山西やまにし(梅沢・釜野・茶屋・越地)

八坂神社

  「八幡神社」の創建について、新編梅沢誌によると永延2年(988年)に二宮大明神神宮伊勢二見浦より当地に赴任のとき、脇の宮として鎮座されるとある。当社は現在越地の宮の前にあるが、もとは越地の大地主であった脇氏の屋敷神として消防第一分団の北にあったものを、同氏一家が江戸へ出るに際して同家の所有地であった現在地へ遷し、越地の守護神として祀られたと伝えられている。八幡神社の名称はかつて「八幡社」であり、祭神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)」と「菅原神(すがわらのかみ)」を祀っている。
  八幡神社の境内には「八坂神社」もあり、山西の天王さんの神輿がある。この八坂神社はもともと上の天王山にあったが、東海道線工事(明治20年(1887年)開通)に際して天王山が削られるため、八幡神社の境内に合祀された。八坂神社の氏子は山西の4町(梅沢・釜野・茶屋・越地)からなる。八坂神社は『風土記稿』の小名であった4集落で祀る社で、越地だけの氏神に「若宮八幡」がある。

八坂神社?八幡?社殿
 


例大祭

  「八坂神社(天王さん)」の祭礼(ほぼ山西全域にわたる)は7月7日であったが、その後は第2日曜日→第3日曜日になった。山西の祭りは八坂神社の神輿が「梅沢」・「釜野」・「茶屋」・「越地」の順送りで担がれ、4地区を時間ごとに回る。この日は安倍川餅、赤飯、カリントウ、ブリの子、野菜の煮物、スイカ、かき氷などを食べた。



山西の歴史

  『風土記稿』によると山西村はもと川匂村と1区で、梅沢の里とよんだ。梅の山地で、寛永のころに分かれて二村となってから梅沢村といい、さらに山西村(戸数120)となった。越地に立場があり梅沢の立場といい、茶店が軒を並べ諸侯の休息所もあって甚だ賑わっていると記し、小名は元梅沢・釜野・道場・越地があるとする。『郷土誌』によると明治10年(1877年)に戸数は291であった。近年の調査報告によれば山西の小名は越地・梅沢・釜野・茶屋・道場の5ヶ所であったといい、地元住民は越地をさらに通称東・小原・八幡横丁と、釜野も同じく下・ムカエチョウ(向町)・長峰・入と適宜に分けて呼んでいたという。

●梅沢
  梅沢は古くから名の知れた地名で、その範囲は現在の山西・川匂・道場に及んだが、寛永17年(1640年)頃に山西村と川匂村の二村に分かれた。現在の梅沢は当時の山西村の小名であった元梅沢あたりを指し、梅沢の範囲を中心にまだ本梅沢と呼ぶことも多い。

●越地
  古くは現在の越地のみならず茶屋町部落も含まれ、『風土記稿』には山西村の小名として越地はあげられているが、茶屋があげられていないことでも茶屋は越地から分出したことがわかる。越地は他所から越して移ってきた人達により集落ができたために名付けられたと考えられ、移り住む人が多くなって軒を並べるようになったのは、江戸時代になって東海道が整備され、江戸と上方との交通が盛んになってからだと思われる。その最も繁栄した部分が茶屋町となったようである。

●茶屋町
  『風土記稿』の山西村の項に「小名越路に立場あり、梅沢の立場と呼ぶ。茶屋軒を連ね、諸侯の憩息所等もあって頗繁栄なり、又一里塚の項に、立場茶屋の東にあり」とある。かつて茶屋は越地の一部分であり、江戸時代に東海道の交通が盛んになってから旅籠・茶店ができ、小田原―大磯宿間の休憩地として立場茶屋があり、簡易な旅籠もあって賑わった。それに因んで茶屋と呼ばれたのである。
  『中郡勢誌』には近世の事実として梅沢村が間の宿として発達し、旅客を宿泊させているので小田原・大磯等から苦情が出たと見えて、享保10年(1726年)正月に道中奉行から「梅沢茶屋前方も申渡候所に、今以泊り休共に之有り、本宿の障りに(脱字)不届に候。向後は座舗え通候路次口等取押、泊り之無き様に急度申渡すべき事」と達せられた。しかしこの禁令自体「前方も申渡候所に」の語が照明している如く、大きな変化は期待されなかったであろうと記している。
  その後は参勤交代制がなくなり、かつまた江戸幕府の覆滅とともに、鉄道の開通により多大の打撃を受けた。しかし、明治初年まで中継ぎ宿場であったことは、明治天皇が前後6回ご小休になったことでほぼ想像される。茶屋にあったおもな旅籠には松屋(山西四一〇番地)・つた屋(山西四〇七番地)・釜成屋(山西三七六番地)などがあったが、その後は鉄道運輸の発達につれてその必要性はなくなり、昔の繁栄はその跡を絶ってしまったのである。当時の名残りの松屋旅館は子孫相次ぎ、古文書に残る明治天皇御小休の跡に昔の面影がしのばれる。

祭囃子

●越地祭囃子
  「越地祭囃子」は「越地祭囃子保存会」によって伝承され、昭和47年(1972年)に八坂神社の祭囃子として設立された。越地囃子は「大山囃子」の中で秦野市南部、平塚市真土、中井町五分一の流れを汲むものといわれる。囃子は「大太鼓1」・「締太鼓2」で構成され、曲目は「四丁目」・「治昇殿」・「宮昇殿」・「きざみ」・「はやし」がある、八坂神社の祭礼のほか川勾神社祭礼、八幡神社の祭礼やどんど焼などで演奏する。また、二宮町民俗芸能のつどいには昭和51年(1974年)の第2回から現在まで連続出演している。

●釜野太鼓
  「釜野太鼓」は「釜野太鼓連」によって伝承されているが、元々太鼓の伝承はなく、昭和58年(1983年)に釜野地区の二見栄蔵氏が大小組太鼓と屋台、山車庫や鉦等々一式を寄贈されたのを機に太鼓連を発足し、中里地区(天神会)から囃子を習得した。囃子は「大太鼓1」・「締太鼓2」で構成され、曲目は「宮昇殿」・「きざみ」・「治昇殿」・「屋台」・「四丁目」・「神田丸」がある。山西八坂神社祭礼や10月の川勾神社禊祭などで演奏される。

●茶屋本陣囃子
  「茶屋本陣囃子」は「茶屋本陣囃子保存会」によって伝承され、昭和62年に(1987年)に志保美囃子保存会から伝習した。茶屋町は東海道小田原宿までの休憩茶屋であった歴史を踏まえ「本陣」と命名し、生みの親である初代会長の西山宗一氏の尽力を仰いだ。囃子は「鎌倉囃子」といわれ「大太鼓1」・「締太鼓2」・「笛1」・「鉦1」で構成され、曲目は「野帝」・「宮聖殿」・「聖天」・「仕丁目」・「たまいれ」・「人婆」・「きざみ」がある。八坂神社祭礼のほか、国府祭川勾神社祭礼、二宮町民族芸能のつどいで演奏される。



神輿

  山西の八坂神社神輿は明治4年(1871年)に宮大工であった周助(しゅうすけ)に製造されたといわれ、大鳥に銘が残されている。周助は川勾神社の神輿や通り三町の八坂神社神輿も手がけた人物である。周助は数代に渡って近郷の社寺の建築を手掛け、特に神輿の製作に関しては関東一円に名の通った人物であった。周助は越地654の魚林の裏に住んでいたが、その孫は平塚に移ったという。八坂神社神輿は周助が特に地元のために精魂を傾けたもので、本人にとっても快心の作品だから白木のままでおいてくれと言い残したということである。
  周助の遺品には山西と川勾の神輿以外にも、密厳院本堂内陣正面欄干の龍、その左手にある鳳凰の透かし彫りの彫刻があげられる。また、本堂に納められてある大黒天木造の台座裏には「山西村越地、杉崎内匠政信、時文政元(1818年)寅十一月甲子日造立」と刻みつけられている。その流れを汲む山西の神輿大工は県下でもかなり有名な存在で、浜降祭に参加する茅ヶ崎の神輿のうち10基は山西で作られ、明治6年(1873年)から昭和31年(1956年)までの製作年代が認められている。
  かつては年番町の人達が7月6日に神輿舎より年番町の御仮屋へ神輿を出御し、翌7日に年番町より渡御が開始されると、山西の四町を町渡しした。この受け渡しの都度、両町で立ち会いで神輿の破損状態を調べてから受け継がれる。両町が了解すれば受け継いだ町の若集が渡御を開始し、渡す側の町で神輿を壊していたらその町が修理することになっていた。当祭礼では神輿にバケツやホースで水をかけるため、八幡神社の神輿舎に還御された時にはびしょびしょに濡れていた。そして13日に「中天王」、15日に「しまい天王」があり、この日まで神輿舎の扉は開いた状態で、夜には提燈がつけられて風情があったという。また、梅沢には明治27、28年生まれの人達が若衆の時、7月6日に神輿を担ぎ出してしまったことがあったが、これは異例のことであった。この頃は流行病が出たために、疫病退散を願って担いだという伝承が残っている。
  現在の例祭日は7月の第3日曜日に改められ、昔通りに町内渡しは行われるが、それ以外の行事は全てなくなった。近年の町内渡御時間は梅沢3時間・釜野2時間半・茶屋2時間半・越地2時間と決められ、祭りが終わると当番の申し送りがあり、本年の当番長から明年の当番町に大鳥・小鳥・紅白綱が渡される。


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