国府新宿
八坂神社
天王森には「オテンノウサン」といわれる「八坂神社」を祀り、天王森は昔は大きな森であった。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』の国府新宿の項には「牛頭天王社、六所神社の末社」とあり、この「牛頭天王社」が八坂神社に相当するものと推測される。神主は「六所神社」の柳田氏が勤めている。
鳥居 | 参道 |
社殿 | 神輿殿? |
祇園塚の道祖神 | 境内 |
例大祭
『神奈川縣皇國地誌殘稿』によると例祭日は7月7日であったが、現在は7日の第2日曜日になっている。神輿が出るので青年たちにとって楽しみな祭礼で、この神輿をオテンノウ様といっている。
祭りの当日に六所神社の境内に集まって神輿を担ぐ。八坂神社の鳥居の前には幟を立て、神輿が渡御する道沿いに注連縄を張る。昔は氷屋や安倍川餅を売る店などが出て賑やかであった。
青年会
青年会は国府新宿が一つの組織で「新宿青年会」といい、長男は高等小学校を卒業して15歳で入り35歳で抜けた。長男は必ず入ったが、次三男は他所へ出るのが普通だったからいらなかった。昔は15歳になると絣の羽織を作って、親に連れられてお宮参りをした。宮参りを済ますと地引網の手伝いにいっても一人前に見られた。青年会に入って18歳(20歳という人もいる)になると消防に入り、特に長男は入ることが義務付けられており、35歳まで加入していた。次三男も土地に住んでいれば出た。昔は120人位いて、消防と青年会は同じ年齢層の男子で構成されていたので、青年消防と呼ばれ一つの組織のようだった。消防には分団長1名(55〜60歳)と副団長1名がいて、その下に要員がいた。
戦争前は青年会の力は大きなもので、八坂神社の祭礼で神輿が出るときは青年会が取り仕切りって神輿を担ぎ、お祭りには芝居を打った。今の神輿担ぎは町内会や氏子の力を借り、各地の神輿保存会も担ぎに来るが、昔は青年会だけで十分できたという。新宿中を担ぐにしても町内渡しのようにして、まず原町を回って東海道を通って上町に行く。7月20日に六所神社の行事としてマンガレーをやるが、このようなときにも余興の芝居を青年会が企画した。芝居の道具を牛馬力で取りにいったり、役者用の据え風呂桶を借りて用意した。食べ物の準備なども大変だったという。また、国府祭も青年会に参加要請があり、他の神社の安在所を作ったり、片付けたりした。
昔は村の入会地のようなところへ植林したり、春秋の道普請などの勤労奉仕を町や村から頼まれて行き、青年会はずいぶんあてにされていたという。消防の点検などの時には握り飯を作ったり、漬物屋からラッキョウやタクアンなどをとったりして昼食づくりをした。また、町内で嫁を迎える家では町内の青年会の幹事をはじめ、主だった会員に結婚式の警戒を頼むといい、式を行う家の隣の家を借りて招待し、酒や食事を振舞った。青年会では式を無事に終わらせるための警戒だと言っていたそうである。会費は1年に1回わずなのお金を会員から集めていたが、町や村からの補助、寄付金などで十分まかなえた。
青年会館は青年会のたまり場で部落の集会にも使われていたが、以前は天神さんやお稲荷さんが祀ってあった所で、明治のころ整理して青年会館を作り昭和14年(1939年)頃に建て直した。そこで毎年1月2日に初集会を行い、長男は15歳になると親が事前に町内の青年会の役員にお願いしておいて、この初集会に出かけていって加入の挨拶をした。会員が揃っているところで、どこどこの家の誰の長男だとか紹介され誓約書を読まされた。また、この日は役員を決めたりして、旧役員はそれぞれ自宅で待機しており、決まると旧役員の家まで報告に行った。役員は年かさの者がなっていた。
役員は会長1名・副会長1名・会計2名・幹事(各町内から出たが、町内によっては2名のところもあった)がいて、5、6人ずつに1人伍長を置いた。120人位の会員がいた時代もある。原町は昔から全体の三分の一を占めていたので、青年会の会長・副会長のいずれかは原町から出すべしと決まっていた。また、青年会とは別に青年団(15〜25歳まで)もあり、これは全国的な組織であった。
囃子
神輿
天王さんの祭礼には子供神輿が出て、その時に歌う歌は次の通りである。また、子供神輿以外では「大磯甚句」や「さのさ」が歌われた。
「ここは新宿 海辺の子供
波が荒けりゃ 気も荒い
鷹取山から 下を見おろせば
茄子や胡瓜の花盛り
沖に見るのは 次郎ちゃんの舟か
丸に十の字の帆が見える」
国府新宿の歴史
国府新宿の集落は国道1号線沿いにあり、東は国府本郷、北は月京、西は二宮町、南は海に面している。集落の中ほどに六所神社の参道の大門があり、六所神社は国道1号線から少し北に入ったところにあるが、六所神社の場所だけは国府本郷の飛び地となっている。神社の周囲にも集落が存在するが、神社の北側はかつて畑であり、近年になり人家が増えた。北は長谷川を挟んで月京地区となる。六所神社前を東西に伸びる道を横大門といい、国道から北に延びる相模原大磯線(県道63号)は粕屋街道と呼ばれた。相模原大磯線は戦争中は俗に八王子道路と呼ばれ、国道から分岐する付近は最近できた道であり、旧道がそのすぐ西側にある。昔は東海道沿いの家々は農家が多く、商人はほとんどいなかった。
国府新宿には東海道に沿って西から「上町」・「中町(中宿ともいう)」・「木下」・「鳥居戸」・「原町」があり、原町は戦後急激に戸数が増えて原と祇園塚に分かれている。また、東海道から北に入って「岸町」・「長谷川(西長谷川ともいう)」・「森下(二宮変電所の東側一画)」などの町内に分かれており、長谷川と森下は比較的最近になって住宅地として新設された町内である。また、町内の区分の他に村区分というものがあり、新宿全体を「カミ(上町・中町・森下)」・「ナカ(木下・鳥居戸・岸町)」・「シモ(原長)」と三分することもある。例えば子供会はカミ・ナカ・シモに分かれていて、老人会はカミ・ナカ・原町と分かれている。
近世村の国府新宿の社会的なまとまりを部落といい、それを代表する役として区長1名を選出している。新宿は上述のようにいくつかの町内に分かれており、全体で20名位の町内会長がいて、町内会長の中から区長1名と副区長2名が互選される。カミ・ナカ・原のいずれからから区長が出ると、他の2地区から副区長を選ぶ。戦前はこの区長に当たる新宿を代表する役を「常設委員」といい、原に1名、カミ(原以外)に1名の2名があり、任期は2年だったが財産のある家の主人が何年も続けていた。常設委員は戦争中まであったという人もいて、出征する人があると訓辞を与えたりしていた。
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