大磯(大磯・高麗)
高來神社
「高來(たかく)神社」は高麗地区・大磯地区の氏神で、「高來(こうらい)神社」・「高麗(こま)神社」・「権現様(こんげんさま)」などと呼ばれている。当社の旧記は消失してその由来は明らかではないが、高來神社の由緒によれば当社の創建は6世紀以前としている。昭和56年(1981年)の『神奈川県神社誌』によると大磯地区には「熊野神社」・「浅間神社」・「賽神社」・「愛宕神社」・「白山神社」が各地に鎮座しているが、大磯全体の氏神がこの高麗地区に鎮座している高來神社で、そのために各町内から高來神社へ氏子総代を出している。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では「高麗権現社」と称し、高麗寺村(現高麗地区)と大磯宿(現大磯地区)の氏神であった。高麗権現社は高麗寺山の頂にあり、左右の峯に白山毘沙門を勧請し、合わせて高麗三社権現といった。社伝によると本社祭神は「神皇産霊尊(かみむすびのみこと)」で、安閑帝の御宇(531〜536年)に應神天皇と神功皇后が合祀されたとある。
神仏分離政策により明治元年(1868年)に別当であった高麗寺は廃寺とされ、寺物が地蔵堂に移されると社名が「高麗神社」と改称された。明治6年(1873年)に郷社に列せられ、明治30年(1897年)3月15日に現在の「高來神社」に再度改称された。
高來神社 | 社号柱 |
一の鳥居 | 二の鳥居 |
狛犬 | 参道 |
燈籠 | 手水舎 |
燈籠(社殿側) | 燈籠(神輿殿側) |
道祖神 | 杉本稲荷大明神 |
靖国之塔 | 忠魂碑 |
社殿 | 神輿殿 |
社務所 | 神明宮 |
石祠 | 社号標 |
平嘉久社 | 石碑 |
上宮造營所 | 境内 |
下宮豊受大神・車お祓い所 | 力石 |
境内にはかつて若者が大磯海岸に集まって大きい石を両腕で持ち上げ、力比べをしたときに用いた「力石」が奉納されている。丸形の大きい石を女石、長い形をしている石を男石といっている。
氏子範囲
明治22年(1889年)4月に大磯宿・東小磯村・西小磯村・高麗村が合併して大磯町が組織され、大磯を小別して山王町・神明町・北本町・南本町・茶屋町・裡道(うらどおり)・台町・化粧町・北下町・南下町に分けられていた。
氏子総代は大磯地区の高麗・東町・長者町・山王町・神明町・北本町・南本町・北下町・南下町・茶屋町・裡道・台町の12町内から、2名ずつが原則で計24名が選出される。但し高麗は3名で裡道は1名である。任期は2年で、役員は責任総代・副総代・事務・会計・監査などから構成されている。なお、台町は平成27年(2015年)以前に高來神社の氏子を離脱しており、夏季例大祭にも参加していない。
町内会 | 神社名 | |
1 | 高麗 | 高來神社 |
2 | 山王町 | 日枝神社 |
3 | 神明町 | 神明神社 |
4 | 北下町 | 浅間神社 |
5 | 南下町 | 熊野神社 |
6 | 茶屋町 | 愛宕神社 |
7 | 裡道 | 白山神社 |
8 | 南本町 | (南本町公民館) |
9 | 北本町 | 穐葉神社 |
10 | 東町 | (福祉会館) |
11 | 長者町 | (老人憩の家) |
浜神輿
現在担がれている浜神輿(宮神輿)は文久2年(1862年)に再新調されたことが神輿の裏書に残されており、北本町・南本町・茶屋町・神明町・台町・山王町・北下町・南下町の8町の代表世話人衆によってできたものである。大工は庄蔵、塗師は壮三、経師は清五郎である。
高来神社の神輿が各町内を回り、台町には14時から15時とだいたい決まっている。公民館までは東海道を担いできて、公民館に神輿を下ろすとトラックに積み、台町の中をぐるぐる回って裡道地区に渡す。帰りは神社までトラックに積んで運ぶ。
大磯神輿連合會
大磯神輿連合會の結成の主旨はトラブル発生の防止、楽しい賑やかな神輿渡御の運行を目的とし、昭和48年(1973年)頃から結成への動きが始まった。当時の高來神社の祭礼は諸事情により昔ほどの活気がなかった。各町内では氏子の祭り好きが集まって神輿会を結成していたが、小さなトラブルがあちこちにあり、役員たちはトラブル発生の防止に大変な気配りをしていた。
昭和50年(1975年)も明けると先輩諸氏より「大磯の祭りをもう一度昔のように復活できないか」との話が投げかけられ、早速長者町の公民館で会合が開かれた。この時出席したのは長者町長友会・山王町山王会・北下町三社会・南下町南神会・台町台神会・大磯松龍会の各代表者で、第1回目は不調に終わったが、以後回を重ねて協議した結果、昭和52年(1977年)4月に大磯神輿連合會が結成された。
大磯の歴史
大磯・東町・高麗地区はその集落形成の性格から、東海道の宿駅として発達した街道沿いの宿場町、相模湾沿岸の漁港として成立した漁師町、高來神社(高麗寺)周辺の農村などに分けられる。
『風土記稿』には大磯宿を東海道五十三驛(駅)の一つとし、大磯宿の小名は山王町・神明町・南本町・北本町・南下町・北下町・南茶屋町である。
近世の大磯を伝える資料によると、花水橋から虚空蔵森まで高麗寺村の家並みがあり、やがて大磯の宿内に入ると往還沿いに「山王町」・「神明町」・「北本町」・「南本町」・「茶屋町」・「臺町」の6町が続き、海岸沿いの「北下町」・「南下町」を併せて8町に分けられていたという。この8町は宿内の中心地を北と南に分けられ、当時、北組に300軒、南組に376軒の家々で構成されていた。その内訳をみると本陣(3軒)・旅籠(66軒)・酒食商(33軒)・商人(73軒)・農業(302軒)・医師(3軒)などとなっていた。また、漁師は196軒とあり、これを含む300軒ほどで「宿内裏宿(北下町・南下町)」を構成していたとされている。
大磯宿は街道の発達とともに成長した地域であるため、その構成も街道に沿った形になっている。北から北本町・南本町と続き、さらに茶屋町・台町と通り沿いに形成されている。また、高麗は宅地化が進んでいるもの、かつての農村の面影を僅かに残している。一方、漁村部は本町に対して下町を形成しており、本町と同様に北下町・南下町とに区分されている。本町と下町の境界はやや入り組んでいるいるが、基本的には東海道に面した家々が本町側に属し、海よりの家々は下町に属している。この本町と下町とは旅籠や店を営む人々と漁業を営む人々ということで、仲間意識の上でも違いが見られる。例えば、漁師たちはみずからを「リョーシ」、商人や農民を「オカモン」と呼び分けている。さらに本町は宿場としての性格と共に、都市化の影響もあって人の移動も激しかった。これに対し下町は漁師町であることに加え、サギチョウ(左義長)のような道祖神祭祀の存在が住民の結び付きをより一層強めている。
夏季例大祭
当社には4月17〜19日に行われる春の大祭と、隔年の7月18日に行われる夏の大祭である「御船祭」がある。『風土記稿』によると高麗権現社の祭礼は毎年3月中澣の17日から19日と、6月18日の二度で、6月18日には大磯の浜辺の照曜崎という所へ神輿を出し、大磯宿より観音丸・権現丸という二艘を出した。神人と呼べるもの10人が神事を務め、高麗寺領の各別当の内から配当すると記載されている。
江戸時代から大正の末頃までは馬の背に御幣を乗せ、本宮から手綱を引いて馬返しに着き祭場へ向かった。馬返しの地名はこれから起こった。宮神輿が出御すると天狗や蛸江之丞を先頭に、社人・氏子総代・有志がお供をする。前日の夕方から神社の大門の一の鳥居まで祭り船の権現丸一隻が迎いに来ているのが例であった。もう一隻の明神丸は山王町の榎の大木の前に出迎え、宮神輿は二隻の祭り船に護られ、大勢の引子に町内狭しと曳かれて、東海道から祭場の照ケ崎に渡御された。大正末期頃までは宮神輿の本宮帰還は、町送りに担がれるために少しでも長く担ぎたい若い衆の意気によって夜中を過ぎ、19日の午前2時から3時頃になったことが多かった。
戦時中までは子供たちによる幟かつぎが行われ、日天・月天の幟と剣の付いた幟を合わせて12本であった。祭りの4、5日前に神社の境内に12人が集まり、世話人衆(社人)から幟と麦稈帽子を渡された。日天は太陽を、月天は月を表し、先頭は日天と月天の幟2本で、その後ろに剣を付けた幟が5本で2列に並び、「エートーサッセ―、エートーサッセ―(弥遠に栄えしめ給へ)」と声を張り上げて唱えながら東海道をした走りに、月貫の道を下町通りに折れて馬返しまで一気に駆けて行った。これは露払いの役であり、高麗の子供の中でも体が丈夫である必要があったことから、幟かつぎに選ばれることは子供として名誉でもあった。馬返しまで駆けて行った幟かつぎの子供たちは、幟を鴫立沢付近の屏に立てかけ、一人五銭づつもらって喜んで帰った。変え入り道に氷水やラムネを呑んで意気揚々と家路に向かった。その頃(大正6〜7年頃)は氷水は一杯二銭だったので、ドブ板と言うパンに黒砂糖を塗ったお菓子も買うことが出来た。
高來神社は漁師の信仰が篤く、大漁祈願などをした。高來神社の祭りは漁師の祭りで、祭りの費用を作るために漁師は全員協力した。「ツリアゲ」といい、年4回、40歳以下の漁師は1日の漁の成果を供出した。組合長からの命令で「ツリアゲしろ」ということになると、若い者4・5人を1艘の船に乗せて漁をさせた。このツリアゲの稼ぎと花代(祝い金)で祭り費用を賄ってきた。
戻る(中郡の祭礼)