神戸ごうど

木下神社

  「木下(こかげ)神社」は神戸の鎮守で、祭神は「天明玉命(あめのあかるたまのみこと)」と「稚日女命(わかひるめのみこと)」である。天明玉命は素盞鳴尊が天に昇るとき、お迎えして「瑞(みず)のやさかに」の曲玉を差上げた神。推日女尊は神之御服(かんみそ)を織っているとき素盞鳴尊が投げ入れた馬の皮に驚き機(はた)より落ち、持っていた梭(ひ)が体にささり亡くなった神である。いずれも荒ぶる神と直接関係のある神である。
  神戸村にはかつて木下明神社のほかに村民持の「石神社」があり、『風土記稿』には寺院の存在を見ないが、「上萬寺(じょうまんじ)」と「養福寺(ようふくじ)」の字名が残っていると記されていることから、寺蹟が2ヵ所あったと思われる。また、高さ四尺の「権現塚」、高さ七尺の「化粧塚」、高さ四尺の「虫送塚」と称する3つの塚があり、『風土記稿』では化粧塚が三之宮明神の祭礼に際し、神輿をこの塚に据えて修飾する慣行にあることや、虫送塚が蝗(いなご)の害が発生した際に、「虫送り」と称してこの塚で修祓を行っていた習俗を記している。
  慶長3年(1598年)には元吉川将監の庭内社であったが、往古比々多神社が総社として御霊会を行い、御霊神社の神霊をここに置き、国府祭の時にここより神輿の厥手にかけて御神幸した。明治9年(1876年)に将監の家が没落し、次第に神戸の字の守護繁栄の為に受け取られて氏神となった。

木下神社鳥居
神社由緒狛犬・燈籠
拝殿本殿・幣殿
 
境内

太鼓

  



例大祭

  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると例祭日は旧暦の9月8日であったが、大正2年(1913年)の『比々多村史』では1月14日とある。かつては比々多神社の宮司による式典のほか、神社で神楽を行っており(後に公民館に場所を移す)、演目は三番叟程度である。またこの日は道祖神祭が行われる。



神戸の歴史

  神戸は大山を源流とする鈴川沿いの平野部に位置し、かつては糟屋庄、白根郷に属した。『風土記稿』では村名の発生を三之宮明神社(現在の三之宮比々多神社)の神戸(かんべ)であったことによるという、三之宮明神神主の伝を紹介している。村民の間ではこの説を伝えずとしたようだが、三之宮明神が大社であるので、宜成(うべな)るかなと神主の伝を『風土記稿』は支持している。神戸には高さ四尺の権現塚、高さ七尺の化粧塚、高さ四尺の虫送塚と称する三つの塚があり、『風土記稿』には化粧塚が三之宮村の三之宮明神の祭礼に際し、御輿が塚上において修飾する習慣にあることや、蝗(いなご)発生の時の「虫送り」と称して虫送塚で修祓をおこなっていた習俗を記している。
  当地ははじめ直轄領であったが、寛永年中(1624〜43年)に旗本河内氏・榊原氏・下曾根氏と幕領の四給となった。延宝8年(1680年)に下曾根氏は分知されたが、天和年間(1681〜83年)に幕領に復している。この後、この幕領は元禄12年(1699年)正月に武蔵国六浦藩主米倉昌尹領になるが、同12月に幕領に戻された。その後、ここは宝永4年(1707年)に鈴川の堀替に際して生じた、串橋村の地頭蒔田氏・荒川氏・松平氏・中根氏と白根村地頭小笠原氏等の減知分に宛がわれた。『旧高旧領取調帳』では河内氏・榊原氏・下曾根氏・荒川氏・松平氏・中根氏・小笠原氏・小幡氏と事実上八給となっている。検地は寛永3年(1626年)に依田肥前守信政等が施行した。
  小名には上・中・下に分かれており、高札場は1ヶ所、寄場組合は伊勢原村外24ヶ所のうちに組み込まれていた。村内を矢倉沢往還が貫通しているほか大磯道・大山道・伊勢原道などが通り、人馬継立場ではなかったものの官用に際しては善波・伊勢原・富岡などの村々へ継送ることがあった。串川橋へ注ぐ幅八間の鈴川と幅三間の川久保川が村内を貫流し、灌漑の用水は鈴川のほかに中曾根堀・沖田堀・初川堀などから引いていた。
  かつては比々多地区の中心が各集落のほぼ中央に位置している神戸にあったといえ、旧矢倉沢往還と大山街道などいくつかの主要道が交わるところであった。小旅館やいくつかの商店も早くから存在し、マチ的雰囲気が漂っていたようである。したがって役場は最初から神戸に置かれ(ただし神戸内での移転はあった)、小学校・駐在所もここにあった。後に農業協同組合もここに設けられ、行政・教育の中心であった。
  小学校は明治6年(1873年)創立で、最初は坪ノ内の福昌院に「坪之内学校(白根は除く)」として発足したが、間もなく神戸に移転して「神戸学校」と称した。明治22年(1889年)の町村制施行後には「比々多神社」と改称し、後に高等科を併置し、比々多農業補修学校も設けられていた。昭和22年(1947年)には「比々多中学校」が開校し、昭和37年(1962年)に大山・高部屋の両中学校と合併して「山王中学校」となった。


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