新宿
太鼓
「二十四軒町(にじゅうしけんちょう)若宮囃子太鼓保存会」は平塚八幡宮の氏子である新宿地区の囃子団体として、二十四軒町の有志一同により平成20年(2008年)4月に発足された太鼓保存会である。若宮囃子は平塚八幡宮の末社である「若宮社」から取ったものである。
活動は5月5日の国府祭を始め、8月15日の平塚八幡宮例大祭や8月16日の若宮社例大祭などに参加している。
神輿
平塚新宿
大字「平塚新宿」は相模国大住郡の「八幡村」に属していたが、中世末期頃から集落が発生して「八幡新宿」または「八幡新宿村」と称した。この八幡新宿に対して本八幡(現在の八幡のこと)の称が発生したのである。慶長6年(1601年)に八幡新宿の西に接続していた「平塚村」が東海道の宿駅に列すると、八幡新宿もまた東海道筋の村落となった。慶安4年(1651年)には本宿である平塚宿の要望による幕府の指令により、平塚宿の中心地域に八幡新宿の飛地を造成し、八幡新宿西町の住民二十四軒の強制移転が命じられた。これは平塚宿の伝馬課役の半減に役立たせるためで、このとき八幡新宿西町の住民たちは移転を嫌ったが、明主眞壁源右衛門が率先して移住を決意して移住者を勧奨し、この加宿(かじゅく)を成就させたと伝えている。この加宿から数年を隔てた明暦元年(1655年)から、八幡新宿は「平塚新宿」と呼ぶようになったことが記録に残されている。
平塚新宿は西から「二十四軒町」・「西町」・「仲町」・「東町」からなっていたが(このような区分を聞いたことがない者もいる)、戸籍には平塚市平塚新宿何番地とあって行政上の区分ではなかった。平塚新宿町内会はなかったし東町町内会もなかったが、八幡様の時に3つに分かれたという。これとは別に賑やかな辺りの通称として「八幡大門」・「浜大門」・「不動大門」があった。なお、二十四軒町は八幡神社の氏子として一緒であっても、日々の付き合いは特になかったようで、二十四軒町を新宿とはいっていなかったようである。
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