、お囃子や山車を作るときは青年会が活躍した。大太鼓の修理費は部落が持って、コバチ(おそらく締太鼓のこと)の修理費は青年会が持った。お祭りの収益は青年会のものであった。
これに対して「青年団」は全国組織の中の中郡青年団で、運動会や弁論大会をした。
各地区で祀るお宮
昔の根坂間は北部と南部に別れていたが、昭和10年(1935年)代に米の供出が激しくなってからは5つの地区に分かれた。各地区で祀るお宮さんがあり、これを「小宮(こみや)」という。第1区は「金毘羅」で祭礼は正月10日、第2区は「子の神さん」で祭礼は2月の子の日であった。子の神さんには昔は大木があって、神社の財産もあった。第3区は「山王さん」で祭礼は4月の申の日、第4区は「おしゃぐちさん」で祭礼は2月17日であった。このように各地区で神様を祀るようになったのは、戦争の終わり頃からだという。昔は祭りの度に各戸から賽銭を集め、子供達におにぎりやお菓子を買って配った。
戻る(平塚市の祭礼)