中丸なかまる

八坂神社

  「八坂神社」は中丸全体で祀り、祭神は素盞男尊(すさのおのみこと)である。創立年月は不詳であるが、伝説によると古くは現地よりも東方の地に有りと伝えられる。明治6年(1873年)に無格社に指定される。国府本郷は『風土記稿』に見られるように中丸と馬場に分かれているが、国府本郷だけの村氏神はなく西隣の国府新宿にある六所神社を氏神としている。

八坂神社社号標
社殿
地神社石祠
石碑


例大祭

  『神奈川県皇国地誌残稿』と『神奈川県神社誌』によると例祭日は7月7日とある。



青年会と青年団

  昔は長男は15歳、次三男は17歳で青年会に加入しなければならなかった。加入するに当っては評議員の紹介を必要とし、35歳まで入っていた。長男は村外にいても加入しなければならなかったが、村外にいる次三男はその義務はなかった。青年会には幹事が4名、評議員が12名いて全体を統率していた。昭和23年(1948年)に規約を作り替えて、それまでの義務加入制を任意制にした。また、消防も同じ年齢層の男子で組織していた。80人くらいの団員がいて手押ポンプを使っていたが、須賀の火災まで駆けつけたことがある。
  青年会でやったことは八坂神社の祭典や国府祭、部落の大きな行事の手伝いなどであった。火の番や六所神社の幟立て、神輿担ぎなどは青年会の会員本人がでられないと、親が代わりに出なければならなかった。八坂神社には神輿があり、神輿担ぎは青年会の仕事だった。神輿を青年会で骨を折って造り、神輿の村回りの際に500円以上寄付した家には門前に神輿を止めた。
  戦争前は青年会の15歳から25歳の者は修養団を作っていた。一方、全国組織の日本青年団の支部である国府村青年団中村支部があり、中丸青年団と修養団と2つの組織があったが、戦後に修養団をなくして中丸青年団に一本化した。



諏訪神社

  大磯ロングビーチの松林の中に大きな松があり、漁師はこれを「オオマツ」と呼んで山を見る目印にしていた。中丸では八坂神社以外にこのオオマツの根元に「諏訪神社」を祀り、石の祠があるだけだが、かつては新宿・中丸の漁師はオスワサンと呼んで大切にし豊漁を祈った。大きなナムラだと地曳網から出てしまうので、一方では網を引きながら、ナムラが出てしまわないように拝みに駆けつけた。もともとは新宿の原町内がハラブネという地曳網の権利を持っており、その責任者がオスワサンをお祀りしていた。その後、地曳船は個人に貸し出されていたが、戦後の農地改革によって地曳網漁の権利自体も個人所有となり、オスワサンを祀る人がいなくなった。このままではGHQに没収されるらしいというので、国府漁業組合(当時は中丸の漁業組合)に相談し、以後は国府漁協で祀ることになった。
  『皇國地誌』には「下照姫命ヲ祀ル 例祭九月十五日」とある。9月15日は縁日で祠の前で御神酒を上げ、お神楽を奉納した。その費用は中丸沖の定置網の漁業権の金で賄っていたが、国府漁協が大磯に吸収されて昔のような祭りは行われていない。
  昔は海岸一帯が国府本郷の共有地であったが、その共有地を関東大震災前に売却したので漁ができなくなり、漁師は漁業権も売却した。土地を売ったお金を当時大磯にあった農工銀行に預けていたが、関東大震災後に銀行が倒産してしまった。現在は漁師はいなくなったので、魚を商売にしている人達が信仰している。

太鼓

  



神輿

  祭礼には神輿を出して中丸の中を担ぎ、神輿の係りとして輿世話人があり、各地区から選出する(大きな地区からは2名出す)。
  昭和44,45年(1969,70年)当時に700万円を集め、予算より多く集ったため修理は東京の浅草に頼み、修理の他に子供用神輿を1基購入したようである。



中丸の歴史

  中丸と馬場は江戸時代には一つの村であったが、現在の社会生活は中丸と馬場とに全く二分している。神奈川県内では江戸時代の村としてのまとまりを現在に引きずっているところが多い中にあって、このことは特異なことといえる。現在、中丸を代表する役は区長であるが、終戦後は馬場を含めて1人の常設が中丸を代表していたといい、関東大震災前には中丸と馬場を合わせて1人の区長だったという人もいる。江戸時代には馬場も中丸も国府本郷村であったから、馬場と中丸を合わせて代表する役があったはずで、それが常設委員だったとも考えられるが、いつまで常設委員と呼んでいたか、また馬場と中丸がいつの頃に組織上分かれて、それぞれに代表者を立てるようになったのかは不明である。
  中丸の旧家は旧東海道沿いにあり、昭和初期に造られた現在の国道1号は中丸の東の端で旧道から別れ、旧道の南側を通っている。また、中丸には大西という屋号の家があり、大正の中頃までは大西より西には4軒しか家がなかったようである。現在では町内の区分が多くなっているが、中丸はもともと「久保町」・「中町」・「下町(したまち)」・「西町」に分かれていたと推測される。中丸では「久保町(坂の下に当たり、低い土地)」が昔は一番振るっていたといわれ、宝前院の入口には髪結いがあった。宝前院の下には風呂屋、その隣には粟餅を売っていた。吉川一郎氏の所には呉服屋があり、その隣が粟餅屋の本家、その隣が居酒屋で、道を挟んだ北側では麻裏を作っており、その隣が床屋、その隣はフナカタというお茶屋でおかっぴきを遣りながら漁師をしていた。その隣は豆腐屋で、山口修一家は麹屋といわれた。この久保町も明治43年(1910年)の大火災で127戸中96戸が燃え、火事は暮れの28日だったようである。西風にあおられて中丸の大半を焼いたことから、その後は西風の強い日には家々では夜に防火用水を用意してから寝たという。さらに40年前にも久保町だけがもえたとも伝えられている。
  近年の中丸の社会組織を見てみると東地区と西地区、そして大西地区の3地区に分割され、それぞれの地区には町内会長を置いている。東地区には久保町(東一・東二・西)と中町の4町内、西地区には下町(東・西)とシャンボール大磯、松原苑、中西、そして入西の6町内、大西地区には大西(一・二・三・四・五)とクリオマンションの6町内が含まれている。各町内の位置は旧国道に沿って東から久保町、中町、それらの南側に下町、旧国道に戻って入西(いりにし)、中西、大西となっている。昔は人家の無かった新国道と南の葛川の間と中丸の西の方、国府新宿までの間と久保町の不動川から東の辺りは戦後になって住宅が著しく増えており、それは久保町と下町と大西がそれぞれ分割されていることに表れている。
  現在、中西に中丸公民館があり、集会その他に使用している。これは最初、青年会が資金を調達してJRの線路のそばに青年会館として建てたものであるが、鉄道でうるさいので昭和6年(1931年)頃に新国道1号沿いに移した。それでも車の通行でうるさくなったため、昭和40年(1965年)代の初めに現在地(国府本郷785番地)に移したものである。土地は最初は借地であったが、その後は購入して共有地として区長名義にしてあり、区長が変ると登記をし直す。


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