虫窪むしくぼ

菅原神社

  虫窪の氏神は「天神さん」といわれている「菅原神社」で、別名「天神社」・「天満宮」とも称する。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると虫窪村の鎮守は「天神社」で、檀那寺は「慶林寺」であったが。明治14年(1881年)の『皇國地誌』では蟲窪村(虫が蟲に変更されている)の鎮守は「菅原神社」となっており、祭神を「菅原道眞公」としている。
  明徳3年(1494年)に北條早雲が大森氏を追放して小田原城に入った。北條家の臣條窪弥太郎、則に二宮重晴(縫殿之尉と号す)を召して配下とする。重晴よく忠勤に励んだため主君の信任厚く、明應7年虎の朱印を賜る。また、稀にみる能書家のため、「数馬正」作の天神の像を賜る。主君より拝領の天神の像はこれを屋敷内に祀られてあったが、天正19年(1591年)に徳川家康より寺領一石を下附されたので、正徳二年(1712年)に虫窪村の鎮守として現在地に宮を移した。明治6年に村社に列せられた。
  祭神の天神さんは二宮秀韶氏宅のもので、屋敷の東隣の平らみの所へ祀ったが、その後現在地へ移したという。二宮氏宅は改築前に天神さんと向かい合っていた。神主は二宮氏宅が代々勤めていたが、明治になって百姓神主ではいけなくなり、神主としての資格が必要となった。そこで二宮の川匂神社の神主が菅原神社の神主となったが、それでは困ると資格争いになり、訴訟して裁判沙汰になったが敗れてしまったという。その後の神主は馬場の近藤氏がやっていたが跡継ぎがなく、高麗神社の神主が兼務していた。昭和21年(1946年)のマッカッサーの神道指令により、神社庁の指示で六所神社の神主柳田角太郎氏が国府地区の10社(虫窪の菅原神社と黒岩の池之神社を含む)と、旭・土沢の2社の計12社の神社を代表する宮司に任命された。
  天神さんには木像の御神体が2つあり、1つは厨子が付いている。厨子入りの天神さんは衣装束帯の座像(1尺4・5寸)で顔・鼻はよく分からないが、あらたかでいい天神さんだという。そのため大槻の人が「とりけえてしまおう」ということで、夜に忍び込み天神さんの扉を開いていざ手をかけようとしたら手が震えておっかなくなり、代わりに持ってきた天神さんを置きっぱなしで逃げ帰ってしまったので2つあるという。震災で神社のがわが潰れた時に中宮は無事で、このとき厨子入りの天神さんを見たら木像の裏に正徳2年(1712年)とあり、あと3字あったが判読できなかったという。
  天神さんへの上がり口の所(字南向滝)に二宮秀韶氏の所有地があり、御神田が3畝あって池と田になっていた。二宮満氏の屋敷が御神田の側にあり、こばを引っかくようになっていたので譲ってくれとことで、明治20年(1887年)頃に二宮氏の曽祖父(縫三郎)が二宮満氏宅へ売った。震災後は虫窪の共有地の山林と交換し、御神田を埋めて米つき場を作った。『風土記稿』に「天正十九年(1591年)社領一石ノ御朱印ヲ賜フ」、『皇国地誌』に「天正十九年辛卯十一月徳川氏ヨリ社領一石ヲ附セリ」とあり、これが御神田であったと思われる。
  昭和37年(1962年)に天神さんの境内へ農業センターを建てるとき、バス停公民館前から入って右側の高い所に大きな赤松の根っ子があり、この根元から「おんまつ」と刻まれた角石(5寸巾で1尺2・3寸)と灯明皿・御神酒皿が出てきた。この赤松は御神木であったといい、大正の頃に台風で倒れて拝殿に枝がぶつかり、邪魔になったので切ってしまった。昭和48年(1973年)にゴミ焼却場南(字タレコ谷戸)にあった共有地8反を町へ売った費用で、昭和49年(1974年)に天神さんを改築した。境内にあった農業センターはなくなり、昭和49年(1974年)に町立虫窪老人憩の家が建てられた。昔の社殿は草屋で、茅山の茅を刈って当番を決めて屋根を葺いていた。かつては境内北側に神楽殿があったが、震災でこわれてしまったのでたてぶてい(舞台)にした。釣鐘もあったが戦時中に供出した。110段の石段を上がっていくのが正式の参道である。

菅原神社社号標
鳥居神社由緒
拝殿覆殿
虫窪老人憩の家手洗鉢
境内

  戦後から菅原神社と池之神社では2月25日に「祈願祭」をやるようになったが、西久保ではやらなかった。菅原神社では午前10時から社家・宮総代・宮世話人・区長・伍長が集まり、中宮にゴザを敷き、神前に御神酒・野菜・果物を供え、柳田神主が来て祝詞をあげ、代表者が玉串をあげ五穀豊穣を祈願する。式後に参会者で御神酒を酌み交わす。
  二宮道明さん宅は先祖代々菅原神社の社家を勤めており、鍵取さんともいい中宮の扉を開ける鍵を預かっている。神社の世話役で神主の下働きをやったり、時には神主の代行もやる。元旦祭・祈願祭・祭礼・新嘗祭には儀式の準備をし、羽織袴で参列する。

太鼓

  天神さんは太鼓も神輿もなく、若い衆がせちがっても買わせなかった。貧乏村だったのでつくる金がなかったという。



天王さん

  子供が神輿をかついで太鼓を叩きながら村中を回るが、これは最近のこと。
  3日ある農上りの一日が天王さんで、虫窪では7月9日が「お天王さん」の祭りにあてられ子供たちは神輿を担いだ。虫窪ではかつて神輿がなかったので、明治24年(1891年)頃に器用だった古正政男さんの曽祖父政五郎さんが、神輿をつくってやるから材料をだせとのことで、古正公正さんの祖父京次郎さんが材木を、古正貞春さんの父徳蔵さんが紅白を出して子供神輿をつくったという。神輿は杉の赤味で作ってあり、古正貞春さん宅に保管されている。
  天王さんが近づくと子供達は大将(高等科1年、現在の中学2年生)の指示に従い、お金を出し合ってエス・エナメル・提灯・花火を買ったり、田島のドンドン(小川で字谷坂にある)で神輿を洗って化粧直しをする。当日は学校を昼前で早退して神輿に榊・シメなどの飾りつけをし、古正政男さん宅にある政五郎さんの福禄寿の碑に手を合わせて神輿を担ぐ。その後は部落中を回るが、山坂が多いので休み休み担いだり、途中で花火を上げたりするので、一回りしてくると夜中の12時近くになってしまう。戦前は神輿を麦のこいたバカ(ノゲ)に突っ込んだり、畑に落としたこともあった。また、途中の各家でもらったお賽銭は年齢に応じて分けられる。



例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の9月25日で、『皇國地誌』と『国府村地誌』でも同じ9月25日となっている。
  祭典日に関しては明治初年の改暦と各天満宮の申合で3月25日に決定した。因みに道眞公は誕生日、右大臣就任日、大宰府赴任日、九州に於いて薨去の日の何れも25日なので、祭神の神霊供養のため、月は異なっても25日を祭典と決定した。現在では3月31日を除いた最終の日曜日に祭典が行われている。
  昔は24日の宵宮には朝から青年が中心となって幟を立てたり、神楽を奉納する舞台をつくった。幟は柳下信治さん宅でハサン箱へ入れて預かっており、天神さんへ登る階段口へ立てたが、近年は幟をお宮に保管し境内に立てる。「舟窪」と「向窪」とが毎年交替で祭典用の米五合と煮〆(煮〆のみ当日)を集めて、当日に宮総代の家で女衆がこの米でご飯を炊いた。芝居師がお化粧を落としたりするため風呂桶も1つか2つ借り、楽屋へ運んできて当日沸かした。
  25日の祭日は14時から近藤神主がきて祝詞をあげるだけで式を終え、舞台の三番叟を一杯飲みながら見たのち、お供えにあげた餅を小さく切って各氏子に配ったという。祭礼は春休みの時期なので親戚や家から出た人が子供連れで来るので、ご馳走づくるやもてなしが大変で酒一斗はすぐ終えてしまい、しかも泊まっていくので寝る場所がなく家の者は押入で寝たという。また、家によってはお祭りのためにドブロク酒を造って振舞ったという。翌日は幟かえしと舞台を取り外し、あとかたづけをして夜学でハチハライをする。
  昔は毎年余興があり、虫窪にはいい芝居があるというので地元はもちろん近郷からも見物客が集まり大賑わいで店も出た。余興は平塚の在から呼び、小田原の方は高いので呼ばなかった。また、神楽の方が安くできたので大磯や国府の神楽師を呼び、歌舞伎芝居は高いのであまりやらなかった。余興は毎年予算があって、それに応じて決めた。芝居を呼ぶ交渉は男子青年だが世話役は女子青年がやり、御飯やニシメなどのご馳走を持っていく。芝居の途中で雨が降ってきたときは寺でやったり、二宮秀韶さん宅の座敷を借りてやったことなどもあった。芝居が終わると夜学(青年会館で夜学があったため)へ泊まるので、布団を借りられるような家から名前をつけて借りた。芝居は戦争中から戦後10年代は青年が素人演芸をやったが、その後はなかった。
  近年は午前10時から宮総代・宮世話人・氏子が社殿に集まってお供え・御神酒・野菜・果物を供え、柳田神主の祝詞や宮総代が玉串奉典があり、御神酒を飲んで共同飲食して終わる。


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