元町もとまち(入合)

神社の紹介

 「八幡神社」は元町の鎮守で祭神は誉田別尊(人皇十五代応神天皇)、宇佐神宮の末社となっている。創祀年代は明らかではないが、もとは二宮と中里との境に近い柏木1449番地にあった、曹洞宗善光寺の守護神ではなかったかといわれている。現在の本殿には元禄3年(1690年)の善光寺四代利山和尚の時に、梅沢の大工であった鈴木善兵衛吉勝ほか2名が造営したという棟札が残っている。
 当社は明治初年のころまでこの善光寺(現在は廃寺)に祀られていたが、火災のため本尊は大応寺へ引き取られた。その後、八幡社は暫く旧地に滞留していたが(火災の時に大応寺へ遷されたという話もある)、明治政府が出した神仏分離令により明治13年(1880年)に時の二宮村戸長であった古沢平七が、新田823番地に社地を定めて社殿を新築し、元町の鎮守として遷座された。更に秦野県道が建設されることになると、明治27年(1894年)に妙見山の妙見社の敷地の一隅に遷された。
 昭和12年(1937年)に日華事変(日中戦争)が起こると、出兵兵士が出るたびに町内の青年団や婦人会、一般住民が鎮守様に武運長久を祈願して駅まで見送る慣わしになっていたので、南側の人々には出征兵士の見送りが不便であった。そこで八幡神社をもう少し便利な所へ祀りたいという話が持ち上がり、池田新太郎から天神山の山林の一部を寄付しても良いという申し入れがあったため、昭和13年(1938年)10月に現在地である八坂神社の隣に遷座された。ここはもともと天神山といわれ、天神社(現在は二宮天満宮)が祀られていた場所である。

鳥居
神社由緒燈籠
八幡神社八坂神社
水鉢境内

二宮天満宮

 現在の天神谷戸一帯の地は天正の末頃までは代官池田若狭守の所有地であったが、末孫池田理左エ門が上洛するにあたり、部下であった江藤市兵衛に知足寺にある墓の永久墓守をしてくれと依頼し、池田家歴代の戒名を書き連ねた書を渡し預け、永久墓守料として天神谷戸の土地を贈与して二宮村を去った。江藤市兵衛は学問に優れた家田若狭守歴代を供養するために、学問の神である天神社を天神谷戸に祀り、田代岩で作った小さな祠を安置した。最初の頃は木造屋社の中に安置されたというが、屋社は壊滅し石祠だけとなった。天神谷戸の地はこれによって生まれたが、天神社は天神谷戸の奥地にあったために子供達は怖くてお詣りに行けなかった。
 昭和8年(1933年)1月10日に中年会が新年の集まりを堂(公会堂)で行ったときに、子供達にとって大切な学問の神である二宮天神社を、天神谷戸の奥にあることでお詣りにいけないことから、八坂神社の南隣接地に遷座したらどうかという話があがった。そこで、土地の所有者であった池田新太郎に許可を取り、同年1月20日に中年会の会員が峰岸山へ集って山の斜面を一部削って整地し、八坂神社の社地と境をつけるために一段高い社地を造った。同年1月25日(天神様の日)には天神谷戸の地主であった吉川光(上町)の承諾を得て、二宮天神社を峰岸山の八坂神社隣地に遷座安置し、川勾神社神官であった二見徳次郎が遷座神事を担当した。
 昭和9年(1934年)1月25日に二宮天神社の社殿が竣工し、内海景三によって造られた。社殿を造るにあたり中年会員は一円宛、町内各家々からは参銭から五十銭までの寄附があり、これらは寄附台帳明細書として保管されている。同年2月25日に石燈籠が一対と「二宮天神社」と書かれた大幟が寄附奉納され、昭和15年(1940年)12月25日には「二宮天満宮」の塔が皇紀二千五百年記念として信者一同より奉納された。

社号柱二宮天満宮

妙見神社

 「妙見社」は正月、5月、9月の10日に近所の信者が集まって題目を唱え、当日大応寺の住職が経をあげる。賽銭は大応寺へ納める。

妙見社鳥居
神殿
境内

例大祭

 八幡神社の例祭日は上町の浅間神社、中町の守宮神社、下町の秋葉神社と同じく4月の第2日曜日で、四社祭として川勾神社の神主が巡拝し、祭りの当番は各町で持ち回る。元町では全6区と富士見が丘の各区の役員が参列し、神主を迎えて次の神社まで送っていく。なお、かつて元町では当番の年に神楽をしたという。
 元町には八幡神社の他に八坂神社があり、八坂神社の祭礼は7月第3日曜日である。以前は1日で済ませていたが、近年では土曜日の宵宮に富士見が丘の御旅所を回り、翌日曜日にその他の御旅所を渡御する。
 大正13年(1924年)生まれの話者が若い頃、当番の年にツケ祭りとして田舎芝居をしたり、青年の演芸会をしたりした。葛川の上に古い電柱を並べ、舞台を作ったこともあった。八坂神社の祭りは7月21日で、その一切の行事を祇園会が取り仕切ることになっていた。祇園会とはその年に35歳になった男だけの会で、八坂神社祭礼の事前の準備や当日の行事進行、終始決算まで責任を持つ。神輿は昔は町内16軒を回り、役員は座敷へ上がって酒食のもてなしを受けた。その他の人は外で握り飯や煮染、酒などのもとなしを受けた。
 7日が天王さんの日、12日が中天王、15日がシマイ天王。神輿・山車が出て、この他に神楽・芝居があった。芝居は千代、伊勢原から来た。


二宮の歴史

 ニ宮の村が文献に現れたもっとも古い名は『倭名類聚鈔』にある「霜見郷」であると考えられ、一郷五十戸の耕地面積からして現在の塩海だけが霜見郷であったとは考え難い。この霜見郷の中に霜見村がいつできたか不明だが、いつしかその名が「塩海村」に変り、これが現在の元町・上町・中町・下町にあたる。鎌倉時代の初めにニ宮四郎友平が二宮庄の庄司となり、現在の知足寺付近に役所つまり庄政所(しょうのまんどころ)を設けた。これにより二宮庄政所の所在地として塩海村の北部地区を二宮村と称し、塩海村と対立した状態で近世におよんだ。正保改定図ではニ宮とは別に塩海の名が現在の通り三町(上町・中町・下町)辺りに記載してあることから、当時は二宮村と塩海村は別村であったと思われる。その後の元禄改定図には「二宮村ノ内塩海村」と傍記され、さらに天保考定図では完全に二宮村に吸収されて塩海は小名となった。
 『風土記稿』には「二宮村あるいは二宮本郷、または古淘綾里とも唱う」とあり、二宮村は二ノ宮庄の原村で民戸は180、小名には塩海・原田・妙見の名がみえる。ちなみに『郷土誌』によると明治10年(1877年)に204戸となっている。また、『風土記稿』の小名塩海(志保美)の条には「・・・前略・・・古海浜にて塩を製造す。依ってこの名あり。今其事廃すといえども蓋し其の遺名なるべし。諸記多くは海を見に作る。古は此所に人馬の継立をなせしと見ゆ。永禄元年(1560)東海道宿次記に『酒匂、郡水、志保美、平塚云々』とあり。又藤原為相郷、海道宿次百首の歌に『シホミ。暮レテハヤ塩満チヌラシ浦々ニ釣船ヲヨセテオルル蜑人』東海道名所記に『塩見又ハ小屋ノ宮ヲ名ツク云々』。行?抄に『塩海村或ハ古屋共云々』と記すれど古屋の唱、今伝を失い詳ならず」とある。
 さらに、大字二宮の小名である塩海の名については『風土記稿』に「霜見は塩見と中頃転訛せらる。蓋し天明凶作の時、浦輪の漁夫、その日くの生計に困し果て、辛き浮世の世渡りに、海浜にて塩を煮、近在に売り歩きて、漸く其の日を過ごせしより塩海の名起これり。此の故を以って今は此の事廃すといえども永銭は旧に依て出せり」とみえる。また、吾妻神社調書に掲ぐるところの吾妻神社由緒第八章には「源頼朝幕府ヲ鎌倉ニ創設セシヨリ、室平政子本社ヲ崇敬スルコト浅カラズ、吾妻山ノ全部ト、山麓ノ田畑、霜見(シホウミ)塩田等ヲ寄進セラル。・・・中略・・・降ッテ小田原北条氏ニ至り、塩田ハ没収セラルモ、其ノ他ハ鎌倉時代ト大差ナキモノノ如シ」とある。

●元町
 元町は塩海村と合併以前のニ宮村の位置にある。奈良時代の官路が足柄峠を超え、足柄上郡関本から南下して曽我連山の六本松峠を目掛けて酒匂川を渡り、余綾郡中村郷小総駅(元下中村小竹)を通って釜野に出て、現在の元町から元国府村に出て箕輪駅に向ったものと推定される。このことから霜見郷の中心地は今の元町辺にあったと考えられることから、元町と呼ぶようになった。元町という名称は明治35年(1902年)4月15日のニ宮駅設置以降のことと思われ、それ以前は元町とは呼ばずにニ宮といい、鉄道線路以南の地を「しぼみ」といった。

●通り三町(上町・中町・下町)
 上町とは当時京都が都であったことから京都を上(かみ)として上町、江戸を下(しも)として下町、その間を中町と呼んだといわれ、この三つの町内を含めて「通り三町」と呼んでいる。今では塩海という人は殆どいないが、ニ宮駅開通前には塩海と呼んでいたことが多かった。平安時代中頃までは東海道が元町を通っていたことから、現在の通り三町には人家が少なかったと思われる。家が増してきたのは日本の交通機関が平安時代末期から海岸沿いに整備され始め、塩海方面を通るようになってから以後のことと思われる。
 通り三町の家の増加にますます拍車がかけられたのが、江戸時代の参勤交代である。平安時代から戦国時代までは道中といっても旅宿はなく、あっても食事は出さずに自炊であり、旅籠宿ができたのが江戸期からであった。さらに二宮駅が設置されて交通の要衝となると、ニ宮町が長寿の里として絶好なる住宅地として認められるようになり、元町と共に現在の都市的様相を呈するに至った。

 町内は上町・中町・下町・元町の四町に別れ、それぞれに区長があり、各区長の下に伍長がいた。区長の代表が大区長であり、大区長は四町交替で務めた。
 元町の明治45年(1912年)生まれの話者によると、元町は昔、入会といわれ、当時は寺3軒、民家60軒といわれた。寺は知足寺・大応寺・龍沢寺で、小字は谷戸・妙見・小門・河原・倉田・原田となる。明治中頃までは通り三町をシボミ、元町は入会といっていたが、東海道線が通って二宮駅ができてから路線を境にして分離し、元町といわれるようになったという。元町は元町北が北新道東(38組)と同西(26組)に別れ、妙見(41組)と合わせて3組となる。


祭礼準備 (集合8:00)

 ここからは令和7年(2025年)7月19日(土)に行われた八坂神社祭典の準備の様子を紹介する。神輿とお宮の関係者の集合時間は朝8時となっているが、元神会は7時頃から会館周りの掃除や神輿の準備に取り掛かる。

時刻は朝7時です会館前にはご祝儀の掲示板
先週に組み立てた元南の屋台こちらは二宮翠鳳睦の神輿
元神会は会館周辺の掃き掃除階段の落ち葉を集めます
神輿の台車を駐車場へ移動大神輿の馬を降ろして
鈴と一緒に会館横へ元神会は祇園会と一緒に階段を
上がって八坂神社の社殿前へ会館から輿棒を出します
社殿から馬を先に出し神輿を社殿から出します
神輿を参道に移動させ馬の上に降ろすと
階段側から輿棒を棒穴へ差し込みます
反対側も同様に輿棒を通すと
輿棒を抱えて階段を下ります
元町南会館横におろして轅を楔で固定し
馬をずらして轅を置きます会館前には看板を設置
台車に紅白幕を取り付ける階段を下ります
鳳凰に晒を巻き付けると持ち上げて
境内では神社の役員により祭礼の準備が始まります
こちらは大神輿用の小鳥です時刻は8時丁度になりました
大神輿では捩り掛けが始まる轅の先端には手綱を通します
どっこいではお馴染みの光景反対側にも手綱を通します
境内には左に八幡神社と右に八坂神社の幟が上がる
八幡神社社殿では供物の準備30分程で捩り掛けが終わり
元神會と祇園會の提灯を設置駐車場では紅白幕を折り畳む
こちらは渡御で使うロープです会館から子供神輿を出して
階段から下ろします境内と会館の2階が繋がる
続けて馬も運び出し会館横に子供神輿をおろします
神輿では捩りに鈴を取り付け蕨手に小鳥を刺します
階段下の提灯も左が八幡神社右が八坂神社になります
こちらは飾り用の榊の準備元神會は神輿を担ぎ上げ
捩りや鈴に問題がないか確認試し担ぎを行います
宮世話人は階段と鳥居付近に提灯を取り付ける
会館横で元町南は太鼓の演奏こちらは山車に付ける提灯枠
神輿の屋根をオイルで磨き注連縄に紙垂を取り付ける
榊に紙垂を結び付ける胴周りに網を掛けます
榊を神輿の鳥居の柱に付けます子供神輿も同様に榊を付ける
のしの掲示板に名前を追加社殿では提灯と幕を設置
屋根は念入りに磨きます祇園會と元神會の提灯を設置
元町南では屋台を荷台に載せベルトで固定します
提灯枠を四方に嵌め正面には簾の庇を取り付ける
太鼓を枠に入れアオリに紅白幕を回します
屋台の準備が終わると方向を反転させて正面を道路側へ
駐車場に止めてあったトラックから翠鳳睦の神輿をおろし
元神会は翠鳳睦の神輿を担ぎ上げ元町の神輿の横へ
富士見が丘二丁目の子供神輿が到着し元町の奥へ置きます
準備はおおよそ目途が付き11時30分頃に元神会は
会館で昼食を取ります時刻は12時10分です
宮世話人は半纏を着て待機川勾神社の宮司が到着
翠鳳睦の神輿の榊を取り付けを元神会が手伝います
富士見が丘三丁目の神輿が到着し
二丁目の後ろに置きます最後に富士見が丘一丁目の
神輿が到着し三丁目の後ろへ下ろします
12時40分頃になると富士見が丘二丁目の屋台が到着
元町南の前方に止まります宮司さんは神事の準備
最後に元町北の屋台が到着し富士見ヶ丘と元町南の間へ
各子供神輿では式典に向けて
準備が行われます時刻は12時45分です
屋台では囃子の演奏が続く翠鳳睦の神輿を持ち上げて
元町の神輿に近づけます両神輿に祭壇を設置し
供物として果物・鯛・酒・餅野菜を供えます
子供神輿を2列に並べます宮司も神事の準備

入魂式 (開始13:00、終了13:30)

 式典の準備が整うと、13時からは神輿の前で入魂式が行われ、川勾神社の宮司により神事が執り行われる。

13時になると町内会の進行で入魂式が始まります
川勾神社の宮司により祝詞が奏上されます
元町の神輿をお祓い続いて翠鳳睦の神輿
4基の子供神輿もお祓い最後に参列者をお祓い
続いて献饌玉串奉奠は宮司から始まり
全地区10町内会宮世話人会
元神会の会長祇園会の会長と
各団体の代表者が続きます
元町では社地が狭いので神事は階段の下で行われます
続いて翠鳳睦元神会の渡御責任者
祭囃子保存会は元町北元町南
最後に富士見が丘二丁目玉串拝礼の数だけでも祭礼の
規模の大きさが分かりますこちらは地元の消防団
計18名が拝礼を終え撤饌
一拝して神事が終わります時刻は12時25分頃
祇園会会長の挨拶ここからは元神会の進行で
二之宮の神輿の団体の紹介代表者が順番に呼ばれ
挨拶をして行きます明日の例大祭もそうですが
友好団体の紹介はありません最後に会長の挨拶
御神酒を配り元神会会長の挨拶で乾杯し
入魂式が終了祭壇の供物を片付けます

社頭発御 (出発13:55)

 

入魂式が終わると翠鳳睦の神輿を
台車に乗せて移動させます
発御に向けて元町の神輿を道路側へ移動
富士見が丘三丁目の子供神輿をトラックの荷台へ
続いて一丁目の子供神輿をトラックの荷台へ
一丁目と三丁目の子供神輿はそのまま地元へ帰ります
13時50分になると元町の神輿では元神会と祇園会の
一本締めで肩を入れ担ぎ上げると
甚句を入れて揉みます元町南では演奏を開始
富士見が丘二丁目の山車が出発神輿は会館を出発し
県道に出て右折しこれから元町地区を渡御します

囃子

●元町北
 元町北の囃子は「元町北祭囃子保存会」によって伝承され、中里祭囃子保存会の指導を受けて昭和54年(1974年)に発足し、系統は「大山囃子」を継承している。囃子は「大太鼓1」・「締太鼓4」・「笛」で構成され、曲目は「宮昇殿」・「きざみ」・「屋台」・「治昇殿」・「神田丸」・「四丁目」・「仁羽」がある。保存会としての主な活動は、元町八坂神社の祭礼や8月に行われる元町北地区の盆踊り、秋の二宮町民俗芸能のつどい、11月の地区社協主催のふれあい広場に参加している。また、平成4年(1992年)には第16回神奈川県山北町「酒水の滝祭り大会」に参加した。
 子供会員の加入資格は小学2年生からで、囃子の練習は水曜日と金曜日の19時から21時に、元町北防災コニュニティーセンターで行っており、行事開催に合わせて練習日程を組んでいる。以下に令和7年(2025年)5月23日(金)に行われた練習の様子を紹介する。二宮町の大山囃子はゆっくりなテンポで、締太鼓と大太鼓ともに立った状態で腕を大きく振り上げる奏法が特徴である。また、元町北では練習や本番に関わらず常に笛を複数人で吹くようにしているため、他の地区に比べて笛の吹き手が多く育っている。練習では全ての曲を一通り練習することで、現在でも中里から伝承した曲全てを安定して演奏することが出来ている。

元町北防災コミュニティーセンターが練習場所です
太鼓をセットすると練習が始まります
笛を常に複数人で吹くので元北には吹き手が沢山います
立って叩く太鼓は力強いです暫く叩くと休憩を挟み
休憩中に締太鼓を増し締め再び練習開始
21時に練習が終わると太鼓をしまい
指導者の挨拶アイスを配って解散します

●元町南
 元町南の囃子は「元町南囃子連」によって伝承され、囃子の系統は中里の大山囃子に近いが、元町北および富士見が丘二丁目と異なり、その伝承経路は不詳である。神田丸以外は中里と同じ曲目が伝わっているというが、現在は囃子(屋台囃子)以外の曲は殆ど演奏されていない。笛は伝わっていたが伝承が途切れてしまったため、中里から笛を習って吹いている。
 元町南では元町八坂神社の祭礼の1週間前の土曜日に山車の組み立てを行い、祭礼までの1週間で囃子の練習が行われる。以下に令和7年(2025年)7月12日(土)に行われた、山車の組み立てと練習の様子を紹介する。山車の組み立ては17時から元町南会館で行われ、囃子の練習は元町南会館横の氏子宅のガレージを利用して19〜21時に行われる。

1週間前の土曜日には元町南会館へ17時に集合し
山車の組み立てが行われます山車の部材を運び出し
屋根の上面を拭き掃除裏側の誇りを除去します
会館の隣で土台を組み柱を立てていく
小屋梁を載せて2枚の屋根を
中央で繋げます棟を載せてボルトで固定
ブレース(筋交い)を前面と天井に取り付けて補強します
作業は1時間ほどで終わり最後にビニールシートを掛けて終了
会館横の氏子宅では太鼓を締めて音色を揃え
枠にセットし練習が始まります
囃子(屋台囃子)の譜面笛も入ります

●富士見が丘二丁目
 富士見が丘二丁目の囃子は「富士見が丘二丁目祭囃子保存会」によって伝承され、「大山囃子」系統の中里祭囃子保存会ならびに元町北祭囃子保存会の指導を受け、昭和60年(1985年)6月に保存会を発足させた。この当時、富士見が丘二丁目には子ども神輿はあっても囃子太鼓はなく、神輿には囃子ということから町の有志で何とか太鼓を購入した。子供を主体とした保存会である。
 囃子は「大太鼓1」・「締太鼓4」で構成され、現在は「笛」も加わっている。曲目は「宮昇殿」・「きざみ」・「屋台」・「治昇殿」・「神田丸」・「四丁目」・「仁羽」があり、大山囃子の全曲を伝承している。7月の元町八坂神社祭礼や10月の二宮民俗芸能のつどいなどで演奏される。
 囃子の練習は土曜日の18時30分から21時で、令和7年(2025年)からは令和6年(2024年)に新築された富士見が丘二丁目会館で行っている。以下に令和7年(2025年)6月28日(土)に行われた練習の様子を紹介する。
 富士見が丘二丁目では笛に合わせて太鼓を叩くことを重要視しており、指導者は1曲ずつ細部に渡って入念に確認している様子が印象的である。練習が2時間30分と長いこともあり、参加者全員が一通り太鼓を叩けるように交代する。難しい曲で太鼓が叩けない場合でも、前方に用意されたタイヤを叩くことで、経験が浅い会員も最後まで練習に参加することが出来き、曲数の多い大山囃子の曲を効率的に習得する工夫がなされている。また、元町北祭囃子保存会と同様に篠笛は複数人が同時に演奏するため、笛の吹き手が多いのも印象的である。

練習場所は2024年新築の富士見が丘二丁目会館
全曲を順番に練習します指導者は細かい部分まで確認
笛は複数人が同時で演奏叩けない曲はタイヤで練習
練習が終わると集合し役員全員から順番に挨拶
最後は太鼓を台ごと隅に寄せて練習が終了します

八坂神社神輿

 二宮村は旧藩政時代より「上町」・「中町」・「下町」・「入合(現元町)」の四部落構成で円満な行政が施行され、祭典は旧暦の毎年6月7日に行われていた。祭典では四町内の若者が八坂神社にあった1基の神輿を順番に時間を決めて担ぐことになっていたが、四部落での渡御はとかく紛争に終わり、円満な祭典執行は悩みの種であった。そこで、当時の入合名主「松木七郎右ヱ門」・名主「神保勝右ヱ門」・村役「池田清右ヱ門」の3名が相談の結果、八坂神社1社を造営創祀する以外に円満な祭典執行の方法がないとの結論に至り、明治3年(1870年)に3者が創祀願主となって川匂神社祀官「二見賢景」に懇願に回った。
 これによって元町に新たに八坂神社が祀られることとなり、梅沢住人の宮大工棟梁「杉崎内匠政貴」の造営により八坂神社が奉祀され、「池田仙二郎」の好意により所有していた山林(峯岸山1138)に鎮座できた。また、同年6月7日には杉崎内匠政貴によって造られた神輿も祀られた。この八坂神社神輿の彫刻には安政3年(1856年)の銘があり、この時から明治3年までは14年間あるが、彫刻師が制作した彫刻を保管していたのか、あるいは神輿自体が既に造られていたかどうかは判断が付かない。
 以来、入合部落(現元町)は単独祭典となったが、祭りは通り三町と同様6月7日に執行し、明治6年(1873年)の改暦後も通り三町と同様の7月7日にしたためか、毎年の紛争は絶えることがなかった。明治40年(1907年)の祭典では通り三町と元町の神輿が現在の中南信用金庫のある辺りで遭遇し、大喧嘩の末に通り三町の神輿が田んぼの中に落とされた。その後は3年ばかり神輿を出さない年が続いたが、明治43年(1910年)にそれまでの素木だった神輿に塗りを施し、元町と通り三町の区長や宮世話人が話し合って元町の祭りは7月12日に変更となった。
 祭りには仕来たりがあり、八坂神社勧請に尽力した十七家を定宿とし、祭りの1週間前になると十七家の筆頭であった松木家に伺いを立て、同家の蔵に保管してあった神輿の錺金具一式をもらいにいったという。同家駐輿を執行していた頃は、八坂神社神輿が出御後に最初に同家へ着御し、その後に各町での駐輿となっていたことから同家は特別待遇であった。しかし、昭和に入ると本祭日の1週間前に出輿した御仮屋を廃止して公会堂に変え、松木家を除き他の一六家の定宿も廃止していった。神輿巡幸は昭和28年(1953年)から昭和43年(1968年)まで、一部交通事情で幹線道路のみトラックでの巡幸を余儀なくされたが、昭和44年(1969年)からは全て担いでの渡御となった。昭和60年(1985年)よりこの松木家での駐輿はなくなり、現在では錺金具保管も町保管となっている。
 例祭日は戦時中まで7月12日に行われてきたが、戦後は生活も変って人口も増え、サラリーマンが増えてきたことから、元町と通り三町の宮世話人が話し合って、双方とも7月の第2日曜日に行われるようになった。また、神輿は特定の家ではなく地区で決めたところに止まるようになった。現在の祭礼は7月第3日曜で、子供の学期試験が終ったころに行い神輿が出る。以前は一日ですませたが、現在は土曜の宵祭に富士見が丘のお旅所を回り、翌日曜にその他のお旅所を渡御する。
  


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