下落合しもおちあい

八幡神社

  「八幡神社」は下落合の鎮守であり、祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)である。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると下落合村の鎮守は「八幡宮」と称し、平塚新宿等覚院の末寺「玉落善勝寺(古義真言宗)」持ちであった。社はこのほかに「若宮八幡宮」・「天王社」・「神明社」・「社宮神社」があり、寺には堀山下村(秦野市)蔵林寺の末寺「玉瀧山天王院(曹洞宗)」や「阿弥陀堂」などがあった。天明3年(1783年)在銘の鐘があった。
  明治6年に村社に列せられた。八幡神社は大正15年(1926年)に屋根の葺き替改築、および拝殿と向拝を作った。落成式には櫓を組み753本の化粧柱と、破魔弓と御幣をつけた5色の化粧柱を立てた。棟梁は伊勢原の渡辺工務店が勤めた。

八幡神社社号柱
鳥居鐘楼
拝殿幣殿・本殿
 
下落合公民館
境内


例大祭

  祭日は『風土記稿』によると旧暦の8月15日で、明治20年(1887年)の『下糟屋村外六ケ村地誌』によると9月5日になっている。

青年会

  成瀬地区においては明治44年(1911年)5月に成瀬村統一青年会が成立する以前から各集落に若者の組織があり、ムラの生活の中でさまざまな役割を担ってきた。この青年会に統一される以前の若者の組織は集落個々に名称を持ち、下落合では「若衆連」であった。  

囃子

  昔から囃子の太鼓はない。



神輿

  



下落合の歴史

  下落合村は玉川右岸の自然堤防状に作られた村で、『中郡勢誌』によれば地名の由来を、かつて村内で玉川と粕屋川が合流していたことによるとしている。かつては玉川対岸の上落合村(厚木市)と一村で、天正18年(1590年)5月の豊臣秀吉禁制では「相模国大中郡落合郷」とあり、この頃にはまだ分村はしていなかった。寛永2年(1625年)2月の加藤伊織宛行状には「落合村」とあり、同年12月の尾崎助大夫宛行状には「下落合村」とみえ、この頃に分村したと考えられる。
  天正18年(1590年)に一部は竹本光正領になり、残余は直轄地になった。元和2年(1616年)に直轄地を分割して小幡景憲領となり、寛永2年(1625年)にはさらに直轄地を分割して加藤則勝領となった。寛永10年(1633年)には地方直しにより残る全ての直轄地が分割され、土岐頼久・尾崎信重・木村元継の3名の領地となり六給の村となった。このうち、小幡氏は延享3年(1746年)より領内の荒廃により代官支配所となるが、復興後の明和5年(1768年)に再度小幡氏に返還されている。
  かつての下落合村には長後通りと呼ばれた大山道が、上落合村より幅二間で通って下糟屋村方面へと向っていた。河川は村の東の境界を玉川(現在は暗渠)が幅六間で流れ、ここに高さ一丈三尺の堤が五八〇間の長さで築かれていた。村の西寄りを餅田川が幅六尺で流れ、村内の字(小名)である「餅田(ひつた)」を流れることから、「ひつた川」とも呼ばれた。


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