中里なかざと

神社の紹介

  「明星神社」は中里の鎮守で、祭神は「天香香背男命(あまかがせおのみこと)」という。由来は、家康の時代に洪水があり、打越の若宮にあった神体(白馬にまたがり弓を持った八幡様)が流れて来たのを農夫が見付け、祭る場所を思案していたところ、天の一角に暁の明星がギラギラと輝いていたので、その星の位置に向かって祀ったと伝えられている。その場所が現在地で、その時の「暁の明星」に因んで「明星神社」と名づけられた。祭日は7月23日である。
  徳川家康時代の慶長6年(1601年)には岩間藤七祈願に依り再建、徳川家光時代の寛永20年(1643年)には地頭伏見勘七本殿を造営、徳川家綱時代の延宝3年(1675年)に再州した。
  貝ヶ窪には「天津神社(中里1212)」があり、祭日は9月21日である。また天津神社の裏に「御嶽神社」があった。八坂神社(中里1147)の例祭日は7月23日

明星神社鳥居
神社由緒狛犬
拝殿本殿
神輿蔵
老人憩いの家境内


八坂神社?

  旧6月1日はお天王さんで、宵宮に明星神社の神輿を天王山に納め、一晩中お守りをした。朝に天王山から神輿を担ぎおろした。昭和10年代後半までは7月23日の夕刻に二宮海岸まで神輿を担いで行き、禊をするのが恒例であったが、その後は神輿が担がれることが少なくなった。現在の祭礼は7月23日に近い日曜日に行われ、神輿は再び担がれるようになっている。



例大祭

  毎年7月中頃の日曜日に行われ、トラック屋台で氏子町内を巡行する。
  8時30分に中里祭囃子保存会の連中を乗せたトラック屋台を先頭に、それぞれトラックの荷台に乗せた「大神輿」・「中神輿」・「小神輿」と、総計4台が列をなして囃子を演奏しながら氏子町内をすみずみまで廻る。この巡行は昼食休憩を中に挟んで14時15分頃までかかる。
  休憩後の15時からは大神輿を担いでの渡御となり、今までトラックの荷台にあった大神輿は荷台から下ろされ、輿棒を挿し飾り付けがなされる。渡御に先立って14時50分から大神輿に囃太鼓を取り付けて囃子の演奏が行われ、15時頃に神輿から太鼓を外し、トラック屋台を先頭に大神輿渡御が開始される。囃子を乗せたトラック屋台と神輿の渡御は途中数箇所の御仮屋という休憩所で休憩し、その時に再び神輿に太鼓を取り付けて囃子の演奏が行われる。
  時30分頃にトラック屋台と神輿は氏子町内を廻り終え明星神社に戻り、境内でもんで神輿渡御と囃子の演奏は終了する。



中里の歴史

  『風土記稿』によれば中里村は文禄3年(1594年)の検地から中里郷とよんでおり、戸数は77、小名に仮宿・軒吉・栗谷・四谷・中島・宮久保・貝ヶ久保・扇畑の8クボであった。大山道が村の中央を通っていて、萬年堰があり、これは村内で宇田川(現葛川)を分水して中里および二宮村の用水としている。『郷土誌』によれば明治10年(1877年)に戸数が85戸となったが、戦後間もなくは70戸しかなかったという。現在は団地もあって人口が増加し、二宮以上の繁栄ともいわれている。
  『中郡勢誌』では中里の由来を説明して、「中里村は、庄園時代の新開地で、中は中央の意味で美称である」といっている。日本では中つ国(葦原中国)、中国では中原とか中華などといい、“中”にはよいところという意味が含まれている。また、一色としぼみ(二宮)の中間にあることから中里といわれたとも考えられ、一色としぼみが先に発達して、しかる後に中里が発達したようにもとることができる。さらにこの見方を参考にして発達の順序を考えると、第一にしぼみ、第二は一色、第三が中里となるであろう。



神輿

  明星神社の祭典には子供神輿を全戸の庭で担いで回る。
  中里にある神輿は慶応4年(1868年)4月に新調され、大正9年(1920年)3月にそれまで素木造りであったものを塗りに変えた。塗師として足柄上郡金田村金子出身で、当時吾妻村二宮?に住んでいた飯塚・鈴木の2名の塗師職人の名が残っているという。昭和58年(1983年)7月には修復を行っている。

中里祭囃子

  「中里祭囃子」は「中里祭囃子保存会」によって伝承され、江戸時代の文化文政期(1804年〜1829年)の頃に平塚市金目より伝わったといわれる。通称を「大山囃子」であったといわれ、その後、中里地区として祭囃子の歴史と伝統を受け継ぐようになっていった。昭和45年(1970年)10月に保存会を発足し、昭和50年(1975年)には二宮町の無形文化財に指定されている。
  囃子は中里から二宮の地域に広められており、戦前には上町(上町祭囃子)、昭和55年(1980年)に釜野(釜野太鼓連)、その後は川匂(川匂祭囃子)、元町(元町北祭囃子)、富士見ヶ丘(富士見が丘二丁目祭囃子)に伝えられた。
  囃子は「大太鼓1」・「締太鼓4」・「鉦1」・「笛1」で構成され、演奏の形態は主に2種類ある。一つは神輿または神輿の担ぎ棒に太鼓を掛けて演奏する形態であり、もう一つはトラック屋台に設置した太鼓台に太鼓を乗せて演奏する形態である。

●囃子の曲目
  当保存会で伝承されている曲目は口伝のため、曲目に当てる漢字は当保存会で使われている代表的なものをカッコ内に記載した。
   @ うちこみ(打込み ※通称「ブッコミ」という
   A やたい(屋台)
   B きざみ
   C みやしょうでん(宮昇殿) ※神輿の「お立ち」前の曲
   D じしょうでん(治昇殿)
   E かんだまる(神田丸)
   F しちょうめ(四丁目)
   G にんば(仁羽)
  基本的に囃子の曲はそれぞれが単独に演奏するのではなく、組曲になって演奏される。組曲の構成は次の3種類の組合わせである。
   @ 打込み → 屋台 → きざみ → 屋台
   A 宮昇殿 → きざみ → 屋台
   B 治昇殿 → 神田丸 → 四丁目 → 仁羽 → きざみ → 屋台
  神輿渡御でにおいては殆どの場合@を演奏し、「宮昇殿」は神輿の「お立ち(渡御の出発)」の前に演奏する曲であるという。神輿を担ぎ始めるときはこの「宮昇殿」から演奏し始めるのが普通であるが、まれにAのように「ブッコミ」から入っていく場合もある。これは神輿が急に担いだりする場合に囃子も急いで演奏する必要があるため、笛の吹き手がその場にいなくても太鼓が先行して打ち始めることができ、また、これから囃子が始まるという合図になる効果もあるという。この「ブッコミ」は小太鼓の誰が行ってもよく、4名の中の1人が率先して打ち込む。Bの組曲は神輿がお宮に戻ってきた時に囃すもので、神輿の渡御中の時は囃さない。
  「屋台」・「宮昇殿」・「治昇殿」は笛のリードによって何回でも繰り返して演奏することができるので、その場の状況によって長くしたり短くしたりする。また「四丁目」・「仁羽」は踊りが入る時にも囃す曲で、曲の中に繰り返すフレーズがあるので、これも笛のリードによって長さを調整する。これらに対して「きざみ」・「神田丸」は繰り返すことはできないので、1通りの演奏となる。

●神輿に引っ掛ける囃子
  大神輿の渡御に先立って「小太鼓」2つを輿棒に、「大太鼓」1つを神輿の台座部分に引っ掛け「ブッコミ」から「屋台」を演奏する。この演奏方法はトラック屋台ができる以前に囃子をやる場がなかったので、神輿を下ろしている間に太鼓を神輿の輿棒や台座に引っ掛けて叩いたのが発端である。中里の独自な演奏方法であるが、トラック屋台ができた現在では殆ど行われなくなってきている。
  神輿渡御に当っての挨拶が終わると、あらかじめサラシで連結されるように縛っておいた「小太鼓」2つを、輿棒先端付近の両脇に「ハ」の字なるような形で引っ掛けるように設置し、打ち手が輿棒の両脇でちょうど打ち易い角度に調整する。「大太鼓」も神輿に引っ掛けや易いように、大きめの輪状にしたサラシをあらかじめ「大太鼓」に縛り付けておき、その輪状のサラシを神輿の台座上部の垣根の角部分に引っ掛けて固定する。台に乗せられた神輿の位置はそれほど高くなく「小太鼓」も「大太鼓」も比較的低い位置で設定されるため、太鼓の打ち手が立って叩くときに上から打ちやすい角度になる。引っ掛けられた「大太鼓」は立て向きで、おおよその角度は80度くらいとなる。
  このように設置された太鼓は「ブッコミ」から始まり「屋台」が囃される。演奏時間は約5分程度で、神輿渡御開始にあたってその場の雰囲気を盛り上げる。この囃子演奏が終わると神輿の渡御がはじまる。

●トラック屋台での囃子
  神輿と共に町内を巡行するときはトラックの荷台に組まれた屋台の中で囃子が演奏され、中央に「大太鼓」を1つとその両脇に2つずつの計4つの「小太鼓」を配置する。中里祭囃子では太鼓を立って打つことが基本となり、撥は比較的大きく振り上げて打ち下ろし、4つの「小太鼓」は全員同じ手を打つ。巡行中の太鼓の打ち手は子供達を中心に行われ、交替で太鼓を打つ。
  太鼓は演奏台の上に固定されるが、笛の吹き手は特に特定の位置はなく割りと自由な位置で吹く。例えばトラック屋台の上で吹くときもあれば、トラック屋台の後ろに続く大神輿を乗せたトラックに乗って吹いたりする。笛は1名で吹くことを基本としているが、祭りでは若者が2、3名で連れ吹きをすることが多い。

●囃子の道具の現状
  囃子に使用される楽器類は「おおだいこ(大太鼓)」・「こだいこ(小太鼓)」・「ふえ(笛)」・「かね(鉦)」・「ばち(撥)」と呼ばれている。
  @太鼓・・・所有数は「大太鼓」が2つと「小太鼓」が6つである。「大太鼓」1つと「小太鼓」2つは戦前のもので、「大太鼓」の胴には「南部屋五郎右衛門」の焼印がある。その他の太鼓はトラック屋台を造ったときに新調したもので、平塚の「清水屋太鼓店」で購入した。小太鼓は三丁または四丁掛けのボルト締めで、革の痛み方が激しいので比較的頻繁に張り替える。
  A笛・・・「笛」は主に獅子田の四本調子を「清水屋太鼓店」で購入しているが、「仙岳」と銘が記されている自作の笛も使用している。これは西山専三氏によるものである。
  B鉦・・・「鉦」は大きめのものを2つ所有している。
  C撥・・・「撥」は全て酒井稔氏の手作りで、素材は檜である。「大太鼓」用は約33cm、「小太鼓」用は約30cmで、「大太鼓」用は「小太鼓」用に比べて若干太めに作る。撥の作り方はまず角材を八角形にした後にカンナで丸くし、先端の丸みはグラインダーで削る(多少のコゲが残る)。

中里の囃子の歴史と保存会

●戦前の山車と囃子
  戦前は青年会の活動の一環として全員が参加していた。当時は伊勢原市三ノ宮と同じ加藤清正の人形が乗った山車があって、祭礼の時に曳き出され、そこでは青年会が中心になって囃子を演奏していた。しかし、戦中から戦後しばらくは山車が曳き出されなくなり、山車の一部が腐って人形もボロボロになって、曳き出しができない状態になってしまった。この山車の柱の一部はまだ酒井稔氏宅にあるという。
  戦後しばらくは山車や屋台などがなく、囃子を演奏する場所がない状態であった。そこで囃子を演奏する場所として神輿を担いでいないとき、すなわち神輿渡御の出発前や御仮屋での休憩の時に、太鼓を神輿や輿棒に引っ掛けて囃子を演奏していたのである。

●戦後の囃子と保存会
  昭和22年(1947年)頃に小林實氏をはじめ30名ほどで青年会の先輩にお願いし、中里の囃子を習い始めたが、最後まで残ったのは数人であった。ところが昭和30年(1955年)代になると祭りは下火になって神輿渡御などが行われなくなり、祭囃子もそれと同時に演奏の場を失い殆ど活動停止状態になってしまった。
  昭和40年(1965年)代にはいって祭囃子をこままにして消滅してしまうのは忍びないと、囃子の愛好者約30名を集めて現在の保存会の母体である「祭囃子愛好会」を結成した。昭和45年(1970年)には名称を「中里祭囃子保存会」として正式に発足し、それ以降は明星神社の祭礼に毎年参加するようになった。昭和50年(1975年)には二宮町の無形文化財に指定され、昭和50年(1975年)代には後継者育成のため、児童・生徒への指導を始めた。

●中里祭囃子保存会
  平成17年の会員は大人が24名、高校生が5名、子供が35名(内女子は23名)で、会の運営費は会員の会費にて運営されている。囃子の練習は決まった練習日を設けるのではなく行事に参加する前などに行い、練習場所は明星神社横の「中里老人憩いの家」で行われる。
  太鼓の練習は実際に太鼓を太鼓台にセットして並べて順番に打っていくが、その他の人はタイヤを打って練習する。太鼓は大人達が世話役となって若い人達を指導しており、若者達は小学生・中学生・高校生と幅広く参加している。練習は太鼓のことばを覚える口伝から始まる。保存会の主な活動は1月の川匂神社での初打ち、5月の国府祭、7月の夏祭り、9月の中里地区家族運動会、10月のみそぎ祭りや二宮町民俗芸能のつどいなどがある。



付帯芸能

  中里では「中里祭囃子保存会二人立ち獅子舞」や「ヒョットコ踊り」を行う。獅子舞は言い伝えによると、明治の初期に中里村に悪病が流行し、当村の関係者によって獅子舞を行ったところ、見事に悪病退治ができたという。その後、大正2年(1913年)の御大典の奉祝行列の時に舞って以来、長らく獅子舞は行われなかった。
  昭和40年(1965年)の二宮町制施30周年記念に故戸丸正蔵氏により演じられ、昭和48年(1973年)に獅子舞の継承を育てようと止丸氏の指導を受けて、中里の有志がその技を受け継ぎ獅子舞を復活させ「中里獅子舞保存会」を結成した。獅子舞の伴奏曲は「神田丸」または「四丁目」で入り、どちらで入るかはその時々の場で判断されるが、普段は「四丁目」ではいる。獅子は「四丁目」で舞い、ヒョットコは「四丁目」または「仁羽」で踊る。
  会の結成後は湘南地区民俗芸能大会や二宮町総社川匂神社の節分祭、大磯署武道初め等に出演し、年間行事としては毎年正月の川匂神社の神楽殿や境内での獅子舞奉納や、中里八坂神社の祭典、二宮町民俗芸能のつどいに参加している。


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