西小磯にしこいそ

神社の紹介

  西小磯では氏神である「白岩神社」以外に天王さんと呼んでいる「八坂神社」を祭祀している。祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)で、社殿は安政年間の再建と伝えられる。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「牛頭天王社、是も村の鎮守とす」とある。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると、時期と理由は判然としないながらも、往古は大磯と小磯がもともと一区であったのが区分されたこと、更に小磯の地を東小磯と西小磯に区分したであろうことを推定している。西小磯はさらに西小磯東と西小磯西に区分され、年配者の中には西小磯東を中小磯と呼ぶ話者も多い。中小磯というのは東に位置する東小磯と西に位置する西小磯に対応した呼称というとができるわけで、西小磯東を中小磯と呼ぶ話者にとっては西小磯というのは西小磯西のことを指すという認識がある。
  西小磯東と西小磯西はさらに細かな区分が見られ、『風土記稿』にも小名として本郷・田中・西片・高砂・中分などといった地名が記載されている。これらの区分は現在もさまざまな行事や講などで顕在化しており、農会の組合区分にも一部重複するところがある。さらに西小磯東は内部区分として東(ヒガシッチョ)と西(ニシンジョ)とに分かれている。。

八坂神社鳥居
手水舎
燈籠社殿
 境内


例大祭

  当社例祭日はもともと7月10日で、7月8日の幟立てに始まり、9日が「ヨイノミヤ(宵宮)」、10日が「本祭り」、11日が「神休み」、13日が「ナカ(中)天王」、15日が「シマイ(仕舞)天王」、16日には御神楽やセイネンが奉納芝居をし、17日が幟倒し(鉢払い)と10日間を要したほどの一大行事であった。西組の幟には「奉納祗園宮」、東組みには「寶祚天壌無窮」と墨書きされている。
  最近は第1日曜日に幟立てをし、山車を組み立て、神輿の仮殿や園芸用の舞台をつくる。第2日曜日が本祭りで、前の晩が前夜祭でカラオケ、映画、歌謡大会などを行う。本祭りは午前10時から式典があり、神主が祝詞をあげる。それから神輿や山車が町内を渡御し、公民館でチュウジキといって一杯飲んで腹ごしらえをし、午後7時ごろに神輿や山車がお宮に帰ってくる。翌日はハチハライといい、解体作業を行う。
  祭礼は西と東が1年交代で祭り当番を務め、当番になった方を「祭り番」、休む方を「あい番」という。祭礼の費用はそれぞれのブラクが受け持ち、平成6年(1994年)は東の当番だったので、西はお賽銭(西の負担分)を届けた。東・西ともブラクの役委員が神社の役員を兼ねており、神社は総代は1名で、実際の運営は両ブラクの区長がやっている。
  昔は伊達さん・井上さん・鍋島さん・寺坂さんなどの大きな別荘があり、祭りではそこから奉納された四斗樽の酒を呑んでいた。西小磯には酒好きが多く「小磯の嫌ェ五ン合」といい、酒が嫌いな者でも五合は飲むといわれている。

囃子

  境内では囃子の競演となる。西の囃子は「鎌倉囃子」と呼ばれ、曲目は「屋台」・「昇殿」・「唐楽」・「鎌倉」・「仁羽」など9種類が伝えられ、「大太鼓1」・「締太鼓4」・「笛1」で構成される。また、オカメなどの面をつけての踊りが伝えられてきた。東は「祇園はやし」があり、「大太鼓1」・「締太鼓2」・「笛1」で構成される。
  本郷の「金龍寺」は明治43年(1910年)頃に中丸に大火事があった時、飛び火で全焼したといわれている。昔、寺の西側にあったお堂を壊して本郷の今の農業センターがある所に移した。この建物で7月の八坂神社祭礼に供えて、青年が太鼓の練習をしたという。



山車

  以前は祭礼に神輿と山車(屋台ともいう)を出し、神輿は年寄りが担ぎ若い者は山車を曳いたという。山車は7月8日に組み9日の宵宮に飾り付けをして、10日の本祭りに太鼓を叩きながら東海道(国道)を東は東小磯境の松原まで、西は切通しの端まで曳き回したという。山車は東と西に1台づつの計2台あり、大正初期に電灯線が敷設されるまでは山車に鉾をたて、武者人形を飾るなどして豪華なものであったとう。
  八坂神社を朝9〜10時ころ出て、木遣(きやり)を歌いながらぶらぶら巡行して、夜8時ころまでに神社に納めた。昭和11・12年(1936・37年)に国道が広がるころは祭礼もたいへん賑やかだったといい、国道は今の半分しかなかったが山車を曳くときは人が一杯になり、その頃は引き手が仮装したりしていた。しかし、戦後に自動車が頻繁に通るようになってからは曳くことができなくなってしまった。



神輿

  神輿は「天王さん」といい、一つを東と西で交代に担ぐ。西ではセイネンが屋台を引き、セイネンを抜けたものが天王さんを担いだ。セイネンの中に祭りの世話人があり、世話人は羽織を着て輿について歩く。天王さんは10日の10時にお宮を出て、西が祭りの当番の年なら西の村を回って午後東に行き、東に着いてもそのまま祭り番のセイネン担いだ。
  祭礼が17日まで続いた時代には、神輿は8日に御仮屋出しで、10日に御霊入れより渡御をし御仮屋へ着御、この日より15日まで駐輿し、15日に御霊が帰社し、17日社へ納めた。神輿は「ヨイショ、ヨイショ」の掛け声で渡御したという。
  神輿は明治36年の製作で、修復は小修理のみであるが、塗り直しは大磯山王町の中川塗師で施されたという。また現在の神輿の前にも神輿があったが焼失したという。



セイネン(青年会)

  青年層の集団に「セイネン」と「青年団」があり、これも西小磯が東と西に分かれていた。セイネンは青年会ともいい32・33歳までの男子からなり、長男次男三男をかまわない。昭和の初め頃は次三男はやがて家を出る人が多かったが、家にいるうちは青年会に入った。なお、15歳になるとセイネンと呼ばれ、一人前として扱われた。
  セイネンはもっぱら八坂神社の祭礼に係わり、お祭り「セイネン」といわれた。正月15日に世話人の家で初集会が行われ、新しく加入する者は世話人にその場へ連れて行ってもらい盃を貰う。婿もセイネンに入ったが待遇が悪く、祭りに山車を曳くときには挺棒の係りをさせられ、終戦後までそうだったという。世話人は32・33歳から35歳くらいの人が務めていたが、その下にカカイシュがあってセイネンは全て世話人が支配していた。八坂神社の祭礼に際し、当番になったブラクは祭りの次第を相手ブラクに知らせる。また、相手方のセイネンの世話役3名が輿について歩いた。
  青年は集会所として青年会館を持っていて、西の青年会館は現在の老人憩の家の場所にあった。大正の頃は現在の本郷の田中の農業センターのある所は共有地で、西小磯のセイネンが使う青年会館と吊鐘堂があった。青年会館は震災で倒壊し鐘つき堂のみ残っていたが、鐘は戦争中に供出して堂もなくなった。青年会館が倒壊してセイネンが困っていたので地所は上郎さんから、建物は梨本宮様から貰って青年会を建てた。それが最近になり老人憩の家に建て替えられ、1階を老人会で使い2階をセイネンが使っている。
  一方、青年団は15歳から25・26歳までで、大磯町青年団があり、その下部組織として各字に青年団があった。役員として団長・副団長があって、町全体の青年団の打ち合わせなどもあって、各支部の団長が集まっていた。戦争前は青年団の運動会が盛んで、フォードのトラックに乗って石油のカンを薪で叩きながら、東京の神宮まで青年団対抗の運動会に出場するために出かけた。中郡上・下群の大会などもあった。


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