馬場ばんば

守公神社

  「守公神社」は相模国総社「六所神社」の主祭神「櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)」の父神「脚摩乳命(あしなづちのみこと)」と母神「手摩乳命(てなづちのみこと)」の二柱を祀り、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると国府本郷には六所神社の末社である守公神社だけを記している。当社の創立は養老2年(718年)4月8日養老の津令により国府祭の政起るに当り、総社六所神社の摂社として、六所神社を守護の神と境内に祀りしが天保10年(1839年)に至り、現地の馬場に奉還した。ちなみに馬場と中丸は江戸時代には一つの村であったが、現在の社会生活は馬場と中丸とに全く二分している。
  娘子、櫛稲田姫命は天照大神の弟神にて、八坂神社として全国に祀られる。須佐甥命 御后(おんきさき)とならし給い、長男は有名な大国主命にて、子孫は日本の建国に弥高く栄えければ、昔より一家の繁栄と商売繁盛、並びに子供を災難から守り下さるという御神徳崇き神社である。
  大正6年(1917年)または9年(1920年)に無資格の神社を合併した際に、六所神社に守公神社が合祀され馬場の社殿を壊した。しかし、昭和26・27年(1951・52年)に再び戻そうということになり、岩崎氏の稲荷社の社殿を貰ってきて、六所神社から御霊を移して元の鎮座地に復祀した。昭和60年(1985年)頃には神社の形式を整えて、神社本庁から認めてもらい現在に至っている。昔は四反位の土地があったが、農地解放の時になくなってしまい、今は200坪ほどになっている。また、馬場の西の一画、馬場公園の北側に神明神社を祀るが、これは近所の人たちが祀っているようで、昔から雨乞念仏をここでやったとう。
  馬場ではお寺の地所を借りて青年会館を建てていて、部落の集会や青年会で使っていたりしていたが、戦争中に火事で焼けてしまった。そこで、町が老人憩の家を作るに当たって守公神社の境内を貸し、老人憩の家を部落の集会にも使っている。守公神社の役員組織は宮総代5名、氏子総代5名、宮世話人数名、顧問10数名となっている。

守公神社鳥居
神社由緒手水舎
 
神殿神輿蔵
馬場稲荷大明神
境内馬場老人憩の家


例大祭

  『風土記稿』には「守公神社 手摩乳・脚摩乳を祀る、國府新宿六所社神主近藤因幡が藏する(中略)例祭六月廿日」と記されており、江戸時代には6月20日が例祭日であった。『神奈川縣皇國地誌殘稿』では「六所神社ノ攝ニシテ」とあり、祭日は「例祭七月廿日」と記されていることから、この頃は7月20日が例祭日となっていた。祭りは一時期行われていなかったようだが、近年になり7月の最終日曜日に祭礼を行うようになり、平成5年(1993年)は7月25日の日曜日であった。

囃子

  



神輿

  昭和60年(1985年)頃に手作り神輿を購入した。



馬場の歴史

  馬場は国府祭が行われる神揃山の南側に東西に開けた集落である。馬場の地名の起こりは『風土記稿』に「馬場、六所明神社領の内、生澤村境にあり、字櫻馬場、又日陰の馬場とも云、長百廿七間、幅三間半、五月五日、六所社神事の時、ここにて調馬の儀あり・・・」とあるように、昔、国府祭の競馬のための馬場があったことによる。馬場は昔は40数軒だったというが、大正時代から終戦頃までは馬場が60戸、祇園塚8戸だったという。馬場の西に位置して国府新宿に接する一画を祇園塚といい、位置的には少し離れているが、一体の社会組織となっている。
  昔は守公神社と老人憩の家の辺りを境に、その西南一画に人家がまとまっている場所を西馬場、その東側である真勝寺の左右一帯の集落を東馬場といい、それから少し西に離れた場所に祇園塚の集落があった。伝統的な社会組織としては東番場と西馬場、そして祇園塚と分かれていたようである。東・西・祇園塚全体を12,3人の世話人と区長1人でまとめ、この時代の村役は大体特定の資産家の家が務めていた。
  近年には、馬場の町内は「豊美丘(とみがおか)東」・「豊美丘西」・「神山東」・「神山西」・「南町」・「桜見北」・「桜見南」・「祇園塚北」・「祇園塚南」の9つとなっており、昭和47,48年(1972,73年)には町内が6つであったが、当時の区長が区長を辞めるときに2つ増え、その後も2つ増えて9つになっている。馬場の中の戸数が増えるに従って町内も増えているが、馬場の町内が新しい組織であることは、その名称が祇園塚を除いて伝統的でないことからも推測できる。



青年会と青年団

  青年会は15歳から35歳までの男子で構成されていたが、馬場ではあまり活動的ではなかったようである。馬場ではお宮さんがなかった次期があったので、神輿を担ぐということもなかったという。しかし、馬場の青年会で薪山をやったという話もあり、山の持主から生えている木を買い取って薪にして売って、売ったお金は会の会計に入れた。また、他所の部落に行って薪運びをしたり、ミカンの肥料を運んだりして資金を稼いだ。昭和の初期には32,33人いたそうである。
  青年団は15歳から25歳までで、途中で青年会になったという。11月から始まる火の番を青年会館を根城にしてやったといい、毎年10月頃には国府小学校で青年団の運動会を催した。


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