須賀すか

神社の紹介

  「三嶋神社」は須賀の鎮守で、江戸時代の神仏混淆により「長楽寺」が別当であった。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「三島社」を村の鎮守とし、祭神は「大山祇命」、相殿に貴船山王二座を祀るとある。当社の創建年代については不詳である。
  須賀の地に残る伝承としては平安時代初期の僧「空海(774〜835年)」の來錫伝説が一番古く、海詠山長楽寺住職「金剛乘快旭(1909〜41年)」の手記によると、空海は弘仁3〜10年(812〜819年)の間に3回この地に留錫されたという。そして、そのとき空海が勧請したのが須加の鎮守「三島明神」と、稲荷山の「稲荷社」と伝えている。寛文年間(1661〜1673年)に四国伊予三島大山祗神社より「大山祇命(おおやまづみのみこと)」を勧請し「三嶋大明神」と称し、また、明治の始め伊豆三嶋大社から「事代主命(ことしろぬしのみこと)」を勧請し、相殿に合祀して二柱の大神を主祭神として祀った。
  一説によると三嶋神社の創建年代は、この須賀の地に始めて我々の祖先が足を踏み入れ、漁業を中心とする生活基盤を開拓された時代と大差ないといわれる。平安時代の始め文徳天皇(851〜858年)の頃に始めて「須賀のから浜」という言葉が見えるといわれる。そしてその少し前の弘仁年間(810〜823年)には当社の別当であった「長楽寺」の創建の所以があったといわれている。長楽寺文書の中に「薬師、三嶋明神の本地仏ナリ、長一尺五寸、弘法の作ト云」とある。即ち平安の始めにはこの地に人々が居住し、集落の形成があったと思われる。

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社号標鳥居
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弁天社(財運の神)隣接する三島児童公園
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御神木境内前の鳥居
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狛犬狛犬
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灯籠手水舎
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拝殿本殿・幣殿
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厄神社(子供の病よけの神)伊邪那岐社(子宝・国うみの神)
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道祖神忠魂碑(英霊の祈念碑)
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社務所神楽殿
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各町内の倉庫えびす様御神像

  浦田家所蔵の大正12年(1923年)9月1日の『地震ノ日誌帳』によると、関東大震災により鳥居や拝殿などが倒れたとある。また、昭和20年(1945年)7月16日の夜間空襲により社殿は焼失し、同年8月15日に戦争が終わった時には土台のみが残っている状態であった。戦争前後の経済は貧窮して物資は乏しく、食べることさえままならなかった。このような状況下において当時の宮総代や宮司らが社殿の再建に取り組み、伊勢原の大山より木を切り出してそれを建材として使用した。仮社殿はその年のうちに完成させ、昭和25年(1950年)に現在の社殿が完成するまでこの仮社殿が鎮守としての機能を果たしていた。



宵宮祭

  例大祭の本祭の前日には宵宮祭が行われ、大神輿以外は本祭と同様に神輿や太鼓の巡行がある。以下に宵宮の様子を紹介する。

●神社大祭式典斎行(開始11:00)
  11時になると大祭の式典が執り行われ、式典後は子供神輿のお祓いをして御霊を入れていく。

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出席者は手水舎で身を清め境内に集まる
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拝殿に向かい大祭の式典が始まる
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式典終了後は社務所へ向かう
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神職が各子供神輿を祓い宮司が御霊を入れていく

●六町子供神輿宮出(出発12:00)
  大祭の式典が終わると6基の子供神輿がそれぞれ宮発ちし、それぞれの地区へ別れて渡御していく。

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最初は西町が一本締めで肩を入れ
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神輿を担ぎ上げお発ち
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続いて仲町がお発ち
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南町は神輿を倒しそうに慌てて起こす
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肩を入れお発ち
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横町にもハプニングが気を取り直して
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肩を入れお発ち
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代官町夕陽ヶ丘は神輿を移動横に輿棒を渡す
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子供達による一本締めで肩を入れる
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大人達が手助けをしお発ち
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最後は北町が一本締めで肩を入れ
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宮立ち参道を練り歩き
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お宮を出発子供神輿は各地区へ向かう

●中神輿宮出に際する式典(開始16:00)
  中神輿の宮出しに際して神輿前では式典が始まり、御霊遷しなどの神事が執り行われる。

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中神輿を境内に降ろし供物を準備
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地元の担ぎ手が集まりお宮参り
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宮世話人も集まる輿棒には白い布が
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担ぎ手と宮世話人が整列し
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中神輿の宮出前の神事が始まる
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中神輿をお祓い宮司と宮世話人をお祓い
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担ぎ手をお祓いその他関係者をお祓い
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白い布で神輿を覆い御霊遷しの儀
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御霊を神輿に入れ終わると布を巻き取る
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続いて献撰祝詞奏上
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玉串奉奠と続き撤撰で神事終了

●中神輿宮出(出発16:30)
  神事が終わると代表者の挨拶や乾杯などが行われ、一本締めで神輿は宮発ちする。

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氏子会会長が挨拶し実行委員長(南町)に襷を渡す
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実行委員長は南町の副実行委員長に襷を渡す
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さらに各町内の副実行委員長にも襷を渡して一礼
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実行委員長の挨拶お神酒を配り
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南町総代により乾杯神輿から供物を移す
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実行委員長の一本締めで肩を入れる
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神輿を担ぎ上げ境内を練る
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神楽殿の太鼓に囃され神輿は境内を進む
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社名旗に続き触れ太鼓が神輿を先導
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神輿は幟を通過し2つの鳥居を
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潜るといよいよ宮出

●代官町氏子会・・・大郷屋青果店(到着17:30、出発17:45)
  お宮を出発した一行は交通指導車を先頭に長い行列を組み、最初に夕陽ヶ丘を渡行していく。夕陽ヶ丘を渡行した神輿は太い通りを渡り、代官町にある休憩場所で輿を降ろす。

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お宮を出発した中神輿先頭は交通指導車
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夕陽ヶ丘子ども会の踊りが続き曲を鳴らすスピーカー車
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さらに代官町子ども会グレーシアパーク子ども会の踊り
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その後ろは代官町の屋台と三嶋神社太鼓保存会の屋台
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続いて上記3子供会の樽神輿社名旗
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触れ太鼓神職と宮司が続き
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最後尾は中神輿一行は夕陽ヶ丘を巡行
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大通りを渡り代官町に入る
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大郷屋青果店に着くと甚句に合わせて練る
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もう一本甚句が入り輿を降ろす
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一本締めで休憩
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スイカやトマトなどが振舞われる
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休憩後は再び一本締めで肩を入れ
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お発ち待機していた子供神輿もお発ち

@代官町氏子会・・・代官町神酒所(到着18:25、出発18:45)
  ここからは各地区を渡御していた6基の子供神輿が合流し、代官町を巡行していく。行列は最初の神酒所である「青柳公園」に到着し、神輿前で神事を執り行う。

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一行は右折し商店街を練り歩く
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子供神輿が加わり行列はさらに長く
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代官町交差点を右折し直ぐに左折する
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青柳公園園内に設置された神酒所
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中神輿が公園に到着甚句に合わせて練る
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輿を降ろして一本締め
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神輿に注連縄を張り神事が始まる
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公園ではモツ煮込みとかき氷が配られ
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長蛇の列ができる園内は人で埋まる
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中神輿ではバッテリーを調整し提灯に明かりを灯す
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屋台と子供神輿にも明かりが
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休憩後は一本締めで肩を入れ
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公園を後にする再び代官町を巡行
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大通りに出てお宮を目指す

●宮入(到着19:30)
  代官町を渡御した中神輿はお宮へ向かい、宮入りとなる。

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自動車学校の交差点を渡る屋台は一足先に
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神楽殿の太鼓が待つ境内に到着
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2台の屋台は境内に駐車叩き手は神楽殿に加わる
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中神輿は境内の横を南下左折するといよいよ
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宮入り1つ目の鳥居を潜り
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参道を進む境内で神輿を待つ人々
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2つ目の鳥居を潜ると太鼓の演奏を止め
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宮世話人が待つ拝殿前に神輿が到着
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甚句に合わせて練る
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2本目の甚句で神輿が揉まれる
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3本目の甚句境内は担ぎ手で溢れる
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宵宮最後の甚句で担ぎ手の熱気は最高潮に達し
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太鼓の合図で輿を降ろす
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締めて神輿を担ぎ
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拝殿前に移動担ぎ手は裏で食事


須賀甚句

  須賀甚句は須賀港の魚師たちの中で伝えられてきた甚句で、魚師の「沖あがり」・「大漁祝い」等の祝宴の席で唄われてきた。須賀港は江戸時代から明治時代にかけて、海運は東京・三浦三崎・豆州下田に繋がり、漁業は房総・伊豆七島に及んだ。古老の話では須賀甚句は伊豆下田地方の甚句の流れであると語っているが、その他の地方の影響も関係しているようである。
  歌詞も平易で新旧いろいろあるが、明治の中頃より「須賀のまつり」の神輿渡御で唄われるようになったという。また、小学校(国民学校)同窓会、太洋中学校同窓会等の宴席でも唄われているようである。現在では「須賀甚句の会」が組織され、保存と普及に努めている。

●須賀の名代
   セエー 須賀の名代は アイョー  西に駿河の富士の山 ヨイショー
  東に湘南江ノ島で ヨイショー  中を流れる馬入川 ヨイショー
  沖にかすむは三原山 ヨイショー  大島カモメか磯千鳥 ヨイショー
  泣いてとどけよ須賀の宿  ドッコイ ドッコイ

●須賀かたぎ
  セエー 相州 平塚 アイョー   須賀浜 育ち アイョー
  荒い黒潮 乗り越えて ヨイショー   腕が自慢の八丁艪 ヨイショー
  こまい雑魚など見もせずに 鰹片手でつかみ取り  ドッコイ ドッコイ

●須賀浜漁師
  セエー 歌え歌えと アイョー   せきたてられて アイョー
  わたしゃ須賀浜漁師なら ヨイショー
  歌道知らぬ 筋知らぬ ヨイショー
  十四の時より船に乗り ヨイショー
  三宅 御蔵や 新黒潮 ヨイショー
  波にゆられて鰹釣り ヨイショー
  汐にふかれて こえも出ず  ドッコイ ドッコイ



海上交通と須賀湊

  須賀は現在の代官町・夕陽ケ丘・高浜台・幸町・札場町・須賀・千石海岸、それに松風町・袖ケ浜の一部をも含む地である。この地は相模川が相模湾(太平洋)に注ぐ河口の西域にあり、川と海と砂丘によって自然につくられた土地である。そのため須賀の地には上代遺跡としての塚がなく、小字の地名にも塚を思わしめるものがない。海と川を持つこの地は古くから自然の湊(みなと)として利用され、かつ漁獲の地であった。須賀の地は古くから栄えていたらしく、長楽寺(平塚市札場町)の寺伝によると、僧空海が伊豆国から舟で須賀の湊に上陸し、止宿した所に開創されたとある。また、鎌倉・室町時代の五輪塔や板碑などが須賀北町の東にあたる相模川の川底から多量に出土しており、この時代も引続き栄えていたようである。
  小田原北条時代(1495〜1590年)の須賀湊は伝馬制の宿駅に相当する「浦」のひとつで、当時は物資などを浦から浦へ船送りする制度である海上交通のための「浦伝制(うらづたい)」があった。このため北条氏にとっては重要な地であり、須賀の地は直轄地となっていたものと思われ、小代官・代官等をもってこの地を管掌させていたようである。また、相模川上流の木材が筏士(いかだし)によって須賀まで運ばれ、小田原本城や鎌倉の寺社建築の用材として各地に送られていった。このようなことは須賀の地で「尼屋(あまや)」と称された清田家に伝わる、永禄9年(1566年)10月から天正18年(1590年)頃までの6通の古文書によって裏付けられている。その頃、浄土宗海宝寺が開創されるにあたり、寺院を並べて「寺町(てらまち)」とし相模川畔を「川端町」と名付け、「北町」・「横町」・「中町」・「西町」・「南町」の区画を定め、制札をかかげた「札ノ辻」を設けて市街のかたちをつくったことは北条治下の指示と思われる。以下に旧尼屋の古文書を紹介する。
  永禄9年(1566年)10月16日付の北条氏康印判状によると、須賀郷に対して小鳥の餌(え)用として鯵(あじ)200疋(ぴき)の上納が命ぜられ、たびたびの御用に付き600疋の代金が下されている。元亀元年(1570年)7月20日付の北条氏印判状によると、麦130俵を須賀から熱海まで搬送する船の舟方の公用(くよう)銭を熱海の役人から受領するよう須賀郷の代官・船持中に命じている。麦130俵を運ぶにはかなりの船数が必要であり、須賀の繁栄ぶりを知る史料でもある。天正2年(1574年)正月24日付の北条氏印判状によると北条氏政は須賀の田中・清田両氏に対して、勢樓(井樓)道具の部材である「五六(五寸×六寸の角材)」と「幡板(井樓の上部にはりつける防禦用の板か)」が津久井や七澤(ならさわ)から運ばれて来たものを大切に保管し、舟が着きしだい渡すように命じている。天正13年(1585年)8月23日付の北条氏政印判状によると、氏政が当主氏直に代わって須賀の小代官・舟持中に、大鯛20枚を薄塩にして持参するように命じている。年次不詳であるが3月27日付の北条氏印判状によると、北条氏は須賀の小代官・舟持中に当麻(相模原市)の舟庭へ須賀の舟10艘を廻して、軍勢が渡河できるように命じている。
  天正18年(1590年)に小田原北条氏が滅亡した後も、須賀湊は江戸や房総・伊豆への海運と相模川上流の地域との舟運による要湊として栄え、古くは「大山千軒、須賀千軒、南湖(現茅ヶ崎市内)は三百六十軒、あいの松尾(現茅ヶ崎市内)は十三軒」とうたわれ繁栄を極めた。実際は江戸後期で452軒だったので話は倍以上に大きくなっているが、それでも平均的村々の人口の数倍にあたる。須賀がこれほど繁栄した理由は古くからの漁業と、相模川の河口を押さえ広大な流域平野の物資の集積地として、また関八州一円に広まった大山詣でに海上から来る人々の上陸点として利用されたからである。大山までの経路は須賀湊から八王子道を北上して八幡の二ツ谷で分岐した粕屋道に入り、真土・今里・横内と通過し、ここで四ツ谷からの田村通り大山道と交わり、小稲葉を経て上谷・下糟屋・石倉・子易を経て大山にいたるものであった。参詣者は湊から上陸すると、まず三島神社に参詣してから大山に向かった。
  須賀湊の繁栄は明治時代に東海道本線が通過するまで続いたが、大山詣での経路は鉄道の開通で平塚駅を基点とする経路に取って代わられてしまった。さらに鉄道の開通で物流センターとしての機能は衰微し、漁港だけの港となったため、昭和27年(1952年)に「須賀港」は「須賀漁港」と改称された。また、この地は海軍火薬廠があったたため、昭和20年(1945年)7月にB29による徹底空襲を受け、数十万個の焼夷弾が投下されて草一本残らぬ程の災禍を蒙った。その結果、戦後の区画整理はやり易く道路は思い切って広くなったが、伝統を感じされる家屋はほどんど見当たらなくなってしまった。

須賀のまつりばやし

  四之宮の「前鳥囃子」の伝承にみられるように、平塚に伝わる囃子は何時の時代か、江戸から来た「松の市」という人物が平塚宿に逗留した際に祭り囃子を伝え、これが「平塚囃子」として近郷近在に広められたといういい伝えがある。明治34年(1901年)9月15日に発刊された東洋堂の『風俗画報』第238號に掲載された図によると、当時の平塚須賀神社(三嶋神社)祭礼の様子を知ることができ、平塚囃子の原形がよく表現されていて、民衆に同化しすこぶる盛況であったことを物語っている。
  三嶋神社の祭礼ともなると「西」・「南」・「北」・「中」・「横」の5町内から屋台が曳き出され、5基の屋台は彫刻で飾られた総欅造りで県下にない立派なものであった。このような屋台を1町内に1基ずつ造った町内の経済力と「須賀のまつり」に対する氏子の熱意がよくうかがわれる。その屋台では「ひょっとこ」・「おかめ」の仮面を被って踊るものがあり、また扇子をもって踊るものもあった。格子づくりの内には「笛」・「太鼓」・「鉦」にて「テンテンドンドン・チャンチキ・チャンチキ」と色々な調子で打ち囃したとある。「大山千軒、須賀千軒、南湖は三百六十軒」といわれた時代であろうか、三嶋神社祭礼の記録を見るとこの祭りが須賀地区で盛況を極めたと思われる。

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明治21年建造の北町屋台図鈴木光雄氏寄贈の屋台図
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三嶋神社太鼓保存会の屋台太鼓は横向きに設置
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代官町の屋台太鼓は進行方向に向かって設置

  現在はこれら5基の屋台は当地に存在せず、祭り期間中はトラックの荷台に積んだ屋台で太鼓が叩かれる。平成21年(2009年)には三嶋神社太鼓保存会と代官町の2台の屋台が出て、宵宮祭と大祭で各町内を神輿と共に巡行した。トラック屋台のない町内では各神酒所近くに太鼓の台を設置して、子供達が太鼓を叩いて町内を渡御してくる神輿を出迎える。太鼓はかなり年数が経過しているものが多く、現在のように革を縫う糸目のなかの中目がなかったり、大太鼓の革に穴が開いているものも見られる。また、宵宮では境内にある神楽殿にも太鼓を設置して、宮出しや宮入りする神輿を囃す。

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宵宮には神楽殿に太鼓を設置
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子供達が舞台に上がり太鼓を叩く
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北町神酒所での太鼓横町神酒所での太鼓
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仲町神酒所での太鼓南町神酒所での太鼓
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西町神酒所での太鼓新地通りでの太鼓
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横町の締め太鼓大太鼓もかなり古そう
囃子

  須賀地区に伝わる囃子は一時期途絶えてしまい、昭和50年(1975年)頃に二宮町の中里から習って復活させたといわれる。中里のように笛や鉦は入らないが、太鼓のリズムを聞けば中里の囃子とほぼ同じであることが解る。中里同様にテンポはゆったりとしており、太鼓の革も極端に強くは張っていない。現在の囃子は中里から習ったため、昔の叩き方とは異なるようである。
  太鼓の練習は5月末から7月頭ぐらいまで実施し、叩き手は主に小学3年生から6年生である(平成21年度で60名ぐらい)。太鼓の好きな子供は中学生になっても小学生の指導に当たるなどして続けるが、高校生ぐらいになると神輿の方へ移るという。



屋台の行方

  須賀には5基の屋台があったが、明治22年(1889年)の大火で1基を消失した。須賀は他の地域と比較して人口が多く、人家が密集していただけに大火も多かった。明治22年12月末夜に南町より出火して200戸が焼失、翌明治23年(1890年)には西町より出火した。以後、記録に残る大火は数回あり、中でも明治44年(1911年)2月夜の出火は須賀最大の大火で362戸を焼失した。須賀村は火災からの復興のための資金が不足し、残った4基の内の2基を売却することで資金の調達に充てたようである。売却先は座間市の皆原(みなはら)地区で、明治22〜28年(1889〜95年)頃の出来事である。
  現地には明治28年(1895年)に屋台倉を普請をしたという記録があり、『須賀の祭り』の古文書と照合すると売却は明治22年の大晦日の火事の後のようである。売買契約は諸般の事情で書面ではなく口約束で成立していたため裏付け文書がなく、保存会の歴代の会長から言い伝えられてきたたため、売却時期や金額については不明である。屋台の運搬経路は魚商のコースと同じで須賀湊で船に積み、海老名村の河原口の渡船場ばで運ばれ、出迎えの村の若者の手で国分を経て皆原に到着した。
  須賀と座間の間では明治以前から須賀の漁商と座間の農業が、相模川を通路として交流していた。須賀で獲れた魚は相模川を上って海老名の河原口で陸揚げされ、そこから座間に運ばれたようである。結婚式の魚料理は全て須賀の物を使っていたという。このような交流の中から屋台を手放す話が伝えられたようで、明治維新後に道路が良くなったこともあり予てから屋台が欲しいという声が地域から上がっていた。須賀の屋台の話を耳にして地区の代表数人が草鞋ばきで下見に行ったところ、大変よくできた屋台であったのでその場で売買契約が成立したという。
  その後、この屋台は入谷地区に鎮座する鈴鹿明神社の例祭(例祭日は7月31と8月1日)に造花や提灯などを飾り付け、神輿巡行のお供として各地区を曳き廻された。屋台上で打ち鳴らす皆原の太鼓と下町囃子は現在でも続けられている。かつては屋台でオカメ・ヒョットコの面と衣装を付け、岡崎囃子?に合わせて身振りもおかしく踊る道化踊りもあった。
  屋台は現在まで保存されており、昭和24年(1949年)に1部を修理しているが現役で活躍している。透かし彫り等の繊細な部分は欠ける恐れがあるため板で裏打ちをし、取り外しのできるものは大切に布等で包み箱に納めれている。戦後のある時期までは売却されてきた姿(無着色)を留めていたが、現在は善意の手違いにより1部が塗装されている。なお、4箇所の木製の車輪は現在では動かないが、大魚旗は纏などの幟を立てる刻み口は残されている。昭和58年(1983年)までは当時の会長宅の蔵に保管していたが、現在では保安組合が組織されて屋台の維持管理を執り行っている。



神輿

  須賀の祭の中心は大神輿であるが、かつて担いでいた大神輿は惜しくも戦災で焼失してしまい、現在の大神輿は昭和53〜54年(1978〜79年)にかけて新調されたものである。当時の金額で2500万円で全てが特注であり、これ以上の神輿は出来ないと神輿作者が言った程であった。それ以前に担がれていた神輿は社宝として神輿庫に飾ってあったが、平成7年(1995年)頃に改装し現在では中神輿として宵宮と本祭で終始担がれている。中神輿といっても新調した大神輿の大きさと比較して「中」を付けているだけで、他地区の祭礼で担がれている一般的な大人神輿と変わらない大きさである。6町の子供神輿は昭和中頃に製作されたもので、平成17年(2005年)に改修が行われている。
  かつて神輿の運営を取り仕切っていた神輿保存会は平成7年(1995年)に解散し、現在では各町内が当番制で神輿の運営を行っている。ちなみに平成21年(2009年)度は南町である。

2007.10.272009.7.18
神輿殿子供用の神輿蔵
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大神輿中神輿
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南町の子供神輿西町の子供神輿
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代官町夕陽ヶ丘の子供神輿北町の子供神輿
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横町の子供神輿仲町の子供神輿
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拝殿前の大・中神輿社務所前の6基の子供神輿
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今は担がれない小型の神輿大神輿を運ぶ台車


明治時代の祭り

  ここでは明治34年(1901年)9月15日に東洋堂から発行された『風俗画報』第238號(八木橋仲秋 著)の中から、「平塚の海辺と須賀の祭典」について紹介する。著者が知人の別荘を借りて平塚に遊びに来たときの様子を報告している。原文のままでは現在の文法と異なる部分が多く読みにくいため、私(当サイト管理人)なりの解釈で現代風の表現に直している。

『 平塚の海辺と須賀の祭典 』
  この地の鎮守は三島神社で、祭日は例年7月の18日から3日間であるが、長雨の影響でこの年は1日ずらして19日より行われた。その19日は夜宮と聞いて夕刻から散歩がてらに見物に出掛けると、夕暮れの薄暗い時であったので、沿道の家々はそれぞれ道端に見立絵(物語や歌詞などの古典文学などに基づき人物や場面設定などを当世風に変えて描いた絵画)や絵地口(世間でよく使われることわざや成句などに発音の似通った語句を当てて作りかえる言語遊戯を絵で示したもの)を墨書きした行燈(あんどん)を造花で飾り、これを青竹に掛けて立て早くも明かりを点けていた。また、あちらこちらに少しは軒提灯(のきぢょうちん)も見えたが、東京などと違って軒並みに注連縄を張って献灯を掲げているところはなかった。
  大通りに出ると町々の屋台は曳き出されていたが、その構造は実に優美でその形はいくらか東京における踊屋台に似ている。屋根は破風造りで青と白を染め分けた障子で葺き、その棟(屋根の頂上)の真ん中には2丈(約6m)ほどの棒を立てて5色の吹流しをひるがえす。その上に行灯をおいて造花を飾り、さらに先端には御幣を3本ほど交差させている。屋台は総欅で重なる部分は表裏関係なく柱に至るまで彫刻を施し、その正面の屋根の方に金で町の印を打つ意外は一切色取りはなく、誠に美しく上品であった。屋台の前方(舞台側)では狂言などを催し、ヒョットコや狐などの仮面を被った男が采配や扇子などを持って踊っていた。後方(楽屋側)の格子作りの内側では笛、太鼓、鉦で「チャンチキチキテンテントントン」など色々な調子で打ち囃すが、聞き慣れないので少し物足らなく感じるのもある意味面白いことである。東京では山車に町内の若者衆や仕事師などが付き添って木遣りを謡いながら曳くものであるが、この地(須賀)は相模湾に面する漁村のため、掛け行灯などにも「町内安全」や「大魚豊穣」などと書くなど、多くは漁業に従事するので仕事師などではない。そのため舟子(船頭)や漁夫の若者(魚師)が屋台を曳くので木遣音頭ではなく、皆「ヤーヤー」という掛け声で屋台を曳くだけである。
  今を去ること10数年前のこと(明治20年頃か?)、「中町」・「北町」・「横町」とかの3つの屋台は火事によって焼失したとかで、その後は町内の者の心掛けによって1つ2つと新造し、今年は元のように5台となった。新造費は1台に付きおよそ千円前後(現在の300万円前後?)とこれも須賀の繁栄を象徴するものである。
  今年は13年目とかの大祭で、各町内のおもだった世話人は、各々揃いの薄羽織、単物(裏地のない着物)を着て扇子を持ち、大声を上げて何やら指図をしている。また、町内の若衆は町の標を染め抜いた揃いの単衣(一重の着物)を着け、中には花笠を被ったりねじり鉢巻をしたりと威勢よく、或いは黄白または紅白に縫い分けた足袋洗足で、世話係りの指図に従って「ヤーヤー」と掛け声を張り上げて元気よく屋台を曳き回すが、中には余りに騒ぎすぎて声が枯れる者もいた。また、町内の子供連達は万灯などを差し上げて駆け回るなどの賑わいで、近郷から集まった老若男女や、平塚あたりに避暑中の都人、帰省中の学生なども見受けられた。
  20日は用事があったため、21日の午後5時頃に「海辺祭」というのを見に行くと、運よく屋台が5基とも海の岸辺に並んでいた。神輿を真ん中あたりの前方に据え置き、神官は大変厳粛に様々な供物を供えて大漁を祈る。神輿の前には左右両側に苫(とま)を敷き連ねて、世話人が14、5名づつその上に座り礼儀正しく神酒を頂いた。神酒をお酌していた白丁が気を利かせた振りをして、見物していた知人の年老いた男に一杯飲ませると、神官に見つかって叱り付けられ、頭をかくそのおかしさは臀ふべくもあらず(?)。このようにして式が終わると神輿は再び町内にきこまれた(?)。しばらくすると休んでいた馬鹿踊りの始まりと共に、静まり返っていた囃子は一斉に囃し始められた。笛太鼓や鉦の音が大海原に響き渡り、磯打つ波の音と調和している。岸に引き揚げられた多くの舟には家々の常紋が打ってある幟を立て、屋台に立てられた吹流しと共に軽い潮風に翻る様など、その壮観は何とも語り難く実に筆も及ばぬ眺めである。昔の日枝、神田の祭りについてはよく知らないが、今時には珍しい仕構(?)には感心した。海辺には氷屋や鮨屋、小間物(日用品など)屋、しまいには手品師なども見受けられた。遠近より群がるように集まった老弱男女は浜辺の丘に登ったり海辺の砂に敷かれたりと、その混雑は云はんかたなく(?)。6時半頃に神輿は帰って行くと、それに続いて屋台も徐々に町内に練り込む。これより神輿は町内を回って本社に帰り、ここにいよいよ賑やかだった祭事はその終わりを告げたのである。



例大祭

  天保6年(1835年)に長楽寺が幕府に提出した書き上げ帳には、祭礼日を隔年9月29日(旧暦)とし、神輿が村中を渡御して浜下りしたとある。この書き上げ帳が基礎資料となり、天保12年(1841年)の『新編相模国風土記稿』が編纂されている。その後は旧暦の7月に変わり、新暦の7月19日(18日がヨミヤ、20日がハチハライ・ノボリタオシ)になり、近年は20日前後の土日曜日に行っている。
  隔年9月29日に挙行されていた時代は、5台の屋台を先頭に榊・鉾・剣などが従い、次に白装束の若者が担ぐ神輿、別当の長楽寺の網代賀籠となり、名主・組頭、百姓は麻上下、町頭は羽織姿で警固し、各町内に御旅所を設け、海岸に至って浜降(はまごり)をした後、深夜に宮入りした。
  江戸時代に須賀は漁業、海運業、商業の要所として急速に発展し大変な賑わいを見せた。そして須賀千軒の賑わいと共に夏祭りが氏子町内挙げて盛大に執行され、その威勢と盛大さに他地域の人々は「須賀のまつり」と称するようになった。俗に「入り梅まつり」や「長まつり」、「尻無しまつり」、さらには「だらだらまつり」ともいわれ、大正6年(1917年)などは実に12日間も続いた。土地の人も「入りがあって明けがねえ」といわれるほど長引く祭りで、祭りの時期の須賀港は船止めになったという。また、昭和11年(1936年)12月20日発行の『日本祭祀暦』第1部の中では、中郡須馬町須賀の三島神社のまつりについて、須加の長まつりといって7月19日から1週間続き、全部落の漁夫が神輿を擔いで練り歩く、太神楽その他があると記載されている。
  現在は大・中神輿を中心に2日間にわたって各町内を渡御し、子供達のパレード・太鼓・各町内の子供神輿に導かれ大神輿が悠々と宮入りする姿は昔と変わりなく実に盛大である。また、参道両脇と隣接する三島公園には20程の露店が出て、境内は参拝客などで賑わいを見せる。以下に本祭当日の様子を紹介する。

●大・中神輿発御祭(開始8:20)
  宵宮の神輿渡御は中神輿だけであったが、本祭では大・中2基の神輿による渡御が行われる。出発前には発御祭が執り行われ、巡行の安全を祈願する神事などが執り行われる。

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中神輿と大神輿を拝殿前から降ろし
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境内に並べる大神輿には供物の準備
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地元の担ぎ手が参拝友好団体は受付へ
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発御祭が始まり最初に修祓
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関係者をお祓いしていく
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続いて御霊遷しの儀献撰・祝詞奏上
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玉串拝礼撤撰で神事終了

●宮出(出発8:50)
  宵宮と同様に氏子会会長から実行委員長へ襷が渡され、さらに実行委員長から年番にあったった地区の副実行委員長、各町内の副実行委員長へ襷が渡されていく。その後は友好団体の紹介が行われ、平成21年(2009年)は約25団体であった。宮出しは大・中2基の神輿で行われるが、大神輿はお宮を出ると直ぐに台車に載せて市場まで移動され、魚市場までの巡行は中神輿のみとなる。

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氏子会会長の挨拶宵宮と同じく実行委員長へ
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年番の南町と各町内の副実行委員長へ
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それぞれ襷を渡していく続いて友好団体の紹介
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実行委員長の挨拶お神酒を配り
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乾杯の挨拶で身を清める
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実行委員長の一本締めで肩を入れ
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2基の神輿を担ぎ上げる境内に並列する大・中の神輿
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甚句が入り社殿前で練る
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中神輿が前に出て大神輿が後ろに付く
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中神輿は先に2つの鳥居を潜り
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宮出し大神輿も続いて
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2つの鳥居を潜り
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いよいよ宮出し
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大神輿は大通りに出ると用意してあった台車を入れ
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輿を降ろすそのまま歩いて
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魚市場へ移動担ぎ手は中神輿へ向かう

  この後の宮出から宮入までは神輿巡行を参照。

浜降りと浜降祭(到着16:30、出発16:50)
  最後の神酒所である西町を出発した中神輿は、6基の子供神輿が待機している129号線に出る。中神輿が現れると先頭の子供神輿から順に国道134号線を渡り、浜を目指して南下していく。

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129号線沿いに並ぶ子供神輿中神輿が現れると
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先頭の子供神輿がお発ち各地区の子供神輿が後に続く
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134号線を渡り浜を目指す
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坂を下り途中にある竹の鳥居を
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潜り海へ向かう
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触れ太鼓と宮司も続き最後の子供神輿が
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坂を下るといよいよ中神輿が道路を渡る
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坂道にさしかかるとゆっくりと下降し
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竹の鳥居を揉み合いながら通過
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砂煙を上げながら砂浜を練る神輿
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担ぎ手が激しく揉み合いながら浜を降りていく
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神輿は海へ向かって進んでいくが
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赤い旗に導かれ一旦海を背にする
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浜に設置された竹の鳥居へ神輿が目指し
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そのまま鳥居を潜って
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突き進む子供神輿はすでに海へ着水
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中神輿も勢いを増しながら荒れた海へ着水
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波に足を取られる担ぎ手海で揉む中神輿
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その両側でも子供神輿が波に揉まれる
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中神輿は海から上がり砂浜に上がる
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竹の鳥居へ戻ると実行委員長が神輿正面に立ち
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神輿を誘導神輿の勢いに押され
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倒されそうになるがなんとか持ちこたえる
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拍子木の合図ですかさず馬を入れ
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輿を降ろし無事に一本締め
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子供神輿も続々と浜へ上がり輿を降ろして一本締め

  浜で輿を降ろした神輿の前では、神職や六所神社の宮司などによって式典が執り行われる。

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神輿前に御神酒を供え浜降祭の式典が始まる
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修祓で神輿と宮司をお祓い続いて宮世話人をお祓い
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最後に関係者をお祓い続いて祝詞奏上
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玉串奉奠で神事が終了氏子会会長の挨拶
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御神酒で乾杯し式典が終了する

  砂浜でしばらく休憩した担ぎ手は一本締めで再びお発ちし、最後の休憩場所となる魚市場を目指す。

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しばらく砂浜で休憩し一本締めで
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肩を入れ中神輿を担ぎ上げる
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馬を抜き取りその場で旋回
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竹の鳥居を通過
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各子供神輿もお発ちし竹の鳥居を潜る
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7基の神輿が浜を練り歩く先頭の子供神輿が浜を出る
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後方の子供神輿は中神輿を追い抜いて先に浜を出る
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馬を積んだ軽トラが続き最後に中神輿が
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細い通りを通過し浜を後にする
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担ぎ手も後に続き最後の休憩場所を目指す

  この後は神輿巡行の魚市場へ。   



鹿踊(ししおどり)

  「鹿踊」は日本の伝統芸能で「獅子踊」とも書かれ、読みは「ししおどり」や「しかおどり」ともいう。地域によって身に着ける衣装は様々で、流派によってもその形態は異なる。平成21年(2009年)度は友好都市である岩手県花巻市の「花巻春日流鹿踊保存協会」による鹿踊が奉納され、須賀の祭りに花を添えた。
  岩手県内の鹿踊りの様式は大別して「太鼓踊り系」と「幕踊り系」に分けることができる。前者の太鼓踊り系は前腰につけた締太鼓(羯鼓)を両手のバチで打ち、自身で歌いそして踊るもので、他に囃子も歌あげもつかない。一方、後者の幕踊り系は踊り手が身に太鼓をつけないで踊り、別に囃子歌あげとがあって、それにつれて身を覆う幕をゆるがして踊るものである。花巻の鹿踊は多くが前者の太鼓踊り系で、装束については馬の黒い長毛を「カシラ」の「ザイ(髪)」とし、本物の鹿の角を立てる。背には腰差しの「ササラ」と呼ばれるものを一対つけ、それが頭上高く抜いて立っており、これが太鼓踊り系鹿踊の特徴である。
  以下は須賀の三嶋神社例大祭に境内で奉納された鹿踊の様子である。

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宮世話人の提灯に誘導され鹿達がお宮前に現れる
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太鼓を打ち鳴らしながら縦一列になって参道を進む
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2つ目の鳥居で一礼すると再び宮世話人に先導され
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社殿へ向かう提灯を潜り
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拝殿前に到着観客へ一礼し
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見事な舞を披露境内は観客で溢れる

  岩手県の花巻市は平塚市と昭和59年(1984年)に国内友好都市の関係になっており、新市発足後の平成18年(2006年)4月には新しい花巻市と平塚市で友好都市継続の調印をしている。(以上は花巻市公式ウェブページなどから引用)


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