四之宮
国府祭
国府祭は「六所神社(国府本郷)」・「寒川神社(一宮、高座郡寒川町)」・「川匂神社(二宮、中郡二宮町)」・「比々多神社(三ノ宮、伊勢原市)」・「前鳥神社(四宮)」・「平塚八幡宮(新宿)」による合祭で、神揃山では六所神社を除く五社による座問答などの古式があり、大矢場では五社と六所神社との間に特殊な祭祀が行われる。
平安時代に相模国の国府が餘綾郡柳田(大磯町国府)の地に遷ると、国司が毎年端午に同所の神揃山へ五社の参集をもとめ、国家安泰、五穀豊穣の祈願を行ったのが始めとされる(昭和41年無形民俗資料指定)。また、国府祭という名称は明治以降の創定で、それ以前は「端午祭」と呼ばれ5月5日を祭日としていたが、この時、旧端午を新暦に換算した6月21日なった(永田衡吉「神奈川県民俗芸能誌(下)昭和43年」)。現在では新暦の5月5日となっている。
神揃山までの道のり
5月5日はミタマの神輿を担いで大磯町国府の神揃山に出かける。昭和30年(1955年)代頃から自動車で神輿ごと神揃山に出かけてしまうが、かつては前鳥神社の大門から真直ぐ進み、北向観音の横を通り抜けて厚木街道に出て、平塚八幡宮の境内を通り東海道から神揃山を目指した。帰りの巡路は往きの逆となるが、北向観音からはそのまま厚木街道を通って東町を抜けて前鳥神社に戻ってきた。その時、かがり火を焚いて神輿がお宮に帰ってくるのを迎えたという。
道中では平塚柳町の古谷氏と大磯の高橋氏で休んでいたという。
農具市
かつて、大野の人は毎年国府祭へ行く人が多く、荷車に弁当を積んで家族総出で出掛けた。国府祭で売る農具は鍛冶屋の話によると半端物であり、あまり良い品物でないものを出すというが、農家ではこの市で買った鍬は良く切れて作物も良くあたるといった。
神輿
四之宮のミタマカツギを行う白丁は現在では希望者であるが、戦前まではその年に徴兵検査を受ける年齢つまり満20歳に達した者に限っていたという。12名位で鳥帽子に白丁という出立ちで行く。武運長久や厄払いの意味を持っていたもので、もとは志願者が多くくじ引きで決めることもあったという。
昔は大神輿を担いで大磯まで出かけた。
麦振舞
四之宮は神揃山に登る前に神揃山の程近いところにあるテニスコートの裏側、「畑中」というところに休場が設けられており、麦振舞はここで行われる。四之宮の神輿は10時頃に畑中の休場に着くが、ここに着輿したらすぐに供奉してきた白丁に御馳走する。干した里芋の茎を一緒に炊き込んで味付けした御飯を里芋の葉に盛り、おかずは唐辛子で味付けした干大根の煮付け程度のもので、竹の箸でいただく。それに御神酒が付く。早朝から神輿に供奉してきた白丁の腹ごしらえの御馳走だといい、麦振舞の料理は氏子の中で当番を決めており、その当番の家で用意して持ってくる。昔の御飯は1升飯であったという。
『風土記稿』には「当社神輿供奉ノ者ニ、四月晦日、米一升ヲ椀ニ盛、芋ノ葉ノ汁、十??(干大根のこと) 蕃椒(唐辛子のこと)ヲアヘモノトシテ饗ス、是ヲ麦振舞ト称ス」とある。現在は4月晦日には行われておらず、4月晦日に行われていたものが5月に行われるようになったのか、4月と5月の2度に渡って行われていたものかは不明である。
迎え火
四之宮独自の行事として還御の際の迎え火の行事があり、神輿が厚木道を氏子町内に入ると、沿道の各家々で門口にたてた麦藁に火をつけて迎えたものである。神輿は道をはすかいに練り歩いて、軒ごとに焚いている火を踏みつけながら神社に帰った。もとは麦刈りが済んだ後に祭りが行われていたので新藁を燃やしていたが、太陽暦の5月5日になった今は新藁ではないが、同じく麦藁を焚いている。
ある時、石油缶にいれた廃油に火をつけた家があり、白丁が火傷をするという事故が起こった。氏子町内ではなかったが、一時期迎え火を焚くことを止めることにした。現在は復活しているが、厚木道から神社に入る横参道沿いの家々だけでやることにしている。
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