菖蒲
上秦野神社
『風土記稿』によれば往時は「八幡宮」と称し、「菖蒲」・「柳川」・「八沢」・「菅沼」・「宇津茂」・「土佐原」六ヶ村の鎮守であった。「上秦野(かみはだの)神社」の創立年歴は不詳だが、後陽成天皇(第107代)の文禄3年(1594年)9月1日に再建したことが棟札によって知られる。その後は再三改造され、現在の社殿中本殿は仁孝天皇(第120代)の文政4年(1821年)9月7日に大山の大工棟梁明王太郎の作とされている。その後、幣殿および拝殿は大正12年の関東大震災による改修、昭和7年には風害の為に増改築し、翌昭和8年3月31日に竣工した。
明治元年(1868年)2月に社号を「八幡菩薩」と称したのを「八幡神社」と改称し、明治12年(年)7月に村内の「明神社」・「天神社」の二柱を合祀した。その後、明治42年(1909年)4月7日までの間に村内の「御霊神社」・「八坂神社」・「駒形神社」・「住吉神社」・「日枝神社」・「稲荷神社」・「熊野神社」・「子の神社」等の祭神達19柱を合祀し、同年4月7日に社号を上秦野神社と改称した。明治6年7月に郷社列格、昭和8年4月に指定郷社となる。祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)・八幡太郎義家・大日?命(おおひるめのみこと)・菅原道真・彦五瀬命(ひこいつせのみこと)・鎌倉権五郎景正(かまくらごんごろうかげまさ)・素盞嗚尊(すさのおのみこと)・稲田姫命(いなだひめのみこと)・駒形大神(こまがたおおかみ)・大山咋神(おおやまくいのかみ)・家都御子神(けつみこのかみ)・倉稲御魂尊(うかのみたまのみこと)・上筒男命(かみつつおのみこと)・中筒男命(なかつつおのみこと)・底筒男命(そこつつおのみこと)・子能大神(ねのおおかみ)、ほか十柱。
大正12年(1923年)の震災により社殿が大破したため修繕を行ったが、幣殿が狭小のため昭和7年(1932年)10月より幣殿の改築工事を起こし、翌昭和8年(1933年)3月31日をもって竣工した。この際、草葺屋根を亜鉛板葺とし今日に至る。同昭和8年4月には指定郷社となる。
鳥居 | 燈籠 |
神社由緒 | 手水舎 |
社務所 | 神楽殿 |
拝殿 | 幣殿・覆殿 |
狛犬・燈籠 | 境内 |
例大祭
例祭日は明治42年までは10月17日であったのを、合併により毎年4月3日に改められた。
神輿渡御2日、前夜祭に各神社の元鎮座地に向っての御旅御発輦、祭礼当日各地区御巡幸。
菖蒲の歴史
菖蒲は西側の丘陵を背に、東側は四十八瀬川に沿った集落である。古くからあった集落らしく、『吾妻鏡』には建保元年(1213年)に北条相模守義時に賜ったことが記してある。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「古は当村を私かに二区に分ち、惣領庶子と呼びしが、万治検地の頃よりその唱えを失う」とあることから、1660年頃以前は惣領と庶子の地名があったことになる。また、同書には「農間には煙草を作れり、土地に応じて上品なり」と書かれているように煙草の産地であった。『風土記稿』にある小名は「上ノ庭」・「小原」・「本村」・「竹ノ内」・「馬場」であり、天保5年(1834年)の戸数は87であった。
囃子
笛・太鼓による衝天囃子
神輿
八幡宮(現上秦野神社)の神輿は天明5年(1785年)に、大山の地で「手中名王太郎景直」によって造られ、現存する明王太郎神輿の中で最も古い神輿である。景直は大山の石尊や平塚市田村の八坂神社などを造営した宮大工である。神輿の建造年月を明らかにしているのが、箱台輪の裏に書かれた「維?天明五巳年 願主若者□」の銘文である。筆跡は景直のもので、神輿を造ったときに墨書きしたものと思われる。願主若者□(若者衆であろう)とあるように、昔から菖蒲の神輿は若者衆が世話をしてきた。
神輿の普請は天明の大飢饉のさなかに行われた。天明3年(1783年)のの浅間山代噴火に伴う天候不順が冷害を引き起こし、連年の大凶作となったいわゆる「天明の大飢饉」である。菖蒲村も大不作となり年貢が減免されたほどで、相模国の中でも百姓一揆が起こった。直前の天明2年(1782年)には、小田原大地震による被害も受けていた。そのような窮状のなかで菖蒲の人々は神輿を造ったためか、神輿は大事にされ、建築後200年以上もの歳月に渡って毎年担がれ続けてきた。
●天明の神輿
景直が八幡宮神輿の普請のために天明5年に作成した木割の図面が現存しており、これは建地割図(たてじわりず)と呼ばれる建築図面の手法に基づいて描かれた設計図面である。この図面は神輿と同じ大きさの実寸大となっており、菖蒲の神輿と照らし合わせると寸法形状が合致する。図面の脇には「相州菖蒲村鎮守八幡宮神輿 干?時天明五乙年中穐 散位忌部景直図之」という銘が入っており、これは菖蒲村から依頼を受けて、八幡宮の神輿を新しく造るために作成した設計図面である。中穐(ちゅうしゅう)は八月の異名であり、図面は天明5年8月に作成された。また、忌部景直(いそべかげなお)は大山寺大工の明王太郎景直の別名であった。
もう一つ普請の状況を記した資料が伝わっており、これは景直が書き残した「宮社諸寺院造営覚帳」である。この中の一つの記事として八幡宮神輿のことが「相州西郡菖蒲村 八幡宮神輿、向ノ間二尺、四方扉に造る。唐様三手先、五備置きにして、扇子垂木 右受負金高大工手間木口共金拾三両、外に獅子八ツ壱両弐分也 天明五年巳八月より取り懸り、九月十八日終り候。祝儀金壱両弐分弐朱出す。」とあり、次のようなことが分かる。神輿の代金合計が金十四両二分で、これは木地方すなわち素木(しらき)神輿の代金であり、塗師方(ぬしかた)と錺(かざり)金物の代金は別であった。素木神輿は9月18日に完成しているが、最初に素木神輿を造り、後に塗りを施すのはよく見られることである。塗りの費用はその間に用立てた。八幡宮神輿はその後に総漆塗り、一部金箔置きを施しており、塗師方代金が木地方代金に迫るくらいに高価であったと思われる。
●神輿の構造
天明年間に新造されて以来、後に続く歴代の明王太郎はこの神輿を手本にした。それは、図面が秘伝として子孫に伝わったこと、図面には木割りの記述があり、それに従えば神輿が造れることなどが手本とした大きな理由であろう。また神輿そのものが菖蒲村に長く存在し続け、手本として見ることができたのも幸いしたのであろう。構造を概括すると基台である箱台輪の上に四本柱の胴が立ち、宝形の屋根が付いている。典型的な神輿形をしており、全体的に構造も意匠も宮殿(くうでん)に似ている。
菖蒲の神輿がどのような建築様式で造られているかを、軸部から軒までの構造と意匠を順に見てみると、「@上端が粽形(ちまきがた)の四本の円柱を、A頭抜(かしらぬき)でかためている。Bその上に平台輪をのせ、C唐様三手先(からようみてさき)の組物が、D二軒扇垂木(ふたのきおうぎたるき)を支えている。E七棧唐戸(ななさんからど)の扉を用い、F頭抜の先は木鼻となり彫刻が付いている。G基部には繰形(くりかた)のひだのある須弥台輪(しゅみだいわ)が設けてある。」となっている。@からGまでは全て禅宗様(唐様)の特色で、軸部から軒まで各部とも禅宗様の建築様式でまとめられていることがわかる。ちなみに禅宗様は、中国宋代に大陸から伝来した禅宗の寺院建築様式である。胴の部分に内法長押(うちのりなげし)・輿長押(こしなげし)・地覆長押(じふくなげし)の三種類が化粧材として使われ、屋根は宝形造となっている。また、神輿は真御柱(しんのみはしら)・鳥居・井垣(いがき)を備えている。
菖蒲神輿の寸法を見てみると、柱間の寸法が二尺(60.6cm)、箱台輪外法(そとのり)が四尺一寸(124.2cm)あり、これらの寸法は後の明王太郎の子孫が造る神輿の標準寸法となった。その他の主要部分の寸法は柱間を基準として、柱の太さが十分の一、丸桁(がぎょう)の高さが一.三五倍、方立(ほうだて)の内法(ないほう)が六部(60%)、鳥居柱間が六分となっている。これらの寸法割付けは天明5年に作成された八幡宮神輿図面の木割の記述と一致し、この木割を子孫の明王太郎は踏襲すようになる。寸法について注目する点は、頭貫下端(かしらぬきしたば)の高さが柱間と等しい寸法の二尺となっていることで、二本の丸柱と頭貫とが正方形を成すように軸部が組み立てられている。四本の丸柱と貫がつくる胴の空間は、立法体(正六面体)となるように造られている。また、屋根は宝形四注(ほうぎょうしちゅう)造となっており、現代の神輿には見られない緩やかな勾配である。八幡宮神輿図面によれば屋根の勾配は(一尺に対して)六寸五分となっていて、明王太郎神輿の中でも最も緩やかなものである。
●彫刻と塗り
神輿の彫刻を見ると、正面の唐戸両脇の戸脇には雲水に登り龍と降り龍の彫刻があり、左右側面の戸脇には鯉の滝登りが彫ってある。鯉の滝登りは『後漢書党錮伝季膺』によると、黄河の急流にある龍門という滝を多くの鯉が登ろうとするがなかなか登れず、もし登るものがあればそれは龍と化するという故事(登龍門の故事)に由来する。すなわち出世やめでたいことを象徴とする彫刻であり、滝を登った鯉が龍となり、その龍も別の戸脇に彫刻されている。内法長押の上の小壁には菊花双鳥の籠彫(かごぼり)があり、長い優美な尾羽をもつ烏鳳(おながどり)が彫ってある。他の部位には頭貫木鼻に獅子頭彫刻と腰羽目に波が彫られている。神輿の彫刻はいずれも漆塗りの上から箔置きが施されてある。
次に塗りを見てみると八幡宮神輿は総漆塗りであるが、天明5年9月に完成したときの神輿は素木で、その後時を置いて漆塗りが施された。菖蒲村は江戸時代に漆の木を栽培して漆を採集していたことが諸史料から分かり、漆産地であるだけに確かな塗りが施されている。屋根や箱台輪は布着?色塗(ぬのきせろいろぬり)の堅牢な塗りとなっていて、こうした塗りが長い歳月神輿をもたせたのであった。
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