高麗
高麗権現社 (現高來神社)
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると高麗寺山の頂に「高麗権現社」があり、左右の峯に白山毘沙門を勧請し、合わせて高麗三社権現と号すとある。高麗三社権現の一つであった「白山社」は本社の右峯に位置し、斉衡年中(854〜857年)に圓仁の勧請と言い伝えられ、永禄の兵火にあった後に仮の小社を建てたとある。一方、三重の塔であった「毘沙門塔」は本社の左峯にあり、慈覺の作像を収めていたが、永禄中(1558〜70年)の火災の後に再建されず、残された古い像は本地堂にあると記載されている。
高麗寺山の麓には「平嘉久社」があり、いわゆる庚申(複合信仰)で、これを地主神といい、高良明神や疱瘡神などを相殿とした。末社には「天神社」があり、平嘉久社の右側に「神輿堂(殿)」と「神楽堂(殿)」があった。この他には「地蔵堂」があった。
神仏分離政策により明治元年(1868年)に別当であった高麗寺が廃寺となると、高麗権現社は高麗神社と改称し、さらに明治30年(1897年)には現在の高來神社へと再度改称している。神明造りの上宮は老朽化により昭和55年(1980年)に取り壊された。
※高來神社の歴史については大磯を参照。
高麗寺
漁師であった蛸江(蛸井)之丞が大磯の浜で光明を放つ千手観音菩薩の像を引き上げ、高麗山に祀ったことから、その浜を照ケ崎と称するようになったという口伝が残されている。養老元年に(717年)に僧行基がこの地を訪ね、この千手観音菩薩を拝すると本地佛と定めたのが高麗寺(こうらいじ)の創建と伝えられている。高麗権現社が山頂に勧請され、高麗寺が別当寺となることで、高麗地区は神仏習合の地となっていったと考えられる。最盛期の鎌倉時代には相模国の大寺社として、境内に24の僧坊が置かれていたという。
『風土記稿』には別当として「高麗寺」が記載されており、鶏足山雲上院と号した。言い伝えによれば、古くは大同年中(806〜810年)に役小角が初めて当山に登り、両部垂跡の事を里人に告げたのちに、法相沙門の堂社を開健し、その後に小野文観会が中興(復興)したという。この頃は真言宗であったが、いつの頃からか天台宗となった。客殿に千手観音を置いていた。建久3年(1192)5月8日に後白河法皇が鎌倉南御堂において七々日の仏事を修せられし時に、当寺の会徒が其の事に係った。同年8月には源頼朝夫人の政子の平産祈願の為、高麗権現社へ神馬が牽かれ、高麗寺においてお経が唱えられた。
高麗寺の所領は北条氏の頃は67貫770文で、天保年間には120石余り(この内26石は除地高)であった。寛永中(1624〜45年)に上野の東叡山寛永寺から東照宮を勧請してからは、寛永寺の末寺となった。このため、参勤交代の大名行列が高麗寺領を通過するときは下馬をし、大鳥居の前で最敬礼して静粛に通行したという。当時の高麗寺には地頭所(じとうしょ)が置かれ、宗教的権威と村の領主の役割を持つようになった。
寛永寺から転じた別当は47世続いたが、明治元年(1868年)の神仏分離政策により、特定の檀家がなく東照権現を祀っていた高麗寺は廃寺となり、一切の仏像関係は現在の慶覚院に移された。
慶覚院 | 本堂と鐘楼 |
高麗の歴史
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には高麗寺村とあり、村内にある高麗寺に因んで村名が付けられたとある。地名の由来については『続日本記』によると、霊亀2年(716年)5月に駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人1798人を武蔵国に移し、高麗郡を置いたということから当地が相模の高麗人がいたところになり、地名はそれから出たのだろうとしている。また、『倭名抄』には大住郡の郷名に高來の名があったが、大住郡に該当する地がないことから、郡の境界に変遷があって淘綾郡に編入されたのだろうとしている。更に、高麗寺の弘安11年(1288年)の鐘銘には高來寺とあり、高來を当地の旧名というべきだとある。また、当村は元来大磯宿の内で全てが高麗寺領だといい、大磯から分かれて一村となったのは寛政(1789〜1801年)の頃であるという。
高麗村の戸数は『風土記稿』には43戸とあり、明治4年(1871年)には53戸、旧大磯町の大字になってからは大正15年(1926年)に103戸、昭和13年(1938年)には128戸と緩やかに増加している。現在の大磯町の大字になってからは昭和48年(1973年)に380戸と戦前の3倍に増えており、戦後急速に人口が増加したことがわかる。平成10年(1998年)には700戸を超えた。
春季例大祭
当社には4月17〜19日に行われる春の大祭と、隔年の7月18日に行われる夏の大祭である「御船祭」がある。平成19年(2007年)に祭日が4月第3金曜日・土曜日・日曜日と変更された。
『風土記稿』には祭礼が毎年3月中澣の17日から19日までを定日とし、高麗権現の祭礼の時に市が立つとある。このように神仏混淆の高麗寺時代には3月16日の幟立てから20日の幟返しまで、5日間の長い祭りであり、明治元年(1868年)の神仏分離になってから、新暦の4月16日から昔の祭りの方式で引き継がれている。
4月16日の17時頃から地区の氏子の有志25〜26人が集まって大幟が建てられ、これを昔から幟立てといって祭礼の大きな行事である。幟棹の長さは九間(16m)以上あり、綱や縄を1本も使わずに大小二丁の梯子で幟棹を下から押し上げながら5〜6人で支え、他に幟棹を十数人の肩で担ぎ、幟棹の根元に大臼を転がし込んで順々に幟を立てて行く。
高麗寺は寛永寺より東照権現を勧請したことにより、家康の命日である4月17日に祭りを行うこととなり、4月17日は東照権現さんの祭りである。寛永20年正月に大僧正海上人が12箇条の掟書の中に「毎月十七日可致東照大権現御供法味事」と定めらており、正月、四月、九月の十七日には開扉して大祭が行われた。大正の中頃迄は村神輿を村中を担ぎまわって盛大であったが、昭和55年頃は交通事情のために13時頃からトラックに村神輿をのせて国道1号を移動し、車のない所を若い衆の肩に担がれて15時頃に下宮に帰還した。17時頃からは山神輿を上宮に担ぎ上げる行事に移る。
4月18日の「高來寺市/高麗寺祭(こうらいじまち)」は春の市日の先駆けで、後に続く三宮市と国府市と合わせて相模3大市と言われていた。もともと高麗寺の本尊である千手観音の祭りとして始められたようだが、神仏分離令による影響で高來神社の春祭りとしての印象が強くなっている。高麗山の見える村の人々は、ヨモギ(草の花)の団子を作って各家の仏前にお供えした。ヨモギ団子を食べると観音さんの御利益で一年中病気にかからぬとか、毒蛇(マムシ)にかまれぬと言われて信仰した。鎌倉から江戸時代にかけては観音信仰が盛んで、厚木の飯山の観音さん、金目の観音さん、飯泉の観音さん、小磯の谷戸観音さんなどが有名であった。人々は野良仕事を休み、遠くから祭りに出かけて来たのであった。
江戸時代は3月18日で、江戸時代から大正の初め頃までは「農具市」であったが、現在は「植木市」になっている。江戸時代から明治、大正初期頃は農家の必要な農具の市で、鍬・鎌・鋸・なた・蓑・笠・雨ゴザ・天秤棒・肥桶・唐み・篩(ふるい)などが、東海道の農家の前に市がたった。苗木は植える時期もあるため、桑の苗・桃・柿・栗・あんず・蜜柑・梨、その他山林苗木も多く、つつじ・椿・パンジー・デジー等の草花もあった。近郊近在からの人出で賑やかで、みの・みのがさ・すげがさなどの雨具は入梅の時に使うので、市で買うことになっていたという。子供たちも一文字菓子屋・おもちゃ屋などが露店を出すので楽しみであった。凧を売る店も多く、新暦の5月の節句には子共の成長を祝って高麗寺市で買った凧をあげた。また、高麗寺市は別称「ミアイマツリ(見合い祭)」ともいわれ、イナカ(他村)の人が綺麗に着飾って大磯に縁を求めにやってきた。なお、この頃は大磯海岸が潮干狩りの時期で遠浅になり、照ケ崎の岩陰では蟹や蛸そして海草などが獲れるため、高麗寺祭とあいまって近在からの潮干狩や磯遊びでたいへんな人出であったという。神仏混淆時代の祭りの習わしによって、現在も古式にのっとり4月18日の午の刻に神社で式が執り行われる。
高来神社は漁師の信仰が篤く、大漁祈願などをした。高来神社の祭りは漁師の祭りで、祭りの費用を作るために漁師は全員協力した。「ツリアゲ」といい、年4回、40歳以下の漁師は1日の漁の成果を供出した。組合長からの命令で「ツリアゲしろ」ということになると、若い者4・5人を1艘の船に乗せて漁をさせた。このツリアゲの稼ぎと花代(祝い金)で祭り費用を賄ってきた。
囃子
高麗の囃子は鎌倉囃子系統で、演奏される曲目は「ヤテイ」・「ミヤシロ」・「ニンバ」がある。
山車(側面) | 山車(後面) |
締太鼓は4個並ぶ | 大太鼓は運転席側に置く |
村神輿
村神輿は明治5年(1872年)に村中の浄財を集め、大工・松崎周助氏によって白木で造られた。大正11年(1922年)には大磯町山王町の塗師・中川良猷氏によって化粧が施され、その後は一部を修理したものの老朽化が激しくなった。平成4年(1992年)4月4日に高麗神輿修理発起人会が結成され、高麗地区住民や関係者の浄財を募り(寄付295名/1,338万7,200円)、平成6年(1994年)3月27日に披露神輿担ぎと祝宴が行われた。修理に伴う残金は村神輿の鳳凰・燕・飾り綱・担ぎ棒の新調に使われるとともに、平成8年(1996年)に子供神輿、平成9年(1997年)に山神輿の修理も実現させ、いずれも春季例大祭においてお披露目の神輿担ぎが行われた。なお、子供神輿は昭和4年(1929年)の御大典を記念し、高橋守蔵氏によって造られた。
村神輿 | 飾り付け後 |
胴周り | 子供神輿 |
掛け声 |
---|
山神輿
春の大祭のなかには「山神輿」の行事があり、寛永21年(1644年)4月17日より始まったと伝えられている。「高麗の山神輿」は平成元年(1989年)10月18日に大磯町より「民族資料」に指定されている。高來神社(下宮)の御霊を神輿に遷し、麗から山頂の大堂(上宮)まで神輿を担ぎ上げる。観音の祭り(4月18日)に大勢の人が集まるために、地上の穢れを避けて前日(4月17日)に山頂の上宮に仮宿するのだといわれ、山神輿は祭りが終わった翌日(4月19日)に再び山を下りる。
山神輿は4月17日の夕方から「上宮渡御」が始まり、山神輿には神主によって御霊が入れられる。高麗山で一番急な男坂を蝋燭の明かりを頼りに登るため、鳳凰等を外した山神輿の前棒には150mの大綱(親綱)と、後棒に30mの横綱2本が取り付けられる。担ぎ手は前棒が2人と後棒が4人の計6人で担ぎ、前棒2人は棒から棒へ結び付けた半円形の縄を首に掛けて足を踏ん張りながら登り、後棒4人は神輿の平衡を取りながら前棒2人の進行に合わせて前進する。前棒の大綱を男坂にある大木(かつてはマツ)にくくりつけて大勢の村人が引き上げ、横綱には保存会員5,6人が取り付き、周辺の樹木を活用しながら掛け声に合わせて神輿を引っ張り上げる。途中で何回も小休止を取りながら20時頃に女坂との合流点(八景・中の坊跡)に到着し、大休止をとると、そこでは御神酒や水、おにぎり、香の物(沢庵着け)が担ぎ手や応援者に振る舞われる。最後の100段の石段を登り切ると神宮へ到着し、担ぎ手は境内を所狭しと練り歩き、21時頃に神事を執り行って上宮渡御が完了する。
山神輿は大堂で19日まで休息し、その日の午後に装飾品を付けて「還御祭」を執り行い、今度は山神輿の後ろに綱を付けて女坂を利用して山を下る。下宮は18日の市も済んで静まり返っている。明治・大正時代は山神輿が下宮に着く頃には、余興として神代神楽が挙行された。太平洋戦争後は若い衆の芝居や映画をやったが、テレビ時代の到来で終わりを告げた。20日は幟をかえすので「幟返し」と呼んでいる。
現在の山神輿は明治27年(1894年)に高麗村中の協力で、大磯町字北下町の大工・河野松五郎氏によって造られた。転倒しても壊れないようにケヤキ材により頑丈なつくりになっており、重さは250kgある。昭和31年(1956年)と平成9年(1997年)に修繕が行われている。
山神輿保存会
高麗の青年会は14・15歳で加入し、25・26歳まで所属した。入会時には酒を一升持っていった。戦後に青年会はなくなり、5・6年の空白があったが、当時の青年会が主体となって「山神輿保存会」が結成された。この山神輿保存会は祭礼の執行だけではなく、葬式などの不祝儀の手伝いもしたという。かつての担ぎ手は若者であったが、次第に高齢化が進んでいった。明治から大正時代は兵隊に行く前の若い衆か、徴兵検査(満20歳)を受けた若者で、しかも未婚の者に限られていた。
江戸時代から高麗地区に代々引き継がれてきた山神輿の行事は一時期存続の危機を迎え、昭和50年(1975年)4月の春の祭典前に保存会結成の話し合いの場が持たれた。その後、幾度かの相談を重ねて昭和51年(1976年)4月に保存会の前身的を立ち上げ、昭和53年(1978年)3月25日に規約を制定し、正式に「高麗山神輿保存会」を発足させた。
規約では保存会の目的を「山神輿の保存と振興」とし、原則として高麗地区に居住するものを会員として、会員相互の親睦と他の諸活動への協力にも取り組むこととした。これが春・夏の例大祭における神輿の行事だけでなく、会員の親睦活動や高麗地区行事への協力など、現在の幅広い活動の礎になったといえる。
昭和59年(1984年)12月には会員が制作した「万燈(まんどう)神輿」が完成し、本会へ寄贈された。この神輿は古瀬恭良氏(名誉会長)が本会有志より部分品(錦絵・鐶・台輪の飾り金具)の提供を受けて制作したもので、翌昭和60年(1985年)1月1日にお披露目担ぎが行われた。この神輿は当初、夏季例大祭の宵宮交流渡御や富士白苑老人ホーム盆踊り大会で担がれていたが、平成13年からは夏季例大祭の宵宮で、春に渡御しない高麗地区内のコースを担ぐようになっている。
万燈神輿 | 飾り付け後 |
社人
高來神社には平安時代から「社人(神人)」が10人と定められ、明治時代に至るまでの長い間、社人免として耕地を与えられ神事に奉仕してきたといわれる(高橋光 1982、『ふるさと伝承記』)。いずれもその地域の草分け的な旧家であり、名手をつとめていたという。社人の家は高麗山の海側である高麗地区に青木家2軒・高橋家2軒・諸星家1軒と、山裏側である平塚市高根に木島家1軒・真壁家2軒・比企野家2軒の合計10軒であったが、現在ではいなくなった家もあるので10軒ではない。社人は葬式などを出してヒがかかっていると祭りを遠慮したが、100日が過ぎているとオハライを受けて祭りに参加した。
社人は毎月1日・15日および祭りの前日に山掃除をし、また御膳番という当番があるので、御膳番という書いてある木札が回ってきた社人1名とムラの者が順番で当たる。御膳番は1日と15日に御供を炊いて神主とともにダイドウのお宮といわれる上の宮に供え、当日が雨であるとゴンゲンさんといわれる下の宮で行われる。米を研ぐ水は御供水が使われ、この水は手桶の中に入れられており、手桶2つを社人が担ぐ。
社人は1月4日はかがり火を焚いたといい、七草である7日はアカツキの行事といって神主・社人で行う。第二次世界大戦前まではダイドウで配布するお札を、御供を焚いて祝詞を上げてから供えた。この時は多くの三詣者が出て賑やかであったといい、下の宮の境内に露店が出たという。近年は下の宮で行われている。
その他の行事
●平成29年(2017年)7月16日・・・高來神社夏季例大祭
戻る(中郡の祭礼)