元町もとまち(入合)

八幡神社

 元町の鎮守である「八幡神社」は祭神に誉田別尊(人皇十五代応神天皇)、比売大神、神功皇后を祀り、大分県宇佐市南宇佐に鎮座する「宇佐神宮」の末社となっている。全国の神社のうち八幡神社が最も多く、宇佐神宮は約4万余りある八幡神社の総本宮である。元町の八幡神社の創祀年代は明らかではないが、もとは二宮と中里との境に近い柏木1449番地にあった曹洞宗善光寺(現在は廃寺)の守護神ではなかったかといわれている。現在の本殿には元禄3年(1690年)の善光寺四代利山和尚の時に、梅沢の大工であった鈴木善兵衛吉勝ほか2名が造営したという棟札が残っている。
 当社は明治初年の頃までこの善光寺に祀られていたが、火災のため本尊は大応寺へ引き取られた。その後、八幡社は暫く旧地に滞留していたが(火災の時に大応寺へ遷されたという話もある)、明治政府が出した神仏分離令により明治13年(1880年)に時の二宮村戸長であった古沢平七が、新田823番地に社地を定めて社殿を新築し、元町の鎮守として遷座された。この場所は「新田山」という現在の南新道商店街を東西に走る道とJR東海道本線との間の小高い丘で、湘南軌道(二宮から秦野の馬車鉄道で、後に軽便鉄道となる)の駅および車庫の敷地があり、社地としての登記がなかった。更に元町ではなく上町の地域であったため、県道71号秦野二宮線(旧道)が建設されることになると、明治27年(1894年)に妙見山の妙見社の敷地の一隅に仮移転された。
 昭和12年(1937年)に日華事変(日中戦争)が起こると、出兵兵士が出るたびに町内の青年団や婦人会、一般住民が鎮守様に武運長久を祈願して駅まで見送る慣わしになっていた。元町では妙見山に仮移転された八幡神社まで参拝する必要があったため、南側の人々には出征兵士の見送りが不便であり、八幡神社をもう少し便利な所へ祀りたいという話が持ち上がった。また、元町の氏神である八幡神社が社地のない、しかも仮住まいでは不敬の念に耐えないということで、区長の田中倉吉と宮世話人の井上保太郎らを初めとして、安泰した社地の設定を懇願することとなった。
 このような状況で、池田新太郎から天神山の山林の一部を寄付しても良いという申し入れがあったため、八幡神社は現在地である八坂神社の隣に遷座された。寄付された土地は峰岸1138の3番地、面積300u(90.01坪)で、八幡神社の社地登記簿謄本では昭和14年(1939年)6月21日に寄付登記、昭和30年(1955年)10月24日に所有権移転登記となっている。ここはもともと天神山といわれ、天神社(現在は二宮天満宮)が祀られていた場所である。

八幡神社鳥居
燈籠元町八幡神社の由来
社殿社殿
水鉢境内

八坂神社

 八幡神社の境内に祀られている「八坂神社」の祭神は須佐之男命で、明治3年(1870年)6月7日に池田仙二郎が所有していた山林、峯岸山1138の地に鎮座された。当時の二宮村は上町・中町・下町・入合(現在の元町)の四部落構成で、この四部落で1つの八坂神社を祀っていたが、八坂神社の祭礼における神輿の紛争が原因となり、入合単独で八坂神社を造営創祀することとなった。社殿は梅沢住人の宮大工棟梁であった杉崎内匠政貴によって造営され、同年の6月7日には政貴によって建造された入合単独の神輿も奉祀されている。
 現在の八坂神社の社殿は昭和50年(1975年)代に建造され、社殿内には八坂神社神輿が保管されている。

八坂神社元町八坂神社の由来

二宮天満宮

 現在の天神谷戸一帯の地は天正の末頃までは代官池田若狭守の所有地であったが、末孫池田理左エ門が上洛するにあたり、部下であった江藤市兵衛に知足寺にある墓の永久墓守をしてくれと依頼し、池田家歴代の戒名を書き連ねた書を渡し預け、永久墓守料として天神谷戸の土地を贈与して二宮村を去った。江藤市兵衛は学問に優れた池田若狭守歴代を供養するために、学問の神である天神社を天神谷戸に祀り、田代岩で作った小さな祠を安置した。最初の頃は木造屋社の中に安置されたというが、屋社は壊滅し石祠だけとなった。天神谷戸の地はこれによって生まれたが、天神社は天神谷戸の奥地にあったために子供達は怖くてお詣りに行けなかった。
 昭和8年(1933年)1月10日に中年会が新年の集まりを堂(公会堂)で行ったときに、子供達にとって大切な学問の神である二宮天神社を、天神谷戸の奥にあることでお詣りにいけないことから、八坂神社の南隣接地に遷座したらどうかという話があがった。そこで、土地の所有者であった池田新太郎に許可を取り、同年1月20日に中年会の会員が峰岸山へ集って山の斜面を一部削って整地し、八坂神社の社地と境をつけるために一段高い社地を造った。同年1月25日(天神様の日)には天神谷戸の地主であった吉川光(上町)の承諾を得て、二宮天神社を峰岸山の八坂神社隣地に遷座安置し、川勾神社神官であった二見徳次郎が遷座神事を担当した。
 昭和9年(1934年)1月25日に二宮天神社の社殿が竣工し、内海景三によって造られた。社殿を造るにあたり中年会員は一円宛、町内各家々からは参銭から五十銭までの寄附があり、これらは寄附台帳明細書として保管されている。同年2月25日に石燈籠一対と「二宮天神社」と書かれた大幟が寄附奉納され、昭和15年(1940年)12月25日には「二宮天満宮」の塔が皇紀二千五百年記念として信者一同より奉納された。

社号柱二宮天満宮

妙見神社

 『風土記稿』には「妙見社」の名があり、寛文9年(1669年)再建の棟札があり、大應寺持ちとある。妙見社は正月、5月、9月の10日に近所の信者が集まって題目を唱え、当日に大応寺の住職が経をあげる。賽銭は大応寺へ納める。

妙見社鳥居
社号標(神明社)神楽殿
境内

二宮の歴史

 ニ宮の村が文献に現れた最も古い名は、平安時代中期の承平年間(931〜938年)に作られた辞書である『倭名類聚鈔』に記載されている「霜見郷」であると考えられるが、一郷五十戸の耕地面積からして現在の塩海だけが霜見郷であったとは考え難い。この霜見郷の中に霜見村がいつできたか不明だが、いつしかその名が「塩海村」に変わり、これが現在の元町・上町・中町・下町にあたる。
 鎌倉時代の初めにニ宮四郎友平が二宮庄の庄司となり、現在の知足寺付近に役所、つまり庄政所(しょうのまんどころ)を設けた。これにより二宮庄政所の所在地として塩海村の北部地区を二宮村と称し、塩海村と対立した状態で近世におよんだ。正保改定図(正保:1644〜48年)ではニ宮とは別に塩海の名が現在の通り三町(上町・中町・下町)辺りに記載してあることから、当時は二宮村と塩海村は別村であったと思われる。その後の元禄改定図(元禄:1688〜1704年)には「二宮村ノ内塩海村」と傍記され、さらに天保考定図(天保:1831〜45年)では完全に二宮村に吸収されて塩海は小名となった。
 天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「二ノ宮村」とあり、二ノ宮村は二ノ宮庄の原村で、淘綾群内の十九村は全て二ノ宮庄に属していた。また、二ノ宮村という呼称以外にも、二ノ宮本郷または古淘綾里とも呼ばれていた。二ノ宮村の小名には「鹽海(読み方は志保美)」・「原田」・「妙見」の3つが記載され、民戸は180戸であったが、『郷土誌』によると明治10年(1877年)に204戸となっている。なお、『風土記稿』では鹽海(塩海)の名前の由来については、かつて鹽海の海浜で塩を製造していたことによるとある。
 二宮の町内は上町・中町・下町・元町の四町に別れ、それぞれに区長があり、各区長の下に伍長がいた。区長の代表が大区長であり、大区長は四町交替で務めた。

●元町
 元町は塩海村と合併以前のニ宮村の位置にある。奈良時代の官路が足柄峠を超え、足柄上郡関本から南下して曽我連山の六本松峠を目掛けて酒匂川を渡り、余綾郡中村郷小総駅(元下中村小竹)を通って釜野に出て、現在の元町から元国府村に出て箕輪駅に向ったものと推定される。この様に霜見郷の中心地は今の元町辺りにあったと考えられることから、元町と呼ぶようになった。元町という名称は明治35年(1902年)4月15日のニ宮駅設置以降のことと思われ、それ以前は元町とは呼ばずにニ宮といい、鉄道線路以南の地を「しぼみ」といった。
 元町の明治45年(1912年)生まれの話者によると、元町は昔、入合といわれ、当時は寺3軒、民家60軒といわれた。寺は知足寺・大応寺・龍沢寺で、小字は谷戸・妙見・小門・河原・倉田・原田となる。明治中頃までは通り三町をシボミ、元町は入合といっていたが、東海道線が通って二宮駅ができてから路線を境にして分離し、元町といわれるようになったという。元町は元町北が北新道東(38組)と同西(26組)に別れ、妙見(41組)と合わせて3組となる。

●通り三町(上町・中町・下町)
 上町とは当時京都が都であったことから京都を上(かみ)として上町、江戸を下(しも)として下町、その間を中町と呼んだといわれ、この三つの町内を含めて「通り三町」と呼んでいる。今では塩海という人は殆どいないが、ニ宮駅開通前には塩海と呼んでいたことが多かった。平安時代中頃までは東海道が元町を通っていたことから、現在の通り三町には人家が少なかったと思われる。家が増えてきたのは日本の交通機関が平安時代末期から海岸沿いに整備され始め、塩海方面を通るようになってから以後のことと思われる。
 通り三町の家の増加にますます拍車がかけられたのが、江戸時代の参勤交代である。平安時代から戦国時代までは道中といっても旅宿はなく、あっても食事は出さずに自炊であり、旅籠宿ができたのが江戸期からであった。さらに明治35年(1902年)に旧国鉄の東海道本線の駅として二宮駅が設置されて交通の要衝となると、ニ宮町が長寿の里として絶好なる住宅地として認められるようになり、元町と共に現在の都市的様相を呈するに至った。


八坂神社神輿

 二宮村は旧藩政時代より「上町」・「中町」・「下町」・「入合(現元町)」の四部落構成で円満な行政が施行され、祭典は旧暦の毎年6月7日に行われていた。祭典では四町内の若者が八坂神社にあった1基の神輿を順番に時間を決めて担ぐことになっていたが、祭りの日程や巡行経路などを巡って部落間での争いが絶えず、四部落での渡御はとかく紛争に終わり、円満な祭典執行は悩みの種であった。そこで、当時の入合名主「松木七郎右ヱ門」・名主「神保勝右ヱ門」・村役「池田清右ヱ門」の3名が相談の結果、八坂神社1社を造営創祀する以外に円満な祭典執行の方法がないとの結論に至り、明治3年(1870年)に3者が創祀願主となって川勾神社祀官「二見賢景」に懇願に回った。
 これによって明治3年6月7日に元町に新たに八坂神社が祀られることとなり、梅沢住人の宮大工棟梁「杉崎内匠政貴」の造営により八坂神社が奉祀され、「池田仙二郎」の好意により所有していた山林(峯岸山1138)に鎮座された。また、同日に杉崎内匠政貴によって造られた神輿も祀られた。以来、入合部落は単独祭典となったが、祭りは通り三町と同様6月7日に執行し、明治6年(1873年)の改暦後も通り三町と同様の7月7日にしたため、毎年の紛争は絶えることがなかった。
 明治40年(1907年)の祭典では通り三町と元町の神輿が現在の中南信用金庫のある辺りで遭遇し、大喧嘩の末に通り三町の神輿が田んぼの中に落とされた。その後は3年ばかり神輿を出さない年が続いたが、明治43年(1910年)にそれまでの白木(素木)だった神輿に漆塗装を施し、元町と通り三町の区長や宮世話人が話し合って元町の祭りは7月12日に変更された。なお、神輿内部から発見された古文書によると、八坂神社神輿は明治21年(1888年)に再建(修復)されており、元町八坂神社縁起書によると「明治43年白木御輿を塗装再修理し」とあることこから、漆塗装だけでなく修復も行われたことが伺える。
 祭りには仕来りがあり、八坂神社勧請に尽力した十七家を定宿とし、神輿を必ず駐輿させた。また、祭りの1週間前になると十七家の筆頭であった松木家に伺いを立て、同家の蔵に保管していた神輿の錺金具一式をもらいにいったという。八坂神社神輿が出御後に最初に松木家へ着御し、その後に各町での駐輿となっていたことから同家は特別待遇であった。しかし、昭和に入ると本日(例祭日)の1週間前に出輿した御仮屋を廃止して公会堂に変え、松木家を除き他の一六家の定宿を廃止していった。
 神輿渡御は昭和28年(1953年)から昭和43年(1968年)まで、一部交通事情で幹線道路のみトラックでの巡幸を余儀なくされたが、昭和44年(1969年)からは全て担いでの渡御となった。昭和50年(1975年)頃になると富士見が丘の開発が進み(後年に松根が開発)、八坂神社の宵宮に合わせて富士見が丘を神輿が渡御する様になった。昭和60年(1985年)より松木家での駐輿はなくなり、この数年前には錺金具保管も町保管となった。神輿は特定の家ではなく地区で決めた所に止まるようになり、昭和60年(1985年)頃の巡幸距離は18kmにもおよび、18ヶ所で駐輿された。元町での神輿の担ぎ方は近年になってどっこい」に変わっており、輿棒の数も2本だが、かつては「わっしょい」という掛け声で、昭和55〜60年頃の写真では輿棒が6本(縦4本と横2本)であった。
 昭和61年(1986年)には神輿の老朽化の為に、「元町八坂神輿修復建造委員会」が組織され、元町の氏子の寄付により八坂神社神輿の修復および子供神輿の新調が、西山神輿製作所にて行われた。この修復の際に4箇所の野筋が露盤に繋がる最頂部に龍の彫刻が追加され、この他にも修理の際に変更されたところが何ヶ所かある。八坂神社神輿の特徴は組物(桝組)の間に狸(タヌキ)の彫刻があることで、周助神輿の特徴となっている。※この彫刻をミミズク(フクロウ)とする説もある。
 八坂神社の子供神輿は八坂神社の祭礼時に元町北および元町南地区で担がれ、富士見が丘一丁目から三丁目までは各地区に1基ずつ子供神輿を所有しており、松根地区は富士見が丘三丁目と共同で子供神輿を担いでいる。また、祭礼の宮入り渡御には二宮町の神輿会である「翠鳳睦」の神輿も参加する。

八坂神社神輿(正面)八坂神社神輿(側面)
狸(タヌキ)の彫刻修理時に追加された龍の彫刻
八坂神社の子供神輿富士見が丘一丁目の子供神輿
二丁目の子供神輿三丁目(松根)の子供神輿
翠鳳睦の神輿(正面)翠鳳睦の神輿(側面)

 元町の八坂神社神輿の彫刻には安政3年(1856年)の銘があり、元町の八坂神社神輿が建造された明治3年(1870年)より14年も前のことであるが、かつて入合(現元町)も担いでいたであろう通り三町の神輿の建造が元治元年(1864年)6月であることを考慮すると、元町の神輿が通り三町の神輿よりも先に建造されていたとは考え難く、安政3年(1856年)に彫刻師が製作した彫刻を、元町の八坂神社神輿の製作の際に使用した可能性が高いと思われる。
 なお、昭和61年(1986)年の『八坂神社 修復建造趣意書』の元町八坂神社縁起書によると、元町の八坂神社神輿は慶応4年(1868年)4月に白木の状態で建造されたという記載があり、これは元町に八坂神社が勧請された2年前のことである。このことが真実であるとすれば、通り三町と合同で神輿を担ぎ始めて間もない頃に、既に元町の独立への動きは始まっていたと推測される。また、新造された元町の神輿が、慶応4年(1868年)の祭礼で既に担がれていた可能性も否定することは出来ない。いずれにしても、現状の資料では元町の八坂神輿の製造年月を断定することは出来ないので、今後も調査を続けて行きたい。


八坂神輿 修復建造趣意書 (昭和61年3月3日)

 八坂神社神輿は昭和61年(1986年)に修復が行われているが、修復にあたって「元町八坂神輿修復建造委員会」が発足され、修復に対する寄付のお願いとして元町区民に向けて『八坂神輿 修復建造趣意書』を発行している。この趣意書は寄付のお願いとして5ページ、建造委員会の委員一覧として2ページ(改訂版)、八坂神社縁起書として1ページの計8ページからなり、これらを表紙と背表紙で挟む構成になっている。以下に各項目について記載していく。

八坂神輿 修復建造趣意書全て手書きの文章

 ●元町”八坂神輿(やさかみこし)”修復に対する寄付のお願い
 八坂神社神輿は昭和61年以前にも部分損壊の修理、屋根の塗装替え、金具類の手入れ、飾り物の新規購入、補助棒の製作などあらゆる方策が取られてきたが、神輿の要ともいわれる中心部の芯柱である「神木(しんぼく)」の腐食の悪化が決め手となり、大規模な修復が検討された。しかしながら、八坂神社の例大祭の寄付金(御祝儀)から積み立てられた資金に関しては、それまでの10年間に八幡神社本殿と八坂神社神輿収蔵社殿の造営、神社境内の石段と石燈籠、そして石鳥居の造築による度重なる大事業により底を付き、神輿修復の資金に関しては大部分を寄付に頼らざるを得ないという状況であった。
 この神輿の修復に関して長老の中には苦慮する意見も出たが、若手からは「八坂神社の祭礼は、子どものころより自分のふるさとの心の祭りとしてなれいそしんで育って来た。自分達は先輩より神輿のある祭りを受けついでもらえたが自分の子ども達の代へ神輿のない祭りを受け渡すのはなんとしても忍びない。ここで何とか頑張って手をこうじなければ」という意見が続出し、この熱意に動かされたかたちで神輿の修復が決定されたのである。
 以下に、元町の八坂神輿修復に対する寄付のお願いに関する全文(5ページ)を記載する。

「 元町”八坂神輿(やさかみこし)”修復に対する寄付のお願い

 私達の住む元町地区の氏神、八坂神社の御祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)であらせられ、その御神輿(以下、八坂神輿)は古く江戸末期に地元の先祖の篤志家の皆さんの手によって建造されました。
 以後、今日にいたるまで百数十年にわたり、八坂神社の例大祭(夏祭り)をはじめ、二宮町の氏神、川勾神社の秋の大祭(みそぎ祭り)等に、元町地区の祭礼シンボルとして、三〜四代にわたる氏子(元町区民)の皆さんによりかつぎ伝えられ、親しまれて参りました。
 神輿について博識の方々に聞きますと、我が八坂神輿は、使われている材料、念の入ったたくみな細工、姿、形どれを取ってもまことに美事(みごと)な造りで、何よりも、長い歴史の重みを感じさせる雄姿端麗な神輿であるという折り紙をつけられており、ちないに現在、これと同一造りの神輿を新規に建造するには四千万円とも五千万円ともかかると言われております。
 このように貴重な八坂神輿も百数十年という時の流れにはさからえず老朽化がすすみ、近年特に損壊の度合いがいちじるしく、最近では、祭礼時の過酷な使用に耐えられるかどうかの限界にまで達しております。
 この神輿の老朽化に対し、歴代の祭礼関係諸兄の手により部分損壊の修理、屋根の塗装がえ、金具類の手入れ、かざり物の新規購入、補助棒の製作等々、現状保存の為のあらゆる方策が取られて参りましたが老朽化の進みを抑えるのにも限度があり、最近では、神輿の要(かなめ)ともいわれる中心部の「神木(しんぼく)」のくさりが進んで、このままかつぎ続けると事故にもつながりかねない状態となってしまいました。
 この八坂神輿の窮状(きゅうじょう)に対処する為に昨年十月より元町全区の自治会役員、宮世話人、神輿保存会、祇園会歴代役員、並びに関係者の皆さんが集まり、緊急対策会議が持たれ、対処策について討議が重ねられました。
 新規購入か、あるいは、現在ある神輿の根本修復が可能なのかの両面にわたり、あらゆる角度から検討がなされました。その結果、資金調達面での制約、由緒ある八坂神輿を出来ることなら現存の形で次代に残したいと言う意思が尊重され、現在ある神輿の根本修復をしてこの窮状を打開するという結論に達しました。併わせて、この修復計画を遂行するに当たっては、”元町八坂神輿修復建造委員会”を発足させて推し進めて行こうということになりました。
 この”元町八坂神輿修復建造委員会”には、元町全地区の自治会役員、宮世話人は言うにおよばず、特に長年八坂神輿の祭礼時の運行、保存管理に多大な貢献をしてきた元町神輿保存会(元神会)、歴代祇園会の皆さん等を中心とした若い力と意思を結集し、さらに各地区の祭礼関係世話人各位の参加、協力を得るというように元町全地区の幅広い各層の皆さんからの協賛を求める内容をもって発足された次第であります。
 以来、委員会に於て、修理担当宮大工の選定、費用見積り、資金調達等につき準備作業を進めた結果、神輿の総工費九百六十万円で、これだの金額をかけて根本修復をほどこせば、この先五十年間の使用に耐えるということであり、修復期間として、今年(昭和六十一年)の夏の八坂神社例大祭までに修復完了となるよう事を進めて行くことになりました。
 ご存知の通り元町地区では毎年、祇園会に於て夏祭り挙行の際に皆さんから寄せられる祭礼寄付金の中より”宮造営準備資金”(八幡神社社殿完成後は”八坂神輿購入準備金”)として宮にかかわる出資に対応する為の積立がなされております。この十年の間にその積立準備金を基金として、八幡神社本殿並びに八坂神社神輿収蔵社殿の造営をはじめとして、その後の神社境内の石段、石燈籠そして石鳥居の造築という大事業を行って参りました。これら大事業は元町区民の皆さんよりその都度、多大なご協力を頂戴してはじめて成し得たことであります。
 さて、今回も同じような考え方で資金調達をはからなければならない状況でありしかも基金となる積立金については、石鳥居造築後の積立年が浅いため微々たるもので資金の大部分を皆さんからの温かい寄付にたよらざるを得ない状況であります。
 このたびのたびかさなる寄付のお願いを苦慮する意見を長老諸兄より頂戴しました。しかし若手の皆さんより「八坂神社の祭礼は、子どものころより自分のふるさとの心の祭りとしてなれいそしんで育って来た。自分達は先輩より神輿のある祭りを受けついでもらえたが自分の子ども達の代へ神輿のない祭りを受け渡すのはなんとしても忍びない。ここで何とか頑張って手をこうじなければ」という意見が続出、その熱意に動かされて今回のお願いに踏み切った次第です。
 最近、「祭り」が各所で盛大にとりおこなわれるようになり、特に若者達の参加が目につきます。「祭り」は一部の愛好者達だけの馬鹿さわぎではありません。古い時代より人々の素朴で純粋な自然の恵みや驚異に対する神への感謝と願いがこめられた心の表現としてめんめんと伝えられて来た人間讃歌の姿なのであります。
 二宮町でも昨年の十一月、町制施行五十周年記念行事として二宮全町の神輿が一堂に会しての連合渡御(れんごうとぎょ)がとりおこなわれ、江戸の三社祭りに匹敵する目を見はるばかりの時代絵巻がくり広げられました。その中で我が元町八坂神輿がひときわ目立った勇姿をおどらせて立派に渡御のトリを受け持っていた光景を区民の皆さんは熱い心をはずませながらご覧になられたことと思います。「この思いを我が子にも・・・・・。」この願いをこめての今回の無理なお願いでございます。どうか元町区民の皆さん!!この心根を充分お汲み取り頂いて温かいご理解と多大なご協力をお寄せ下さいますよう心よりお願い申し上げます。

 昭和六十一年 三月三日
 元町八坂神輿修復建造委員会       」

●元町八坂神輿修復建造委員会 委員一覧 (順不同)
 委員一覧には建造委員会を含む元町地区の15団体の代表者、総勢105名の氏名が列記されており、昭和61年(1986年)の修復の規模の大きさが伺える資料となっている。ここでは個人名の記載は控えるが、この頃の元町の八坂神社の祭礼にどの様な団体が関わっていたかを示す貴重な資料であるため、団体名のみ記載する。なお、団体名の前には記載されている順に番号を、団体名の後ろには記載されている代表者の人数を追記する。

 @元町神輿保存会:5名 A元町祇園会(歴代):12名(昭和51〜60年)
 B元町地区囃子連:9名 C元町神輿世話人:2名
 D元町地区子ども会育成会:5名 E元町地区体育指導委員:5名
 F元町地区青少年指導員:5名 G八幡会:10名 H奉賛会;3名
 I元町文化財保護委員会:4名 J区長歴任者:15名
 K宮世話人歴任者:9名 L区長:8名 M宮世話人:9名
 N元町八坂神輿修復建造委員会:顧問11名、委員長1名、代表区長1名、宮総代1名 (記録1名)
 
●元町八坂神社縁起書
 現在の元町である入合は通り三町である上町・中町・下町と共に一社の八坂神社を祀り、一つの神輿を合同で担いでいたために祭礼では紛争が絶えず、解決策として入合単独の八坂神社を勧請するとともに、入合単独の八坂神社神輿を建造した経緯が記載されている。また、最後には神輿内部より発見したとされる古文書の内容も記載され、明治3年(1870年)6月7日に入合が八坂神社を勧請したことを裏付ける資料となっている。
 以下に、元町八坂神社縁起書の全文(1ページ)を記載する。

「 元町八坂神社縁起書

 八坂神社の御祭神は須佐之男命であらせられます。
 二宮村は旧藩政時代より上町・中町・下町・入合(現元町)の四部落構成にて円満なる行政が施行されて居ったのであります。
 八坂神社の祭典は毎年七月七日八坂神社一社御輿が四部落渡行には兎角、紛争に終り円満なる祭典執行は苦悩の年毎であり当時、入合名主、松木七郎右エ門、名主、神保勝右エ門、村役、池田清右エ門相談の結果、八坂神社一社造営創祀以外円満なる祭典執行、渡行出来ずとの結論に至り、明治三年、三者創祀願主に相成り、川勾神社祠官、二見賢景殿に懇願に回り、一社創祀と相成って、梅沢住人宮大工棟梁、杉崎内匠政貴殿営により明治三年六月七日奉祀、峯岸山一、一三八、池田仙二郎殿の好意により所有されし山林に鎮座出来たのであります。
 以来、入合部落の単独祭典は通り三町、(上町・中町・下町)と同様、七月七日執行されしも、年毎の紛争絶えず、明治四十三年白木御輿を漆塗装再修理し同年より七月十二日祭典執行に相成り、今日に至りました。尚、白木御輿には慶応四年、(江戸末期)四月戌辰吉日に宮大工、棟梁杉崎内匠政貴殿の作であります。
      (寄稿 神保信三氏)
・以上により元町の先達のご苦労により今日の八坂神輿の在ることがおわかり頂けることと存じます。これを裏付ける内容の次記、古文書が神輿内部より発見されています。

明治三年 六月七日 干時
 相州淘綾郡山西村 川勾神社 相官 二見賢景 同国同郡二宮村
 願主 松木七郎右エ門 神保勝右エ門 池田清右エ門

明治廿壱年 五月廿三日 再建世話人
 西山久衛門 神保善吉 松木義太郎 神保豊次郎 池田要右エ門
 松木市五郎 神保吉右エ門 布施儀右エ門 加藤文右エ門
 寺山清兵衛 神保甚右エ門 寺山吉平 都合拾三人     」


祭礼1日目(宵宮)準備 (集合8:00)

 ここからは令和7年(2025年)7月19日(土)に行われた八坂神社祭礼の1日目の様子を紹介する。祭礼の1日目は神輿とお宮の関係者の集合時間は朝8時となっているが、元神會と祇園會は朝7時頃から会館周りの掃除や神輿の準備に取り掛かる。

時刻は朝7時です会館前にはご祝儀の掲示板
先週に組み立てた元南の屋台こちらは二宮翠鳳睦の神輿
元神会は会館周辺の掃き掃除階段の落ち葉を集めます
神輿の台車を駐車場へ移動大神輿の馬を降ろして
鈴と一緒に会館横へ元神会は祇園会と一緒に階段を
上がって八坂神社の社殿前へ会館から輿棒を出します
社殿から馬を先に出し神輿を社殿から出します
神輿を参道に移動させ馬の上に降ろすと
階段側から輿棒を棒穴へ差し込みます
反対側も同様に輿棒を通すと
輿棒を抱えて階段を下ります
元町南会館横におろして轅を楔で固定し
馬をずらして轅を置きます会館前には看板を設置
台車に紅白幕を取り付ける鳳凰に晒を巻き付けると
持ち上げて露盤へ差し込みます
境内では神社の役員により祭礼の準備が始まります
こちらは大神輿用の小鳥です時刻は8時丁度になりました
大神輿では捩り掛けが始まる轅の先端には手綱を通します
どっこいではお馴染みの光景反対側にも手綱を通します
境内には左に八幡神社と右に八坂神社の幟が上がる
八幡神社社殿では供物の準備30分程で捩り掛けが終わり
元神會と祇園會の提灯を設置駐車場では紅白幕を折り畳む
こちらは渡御で使うロープです会館から子供神輿を出して
階段から下ろします境内と会館の2階が繋がります
続けて馬も運び出し会館横に子供神輿をおろします
神輿では捩りに鈴を取り付け蕨手に小鳥を刺します
階段下の提灯も左が八幡神社右が八坂神社になります
こちらは飾り用の榊の準備元神會は神輿を担ぎ上げ
試し担ぎを行います捩りや鈴に問題がないか確認
宮世話人は階段と鳥居付近に提灯を取り付ける
会館横で元町南は太鼓の演奏こちらは山車に付ける提灯枠
神輿の屋根をオイルで磨き注連縄に紙垂を取り付ける
榊に紙垂を結び付ける胴周りに網を掛けます
榊を神輿の鳥居の柱に付けます子供神輿も同様に榊を付ける
のしの掲示板に名前を追加社殿では提灯と幕を設置
屋根は念入りに磨きます祇園會と元神會の提灯を設置
元町南では屋台を荷台に載せベルトで固定します
提灯枠を四方に嵌め正面には簾の庇を取り付ける
太鼓を枠に入れアオリに紅白幕を回します
屋台の準備が終わると方向を反転させて正面を道路側へ
駐車場に止めてあったトラックから翠鳳睦の神輿をおろし
元神会は翠鳳睦の神輿を担ぎ上げ元町の神輿の横へ
富士見が丘二丁目の子供神輿が到着し元町の奥へ置きます
準備はおおよそ目途が付き11時30分頃に元神会は
会館で昼食を取ります時刻は12時10分です。町内会
と宮世話人は半纏を着て待機川勾神社の宮司が到着しました
翠鳳睦の神輿の榊を取り付けを元神會が手伝います
富士見が丘三丁目の神輿が到着し
二丁目の後ろに置きます最後に富士見が丘一丁目の
神輿が到着し三丁目の後ろへ下ろします
12時40分頃になると富士見が丘二丁目の屋台が到着
元町南の前方に止まります宮司さんは神事の準備
最後に元町北の屋台が到着し富士見が丘二と元町南の間へ
各子供神輿では式典に向けて
準備が行われます時刻は12時45分です
屋台では囃子の演奏が続く翠鳳睦の神輿を持ち上げて
元町の神輿に寄せます両神輿に祭壇を設置し
供物として果物・鯛・酒・餅野菜を供えます
子供神輿を2列に並べます宮司は神事の準備

入魂式 (開始13:00、終了13:30)

 式典の準備が整うと、13時からは神輿の前で入魂式(例祭および発輿祭)が行われ、川勾神社の宮司により神事が執り行われる。八坂神社の祭礼で神事が執り行われるのは入魂式のみであり、このことからも例祭が2日を通して行われることが伺える。

13時になると入魂式が始まります
川勾神社の宮司により祝詞が奏上されます
元町の八坂神社神輿をお祓い続いて翠鳳睦の神輿
4基の子供神輿もお祓い最後に参列者をお祓い
続いて献饌玉串奉奠は宮司から始まり
全地区10町内会宮世話人
元神會祇園會と
各団体の代表者が続きます
元町では境内が狭いので神事は階段の下で行われます
続いて翠鳳睦の会長元神會の輿頭
祭囃子保存会は元町北元町南
最後に富士見が丘二丁目玉串拝礼の数だけでも祭礼の
規模の大きさが分かりますこちらは地元の消防団
計18名が拝礼を終え撤饌
一拝して神事が終わります時刻は12時25分頃
祇園會会長の挨拶がありここからは元神會の輿頭により
二之宮川勾神社神輿保存会の役員が順番に呼ばれ
挨拶をして行きます明日の例大祭もそうですが
友好団体の紹介はありません最後に会長の挨拶
御神酒を配り元神會会長の挨拶で乾杯し
入魂式が終了祭壇の供物を片付けます

社頭発御 (出発13:55)

 入魂式が終わると元神會と祇園會の両会長により一本締めが行われ、八坂神社神輿の渡御が始まる。富士見が丘の各子供神輿は祭礼の1日目で地元を渡御するため、八坂神社からトラックでそれぞれの地区に移動される。なお、翠鳳睦の神輿は祭礼の2日目の宮入り渡御のみ担がれる。

入魂式が終わると翠鳳睦の神輿を
台車に乗せて移動させます
発御に向けて元町の八坂神社神輿を道路側へ移動
富士見が丘三丁目の子供神輿を軽トラの荷台へ
続いて一丁目の子供神輿をトラックの荷台へ
一丁目と三丁目の子供神輿はそのまま地元へ戻ります
13時50分になると元神會と祇園會の
一本締めで肩を入れ担ぎ上げると
甚句を入れて揉みます元町南では演奏を開始
富士見が丘二丁目が出発神輿は会館前を出発し
県道71号に出て右折これから神輿渡御が始まります

 ※この後の神輿渡御の様子は神輿渡御(1日目)へ。

囃子

●元町北
 元町北の囃子は「元町北祭囃子保存会」によって伝承され、中里祭囃子保存会の指導を受けて昭和54年(1979年)に発足し、系統は「大山囃子」を継承している。囃子は「大太鼓1」・「締太鼓4」・「笛」・「鉦」で構成され、曲目は「宮昇殿」・「きざみ」・「屋台」・「治昇殿」・「神田丸」・「四丁目」・「仁羽」で、大山囃子の全ての曲を習得している。保存会としての主な活動は、元町八坂神社の祭礼や8月に行われる元町北地区の盆踊り、秋の二宮町民俗芸能のつどい、11月の地区社協主催のふれあい広場に参加している。また、平成4年(1992年)には第16回神奈川県山北町「酒水の滝祭り大会」に参加した。
 二宮町の大山囃子はゆっくりなテンポで、締太鼓と大太鼓ともに立った状態で腕を大きく振り上げる奏法が特徴である。また、元町北では近年になって笛を複数人で吹くようにしているため、他の地区に比べて笛の吹き手が多く育っている。練習では全ての曲を一通り練習することで、現在でも中里から伝承した曲全てを安定して演奏することが出来ている。
 子供会員の加入資格は小学2年生からで、囃子の練習は水曜日と金曜日の19時から21時に、元町北防災コニュニティーセンター(元町北公会堂を建て替え)で行っており、行事開催に合わせて練習日程を組んでいる。以下に令和7年(2025年)5月23日(金)に行われた練習の様子を紹介する。

元町北防災コミュニティーセンターが練習場所です
太鼓をセットすると練習が始まります
笛を常に複数人で吹くので元北には吹き手が沢山います
立って叩く太鼓は力強いです暫く叩くと休憩を挟み
休憩中に締太鼓を増し締め再び練習開始
21時に練習が終わると太鼓をしまい
指導者の挨拶アイスを配って解散します

●元町南
 元町南の囃子は「元町南囃子連」によって伝承され、囃子の系統は中里の大山囃子に近いが、元町北および富士見が丘二丁目と異なり、その伝承経路は不詳である。神田丸以外は中里と同じ曲目が伝わっているというが、現在は囃子(屋台囃子)以外の曲は殆ど演奏されていない。笛は伝わっていたが伝承が途切れてしまったため、中里から笛を習って吹いている。使用される楽器は「締太鼓2」・「大太鼓1」・「笛1」・「鉦1」で構成されている。
 元町南では元町八坂神社の祭礼の1週間前の土曜日に山車の組み立てを行い、祭礼までの1週間で囃子の練習が行われる。以下に令和7年(2025年)7月12日(土)に行われた、山車の組み立てと練習の様子を紹介する。山車の組み立ては17時から元町南会館で行われ、囃子の練習は元町南会館横の氏子宅のガレージを利用して19〜21時に行われる。

1週間前の土曜日には元町南会館へ17時に集合し
山車の組み立てが行われます山車の部材を運び出し
屋根の上面を拭き掃除裏側の埃りを除去します
会館の隣で土台を組み柱を立てていく
小屋梁を載せて2枚の切妻屋根を
中央で繋げます棟を載せてボルトで固定
ブレース(筋交い)を前面と天井に取り付けて補強します
作業は1時間ほどで終わり最後にビニールシートを掛けて終了
会館横の氏子宅では太鼓を締めて音色を揃え
枠にセットし練習が始まります
囃子(屋台囃子)の譜面笛も入ります

●富士見が丘二丁目
 富士見が丘二丁目の囃子は「富士見が丘二丁目祭囃子保存会」によって伝承され、「大山囃子」系統の中里祭囃子保存会の指導を受け、昭和60年(1985年)5月6日に会員23名で保存会を発足させた。この当時、富士見が丘二丁目には子ども神輿はあっても囃子太鼓はなく、祭りの度に「太鼓がないと寂しい」という声があったことから、当時の町内有志で何とか太鼓を購入した。一番最初に習得した曲は「宮昇殿」で、その年の7月の八坂神社の祭礼に向けて3ヶ月ほど指導を受け、祭礼当日に演奏した。
 その後、平成16年(2004年)までに「治昇殿」・「屋台」・「きざみ」・「神田丸」を習得し、平成16〜17年(2004〜2005年)に元町北祭囃子保存会から「四丁目」・「仁羽」の指導を受け、大山囃子の全ての曲を習得した。設立当初は太鼓だけの演奏であったが、この頃に数名の会員が笛を吹けるようになり、現在は「大太鼓1」・「締太鼓4」・「笛」・「鉦」の構成となっている。
 設立当初は子供を主体とした会であったが、現在は大人から子供まで幅広い年代が育っている。また、平成の後期あたりから富士見が丘一丁目と三丁目、そして松根地区で希望する人も会員として受け入れており、現在は約半数が二丁目以外の氏子となっている。会の活動としては7月の元町八坂神社祭礼や10月の二宮民俗芸能のつどいなどに参加している。囃子の練習は土曜日の18時30分から21時で、令和7年(2025年)からは令和6年(2024年)に新築された富士見が丘二丁目会館で行っている。以下に令和7年(2025年)6月28日(土)に行われた練習の様子を紹介する。
 富士見が丘二丁目では笛に合わせて太鼓を叩くことを重要視しており、指導者は1曲ずつ細部に渡って入念に確認している様子が印象的である。練習が2時間30分と長いこともあり、参加者全員が一通り太鼓を叩けるように交代する。難しい曲で太鼓が叩けない場合でも、前方に用意されたタイヤを叩くことで、経験が浅い会員でも最後まで練習に参加することができ、曲数の多い大山囃子の曲を効率的に習得する工夫がなされている。また、元町北祭囃子保存会と同様に篠笛は複数人が同時に演奏するため、笛の吹き手が多いのも印象的である。

練習場所は2024年新築の富士見が丘二丁目会館
全曲を順番に練習します指導者は細かい部分まで確認
笛は複数人が同時で演奏叩けない曲はタイヤで練習
練習が終わると集合し役員全員から順番に挨拶
最後は太鼓を台ごと隅に寄せて練習が終了します

●屋台
 元町に山車があったという記録は無いが、現在は上記の3地区でトラックの荷台に櫓を乗せるタイプの屋台を所有している。元町北と富士見が丘二丁目は3トンロングのトラックを使用しているが、櫓の大きさからは2トントラックを想定して製作された可能性が考えられる。なお、富士見が丘二丁目だけは大太鼓を屋台の後方に設置している。

元町北の屋台(正面)元町北の屋台(側面)
元町南の屋台(正面)元町南の屋台(側面)
富士見が丘二丁目の屋台大太鼓を後方に配置

二宮町の大山囃子と守泉長次

 二宮町では大山囃子系統である中里の「中里祭囃子」が昭和50年(1975年)に二宮町の無形文化財に指定されており、守泉長次氏は中里祭囃子の中心的な演奏者であった。守泉氏の出身は中里であるが住まいは元町北であったため、元町北祭囃子保存会の初代会長を5年務め、その後は相談役を務めた。守泉氏は同会の立ち上げ当初から指導に当たり、二宮町内で大山囃子系統の他地区の会だけでなく、平塚市の須賀などにも大山囃子を伝承している。

故守泉長次氏(写真右下)平成3年(1991年)の集合写真

 守泉氏は二宮町の大山囃子を語る上では欠かせない重要な人物で、中里祭囃子の無形文化財の認定には不可欠な存在であったと推測される。生前は守泉氏が大山囃子では一番の笛の吹き手であり、現在、二宮町で吹かれている大山囃子の笛の基準となっており、元町の元町北祭囃子保存会および富士見が丘二丁目祭囃子保存会の今日の発展の礎となった人物である。
 守泉氏は平成13年(2001年)に他界しており、元町北祭囃子保存会では元町の八坂神社の祭礼に合わせて、毎年、守泉氏の墓参りを行っている。下記に令和7年(2025年)7月20日(日)の墓参りの様子を紹介する。守泉氏の墓は谷戸地区の浄土宗知足寺にあるため、祭礼2日目の同地区の御旅所である勝負前遊園地(公園)での休憩中に墓参りを行っており、この年は富士見が丘二丁目祭囃子保存会も墓参りに加わった。なお、当サイトの管理人である私も平成9〜10年(1997〜1998年)に守泉氏から大山囃子の笛を習った一人である。

浄土宗知足寺に着くと石段を上がり
正門を潜ります正面が本堂です
元町北祭囃子保存会は本堂横を通り
階段を登って裏手へ水と柄杓を準備して
守泉さんのお墓へ献花して
墓石に打ち水富士見が丘二丁目も到着
線香に火をつけ元町北から順番に
合掌します続いて富士見が丘二丁目の
メンバーも順番にお参り最後に私も手を合わせます

例大祭

 八幡神社の例祭日は上町の浅間神社、中町の守宮神社、下町の秋葉神社と同じく4月の第2日曜日で、四社祭として川勾神社の神主が巡拝し、祭りの当番は各町で持ち回る。元町では全6区と富士見が丘の各区の役員が参列し、神主を迎えて次の神社まで送っていく。なお、かつて元町では当番の年に神楽をしたという。
 元町には八幡神社の隣に八坂神社が鎮座しており、現在の八坂神社の例祭日は7月第3日曜日である。八坂神社の例祭日は明治3年(1870年)の奉祀当初は旧暦の6月7日で、明治6年(1873年)の改暦により7月7日になり、明治43年(1910年)に通り三丁の例祭日とずらす目的で7月12日に変わった。戦後は人口が増えて生活も変わり、サラリーマンが増えてきたことから、元町と通り三町の宮世話人が話し合って双方とも7月の第2日曜日に行われるようになり、その後は現在の7月第3日曜日になった。
 元町では鎮守の八幡神社ではなく境内社の八坂神社の例祭の方が主要な行事となっており、元町地区における最大のイベントとなっている。元町では富士見が丘と松根の新興住宅地が開発される前は、例大祭の当日のみ神輿渡御を行っていたので、例大祭の前日が宵宮という位置付けであったが、新興住宅地が開発されてからは宵宮でも神輿渡御が行われるようになり、近年では2日間を通して八坂神社の例大祭という認識になっている。
 八坂神社祭礼の主催は10町内からなる「元町全地区町内会」で、祭典委員は「元町宮世話人」、実行委員は「元町祇園會」となっており、協賛団体として八坂神社神輿の運営を担う「元町神輿保存会(元神會)」、二宮町の神輿会である「二宮翠鳳睦」、元町の囃子会である「元町北祭囃子保存会」・「元町南囃子連」・「富士見が丘二丁目祭囃子保存会」の3保存会ほか、元町地区の様々な団体が参加する。
 大正13年(1924年)生まれの話者が若い頃、当番の年にツケ祭りとして田舎芝居をしたり、青年の演芸会をしたりした。葛川の上に古い電柱を並べ、舞台を作ったこともあった。当時の八坂神社の祭りは7月21日で、その一切の行事を祇園会が取り仕切ることになっていた。祇園会とはその年に35歳になった男だけの会で、八坂神社祭礼の事前の準備や当日の行事進行、終始決算まで責任を持った。神輿は町内16軒を回り、役員は座敷へ上がって酒食のもてなしを受けた。その他の人は外で握り飯や煮染、酒などのもてなしを受けた。
 7日が天王さんの日、12日が中天王、15日がシマイ天王。神輿・山車が出て、この他に神楽・芝居があった。芝居は千代、伊勢原から来た。※要調査
 「祇園会(會)」に関しては現在でも組織が存続していて、特定の年齢層の団体が祭礼を取り仕切るという地区は非常に珍しい。現在の加入年齢は35〜40歳となっているが、昨今のなり手不足の影響を考慮して多少の前後は許容されている。一方、元神會(元町神輿保存会)には年齢制限がなく、祇園會を補助するために結成された会で、基本的には祇園會を退会した者は元神會に入る流れとなっている。年齢による祇園會の経験の不足分を、経験を有する元神會がサポートする形で運営されていることも、この八坂神社祭礼の大きな特徴の一つとなっている。なお、令和4年(2022年)までは元町八坂神社の祭礼に合わせて各町内に注連縄を配布していたが、祇園會の負担軽減のために配布は行われなくなった。


着御 富士見が丘防災コミュニティーセンター (到着19:10)

 祭礼1日目の渡御を終えた神輿は、富士見が丘三丁目の御旅所である富士見が丘防災コミュニティーセンター前に到着すると、施設横の道路で芯出しを行ってから着御となる。神輿の関係者は敷地内で休憩を取り、休憩後は元町の八坂神社近くの個人宅に神輿を台車で移動させる。なお、着御後の3地区の囃子の屋台は各地区に戻り、地元および周辺地区の巡行を行う。

最後の芯出しが始まります押し寄せる神輿を押し返し
後退したところで中里神輿保存会の甚句
迫る神輿を再び押し戻します
ここでもう一曲甚句が入り前に詰める神輿
芯出しはまだまだ続きます更に甚句をもう一本
勢いよく押し寄せる神輿ボルテージは最高潮に
ここでようやく拍子木を打ち馬の上に神輿をおろします
まだ1日目ですが既に一般敵な例大祭と同じ位のボリュームです
輿頭が一本締めて神輿を道路脇へ寄せます
担ぎ手は敷地内へ移動し地区の代表者の挨拶
続いて元神會会長の挨拶で乾杯します
富士見が丘二丁目の屋台が再び巡行にやって来ました
元神會は協力団体を順番に挨拶して見送ります
富士見が丘二丁目の次は元町北の屋台が姿を見せ
三丁目と松根を巡行します時刻は19時45分です
見送りを終えた元神會は会長の挨拶で改めて乾杯
三丁目と松根の巡行を終えた元町北は地元へ戻ります
19時45分過ぎに一本締めて大神輿を台車へ乗せ替えます
馬は軽トラの荷台へ神輿を徒歩で移動し
秦野二宮線を横断し旧道を二宮駅方面へ
時刻は20時30分になりました明日は更に長い道のりです

 このあとは祭礼2日目準備へ。


祭礼2日目(例大祭)準備 (集合7:00)

 ここからは令和7年(2025年)7月20日(日)に行われた八坂神社祭礼の2日目の様子を紹介する。祭礼2日目の集合時間は朝7時となっているが、元神會と祇園會は7時前から発御祭に向けて準備をスタートする。

6時40分にやって来ました準備は既に始まっています
子供神輿を移動させ大神輿の後ろへ置きます
神輿を担ぎ上げ会館側へ寄せると
祇園會が記念撮影祇園會は祭礼の実行委員です
馬を轅側にずらし榊を取り付けます
バリケードを運び出します元町南の屋台が待機
町内会も集まり始めます時刻は7時30分になりました
元町北の屋台が到着し元町南会館前に止めます
神輿を担ぎ上げ道路側へ移動
続いて富士見が丘二丁目の屋台が到着し
元町北の前に停車最後に元町南の屋台が
Uターンし先頭に止まり
3基の屋台が揃いました会館内では御神酒の準備

発御祭 (開始8:00)

 朝8時になると発御祭が行われ、町内会会長と元神會の挨拶に続いて、最後に祇園會会長の乾杯が行われる。なお、祭礼2日目は川勾神社の宮司による神事は執り行われない。

8時になると発御祭が始まり最初に町内会長の挨拶
続いて元神會会長の挨拶御神酒を
配り祇園會会長の挨拶で
乾杯担ぎ手が神輿に集まります

社頭発御 (出発8:10)

 発御祭が終わると祭礼1日目と同様に、元神會と祇園會の両会長が輿棒に上がり、一本締めてから八坂神社をお発ちする。

元神會と祇園會の両会長が揃って轅に上がり一本締め
神輿を担ぎ上げ甚句を入れます
3基の屋台は一斉に演奏開始神輿は秦野二宮線に出ると
右折して秦野方面へ長い一日が始まります

 ※神輿渡御は下記の神輿渡御2日目の前半と後半へ。

 神輿渡御(2日目・前半)
 神輿渡御(2日目・後半)


宮付け (到着19:50)

 最後の御旅所から旧道を引き返してきた一行は県道71号(秦野二宮線)に出て右折し、10町内の高張提灯は県道上で横一直線になってから八坂神社前に設置された忌竹内に入る。翠鳳睦の神輿と八坂神社神輿は県道上で向かい合い、「華合わせ」を行ってから忌竹内に入る。例年だとこの2つの行事は最終の御旅所である生涯学習センターラディアンの正面駐車場で行われるが、この年は予約ができなかったために県道で行われることとなった。
 2基の神輿が忌竹内に入ると2基同時に芯出しを行い、芯出しが終わると三本締めで無事に宮付けとなる。宮付け後は町内会長、祇園會会長、元神會会長、そして最後に翠鳳睦の会長の挨拶があり、神輿渡御は終了となる。

一行は県道を二宮駅方面へ元町南の屋台は会館前に停車
高張提灯は横一直線に並び八坂神社前に到着
忌竹内へ入ります八坂神社神輿は会館前で
Uターンして秦野方面を向くと後方から来た翠鳳睦の神輿と
華合わせお互いの華棒を合わせます
一旦、翠鳳睦の神輿と八坂神社神輿は距離を取り
再び華棒を寄せます例年だとラディアンで行う
恒例行事です翠鳳睦と元神會は足場を組む
2基の神輿は県道を離れ八坂神社前の忌竹内へ
甚句を入れて神輿を揉みます
2基の芯出しは迫力があります神輿をいったん下げて
2本目の甚句を入れて前に詰める2基の神輿
後退して3曲目の甚句を入れ三度、神輿は前進
神輿を後ろに下げて4本目の甚句を入れます
押し寄せる2基の神輿県道側に下がると元神會が
最後の甚句を入れますが直ぐには拍子木を打たず
芯出しが続きます甚句を入れずに神輿は前へ
拍子木を入れず再び後退2回目の芯出しでも
神輿は輿をおろさず担ぎ手は再び下がります
3度目の芯出しでようやく拍子木が打たれました
神輿を馬の上におろし祇園會会長と元神會会長
翠鳳睦の会長が轅に上がり三本締めで無事に宮付け
宮世話人の進行で最初に町内会長の挨拶
続いて祇園會会長元神會會会長と続き
最後に翠鳳睦会長の挨拶で神輿渡御は終了となります

片付け (終了20:45)

 神輿渡御が終わると神輿の友好団体、町内会と宮世話人は元町南会館で直会を行うが、元神會と祇園會は神輿をしまう段取りを、元町南囃子連は屋台の片付けを始める。元町南会館横の駐車場では元町北と富士見が丘二丁目の屋台が合同演奏を行い、演奏後はそれぞれの地区へ戻っていく。
 神輿を八坂神社の社殿へ納めると、元神會と祇園會は会館内で直会を行い、この年は21時30分頃に中締めとなった。翌日は各団体毎に残った片付けを行う。

元町南会館横の駐車場では富士見が丘二丁目と
元町北の合同演奏が始まる神輿の飾りと捩りを外す元神會
翠鳳睦は神輿を抱え上げトラックの荷台へ載せます
合同演奏を終えた元町北は秦野二宮線に出て右折
富士見が丘二も続いて出発それぞれの地区へ戻ります
翠鳳睦も帰路に就きます大鳥を外す元神會
提灯を外す元町南の屋台元神會は神輿を担ぎ上げ
八幡神社の石段を上がり境内で馬の上におろします
友好団体は会館内で直会神輿では轅の楔を外し
輿棒を抜いて短い輿棒を差し込みます
馬を抜いて八坂神社の社殿に納めます
最後に神輿の台車を境内に上げて20時45分頃に
元神會と祇會園は会館内へ元神會の会長の挨拶で
乾杯して直会に入ります輿頭と副会長
の挨拶に続いて私も挨拶をさせて頂きました(写真ないです)
新規会員の紹介もありました21時30分になると
中締めです元町の皆様お疲れ様でした

令和7年(2025年) 神輿渡御運行予定表
7/19(土) 1日目(宵宮) 神輿渡御
場所(省略有)町名(地区名)御旅所到着出発
八坂神社発御14:00
第2遊園地(西公園)富士見が丘一丁目小休止14:3014:40
一丁目会館富士見が丘一丁目@15:0015:15
二丁目会館富士見が丘二丁目A15:4516:00
つぐみのおかコモンズ富士見が丘二丁目小休止16:4016:50
富士見防災センター富士見が丘三丁目B17:0517:20
松根会館松根C18:0018:15
富士見防災センター富士見が丘三丁目着御18:50
7/20(日) 2日目(大祭) 神輿渡御(前半)神輿渡御(後半)
八坂神社発御8:20
氏子宅付近原田@8:408:55
JA湘南二宮町支店小休止9:409:50
勝負前遊園地谷戸A10:0010:15
大応寺付近北新道西B10:5011:05
新幹線ガード下北新道東C11:5012:05
二宮喜楽園小休止12:2012:35
元町北防災センター昼休憩12:5014:00
神保明徳駐車場妙見D14:3014:45
氏子宅付近妙見E15:5016:05
氏子宅付近北新道西F16:3016:55
松本提灯店付近北新道西発御17:0017:20
中南信用金庫付近南新道小休止17:5018:05
松栄青果店付近南新道G18:3018:45
八坂神社着御20:00

  ※時刻は予定されたもので、状況によって前後する。


             


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