国府祭
(三之宮編)
比々多神社の氏子は宮元の集落である三ノ宮と神戸・栗原の三地区で、4月22日に行われる例祭の時には三地区の氏子青年が神輿を担ぐが、国府祭に供奉するのは全てではなく、三ノ宮・神戸・栗原がそれぞれ一年ずつ交替で行くことに決められている。
神輿の道筋
比々多神社から国府の神揃山までの往復に二八ヵ村を通ったといわれるが、これは江戸時代の村数である。江戸時代末期の記録によると往道と帰り道とが異なっており、往道は串橋→坪之内→善波→落幡→北矢名→真田→北金目→南金目の諸村を経て金目川を徒渉し、千須屋→上吉沢→公所→坂間→下吉沢→出縄→万田→生沢の諸村を経て化粧塚に至り、ここで装束を整えて神揃山に到着する。帰り道は神揃山から生沢→寺坂→下吉沢→上吉沢→千須屋→片岡→南金目→北金目の諸村を経て、岡崎村?で金目川を渡り丸島→串橋の諸村を通過して三ノ宮村へ入った。
地図で見ると往路と還路とは上吉沢の札の辻?の一点で交わる8の字形をしており(一方では帰りは一直線であったと伝えられている)、全ての氏子たちの居住村を通るという趣旨から出たものと考えられる。そのため、三ノ宮村から神揃山への直線距離は寒川神社の場合より短くても、実際の神輿の行程は比々多神社の方が長かったのであろう。神輿が比々多神社を出発する時間は5月5日の午前2時であったので、寒川神社より3時間も早く出輿していた。また、三ノ宮に限らないが国府祭に渡御する神輿の道筋は決まっており、長く変えることがなかったと伝えられている。
神輿は村送りに担がれ、三ノ宮が神輿渡御に通行した道を「三ノ宮道」と呼んだ。沿道の村人達は村境まで神輿を迎えに行って受け取り、自分達の村の中を担ぎ、村はずれまで担いでいくとそこには次の村の担ぎ手が待っていて渡すのである。他の4社の神輿は街道を往還するのに反して、三ノ宮の神輿はほとんど道らしいところを通らず、水田も畑も構わずに突っ切って直進した。古老の話によると、三ノ宮に田や畑の中を通ってもらうと作物がよく出来ると信じ、不作の耕地を通ってもらうよう願い出る者もあったという。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「帰輿ノ時ハ大綱二条、小綱二条ヲ神輿ニ結付、山川田畑ノ嫌ナク、道ナキトコロヲ舁超ユルヲ例ス」とあり、拝殿に今もかけられている大綱・小綱はそのためのものだという。
昔は毎年ではないが1週間もかかったこともあったといい、何日もかけて往復する時は農家などに泊めてもらっていたようである。毎年決まって休むところはあり、それは南金目と寺坂であった。寺坂は鈴木氏という個人の家で土地の旧家であり、特に三ノ宮と深い関係があった家ではないようだが、何代か前の祖先の方が御祈祷してもらったことがあり、効験があったということでそれから宿をするようになったという。現在では寺坂で休むことはなくなった。
出発
国府祭に供奉する氏子の人々は神社に入る前に、注連縄が張られている化粧塚の前で麦藁を燃やして身体を浄める。8時にデタチの酒を酌み交わし出御するが、この時に担ぎ手は雄たけびをあげて拝殿にあがり神輿にとりつく。この時にあげる声は「乱声(らんじょう)」といい、乱声をあげるのが三ノ宮の特徴である。
担ぎ下ろされた神輿を中心に行列を組み神社を出て、行列は化粧塚の上を通り神輿をいったんその上に下ろす。現在はそれだけのことであるが、昔はここまできちんとした服装でいった供奉の人たちが、ここで身支度をかえて旅装束になったものだという。そして帰りはここで旅支度から正装に変えた。
地名といえば鶴巻に「烏(からす)鳴き」と呼ばれるところもあり、今は5月4日の夜にミタマウツシをして翌朝の8時に出発しているが、昔は夜中に出発したもので、このあたりまでくると夜が明けて烏が鳴く頃になるので烏鳴きと呼ばれるようになったそうである。
神輿の行列はそのまま進んで国道246号線に出て、農協前で車に乗せられ金目に向かうが、昔は当然のことであるが奉仕する人々の肩に担がれて国府への道を進んだ。
南金目
南金目は金目観音堂で、現在でも行きには必ず休憩することになっている。観音堂は坂東三十三ヵ所の第七番の札所になっている有名な観音様で、天台宗の光明寺というのが正式な名称である。観音堂の門前に地元の人が行在所を作り、そこに神輿をおろし「着御祭」を執り行う。観音堂と比々多神社が直接関係があるわけではないが、金目には比々多神社の敬神講ができている関係で祭りをすることになっている。敬神講は金目だけで、かつては金目の方に三ノ宮の社家が10軒位あった。
9時に南金目に到着すると金目の熊野神社境内に車を止め、神輿は金目川畔の観音堂まで担がれていく。観音堂の門前には青竹を立て注連縄を張って行在所がしつらえており、神饌が用意してある。露払いの鉄棒(かなぼう)に先導された神輿は観音堂の前から金目川におり、流れに入ってひとしきり川の中を練り歩く。威勢のよい担ぎ手達はお互いに水を掛け合って、道半ばにしてずぶ濡れの状態になる。昔は金目川を渡渉していたといわれ、その頃の記憶が伝承されているのか、対岸の川原に一寸あがって引き返してくるのが慣例となっている。
20分程川の中を練り歩いて上がってきた神輿は行在所に安置され、講中・供奉の人々列席の上で小祭りが行われる。ここで供えられる神饌は神酒・お供え餅・菓子・果物・野菜・赤飯である。ちなみに三ノ宮に所蔵されている天保10年(1839年)の『御大祭記鑑』には、御祭礼場御膳備方式としてまず濁酒を三献し、次いで御飯(高盛)・しと子・五味・梅・竹・竹子の膳を一膳用意して、繰り出すように三度神輿に供える。他に三宝にてチマキを三度献じ、同じく三宝で御酒徳利を供えるが、これは一度だけで〆て十度であるとしている。しと子とはシトギのことか、餅つき節米の粉を取置きて用ゆと書かれている。五味というのは一般的には辛・酸・鹹・苦・甘の五種の味のことだとされいるが、この場合は枝付のままとあるので果実である可能性もある。梅もまた枝付きの青梅を供えた。もちろん現在のものはこれらとは全く異なっている。
小祭りが終わると供奉の人々は観音堂で接待を受け、10時前に金目を出発する。神輿は金目をたつ時にも川に入るが、今度はすぐに上がって川沿いの道を少し下り、車に乗せられて吾妻橋を渡る。
血見世坂
南金目には「血見世坂(ちみせざか)/血噎坂(ちむせざか)」と呼ばれる坂があり、静寂寺の南から南金目・千須谷との旧村境までの全長約200mほどの急坂をいう。ここは道中一の難所といわれ、担ぐ者に血を見なければすまなかったことから付いた名であるといわれる。古老の話ではこの坂で担ぐ者には跡取り息子を出さず、養子に来た者や次男・三男に当たらせたとのことである。四筋の大縄の一方を神輿の蕨手に掛け、他方を丘上の樹木に掛けて引きずり上げた。
ここを超えると上吉沢地区に入って眺望の良い尾根道となり、そこで一旦尾根道を降りて千須谷地区に入ると「水タリ」という地名がある。ここはこのルートで冷たい水の飲めるところから命名されたもので、そこをあとにまた尾根道に戻って一路南下すると中沢橋の袂に出る。
神揃山へ
歩いていた時代は金目から公所村を通り、寺坂に出て鈴木氏宅で休んでいた。金目と寺坂の宿は近年まで休憩していたのでよく記憶されているが、これ以外にも休み場はあったようで、先にあげた『御大祭記図鑑』によると寺坂村の鈴木氏と金目村宿のほかに、吉沢札之辻宿・大畑村宿・丸島村宿などが宿として記されており、鈴木氏には10把、他は10本結い1把宛のチマキが遣わされている。また宿とは書いていないが神戸村万屋にも他の宿と同様にチマキ10本が配られており、宿であったかと思われる。寺坂の鈴木家には往復共に寄ったものか、チマキ10把は帰りに遣すと注記されている。他は往路か帰路どちらかの立寄りであったようだ。
公所・下吉沢・寺坂・生沢をたどり、県立実習学校入口から左に折れて神揃山に登る三之宮の登り口に着く。金目からここまで車で20分たらずの時間である。
馬場の中村家はヤドといわれ、5日5日の当日に三之宮のコシ(神輿)の担ぎ手・世話人・氏子総代・三之宮の宮司が休憩する家になっている。平成元年から二間ほどのテントを庭に建てて、その中で休んでもらっている。中村家は先祖代々、三之宮を迎える在庁を勤めており、中村家の屋敷地には「御両大明神」が祀られていて、当日は桐箱に納められた御両大明神の御神体を持参して待機している。この御神体を宮司に手渡し、宮司はこの御神体を白い布に包んで神輿に結びつける。三之宮は中村家にお供え餅と粽をもってくるといい、中村家ではこれらの供物を床の間に納めておくという。
御霊社
実習学校入口から左折して山下に着いたところで在庁の出迎えを受ける。三之宮の在庁は馬場の中村・近藤両氏と昔から決まっていて、そのうち中村氏についてはつぎのように語られている。
三之宮の神輿の左の蕨手に白布に包まれた細長い箱は三之宮の御霊(ごりょう)社だといわれており、通常は馬場の中村氏宅が預かっている。中村氏が在庁として迎えに来る際に持ってきて、そこで蕨手につける。神揃山から大矢場までの行事が終わるまでは神輿につけているが、還御の時に神輿からはずしてまた中村氏に預ける。国府祭は夏祭りになるため、夏の厄災を鎮めるということで御霊社のカミザネを捧持していくのである。国府祭にお参りすると夏負けをしないという信仰があるが、それはこの御霊社に対する信仰からでたものだといわれる。三之宮の御霊社は三之宮を創建された神様だといわれており、シメシキに祀られている。シメシキというのは大山街道から神社に向かう参道のところで、もと比々多神社の鳥居があったといわれいている。注連縄を張り、神事を行う場所であったのだろうか。
「六所明神の縁起」には三宮大明神が末代まで氏子の信仰を厚からしめんために自らの神像を画き、三之宮の宮寺に与えたが、後に神託によって国府の中村左衛門の家に祀られた。さらにその後、六所の別当寺に移ったが真勝寺の真長和尚の夢枕にたち、自分は昔、末代の氏子に拝まれんとの誓願あって画いたのであるから、端午祭礼の日に三之宮神輿の左の蕨手に掛けるように告げた。天正年中(1573〜93)に初めて御開帳したのが男女二神の尊像であり、これを御両大明神というと記されている。二神が画かれているから御両大明神なのではなく、御霊大明神なのであろうか。
伊勢原市三ノ宮のあたりは古く国府が置かれていたところだという説もあり、シメシキの御霊社はその国府の御霊社として祀られていたものであるともいわれている。国家安泰・天下泰平・五雨十風・五穀豊穣を祈願する総社の祭りでは、正体の知れた国内諸神に奉幣し祈願するだけでなく、祟りなす恐ろしき神ををもまたまつり鎮めることも大事なことであったのであろう。
白丁と祭半天
他社の神輿の担ぎ手は白丁姿であったが、三ノ宮だけは祭半天である。類社会議の際に素木(しらき)造りの神輿であるから、白丁姿が似つかわしいという話が出てそれが採択されたが、三ノ宮は昔からアラガミで暴れ神輿ということになっている。その神輿が白丁姿で暴れたのでは様にならず、統一のある祭半天でこれまでもやってきたし、これからもそのことは変えないということで許可を得ているのだという。
神輿が神社に帰着するのは暗くなってからであったので、三之宮では神輿供奉の番でない町内の青年が半天を着て、提灯に火を入れ迎えに出るという。
チマキ
比々多神社でも1600本くらいのチマキをつくるのだが、ここでは氏子総代に頼んで茅を刈ってきてもらい、きれいに揃えて何日間か日陰干しにしておき、餅も少し早くついておくという。
三ノ宮にはかつてチマキ講中と呼ばれる人たちがいて、チマキ結いをやっていたという。チマキ講中は三ノ宮13人・栗原1人の14人で、祭礼の前々日の早朝に神社へ集まり、湯あみして身体をきよめ、フクメンをして無言でチマキを巻き結んだものであった。フクメンというのは二つ折にした白紙を口にくわえることであった。昼には神主が酒一升と赤飯を床の間におき、このとき神主もまた無言でおいていくのである。
講中の人たちは昼食として酒をいただき赤飯を食べるが、この時も無言で、チマキをつくり終わってはじめて口をきくことが許されたのであった。この時に勝手手元で働く女性は10人くらいいたが、善波の人が多かったという。この人たちは髪に三寸五分の幣を挿し、腰には不浄除けのお札をつけていたものであるという。
あばれ神輿
5月5日の国府祭のとき、三ノ宮神輿はよく暴れた。三ノ宮から国府本郷へ渡御するとき、途中の22ヶ村を山川田畑のいといなく渡っていくのであるが、神輿の暴れぶりは尋常ではなかった。そうしたことに対し、寛政7年(1795年)に代官は請証文「三之宮御神輿通行の儀に付き申渡請証文」を作り、関係する村々へ申し渡した。その一部分を抜粋要約すると次のようで、いかに暴れたかがよく分かる。血むせ坂は血を見るほどの神輿の暴れぶりに因んだ地名となっている。
「神輿を田畑や川に投げころばしてはならぬ。神輿がよごれた場合、清めるといって川に投げ込んではならぬ。みだりに田畑を踏み荒らしてはならぬ。金目村の血むせ坂と万田村の座当ころばしの難所を通るときは、村役人を配置し、控綱を心付け、怪我人の出ないようにせよ。神輿を村から村へと持送りすることにつき、神輿の受渡しのときには、喧嘩口論や争いごとを固く禁じる。」
化粧塚
三之宮の「化粧塚」は神社側だけではなく、神揃山にあがる三宮道の坂をあがって尾根筋にかかるところにもあり、行列は道をそれて塚の上を通っていった。化粧塚は他の宮にはなく三ノ宮独自のもののようであり、何故三ノ宮だけにそれがあるのかについては伝承も残っていないようである。三ノ宮にある化粧塚の側には栗原川が流れており、その少し上手には斎館があったといわれ、昔はこの辺りでミソギをしたのではないかといわれている。神主は国府祭の前には一週間位ミソギをし、精進潔斎をしたものであった。
『風土記稿』の国府本郷村の項に「化粧塚、西北ノ方、生沢村境ニアリ、由来詳ナラズ、此所ハ三ノ宮明神ノ休息所ト云」と記されているのがこれであろう。今は上を通るだけであるが、かつてはここで休み仕度をを直したのであろう。また、比々多神社側の化粧塚については同じく『風土記稿』の神戸村の項に、「高七尺許、三宮村三宮明神祭礼ノ時、神輿ヲ此上ニ据エ修飾ヲ加フ」とあり、また三宮明神祭礼の項に「毎年五月五日、大祭ト称ス、此日暁天ヨリ所々ニ篝火ヲ焼、神主禰宣等供奉シテ、神輿を舁ギ旧ノ社地辺ヲ過リ、化粧塚ノ上ニテ注連戸張等ヲ飾リ、串橋村ヘ渡シ、夫ヨリ通行ノ村々ノ民、其境ニテ送迎シ、金目村に暫ク休憩シテ淘綾群国府本郷村ニ至ル・・・」と記してある。古くはここで供奉の人々が装束をかえるだけでなく、神輿の化粧直しも行ったのであろう。
取材
●栗原編・・・平成30年(2018年)5月5日
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