神道しんとう

祭神

  われわれが神社に詣(もう)でるのはそこに神が坐(いま)すからで、神社にはそれぞれお祭りした神つまり「祭神」がある。
  祭神には大きく分けて日本の神と外国からもたらされた神とがあり、日本の神はさらに「天神(てんしん)」と「地祇(ちぎ)とに分けられる。令義解(二、神祇)には「天神を神といい、地神を祇という」とあり、釈日本紀(五、述義)には「天神とは高天原(たかまがはら)に生ずる神をいう」とある。古訓では天神を「アマツカミ」、地祇を「クニツカミ(国神)」とよむが、古代人がこの国すなわち「地」に対して「天」としての高天原を意識し、神をその生じた位置すなわち「天と地」によって天神と地祇に分けたことがわかる。
  ただし、祭神の中には神武天王以降の天皇や菅原道真の天神をはじめ、人臣にして神に祭られた神社もあり、これらは天神・地祇の区分には入らない。
  次に外国から来た神は、主として朝鮮・中国から帰化した人達がもたらした神で「蕃神」と呼ばれた。



神体・神像

  神は宇宙空間いたるところに存在し、目には見えないものとされている。そこで神を礼拝しようとするものは何らか形のある一定の物件をしるしとし、そこに神が宿っているものとした。このしるしが「神体」で、一般に敬称して「御神体」と呼んでいる。神体は一に「正体」とも「御形みかた」とも、また「霊代」ともいい(皇太神宮儀式帳)、さらに現代では「御霊代みたましろ」と呼ぶのが普通になっている。神体は本殿(神殿)の中央に神座が設けられてそこに奉安される。
  神体にあてた物件で比較的多いのは、三種の神器に基づいて「鏡」・「剣」・「玉」のるいである。この他には「自然の石」や「弓」・「矢」・「ほこ」などの兵器、「鈴」・「しゃく」・「釜」などをあてた神社もあり、簡単なものでは「御幣ごへい」などもある。
  これらに対してより具体的、一般的なのは「影像」であり、影像には「木像(彫像)」や画像があるが、これらを総称して神像といっている。神像とは仏教に対応する呼称で、神像が生まれたのも仏像にならったものである。仏像は仏教とともに六世紀に伝来したが、神像が造られたのは九世紀の初めと考えられる。

神仏習合・本地垂迹説

  今日では神様は神社、仏様は寺院とはっきり区別されているが、明治維新までは「神仏混淆(しんぶつこんこう)」でその区別が必ずしも明確でないことが少なくなった。仏教が伝来した当時、日本古来の八百万の神と外来の仏との間に不調和が生じたが、後には両者を調和融合する思想が現れ、これを「神仏習合(しんぶつしゅうごう)思想」という。要するに、神も仏も共に尊いものとして崇めようという考えである。
  仏教が国教化された奈良時代には、神宮寺と称して神社の境内に小寺を建てることが各地で行われ、「社僧(しゃそう)」という神社に所属する僧侶が常駐した。神道の神である八幡神には仏教の菩薩号を付けて「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」と唱えるなどして神仏の融合調和をはかると、盛んに信仰されるようになった。また、平安時代になると神社の拝殿の前で僧侶がお経を読む「神前読経(しんぜんどきょう)」という習慣が盛んになったという。さらに、寺院を建立する際には、もともとその土地に鎮座していた地主神(じぬしがみ)を寺院の守護神として必ず祀った。高野山の「狩場明神(かりばみょうじん)」や比叡山の山麓にある「日吉大社(ひよしたいしゃ)」も、元はこの地主神を祀ったものである。
  平安時代の後半には神と仏が同居するのが当り前の状況ができあがり、この頃になると日本の八百万の神はインドの仏(如来)が衆生(しゅじょう)(全ての人々)を救うために降臨した仮の姿であるという考え方が生まれた。これを「本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想」といい、平安末期から鎌倉時代にかけては神が仏の権(かり)に現らわれたということから「権現(ごんげん)」という語が生まれ、春日権現などと呼ばれるようになった。このため神社を仏・菩薩がお護(まも)りすると言う意味で、神社の境内に神宮寺(じんぐうじ)や本地堂(ほんじどう)が建てられた。文献に見えた神宮寺の初めは霊亀元年(715年)に藤原武智麻呂が創建した「気比(けひ)神宮寺(藤原家伝)」で、これ以後諸国の名神大社に次々と神宮寺が設けられた。



神仏判然令・廃仏毀釈

  明治維新を機に政府は神道を国教と定め、明治元年(1868年)に「神仏判然令しんぶつはんぜんれい」を出して神と仏を厳然と区別した。その結果、神社にあった神宮寺などは直ちに撤去され、社僧などの制度は廃止された。そのとき社僧の多くは服飾(還俗げんぞく)して神職となったが、それに従わなかったものは廃職追放された。今日の神職のうちには還俗した社僧の子孫も少なからず存在する。
  一般には、この様な「神仏分離」の過程を「廃仏毀釈」と同一視し、政府の指導で行われたと理解されているが、実際の政府の意図は渾然と祀られていた神と仏を引き離して、神社の存在を明確にすることにあった。政府には仏教を徹底して排斥する意図はなかったが、神仏判然令が出ると多くの国民は政府が仏教の廃止を決定したものと考えた。そして半ば暴徒と化した民衆が仏教寺院になだれこみ、略奪や僧侶への暴行、焼き討ちなど無軌道な破壊行動を行った。
  このような破壊活動に発展したのは江戸時代の僧侶達のあり方にも一つの要因があった。江戸時代に幕府の宗教政策の一環として檀家だんか制度が確立すると、寺院は経済的にも安定し檀家はその支配下に置かれた。そして、僧侶の中には檀家に対して不遜な態度をとるものもあった。そのことから、檀家の間には僧侶や寺院に対する不満を抱くものが少なかったのである。神宮寺や本地堂はおおむね明治4年頃までの間に神社から分離され、もしくは絶滅せしめられた。
  しかし、豊川稲荷や日光東照宮のように神仏が渾然こんぜんと祀られているところは未だに存在し、現在でも民衆の中には神仏習合に根差した信仰が根強く残っている。日本人は結婚式を神前で挙げ、葬式は仏教で行い、また初詣などの時に寺社をハシゴする。このような信仰の形態は既に仏教が伝来して、しばらくしてから始まっていたのである。
  また、明治以前の神社・仏閣の造営、祭事などは全て将軍や大名などによって行われてきたようであるが、大政奉還後には全て氏子の手に委ねられるようになった。   


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参考文献
タイトル著者/編集出版/発行出版年
すぐわかる日本の神々鎌田東二(株)(株)東京美術2005(平17)

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