新宿・八幡・馬入
神社の紹介
「平塚八幡宮」は「新宿」・「八幡」・「馬入」の3字の鎮守社で、祭神として「応神天皇」・「神功皇后」・「武内宿?」を祀る。鎮座地となっている「浅間町(せんげんちょう)」は平塚砂丘最高(海抜約15m)の「浅間山(せんげんやま)」の名を取ったものであり、浅間山は宮松町(みやまつちょう)から八幡宮社殿の建つ所である鶴峰(つるみね)、宗善(そうぜん)小学校にかけての砂丘である。
当社由緒によると本宮はその昔「鶴峰山八幡宮」と称され、仁徳天皇の68年(380年)にこの地方に大地震があり、人民の苦難のさまを聞召した天皇が詔して国土安穏祈願のため「應神天皇」を祀ったのが創祀であるという。その場所は「泉藏院(せんぞういん)」の北に辺りだったらしいが、後に相模川大洪水によって社殿を流出したので、南の方の高い砂丘「鶴峯」に移し建てられたのが現在の平塚八幡宮であるという。天平勝宝(749〜756年)の古記によると顕宗天皇(485〜487年)が少年魚贄の膳部を定め、その料として年々稲黍・麦・大豆を多量に献げた。また、仁賢天皇(488〜498年)は四千余町の土地を寄せたとある。推古天皇(593〜628年)の代にはこの地方にまた大地震があり、人民の苦しみを見かねた天皇は「鎮地大神」のご宸筆を捧げ、国土安穏を祈願して新たに宮殿を造営した。また、天武天皇(672〜686年)はこの地の3分の2を寄進し、文武天皇(697〜707年)は「天晴彦」の宝剣を奉納したという。さらに、寛永14年(1637年)筆録の『八幡宮記』等によると、神亀年間(724〜729年)に諸国一ノ宮へ法華経を納める際に、聖武天皇(724〜749年)は相州一国一社の霊場として当社にも法華経を奉納されたという。
岐阜県高山市山口に鎮座する「桜ケ岡八幡神社(旧郷社)」は、寛治元年(1087年)に当宮の分霊が勧請されたもので、高山祭で有名な桜山八幡神社の本社である。『東鑑』等によると鎌倉幕府が成立した建久3年(1192年)8月には、源頼朝が夫人政子の安産祈願のため黒部宮と範隆寺と共に当社に神馬を奉納し誦経を修したとあり、こららの寺社を中心とした門前集落が形成されたことが察せられる。また、天正19年(1591年)に徳川家康が社領五十石を寄進し、慶長年間(1596〜1615年)には自ら参拝し伊奈備前守に命じて社殿の再建を行った。正保3年(1646年)に幕府は社殿営繕料として山林2ヵ所を寄進している。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』等によると「八幡社」が当宿および八幡・馬入三村の鎮守と記され、祭神を「応神天皇(神体神秘)」としている。古くは神域亀ノ子山に「香椎明神(神功皇后)」、丸山に「高良明神(武内宿祢)」があったが、これらは江戸時代初期に合祀されている。
明和2年(1765年)には平塚宿の僧本誉還真が18年間浄財を集め、青銅の鳥居を奉献したことは青銅に刻まれて今も社頭に聳えている。かつては東海道から八幡大門に入った所に青銅製の大鳥居があったが、現在は当社前に移転している。明治6年(1873年)に官の達示により社名を「八幡神社」と改称し、明治27年(1894年)には明治天皇の王女常宮・周宮両内親王殿下が参拝し、社頭に松樹を手植えになり神池へ緋鯉を放生した。なお、別当であった「等覚院(眞言宗)」は明治初年に院家玉看が還俗し、八幡神社神主雲出高明を称したため廃寺となった。大正12年(1923年)の関東大震災までの社屋は仏閣風で正面破風に木彫の雷神が飾られ、本殿左右にも彫刻物が多く全て朱色に彩られていた。また、仁王のいない仁王門も朱が塗ってあった。昭和53年(1978年)8月15日には「平塚八幡宮」の社号に改められ、現在に至っている。
平塚八幡宮 | 鳥居 |
社号柱 | 神社由緒 |
狛犬 | 狛犬 |
立て燈籠 | 参道 |
神池 | 社務所 |
参集殿 | 手水舎 |
車お祓え所 | 鳥居 |
狛犬 | 狛犬 |
絵馬 | |
立て燈籠 | 釣り燈籠 |
拝殿 | 幣殿・本殿 |
神明社・若宮社・諏訪社 | 古札納所 |
境内 | |
忠魂碑 | 戦役記念碑 |
狛犬・鳥居(裏) | 鳥居(西) |
この境内に祀られている諏訪神社は、古来から八幡神社が国府祭に出かけている留守の間の鎮護の神であるといわれている。また、虫歯のある者が諏訪神社へ参詣すると治癒するという信仰があり、近年まで虫歯が治癒したものがお札として萩の箸を年齢の数だけ奉納する風習があったという。
禊行
14日の宵宮祭と16日の例大祭に向けて、14日の早朝6時より扇松海岸において「禊行」が行われる。宮司を道彦(みちひこ)に神職と職員そして神輿会の会員が白い褌姿で浜に降り、「鳥船(とりふね)行事」を交えて海に入り身体を清める。禊を終えると社務所に戻り「粥」を頂く。
湘南海岸公園 | 袖ヶ浜児童広場 |
5時40分頃に集合し | 徒歩で移動 |
扇の松入口で信号待機 | 国道134号を横断し |
そのまま直進して | 防風林の間を抜けると |
目の前には | 相模湾が広がる |
脱衣所で褌に着がえ | 砂浜へ向うと |
輪になって | 鳥船行事の練習 |
詳しい解説は後ほど | 練習を終え |
6時になると | 参加者はさらに砂浜を降り |
海に向って整列 | 先ず最初に二拝 |
二拍手で | 祝詞(祓詞)を奏上 |
祝詞が終わると | 二拝二拍手一拝で |
ここから鳥船行事が始まる | 其の儀第一段は左足を前へ |
和歌を歌いながら | 舟を漕ぐ動作をする |
宮司が道彦(代表先導者)です | 続いて第二段は右足を前へ |
和歌を歌いながら | 舟を漕ぐ動作 |
各段の合間には手を揉む動作 | 第三段は再び左足を前に |
次に両手を腰に当て雄健行事 | 次に左手を腰に当て雄詰行事 |
右手を眉間から振り下ろし | 右足を前に出す(3度反復) |
次の気吹行事は両手を上げて | 状態を前に倒す |
大きく息を吸って | 静かに息を吐く |
深呼吸を | 3回繰り返すと |
参加者はいよいよ | 海の中へ |
鳥船行事は冷水に浸かる前の | 準備運動も兼ねているようです |
波にバランスを崩しながらも | 両手を合わせて身を清める |
禊を終えると | 海水から上がり |
再び鳥船行事が始まる | 「イーエッ エーイッ」 |
「エーイッホ エーイッホ」 | 「エーイッサ エーイッサ」 |
続いて雄健行事 | 「生魂 足魂 玉留魂」 |
続いて雄詰行事 「国常立命」 | 「イーエッ エーイッ」 |
続いて気吹行事 | 3回深呼吸を繰り返す |
最後に二拝 | 二拍手 |
一拝で | 道彦と相対して両手を広げ |
一拍手で「おめでとう」の挨拶 | 6時25分に禊行を終える |
坂を上り | 脱衣所へ向かい |
服へ着がえる | 砂浜を離れ |
参加者は | 平塚八幡宮へ向う |
お宮へ戻ると社務所に入り | 朝食にお粥を頂きます |
ごま塩もあります | 7時頃に解散となる |
鳥船 第一段 |
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●鳥船行事の和歌
朝タに 神の御前に みそぎして すめらが御代に 仕へまつらむ
イーエッ。エーイッ。 (第一段)
遠つ神 固め修めし 大八洲 天地共に とはに栄えむ。
エーイッ。ホ。 (第二段)
天津神 国津神たち みそなはせ おもひたけびて 我が為す業を
エーイ。サ。 (第三段)
太鼓
神輿
神輿の渡御を年番といい、新宿・八幡・馬入のそれぞれの氏子が輪番で奉仕する。年番にあたるとその地区の町内を神輿が練り歩くので、年番にあたっている年は祭礼が賑やかであると言う。その他の年は「つきあい祭り」をしていた。この年番には「本年番」と「ミタマ年番」があり、本年番は祭礼の際に大きな神輿を担ぎ、自分達の氏子範囲である町内を練り歩いたり浜降り神事などをした。浜降り祭は神輿を担いで平塚の海岸まで出て行うが、近年では神輿を自動車に載せて海岸まで出掛けていく。また、ミタマ年番というのは白丁を着て白木の神輿を8〜9人で担ぐ。特にミタマ年番は国府祭に参加するので、かつては徴兵検査を受ける者にその資格があったと言う。
八幡宮には本宮神輿と若宮神輿の大人神輿が2基あり、1基の製作年代は不明だが、もう1基は文久3年(1863年)の建造と伝えられている。八幡神社の祭りの神輿は3年に一度しか担げないので、大正何年かに若宮八幡の神輿を作った。この若宮さんを新宿の神輿として8月16日に担いでいたが、農家が減って商売に変わってくると肩がだめになって担ぎきれなくなった。保存会を作ったが、ヤクザが出たりして壊すので出さなくなったという。当時の肥料は人糞と小便のみで、小便桶を天秤で担ぐので肩はしっかりしていた。
神輿は皆が寄ってたかって担ぎ乱暴に扱われることが多く、放り出されて壊れるのも困るので「ジュウニンガシラ(十人頭?)」をこしらえた。「晴雲寺」に年寄り達が集まって相談し、青年の中から西町で何人、東町で何人、大門で何人などと出すようにした。この役は神輿の時だけであり、神輿の回り順を決めたりついて歩いたりし、途中から担ぐはめになることもあった。国府祭の際にはジュウニンガシラは柳町まで送り、また、出迎えた。
神輿殿 |
例大祭
例祭日は『風土記稿』にも記されているように旧暦の8月15日で、かつては宿内の海辺まで神輿を渡していた。祭礼の前には氏子総代と宮世話人が神社の境内を掃除したり、八幡様の前の通りと国道沿いに注連縄を張る。神社の境内にはガマの油売りをはじめ、いろいろな露店商が出た。
昔は市というほどではないが八幡大門通りには売り切れぬほどのホオズキ売りが軒を並べ、「ホオズキ市」と通称していた。また、この日は戦後「ボンボリ祭り」として盛んになり、祭礼の前日の夜から境内に思い思いの絵や俳句などの描かれたボンボリが飾られる。祭典当日は露店商なども出て見物人は多く出たが、周辺からの見物客が出たという点では前夜のボンボリ祭りの印象が強かったようである。
翌16日には境内に祀られている若宮社の若宮祭である。
平塚八幡宮の氏子
平塚八幡宮は新宿・八幡・馬入の3字の鎮守社である。この地は八幡宮と八幡庄にちなんで、古くから八幡庄または八幡村といっていた。八幡村に属した地域は現在の平塚新宿・八幡・馬入の三域で、八幡宮(八幡神社)では平塚新宿を「宮本(みやもと)」、八幡を「本八幡(ほんやわた)」といった。この宮本・本八幡・馬入の三域が昔から順次祭典奉仕を行い、これを「年番(ねんばん)」といって現在もその仕来りが継承されている。また、八幡庄の範囲については長い歳月の間に移動があったようだが、宮本・本八幡・馬入・須加から、相模川沿岸の各村に及んだことがあった。
セイネン
「青年団」は第一小学校の区域が平塚第一青年団で、東町・仲町・西町・二十四軒町・海岸の5つの支部があった。海岸支部の区域には駅の南に少しと、扇松に少しあるだけであった。須賀に第二、馬入に第三があった。青年団の仕事には神社の清掃や海岸の清掃などがあり、こうした活動は奉仕活動である。青年団の前には「アランド会」というものがあり、ロシアの処刑地「アランド島」に因んで命名され、一度入ったら離れないとの意味を持たせた。所得がいくらとか長男だとかの制限を設けてあり、この人達が昭和2・3年(1927・28年)頃に青年団を作った。青年団には17歳位から希望して入り、退会もその人の意志によった。結婚しても入ったままの者もいたが、40歳を超える者はいなかった。団長になった者は団長を辞めると退団という決まりがあったという。青年団は昭和12・13年(1937・38年)頃に自然消滅したといわれる。
青年団とは別に「報国団(在郷軍人会)」が東町と仲町にあり(西町にあったかは分からない)、青年達はどちらかに希望で入った。報国団には兵隊から帰ってきた在郷軍人が主に入り、青年団と同様に夜警や祭りの受け持ち、出征兵士の送り出し出しなどをした。この他には昭和14・15年(1939・40年)頃にできた「警防団」があり、13区としてあった。
関連行事
●平成25年(2013年)8月15日・・・平塚八幡宮例大祭
(二十四軒町若宮囃子保存会編)
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