西小磯にしこいそ

神社の紹介

  「白岩神社」は西小磯の鎮守で、昔は鳥居から奥に抱え切れないほどの松の木が列をなしていたそうであるが、隣地の畑が影になったり松の葉から落ちる雫が作物に影響するということから、切り倒して桜を植えたという。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると白山神社は「十二社権現社」と書かれており、そこには「十二社権現社 村の鎮守なり、白體白馬に乗り弓矢を持り、往古は白岩権現と號せしと云、例祭は正月七日、流鏑馬式あり」と記され、白岩は字名であるという。別当寺院は「円昌寺」であったが廃寺となった。
  旧小磯村は江戸時代には西小磯村と東小磯村に分かれていたが、一般的に小磯といえば西小磯のことを称している。西小磯の鎮守は白岩神社と「八坂神社」であるが、祭礼の時は西小磯の西番と東番で祭り当番一年交代で務めている。この他に西小磯では「宇賀神社」が祀られている。また、東小磯の鎮守は「御嶽神社」である。かつての白岩神社の社殿は火事で焼失したが、棟札からわかるように明治36年(1903年)に再建された。この時、伊藤博文公から多大の援助を受けたので、境内に記念碑を建立している。

白岩神社鳥居
燈籠手水舎
拝殿本殿・拝殿
 
2009.3.7
境内白岩神社のあらまし


例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は正月7日とあるが、明治中頃以後に3月7日となった。祭礼は前日の夜から仕度をして7日が本祭りで、昔は本祭りに流鏑馬をやり、馬小屋は東を向いた草葺屋根で留守板をおいてあったそうである。流鏑馬の後には神社西側の広場で余興にお神楽を催し、この時の神楽師は小田原市山王・厚木市・国府新宿・茅ヶ崎市(円蔵の高橋鯛五郎さん)などから呼んだという。現在の例祭日は7日周辺の日曜日(第1日曜日)となっており、馬に乗って行われる流鏑馬とは異なり、社人たちが歩いて的を射る「オビシャ(歩射)」という神事が行われる。なお、地元では今でもヤブサメ(流鏑馬)と呼んでいる。
  この祭りは11人の社人とムラヤクニンとかヤクニンと称される村役人や区長などの役員によって行われる。アタリバン(当たり番)といって祭り当番はヒガシブン(西小磯東)とシニブン(西小磯西)の「コブラク」が1年交代で勤め、東は東番、西は西番ともいわれている。コブラクに対して西小磯全体は「オオブラク」といい、祭典の費用はオオブラク持ちで、当番でない方は割り当ての費用を負担する。
  戦前までは祭典の時に中道にある地神社の両側に、幟をケヤキの枠に建てた。昔はこの道を西小磯通りの宮役人・部落役人の行列が通って白岩神社へ行ったという。また、日照りが続くと、西小磯東・西からそれぞれ一名を出して箱根権現(箱根神社)の大釜の水をもらってきて雨乞いをおこなった。

冷酒式(冷酒式)

  ヨイミヤ(宵宮)では社人が整然と座し、御神酒とオスイモノをいただく冷酒の式がおこなわれる。
  宵宮の朝8時頃に台所番が全裸で海へ浸かって身を清め、海の砂をザルにすくって持ち帰り、ザツキ(雑器)に砂をのせ切り火をして神棚に供え、余った砂を玄関に撒く。祭典の前日に社人が海岸へみそぎに行く道は、国道白岩大門前の波多野正雄・鈴木惣八氏宅の間から西小磯東共同墓地前を通っていく。当番の家(宿)に行って歩社に使用する的と弓矢、社人達が口にはさむフクメンを作り、ゴック(御供)の餅を搗く。ヤドでは門の両側に竹を立て、注連縄を張る。餅はオスイモノと呼ばれる塩餡のモチズイモノ(あんころもち)と紅白の供え餅を作る。
  弓は梅の木の6年ものと麻紐を使って2本作る。的は竹を使ってヒダチ編み(72本)で丸く組み、そこに神を貼りその中央に墨で黒丸を描いている。お供え餅は2段重ねで大きいのを1つと小さいものを3つ作り、下段が白い餅で、上段が小豆の入った餅である。これらのものはほとんど長持ちの中に納められ、この箱には「御膳番」と書かれた紙が貼られ、その周囲には注連縄がめぐらしている。
  夕方には社人が集まり、「冷酒式」が行われる。いいヤドの床の間に白岩神社の御神体を飾り、神前には御神酒・ひじき・カケオ(懸魚)・オスイモノ(餅)・大根・人参・果物などの七十五膳を供える。左に一番オンベ、右に二番オンベという順番に着座し、御膳番は末席であるが御神体に向かって着座する。この日一番忙しいのは御膳番である。御膳所のものが一番オンベから酒を注ぎ、終わって御膳所が「オスイモノをおあんがんなさい」と御膳所がいうと、塩餡のモチズイモノを各自半紙に包んでいく。この餅は家に持ち帰り、家族に分けたりして食べる。冷酒式が終わってお開きになると宴会になる。
  なお、冷酒式の前にヤドの風呂に入るが、昔は風呂に注連縄を張り、一番オンベから順番に入浴した。現在は他の社人の到着が遅いので、御膳所から入ってしまう。



歩社(ビシャ)

  大祭当日に、社人は御供・弓矢などを長持ちに入れ神社へ運び、御膳所は的の用意などを行う。
  13時になると神主が祝詞を上げ、お払いをする。続いて背広姿の役員二人が祭壇に供物をそなえ、この役員は役人ともいわれる。13時15分頃になると4名の巫女が社殿の中央で「巫女舞」を舞い、10分くらいで舞が終わると神主が拍手を打つ。それから、社人や役員が玉串を奉納する。祭礼が終わると一番オンベがオンベ(幣束)を神主から受け取り、順番に二番オンベというように受け取っていく。
  13時30分頃になると社人が太鼓を叩き、これを合図に社人が口元にフクメン(半紙)をくわえ、白足袋のまま履物を履かないで社殿から出て、社殿の周囲を右回りに三回廻る。先頭は袴姿の社人が6名で、続いて幣束を持った社人が2名、太鼓を持った社人1名という順番である。社人達が社殿を廻ると石段を降りて参道の射撃場に向かい、社人の後ろに神主や役員が続く。この時、御留守居番と御膳所は社殿に残っている。
  的の周囲を2回廻り、13時40分頃になると弓持ちが的を射る。一本は天(アキ)に向かって射り、もう一本を的に射って終わる。歩射が終わると的と矢はムラ人が争って奪取していき、この的の一部や弓矢を持って帰ると縁起がよいとされている。13時45分頃になると本殿に戻って直会(ナオライ)になる。直会の席では必ずヒジキが出され、これは過去の大飢饉を思い出すためだという。



社人(しゃにん)

  神社の祭礼には「社人」といわれる家々が登場し、社人は神社の運営には携わらずにもっぱら祭礼に係わる(社人は神社役員ではないという)。社人を務める家は東に4軒と西に7軒といい、「大磯町文化史」にはその11軒が掲載されている。社人の役割は、一番オンベ(1名)・二番オンベ(2名)・弓持ち(2名)・カギトリ(1名で現在は役目なしといわれている)・太鼓(1名)・留守居番(2名)・御膳所(3名)で世襲制になっている。このうち御膳番は台所番ともいい、祭りの準備はこの3名の手によって進められる。
  火災を出した家は社人を辞めなければならないといい、ツブレヤ(廃屋)が出るとある家が繰り上がっている。社人はヒがかかると1年間祭礼にでることはできず、ヒがかかって休むときは交代の人を頼むか、今はそれが見つからないそうである。このようなことから社人は世襲ではなく、都合によって変わっていたものと考えられる。


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