国府本郷・国府新宿
六所神社
「六所神社」は江戸時代には相模国の総社で、旧国府本郷村・旧国府新宿村・旧生沢村・旧虫窪村の鎮守であったが、現在は国府新宿と国府本郷の中丸・馬場の三地区で祀られている。さらに国府新宿では六所神社の摂社である八坂神社、中丸では八坂神社、馬場では守公神社をそれぞれ祀っている。六所神社の社地は国府新宿分にあるが、国府本郷の飛地であり、昔は六所神社は新宿の中にあっても本郷の氏神だったという。祭礼の折に本郷の人は拝殿に上がれたが、新宿の人は上がれなかったので、神社の経費を新宿で半分持つから自分たちの氏神にしてくれということになって、現在の様な形になったという。
人皇第十代崇神天皇(紀元前97〜29年)の頃、出雲地方よりこの地に氏族が移住せられ、この地を「柳田郷」と名付け、氏族の祖神たる「櫛稲田姫命」、「素戔鳴命」、「大巳貴命(大国主命)」を守護神とし「柳田大神」と称した。創建は崇神天皇甲申の歳と伝えられている。大化改新(645年)後、国の行政も次第に整い国司の制度が始められてゆく中に、元正天皇の御代養老2年(718年)閏4月8日石神台山頂より、奉遷歴勅を以て相模国八郡神祇の中心たる相模国の総社として元鎮座地に遷座した。
平安時代に入って相模の国府(今の県庁)が現在の大磯町国府本郷馬場公園付近に置かれると、柳田郷の地名も相模の国府と称されるようになった。以来、国司(現在の知事)が任務に着くと、まず神拝(国中の主たる神々を巡拝し国幣を領つ制度)を行ったが、巡拝は大変な日数と費用・人員を要するため、主たる神々の御分霊を合わせ祀る社すなわち「総社」を設け日々の祈願所とした。相模国の場合、柳田大神に「一之宮寒川神社」・「二之宮川匂神社」・「三之宮比々多神社」・「四之宮前鳥神社」・「平塚八幡宮」の分霊を合わせ祀り相模国総社の成立を見た。また、六ヶ所の神社を合わせ祀るところから、近世まで「国府六所宮」や「六所明神」とも称されるようになった。相模国の国府祭もこの時代から「お祭り」の性格を持つようになったと思われる。
鎌倉時代になると源頼朝公の崇敬誠に篤く、『吾妻鑑』によると治承4年(1180年)10月16日条、平氏の大軍が平維盛を大将として富士川に攻め寄りし時の戦勝祈願をはじめ、奥方の北条正子の安産祈願等、相模国府の「六所宮」に参詣したことが記されている。戦国時代には戦国大名北条家の崇敬も厚く、氏綱公が永正年間(1501〜1520年)に社殿の造営、また4代目左京大夫氏政公が本殿の修復を行いこの本殿が現在のものである。
天文13年(1544年)12月23日付けの北条氏康寄付状があり、相州六所領六十五貫七八文とある。また、徳川家康も崇敬の念篤く天正19年(1591年)武運長久の祈願として六所領五十石の寄進の御朱印があり、三代家光公は慶安元年(1648年)国家安全祈願として五十石の御朱印状があり、以後歴代の将軍の特別なる祈願と六所領の寄進があり明治に至っている。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「六所明神社 當社は本州の総社と唱え、當村、及び國府本郷、生澤、虫窪四村の鎮守なり、(中略)古は柳田大神と號せしと云、柳田は所在の古名なり、祭神は稻田姫命にして、素戔鳴・大巳貴の二尊を合祀す」と記され、別当寺院は「真勝寺」であった。明治以降に「六所神社」といわれた。
社号柱 | 鳥居 |
六所神社 | 手水舎 |
神楽殿 | 絵馬 |
狛犬 | 狛犬 |
拝殿 | 覆殿・幣殿 |
六所稲荷 | 国府祭 縣無形文化財記念碑 |
六所ひぐるま弁天社 | 水神社 |
池と燈籠 | 境内 |
六所神社については次のような話がある。六所さんは元々石神台にあった。六所さんの御霊に触れることができるのは、馬場の柳田カンザエモンの家と近藤ゲンエモンの家だけであったという。柳田はもと村の北の方の長谷川に近いところにいたが、東海道が整備され便利になるというので、自分の所有地の地続きの国道縁に移った。現在の六所神社の神主はこの家の分家であり、元は国府本郷に住んでいたが、今は神社の中に越した。
昭和の初めまでの国府祭には、この柳田と近藤とで御霊を担いでいた。今は4人で担いでいるが、昔は2人で担いだものだった。『風土記稿』には「神主 近藤因幡、国府本郷村に住す」とあり、神主は近藤氏から柳田氏に代わったのである。なお、昔の神主の近藤氏は国府本郷の馬場に住んで現在も続いているが、先の近藤ゲンエモンの家と同じかどうかは確認できていない。
かつては神田として田畑が二町歩ほど所有していたが、現在は八反程度であるという。
総社
「総社」とは「惣社」とも書かれ、国々の主たる神々を国府の所在地に集め合わせて祀る社をいう。なお、吉田東伍氏によれば諸国において総社を多く六所神社と称しているのは、六社を祀るという意味ではなく「録所」のことであるという。つまり管内の神社を登録し、これを統括する神社の意と解するのが正しいものと思われる。下野の総社は古記に六所神社と記されているが、昔から国内の有力な八社を奉祭している。
六所神社の前身は柳田郷の鎮守で「柳田明神」と呼ばれ、それが相模の国府の余綾郡移転後に間もなく総社とされ、社名も「六所明神」と改められるようになったと思われる。『吾妻鏡』により相模国の六所宮が鎌倉初期には既に存していたことは明白であり、他方において六所宮(当時は六所明神ともいわれた)が相模国の総社となったのは、国府が大住郡より余綾郡に遷移してから後のことと考えられる。このことから総社または六所宮として祀られるようになったのは、平安朝も終わりに近くなった天養(1144年)前後の頃と思われる。それ以前は「柳田明神」として存在していたようで、柳田というのは古の地名で「柳田郷」と呼ばれた。もっとも『和名類聚抄』の相模国の各郷には柳田郷というものはないので、余綾郡余綾郷の後身か、あるいはその一部であったのではないかと思われる。
六所神社の祭礼
例大祭は『風土記稿』には正月三が日とあり、『皇國地誌』には大祭6月18日、小祭7月20日とあり、『神奈川県神社誌』には7月20日とある。
祭神である「櫛稲田姫命」の御神徳を称え奉る六所神社の例大祭「櫛魂祭(くしまつり)」は、平成3年(1991年)から始まった。櫛(くし)にちなみ毎年9月4日前後の日曜日に斎行され、午後に大祭式典、夕刻からは神楽殿で奉納演芸が行われる。人形、櫛、並びに家に伝わる古い物等のお焚き上げ祭りが行われ、沢山の人で賑わう。
この通称「くしまつり」は「マンガレー」ともいい、もともとマンガレーは7月20日で仕事を休む日であった。町内各地では7月の上旬から中旬にかけて田畑の農作業が一段落する時期であり、ノアガリといって地域ごとに休みを決め、六所神社ではこの休みが7月20日であった。マンガレーとは「マンガ洗い」のことだといわれており、神楽や芝居を楽しむ行事は夜通し行われ、忙しい農作業の息抜きとして多くの人で賑わった。また、7月20日にマンガレーをやっていたころは、この日をイキミタマといって家から出た人たちが里帰りする日でもあった。7月20日のマンガレーを9月に行うようになったのは、7月7日が八坂神社の祭日で神輿を担ぎ、7月20日にマンガレーがあったので、7日・20日と祭りがたてこむからマンガレーを止めて、祭神の名前にゴロを合わせて9月4日を「くしまつり」とした。
かつて、六所神社の祭礼の費用は国府新宿が三分の二、中丸が三分の一を持ったようであるが、近年では人口に比例して負担するようになり、戸数割りで区長の所へ集める予定の金額が連絡される。六所神社の役員は宮総代3名(新宿・中丸・馬場から1名ずつ)、氏子総代3名(同)、評議員9名(3部落から3名ずつ)、宮世話人30数名(3部落から10数名ずつ、部落毎に宮世話人代表1名を置く)で、会計は3部落が1年交代で務めるために会計役も宮世話人の中から2名を選ぶ。馬場の役員を名簿で見ると、宮総代1名、氏子総代1名、顧問4名、評議員3名、宮世話人13名で、宮世話人は代表1名、会計2名(3年毎)、祭典進行係2名を担当し、他の8名は宮世話人となる。また、区長と副区長が役員名簿に名前を連ねている。
宮総代は宗教法人六所神社の役員で、神社本庁へ役員として届けてあり、氏子総代はそれぞれの地区(馬場なら馬場)の氏子をまとめる役である。六所神社の重大な相談事は神主を入れて宮総代と氏子総代とで相談し、神社建て替などにはその6人が建設委員となり、この6人の中から互選で委員長を選ぶ。神社の予算や決算、国府祭の前の準備などもこの6名で相談する。また、顧問には宮総代や氏子総代の経験者が務めてもらっている。これら神社役員の任期は近年になり3年となっているが、その理由は六所神社を新宿・中丸・馬場の3地区で祀っていることによるという。
昔は六所神社の評議員はなかったが、近年になり宮総代や氏子総代等の役員を終えた人にお願いをしている。神社の総会には宮総代と氏子総代、そしてこの評議員が出席する。なお、六所神社の会計年度は正月1日から暮れまでである。
相模国府祭(神奈川県無形民俗文化財)
「相模国国府祭」は毎年5月5日に六所神社、神揃山、逢親場(馬場公園)にて斎行されるお祭りで、神奈川県無形民俗文化財に指定されている。
平安の御代、都から各国に派遣された国司は任国に着くとその国の平和や五穀豊穣を祈り国中の主な神々に祈願をした。国々の中心は国府と呼ばれ、国司を始め役人が常駐し行政の中心として繁栄した。国司は国府近くに総社を設けて国の主な神々の御分霊を祀り、日々の祈願所としこれが総社の起源となった。そして、相模の神々は1年に一度、国府に集まり、御分霊を相模の総社六所神社に納める事となった。それと共に、国司と神々が相模の平和と五穀豊穣を祈願し、相模国中の豪族を交えての盛大な祭典が斎行されるようになり、これが相模国国府祭の起源と伝えられている。
神社名 | 鎮座地 |
寒川神社(一之宮) | 高座郡寒川町宮山 |
川匂神社(二之宮) | 中郡二宮町山西 |
比々多神社(三之宮) | 伊勢原市三ノ宮 |
前鳥神社(四之宮) | 平塚市四之宮 |
平塚八幡宮 | 平塚市浅間町 |
平安の御代から千有余年の歴史を重ね、江戸時代には数日に及ぶ大きなお祭りとして伝えられてきたが、現在は5月5日終日に渡り斎行され各神社の神輿渡御、様々な神事を始め多くの露天で賑わいを見せる。当日は午前9時半に六所神社にて総社御大祭が斎行され、国府の無事斎行が祈られる。終日様々な神事が斎行されるが、特に正午に行われる古式座問答、午後に行われる鷺の舞、逢親場祭典は多くの見学者が集まり、厳粛な神事に息を呑む。かつては天下祭、国中最大の祭祀と謳われた国府祭で、伝統を今日に伝え今も相模の神々の歴史・関係を物語っている。
国府本郷の歴史
国府本郷は江戸時代には国府本郷村で、村名は平安時代末期に大住郡から余綾郡へ移った相模国の国府が置かれたことに由来していると推測される。国府本郷地区は南は相模湾に面し、東は現在の城山公園を境に西小磯、西は国府新宿、北は生沢と寺坂に接している。南部は平坦地であり、北部は緩やかな丘陵地で、中央を旧東海道およびJR東海道線が通っている。『風土記稿』には「民戸百十四」、小名の項には「中丸(古は中丸村とて一村落をなせしが、何の頃よりか、村内の小名となれり)、馬場(ばんば)」とあり、『皇國地誌』には明治9年(1876年)の調べとして、「民戸百三十九戸、社五戸、寺二戸」とある。『風土記稿』で述べられているように集落として中丸と馬場に分かれているが、国府本郷だけの村氏神はなく、西隣の国府新宿(国府本郷の飛び地)にある六所神社を国府新宿と共に氏神としている。
囃子
六所神社太鼓保存会の山車 | 大太鼓は後方に設置 |
神輿
大神輿 | 大神輿殿 |
例大祭「くしまつり」祭典斎行(14:00〜)
ここからは平成24年(2012年)9月2日(日)に行われた「くしまつり」の様子を紹介する。当日は午後から大祭の式典が執り行われ、夕刻からは神楽殿で奉納演芸が行われる。境内では露店を始め、六所神社敬神婦人会(櫛の会)によりくし団子が販売される。また、六所神社裏側の公園入口には仮設斎場が設置され、家庭で不要となった櫛・人形・縁起物・不幸の手紙などのお炊き上げ祭が行われる。前日と当日の午前9時から午後5時までが受付時間となっており、愛着や霊的な気がかりにより普通のゴミと共に出すのには恐れ多く、処分に困っているものを仮設斎場へ持参し、お清めの神事が斎行される。お炊き上げは大祭の翌朝に行われ、集められた品々が燃やされる。
裏手にあるお焚上げ斎場 | 集められた人形や縁起物など |
受付を済ませると | 持参したお焚上げの品をお祓い |
本人もお祓いを受けて | 仮設斎場で参拝 |
境内ではのし紙が貼られ | 社務所横に露店が並ぶ |
神楽殿では浦安の舞のリハーサル | 奥には福引抽選会の景品が |
夜に担がれる大神輿 | 社務所前ではくしだんごを販売 |
神輿殿前には六所会本部 | 社務所前には奉納者受付 |
この日は天気が悪く | 式典参列者は社務所で雨宿り |
式典までに雨が止まず | 参列者は廊下から拝殿へ移動 |
14時になると太鼓の合図で | 祭典が斎行される |
社殿前ではおみくじや絵馬 | お札やお守りが売られる |
神輿殿では宮出しの準備 | 式典中に雨が止んできました |
神事の切り替わりは太鼓で合図 | 式典中も参拝者が絶えません |
神輿の担ぎ手が集り始める | 1時間後に式典が終わり |
参列者は右手の | 廊下から退席していく |
神輿宮出(15:15〜)
大祭当日は六所会の協力により大神輿が出され、国府新宿と国府本郷の中丸と馬場地区をふれ太鼓と共にトラックにて神輿が巡回する。
式典が終わると | 馬を運び出し |
輿棒を抱えて | 参道まで運ぶと |
馬の上に | 一旦おろす |
輿棒に肩を入れ | 担ぎ上げると |
境内を離れ | 神楽殿前に止めたトラックが |
右折して | 参道に止まる |
神輿殿から神輿を出し | トラックではあおりを開ける |
台車に載せられた神輿は | 障害物を避けながら |
境内の中央へ | 移動 |
神輿を90度旋回させ | 参道へ上げる |
短い轅に手を掛けると | 神輿を持ち上げ |
台車を抜いて | 荷台へ神輿を上げる |
神輿を90度旋回させ | 正面を進行方向へ向けると |
前後の輿棒に | 縄を巻きつける |
式典で使われた太鼓を | 荷台へ運び上げて |
台の上に置き | 左右のあおりを閉める |
後ろは半開きで固定 | 馬は担いで外へ運び出す |
神楽殿では歌謡ショーのリハーサル | 出発の準備が整うと |
トラックは参道を通り | 神輿が宮出しされる |
トラックは駐車場で一時待機 | 掲示板が埋まってきました |
社務所前には浦安の舞手が | 参拝客が増えてきました |
触れ太鼓を叩きながら | 神輿が神社を出発 |
この後は15時30分から神楽殿にて奉納演芸大会が行われる。
奉納演芸大会
神輿が宮出しされると神楽殿では奉納演芸大会が行われる。演芸大会の後には午後7時30分頃から福引抽選会があり、六所神社の氏子は大祭当日の午後7時までに抽選券を社殿前の抽選箱へ入れる。
●浦安の舞(15:30〜)
最初は浦安の舞が奉納演奏された。
境内の人手が増え | くしだんごは大盛況 |
舞手といっしょに記念撮影 | アナウンスが入り |
奉納演芸大会が始まる | 一番手は浦安の舞 |
正面の階段から神楽殿へ上がり | 履き物を脱ぐと |
右手に整列し | 舞が始まる |
右奥から舞台の中央に移動し | 2列に分かれる |
神楽殿前には | 参拝客が立ち見で鑑賞 |
社務所前には鷺の舞の出演者 | 扇を使った舞を終えると |
一度膝を付いて | 鈴の付いた剣に持ち替える |
舞が終わると | 舞手は再び膝を付く |
次の鷺の舞の出演者が | 神楽殿へ移動 |
剣から扇に持ち替え | 最初と同じ経路で移動し |
神楽殿の右端へ整列 | 剣が回収される |
鷺の舞の準備が始まり | 浦安の舞手は正面から |
神楽殿を離れ | 社務所へ向う |
●鷺の舞(15:50〜)
続いて、国府祭とくしまつりでしか見ることができない鷺の舞が奉納された。国府祭では馬場公園に設置された船形の舞台上で舞が披露されるが、神楽殿では船の先端部だけの簡易的な舞台を2個設置し、国府祭では1人だけで行われる舞も2人で披露された。
神楽殿の舞台では | 船の先端部の組み立て |
舳先を付け | ネジで固定 |
舞台の両端には | 舞で使われる面が置かれる |
準備が終わると | 整列し |
笛の演奏が始まると | 浦安の舞の解説が入る |
鷺の面を被った舞手が | 船の船首部に座り |
立ち上がると | 扇を開いて舞う |
続いて面を竜に変え | 大麻を手にして |
鷺と同様に舞う | 神楽殿前に椅子が並べられる |
今度は獅子を被り | 舟に入ると |
立ち上がって | 最後の舞を披露 |
境内の人手が増えてきました | 舞が終わると |
ピンクの羽織を纏い | 笏を手にした人が座り |
最後に笛の演奏を入れ | 一礼 |
奉納演奏を終えると | 舟の先導をばらす |
神楽殿前では後の団体の為に | 椅子を後方へずらし |
ブルーシートを | 広げる |
鷺の舞の出演者は退場し | 椅子を社殿へ運んでいく |
●舞踊(16:20〜)
続いてなぎさ会による舞踊が奉納された。町内を巡行していた神輿は1時間ほどで神社へ戻り、夜の宮入りに向けて神輿がトラックから下ろされる。
続いてなぎさ会による奉納舞踊 | 1人目はの演目は「絹の雨」 |
2人目は「紅一輪」 | 3人目は「女の山河」 |
触れ太鼓の音が聞こえると | 渡御を終えた神輿が到着 |
舞踊は4人目の「虎落の里」 | 5人目の「十国峠」 |
神輿は東海道側へ移動し | 短い輿棒を外す |
舞踊は最後の6人目「桜扇の舞」 | 神輿に轅を入れて馬へ下ろす |
●マーチングバンド(16:50〜)
続いて大磯マーチングバンド・マリンエンジェルスによる演奏が行われた。
ブルーシートを折り畳み | 大磯マーチングバンド |
マリンエンジェルスが登場 | バンドの紹介があり |
演奏を開始 | 生演奏は迫力があります |
観客の数も増え | 境内も賑わってきました |
最後の演奏を終え | 退場 |
●神輿甚句(19:10〜)
プログラム上の演目では大磯国府太鼓(創作和太鼓)となっていたが、当日は六所会による神輿の甚句が披露され、客席では甚句に合わせて手拍子が入れられた。
神輿の担ぎ手が舞台へ上がり | 六所会会長の挨拶 |
馬場青年会から甚句を披露 | 客席は甚句に合わせて手拍子 |
続いて本日の輿長が歌い | 再び馬場青年会 |
続いて月京神輿會 | 担ぎ手も手拍子を入れる |
最後は中丸神輿會の副会長 | この辺りで再び小雨が |
雨雲を吹き飛ばせと | もう一本甚句を入れる |
甚句を終え | 担ぎ手は舞台を下りる |
●フラダンス(17:25〜)
途中で雨による中断もあったが、ハウラ・フラ・オ・イポ・ラウアエ・林によるフラダンスが披露された。
ハウラ フラ オ イポ ラウアエ 林による | フラダンスが始まる |
子供たちが元気に踊る | ここで心配していた雨が |
本降りとなり | フラダンスは一時休止 |
この時期は毎年雨が多く | 地元の方はあまり動じません |
15分程で雨が弱まり | フラダンスを再開 |
大人の踊り手に続き | 再び子供たちのダンス |
雨の影響も少なく | 予定通り6時前に終了 |
●カラオケ有志のど自慢大会(18:00〜)
続いて氏子住民によるカラオケのど自慢大会が行われた。
雨は殆どあがり | 舞台ではカラオケ機の準備 |
ここからはのど自慢大会 | 暗くなると出店は大盛況 |
●歌謡ショー(18:40〜)
奉納演芸大会の最後を締めくくるのは、プロの演歌歌手による歌謡ショー。
のど自慢の次ぎは演歌歌手 | 亜那(aya)による歌謡ショー |
ところが再び天候が悪化し | この日一番の豪雨になる |
しかし、さすがプロです | 雷が鳴っても歌い続けます |
●福引抽選会(19:40〜)
演芸大会が終わると、神楽殿では福引抽選会が行われる。
ようやく雨も弱まり | 舞台で最後となる |
福引抽選会 | 一等は自転車です |
神輿宮入(20:20〜)
福引抽選会が終わるとくしまつりの最後の行事となる大神輿の宮入りが行われる。
担ぎ手は神輿へ移動 | 一本締めて |
神輿を担ぎ上げ | お宮へ向う |
小雨を物ともせず | 威勢よく神輿が担がれる |
池の間を練り歩く神輿 | 輿長は社殿下で神輿を待つ |
参道を進む神輿をライトアップ | 写真撮影にはありがたい事です |
馬場青年会により甚句が入り | 担ぎ手は参道上で神輿を揉む |
神輿は芯出しへ向うが | 輿長は神輿を後退させる |
手水舎付近で引き返し | 再び前進すると |
今度は月京神輿會による | 甚句で神輿を揉み |
2度目の芯出しへ向うが | 再び神輿は後退 |
神楽殿前で引き返し | 社殿方向へ進むと |
中丸神輿會の甚句で | 神輿を揉み |
3度目の挑戦でも | 芯が出ず |
後退した神輿は | 再び社殿へ向かい |
芯出しへ向うが | 4度目の後退 |
神輿は勢いを増し | 5度目の芯出しで |
ようやく拍子木が打ち鳴らされ | 神輿を後退させると |
馬の上に輿をおろす | 輿長が轅の上をまたぎ |
三本締めで櫛まつりは終了 | 氏子の皆様お疲れ様でした |
宮入 |
---|
戻る(中郡の祭礼)