千須谷
熊野神社
「熊野神社」は千須谷の氏神社で、祭神は「伊邪那美命」・「速玉男之命」・「予母津事確之命」である。当時3軒しかなかった千須谷の住人が氏神を勧請するために、弘安4年(1281年)に遠く熊野へ出向いて分霊したといわれている。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では「熊野社」とある。弘化4年(1847年)に社殿を再建して明治6年(1873年)に村社となったが、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により社殿は倒壊し、その後再び再建された。
社殿横には「八坂神社」と「水神(社)」が祀られており、水神社は正面に「水神」、右に「文化七年(1810年)六月」と刻まれた石塔である。
熊野神社 | 鳥居 |
水神社? | 燈籠 |
拝殿 | 覆殿 |
境内 |
例大祭
例祭日は『風土記稿』によると旧暦の9月9日であったが、その後は4月8日なり、現在は4月第1日曜日である。
昔は神楽や芝居があったり、剣の舞が奉納されたりして賑やかなものだったという。前日の7日に青年が幟を立てたり舞台作りをし、夜には宮番が拝殿に籠もった。青年は一軒ずつ廻ってオニギリと。煮〆を集め、宮番に食べさせたり夜太鼓を叩きにきた者に出した。乞食が来るとこれにも積極的に与えたという。祭り当日には芝居を買って芝居をさせると共に、平塚の八幡から神楽を迎えてきて奉納した。この神楽が始まって1幕か2幕すると中入りになるが、次の幕の始まる前に剣の舞をした。小さい剣をくわえ、長い剣を両手に振りかざして舞う勇壮な舞で、毎年必ず曽我要助氏というひとが奉納したという。奉納のいわれについて次のようなことが伝えられている。
かつて彦左衛門という人がおり、その子に伝吉と要助がいた。彦左衛門50歳位の時にいったん亡くなり、近所の人が葬式の支度をしていた。すると死んだ筈の彦左衛門が生き返り、その奇蹟にみな驚んで口々に死んだ気持ちはどうだったかと尋ねた。そこで彦左衛門が言うには、苦しかった、夢の中にどこか坂があって登って行くと原っぱがあった。原っぱを何処までも行くと白い装束を着た神主が現れ、片手に刀を振りかざしてここはお前の来る所ではない、早く帰れ、というので驚いて帰って来たのだという。聞いていた人々は不思議な夢を見るものだとして夢の内容を神主に話したところ、神主が言うには白い装束の人は予母津事解決之男命(熊野神社の祭神)で、この神が現れたのだという。そこで子息の伝吉と要助は、父彦左衛門は熊野神社の祭神に助けられて帰ることができたのだといい、以後兄の伝吉は毎月8日に熊野神社に月参りをすることにし、弟の要助は毎年祭典の時に剣の舞を奉納する事になったのだという。現在は神楽の奉納もなくなったので、剣の舞いも行われていない。
祭りの翌日はハチハライといって一杯飲んだ。
太鼓
昔は山車があった。
神輿
千須谷の歴史
千須谷は「背栖谷」の転訛したものといわれる。幕府領であった千須谷村は寛文3年(1663年)に稲葉正則(小田原藩)に与えられ、天和3年(1683年)に幕府領に復するが、元禄10年(1697年)に旗本揖斐政興の知行地に替えられて明治に至る。千須谷は昔から家数の少ない村で、『風土記稿』の戸数は15戸とあり、戦争直後は32軒だったという。
当社の所在地は「宮ノ山」でその北側が「宮ノ腰」、西側は「宮前道上」と「宮ノ前」と4つの神社関係の地名が付けられている。
青年会・青年団
「青年会」は村の戸主たちだけの集まりで、年齢は大体40歳くらいまでであった。秋には各自里芋を一升ずつ持ち寄って、お月見と称して酒を飲んだ。自治会の集会を「ジョウカイ」といい、千須谷の集会所は昭和30年(1955年)頃に曽我毅義氏の土地を借りて建てたものである。それ以前の集会所は大変傷んでいたが、「青年会」と呼んでいた。
青年団は25歳までの若者達の集まりで、金目村に男子青年団と女子青年団があった。
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