東小磯
御嶽神社
東小磯地区の氏神は「御嶽神社」で「オミタケサン」ともいわれ、祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る。社殿は享和2年(1802年)9月に再建している。東小磯村については天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「御嶽社 鎮守なり、神體三躯を置く、例祭九月九日、妙昌寺持」と記されている。御嶽神社には昔、唐ヶ浜(大磯海岸)から上がった千手観音様が、鴫立沢を小船でさかのぼって御嶽神社に奉安しようとしたが、事情があって高来山に上がったという伝説がある。その時に、仮の宿となったのが御嶽神社の麓に住んでいた当時の宮代屋であったといわれている。
この神社には大磯地区の台町、茶屋町も氏子となっていている。
御嶽神社 | 鳥居 |
燈籠 | 手水舎 |
狛犬 | |
拝殿 | 覆殿 |
境内 |
例大祭
『風土記稿』によると例祭日は旧暦の9月9日であったが、ウィークデーだと人が出られないということから昭和37・38(1962・63年)頃に日曜日に変えるように働きかけがあり、それからは例祭日に一番近い土・日曜日におこなっている。例祭日の変更においては他の町内で土・日曜日に変えていたので台町もそのように変えようとしたら、青年会の会員は賛成してくれたが土地の有力者に反対されたという。
祭礼は町内会の役員と氏子で行っており、氏子総代は7人でそのうちの2人が高来神社の氏子総代を兼ねている。町内会の記録によると平成6年度(1994年)の祭礼は準備・後片付けを含めて、9月8日〜12日と5日間を要している。祭りの前日には町内にシメキリといって注連縄を張る。後片付けが終わったのちに「ハチハライ(鉢払い)」といって公民館で酒を飲んで共同飲食をし、以前は夜に再び集まって鉢払いをしていたが、一旦家に帰ると出てくるのがおっくうになるので祭終了後そのまま鉢払いをしている。
8日・・・13時から神輿の手入れ、19時から注連縄切り
9日・・・14時から注連縄切り
10日・・・8時から祭りの準備
11日・・・祭当日
12日・・・後片付け
以前は妙昌寺の境内を借りて、丸太を用いてオカリヤ(お仮屋)や演芸舞台を造った。この丸太は西小磯の八坂神社から借りてきて、縄で結わいて小屋を造り、このお仮屋で年寄りがオコモリをした。御嶽神社は旧東海道の前にあったので商店や民家も多かったが、次第に現在の国道沿いに商店などが移転して神社周辺が衰退してしまった。そこで御嶽神社の祭礼は人が集まりやすい、地理的に便利なお仮屋で行われるようになってきた。昭和30年(1955年)代になると久保田酒店の隣りにお仮屋を造り、公民館の隣りに演芸舞台を造るようになった。昔は芝居を呼ぶのに区長が芝居師の所に行って頼んでいたそうで、里神楽も奉納したという。また、地引網をした時期もあったという。かつては松原公園にも露店が出て賑やかであったが、青年会もなくなり現物人が出なくなると、露店は次第に消滅してきたという。
台町には大きな祭礼が2回あり、ひとつはこの御嶽神社の祭礼と、もう一つは7月に行われる高来神社の祭礼である。高麗から台町までは高来神社の氏子になっているので、その祭礼に参加するのである。台町では花をあてにして祭を行うので祭礼費は集めておらず、7月の高来神社の祭礼で赤字になった場合は9月の御嶽神社の祭礼で埋めているといい、氏神様の花の方が多く集まるが、神社の会計に赤字があった場合は町内で補充するようにしているという。昔の祭礼は酒と握飯で済んでいたが、今はビールなどの酒類やジュース、そして食事も豊富になったので費用がかかるようになったという。
囃子
神輿
御嶽神社には「子供神輿」・「中神輿」・「大神輿」の3基の神輿があり、ミタマを入れない中神輿は宵宮の時に担がれる。祭りの一週間前に神輿堂から神輿を出して掃除をしておく。祭りの当日には神輿の飾り付けをして、午前10時頃に神主が来てから神事が始まり、神輿にミタマ入れられると神社から神輿を担ぎ出す。
夜になると神輿をお仮屋(台町公民館)に安置して一晩置き、次の日に神社へ戻しミタマを神殿に返して、神輿堂に神輿を納める。祭礼の神輿渡御については警察へ神輿の大きさ、担ぐ人の配置、コース、渡御予定時間などを提出しなければならない。昔は渡御の前に海岸へ行き「ハマオリ」といって神輿が海の中に入ったが、最近はハマオリの行事をしないで浜から砂を持ってきて神輿の前に供えるだけである。神輿が海岸へみそぎに行く道は大磯中学校前の信号の所から行くが、西湘バイパス乗り入れ口が出来る前は旧吉田・徳川邸の脇を通っていった。
最近は地元の担ぎ手が少なくなって、各地の神輿会が応援にきている。町内の神輿担ぎの好きな人達は昭和末年頃に「台神会(だいしんかい)」という会を作っていて、各地の神輿愛好会と連絡をしている。昔は家々の長男は全員青年会に入ったので、神輿を担ぐ人数が多く台神会のような組織はなかった。昔は台町全域を担いだが、今の若い者は肩が弱いので昔のようには担げないという。現在は町内を渡御するが、トラックに載せて行われている。
神輿の製作年代は不詳であるが、大鳥は当地の松山錺師が修理したといわれる。当社は神輿の他に山車も保有した。
東小磯の歴史
東小磯は『風土記稿』に「往古は、此地及び大磯宿西小磯村、共に一區たり、後二分し、大小をもて分ち唱ふ、其後小磯の地、東西二區に分ち唱ふる事、其年代詳ならざれど、正保の國圖には、小磯とのみ記して其別を伝はず(中略)、寛文の水帳に、初て加宿東小磯と記せり(中略)村内の諸事は、總て本宿と共にし、只年割付等の事は格別なり」と記載されている。現在の大磯と東小磯・西小磯は元は一つであったが、年代は不明だが大磯と小磯に分かれ、さらに後に小磯が東と西に分かれたというものである。そして東小磯は大磯宿の加宿としての役割を担うことになる。
東小磯は南は海、西は風土記稿にある西小磯、東は大磯に接し、北は丘陵に差し掛かっていて、東西にJRの線路と国道一号が横断している。西小磯との間には住宅が密集していて、景観として集落の境はなく、東の大磯との境も同様である。おそらく明治の初期までは人家が現在の国道脇にしかなかったと思われ、『風土記稿』の「民家左右に列住す」というのは街道の左右ということであろう。JRの線路の北側は現在は住宅地で造成も進んでいるが、明治の頃から別荘地として開かれたという。ここに住むほとんどの人たちは移住してきた人で、線路の南側にあっても、近年は昔から住んでいる人たちより、移住してきた人たちが多いという。
この東小磯に住む人たちは「台町」という町内会を結成している。西小磯の町内会とは村堺を境に区分されているが、大磯との境は村域が町内会の境ではなく、国道一号線沿いの東に寄った家々は大磯地番だが、台町の町内会付き合いである。また、そのすぐ北側でJRの線路との間の一画は大磯地番と東小磯地番の家々とで裡道という町内会を組織している。台町は旧大磯町時代は町で一番人口が多い町内会であったが、国府町と合併してからは新宿(しんしゅく)の次に大きな町内会となった。東小磯は『風土記稿』によると「小名 南薹町、高地なる故此唱なり、民家左右に列住す」とあり、現在も台町の名称が生きている。話者の多くはむしろ東小磯は住所表記上に過ぎず、実質的には台町としての認識が強い。ただし、台町の町内域は必ずしも東小磯域と一致せず、一部に住居表示上は大磯に含まれる箇所もある。
青年会
青年会は長男が入るもので40歳までの男子が入会し、青年会の活動に欠席する場合は出不足金を払わなければならなかった。昭和37,38(1962,63年)から4代くらい会長が代わってから入り手がなくなり、昭和43・44年(1968・69年)頃に青年会もなくなった。
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