長者町
長者町の祭礼
かつて長者町の祭礼は7月7日で、神輿を担いで南下町の中川家へ訪れることを例としていた。これは長者町を創設した初代大磯町長中川良知へのお礼参りであり、帰路は南下町を回り北下町を通って戻ってきた。また、この渡御は7月18日の高來神社の夏季大祭に備えたものであったが、交通事情のため何時ごろからか行われなくなった。
近年になり、長者町の祭礼は高來神社の夏季大祭の宵宮に行われるようになった。昭和35年(1960年)以前は会館の前の広場に芝居の舞台が丸太を組み合わせて造られ、お神楽や芝居また舞踊などが夜更けまで、あかあかと裸電球のもとで演ぜられた。夜店も出て金魚すくいや綿あめ、またおもちゃも売られた。
高來神社夏季例大祭
長者町には単独で祀っている氏神は存在せず、大磯町の11町内で祀っている高來神社が長者町の氏神であり、長者町の祭礼行事は高來神社の夏季例大祭に他の町内と合同で参加する形で執り行われている。
高來神社の神輿渡御(浜降渡御)には長者町の神輿を大磯港の祭場まで担いで式典に参加し、高來神社の神輿が町内渡しで長者町を渡御する際は、長友会が中心となって次の町内の引き渡しまで肩を入れる。それ以外の時間帯に長者町の神輿や子供神輿、そして囃子の山車が長者町を巡行するというのが、長者町の大まかな祭礼の流れである。
長者町では6月末の「合同会議」から夏季例大祭の準備が始まり、「町内会」・「長友会」・「長栄会」・「長者町囃子保存会」・「子供育成会」・「こだま会」の各団体が役割分担を決めて、夏季例大祭を実行していく。
ここでは平成27年(2015年)に行われた高來神社夏季例大祭の7月19日(日)の本宮と、前日の18日(土)に行われた宵宮の様子を、長者町を中心に紹介する。
祭礼準備(開始8:00)
本宮の前日(土曜日)は朝8時から準備が行われ、神輿の捩り掛けや幟立てなどが行われる。なお、宵宮の前日(金曜日)にも朝8時から準備が行われ、山車の組立や子供神輿の飾り付けなどが行われる。
宵宮の朝は | 8時前から準備が始まる |
テントでは天幕を外す | 神輿の準備の為に |
山車を広場から出し | 北側へ移動 |
パイプテントは折り畳む | 山車は道祖神前で停車 |
会館の玄関では | 神輿を中から運び出す |
見た目以上に | 重さがあるようです |
広場の中央で神輿をおろし | 神輿の飾り付けが始まる |
会館内から | 轅を |
2本運び出し | ポールへ立てかける |
こちらは神輿に積むバッテリー | 鳳凰など |
飾り付けの道具を運び出す | こちらは蕨手 |
脇棒2本も | 会館から運び出す |
倉庫の上から | 長い竹をおろし |
北側へ運ぶ | 竹はもう1本あります |
どうやらこの竹は | 幟竿のようです |
道祖神前では | 燈籠を設置 |
幟を | 竹に通し終わると |
提灯を避けて | 竿をゆっくりと立てていく |
中空の竹といえども | かなり重そうです |
敷地内に入り | 支柱に固定 |
会館側でも幟を立て | 支柱に固定する |
燈籠は正面の蓋をして完成 | 神輿では蕨手を取り付ける |
親棒を抱えて | 180度旋回し |
会館側へ運び | 棒穴へ |
もう片方の親棒は | 北側から挿入 |
残りの蕨手を取り付け | 鳳凰を露盤へ差し込む |
神輿横のスペースを空ける為に | 奥にあった松龍會の神輿を |
会館側へ移動させ | 会館内から |
子供神輿を運び出し | 玄関から出すと |
広場へ移動 | 大人神輿では捩り掛けが始まる |
子供神輿は大人神輿の隣へ | 捩りは紅白の晒を用いる |
鳳凰から四隅の蕨手へ渡し | 紅白の晒を編む |
轅に巻き付けて | 固定していく |
蕨手の上部に | 小鳥を差し込んで固定する |
トンボを親棒の上に渡し | 台を釘で打って固定 |
トンボは | 親棒へ結びつけ |
カケヤを使って | 増し締め |
仕上げに水を掛ける | 鳥居には榊を結びつける |
掲示板にのし紙を張り付ける | 会館から締太鼓を運び出し |
向かう先は | 昨日組み立てた山車 |
前方にもトンボを渡し | 脇棒を結びつける |
会館から大太鼓を運び | 山車の方へ |
道祖神前では太鼓を締める | 山車では電球の取り付け |
脇棒も | カケヤで増し締め |
注連縄に紙垂を挟み | 四方に提灯を取り付ける |
山車では提灯の取り付け | 会館のバルコニーでは照明の配線 |
神輿の屋根に枠を取り付け | 提灯を並べていく |
隅木下には飾り金物を垂らす | 紙垂を取り付けるお宅も |
松龍會も神輿の飾り付け | こちらも紙垂を取り付け |
中央が長者町で両脇に長友會 | こちらの商店でも紙垂の取付 |
山車では大太鼓を載せ | 枠にはめて固定 |
鳳凰の四隅に鈴を垂らす | 神輿の準備はほぼ終わり |
ここで大磯神輿連合會の | 神輿が到着 |
山車では締太鼓を | 枠へ設置 |
広場では山側のポールを抜き | 長者町の神輿を |
山側へ移動 | 鉄の棒を縦に入れて掛ける |
あおりを開けて短い轅を挿し | トラックを広場へ寄せると |
神輿を抱え上げ | トラックを前方へ移動 |
長者町と松龍會の間に | 連合の神輿をおろす |
バルコニーでは電球を取り付け | つかない箇所を点検 |
会館から | 供物を運び出し |
轅の上に置いたテーブルに | 並べていく |
バルコニーでは提灯の取り付け | 室内では締太鼓の調整 |
大磯神輿連合會と | 松龍會も祭壇を設置 |
式典(開始10:30、終了11:00)
宵宮は10時30分の式典から始まり、高來神社の宮司により神輿に御霊が遷される。毎年、本宮の浜降渡御に長者町から同行する大磯松龍會の神輿も式典に参加しているが、今年は大磯神輿連合會の神輿が初めて長者町の式典に参加した。
式典の準備が整い | 高來神社の宮司が到着 |
祭壇を確認し | 衣装を整えると |
式典が始まる | 神輿をお祓いし |
参列者をお祓い | 山車もお祓い |
続いて祝詞奏上 | 隣の子供神輿も修祓 |
続いて玉串奉奠 | 宮司から始まり |
2番手は | 長者町の区長 |
代表者が続き | 長友会の会長 |
長者町囃子保存会の会長 | 順番に拝礼し |
玉串奉奠で | 長者町の式典は終了 |
続いて松龍會の神輿前で | 式典が始まる |
修祓に続き | 祝詞奏上 |
続いて | 玉串拝礼 |
松龍會は夏季例大祭に毎年 | 長者町から参加しています |
最後に中央の | 連合の神輿前で式典 |
連合は今年初めて | 長者町で式典を執り行う |
これで長者町での | 式典は終了 |
西隣の山王町から | 囃子の山車が巡行 |
最後に希望者をお祓いし | 祭壇の供物を |
下げ | 会館内へ運ぶ |
式典が終わると | 連合の神輿はトラックへのせ |
轅を抜いてアオリを閉め | 長者町を出発 |
山車巡行(出発12:30、到着13:15)
14時からの子供神輿渡御まで空き時間があったため、囃子保存会が高來神社への挨拶回りを兼ねて、町内を囃子の山車で巡行した。
宵宮は14時まで | 行事が無いので |
囃子保存会が | 山車へ乗り込み |
日本端子前での発表曲目を | 練習を兼ねて演奏 |
演奏中も山王町の山車が通過 | 私も一緒に叩かせて貰いました |
囃子の演奏を一旦止め | 山車が |
会館を出発 | これから高來神社を目指す |
太鼓を再び叩き | 笛も入れます |
東へ向かって巡行し | 総務宅にて休憩を取る |
再び出発し | 国道134号に出ると |
直ぐに平塚市に入り | 下花水橋西交差点を左折 |
下花水橋を通り | 金目(花水)川を渡ると |
直ぐに左折し | 川沿いに北上 |
東海道本線を潜り | 国道1号で左折 |
再び川を渡って花水橋で右折 | 花水橋バス停で左折すると |
目の前には高麗山 | 住宅地に入り |
左手に高麗の山車が | 右手に鐘楼が見え |
慶覚院前で山車を止め | 参道を歩いていく |
階段を上り | 境内へ |
ご祝儀を渡します | こちらは高來神社の山車 |
奥では高麗の神輿を飾り付け | 社殿前には本社神輿が |
挨拶を済ませ | 山車へ戻り |
高來神社を出発 | 高来神社入口で |
国道1号を右折 | 囃子を演奏しながら二宮方面へ |
東海道本線を潜り | 長者町に入る |
長者町交差点を通過し | 山王町交差点を左折 |
会館へ到着し | 道祖神前に山車を止める |
子供神輿渡御(出発14:00、到着15:05)
宵宮では子供神輿が囃子の山車と一緒に町内を巡行するが、国道1号の北側は道幅が狭く山車が通れないこともあり、湘南農業協同組合の大磯東支店付近で山車は別行動で巡行する。子供神輿の渡御は宵宮のみで、巡行が終了すると会館に子供神輿が収められる。
会館の2階では | 囃子保存会が子供たちを集め |
注意事項を説明 | 1班が山車へ乗り込み |
2班と3班は子供神輿の前で | 一本締め |
今度は南下町の山車が | 通り過ぎる |
子供神輿を担ぎ上げ | 広場を出発 |
平塚方面へ向くと | 十字路をそのまま直進 |
左手には長友會のテント | わっしょい♪わっしょい♪ |
突き当りで道なりに | 左折 |
子供神輿の後を追う山車 | 十字路を左折し |
二宮方面へ向かうと | 十字路を左折 |
一周して | 広場へ戻ると |
Y字路を左折して | 平塚方面へ進む |
途中で左手にある | 民家へ入り神輿をおろす |
山車は道路脇で待機 | 水分を補給し休憩を取る |
家主にお礼を言い | 5分ほどの休憩を終えると |
再び出発し | 平塚方面へ練り歩く |
山車も出発 | ケイユー鳥惣大磯店 |
KRキムラを通過し | 十字路で左折 |
山側へ進むと | 左手の池田公園へ入る |
山車は公園の手前で待機 | 神輿をおろして休憩を取る |
3分程で休憩を終え | 公園を出発 |
右折して | 来た道を引き返し |
十字路を左折して | 平塚方面へ |
日本端子まで来ると左折し | 山側へ向かうと |
先ほど寄った総務宅前で | 神輿をおろす |
お菓子と飲み物を頂き | お礼を言います |
今回は長めの10分程休憩を取り | 一本締めて |
出発 | 山側へ向かい |
突き当りのT字路を | 左折 |
国道134号の側道を進むと | 国道1号に突き当り |
左折して、しまむらストアー | ローソン |
ジョリーパスタを通過 | 長者町交差点まで来ると |
山車が子供神輿を追い越し | ここから別行動 |
子供神輿は信号待ちをし | 国道1号を渡る |
さらに134号を渡ると | 湘南農業協同組合の |
大磯東支店で神輿をおろす | 1分程の小休止で |
直ぐに神輿を担ぎ | 駐車場を出発 |
134号を上がり | 直ぐに左折 |
どうやら国道の北側にも | 長者町の一部があるようです |
大磯丘の上テラスの敷地に | 沿って坂を上がると |
左手の細い道へ入り | 二宮方面へ進んでいく |
山王町との境界線は複雑で | 地元の方でも分からないとか |
魚貞まで来ると | 担ぎ手が大人に交代 |
ここからは | さらに道が狭くなるようです |
4点棒には | 厳しい狭さです |
一番の難所を通り抜け | 国道1号に出る |
お隣のコインランドリーで | 一旦神輿をおろし |
ここからは | 再び子供たちが担ぎます |
長者町の会館を目指し | 国道1号を二宮方面へ |
山王町バス停を通過し | 山王町交差点で神輿をおろす |
信号のタイミングを見て担ぎ上げ | 国道1号を横断し |
会館に向かって直進 | 先に到着していた山車 |
子供神輿は北側から | 広場へ入り |
神輿をおろして | 三本締め |
その横を | 北本町の山車が通過 |
子供神輿は宵宮だけなので | 脇棒と |
トンボを取り外す | 子供たちは |
会館の2階へ移動 | 囃子ではこの後も出番がある |
二天棒になった子供神輿を | 会館へ入れる |
山車巡行(出発15:30、到着16:05)
夜の町内渡御までに時間があるため、囃子の山車が町内を巡行する。なお、会館の2階のバルコニーにも太鼓を設置し、宵宮と本宮では会館と山車に分かれて囃子が演奏される。
お隣の東町が町内を巡行 | 2階のバルコニーでは太鼓をセット |
子供たちが | 太鼓を叩く |
太鼓の班は3つあり | 大人神輿の渡御までは |
2班が山車へ乗り込み | 町内を巡行 |
巡行中も | 会館では囃子を演奏 |
30分程で巡行を終え | 2班は会館へ上がる |
会館では太鼓を叩き続け | 16時半頃になると |
1班と2班を集め | お弁当を手渡し |
両班はここで解散 | 外では長友會が照明を設置 |
3班と囃子保存会は夜の巡行に | 備えて会館で食事を取る |
町内神輿渡御(出発17:25)
宵宮の夕方から夜に掛けては長者町の神輿が町内を渡御する。
17時20分に担ぎ手が集まり | 最初に長友會の挨拶 |
続いて応援団体の | 紹介 |
そのあとに | お神酒を配る |
会館から3班が移動し | 山車へ乗り込む |
乾杯をして | 肩を入れると |
神輿を担ぎ上げ | 広場をお発ち |
直ぐに甚句を入れ | 神輿を揉むと |
右折して海側へ向かい | これから町内渡御が始まる |
このあとは町内神輿渡御へ。
山車巡行(出発19:50、到着20:25)
例年では宵宮の行事は町内の神輿渡御で最後となるが、この年は50分ほど早く渡御が終わったため、囃子の山車だけで町内渡御の予定時刻まで長者町を巡行した。
今年は50分ほど早めに | 神輿渡御が終わったので |
叩き足りない子供たちの為に | 急遽山車だけで巡行する事に |
奥で引き返してきた山車に | 3班が乗り込み |
道祖神前を | 出発 |
町内を巡行していく | 広場で食事を取る担ぎ手 |
従来の神輿の到着予定 | 20時30分前に山車が到着 |
広場では食事が終わり | 残った担ぎ手が神輿へ集まる |
シートを掛ける松龍會 | 長者町の神輿を担ぎ上げ |
会館へ向かい | 正面を平塚側へ向け |
バックして広場へ入れると | 松龍會の隣へおろす |
山車から大太鼓を運ぶ | 長者町の神輿にシートを被せる |
山車から締太鼓を運ぶ | 宵宮は全ての行事が終了 |
囃子保存会は3班を集めて挨拶 | 明日はいよいよ本宮です |
祭事斎行(開始5:30、終了5:45)
ここからは本宮の様子を紹介する。高來神社では早朝5時半から社殿にて神事が執り行われる。
時刻は午前5時 | 場所は高來神社 |
社殿前には | 高來神社神輿(宮神輿) |
神輿殿には | 高麗の村神輿と |
子供神輿 | 高麗の関係者が境内に集まる |
町内の担ぎ手により宮神輿の | 正面を社殿側へ向ける |
高麗の子供神輿も | 移動して |
神輿殿前におろし | その横に馬を置き |
今度は村神輿を | 神輿殿から |
出して | 境内へ移動 |
180度旋回して | 正面を神輿殿へ向け |
馬を入れて | 村神輿をおろす |
社殿では式典の準備 | 担ぎ手が増えてきました |
式典の出席者が | 拝殿へ上がり |
5時半に太鼓が叩かれ | 祭事が開始 |
途中で宮司が境内へ降り | 宮神輿をお祓い |
続いて担ぎ手をお祓いし | 拝殿へ戻る |
社殿前ではお神酒を | 紙コップへ注ぎ乾杯の準備 |
宮司が境内へ降り | 宮神輿へ御霊を遷す |
御霊入れを終え | 社殿へ戻る宮司 |
5時45分に神事が終了し | 出席者は社殿を出る |
社殿内から | 神事で使った |
大太鼓を運び出し | 下へ移動する |
本社出御(出発6:00)
社殿での神事が終わると境内で宮神輿の出御の為の式典が行われ、高麗の神輿と共に高來神社をお発ちする。宮神輿の渡御を取り仕切っているのは大磯神輿連合會(通称“連合”)である。
大磯神輿連合會の進行 | 最初に氏子総代会会長の挨拶 |
続いて大磯町長の挨拶 | 11町区長会代表の挨拶 |
大磯神輿連合會会長の挨拶 | 続いて襷の受け渡し |
色々な役があるようです | こちらは全神輿渡御総責任者 |
今度は総責任者から | 襷を渡す |
長友會の会長も | 襷を受け取る |
襷の受け渡しが終わり | 総責任者の挨拶 |
用意をしたお神酒を | 取りに行き |
氏子総代の掛け声で | 乾杯 |
宮神輿と | 高麗の神輿に代表者が上がり |
一本締めで | 肩を入れる |
神輿を担ぎ上げると同時に | 花火が打ち上げられる |
社殿前で | 旋回し |
正面を | 鳥居側へ向ける |
高麗の神輿が社殿側へ移動し | 宮神輿の後ろに付くと |
宮神輿が社殿前を出発し | 階段を下りていく |
階段を下りて | 参道を練り歩くと |
下では高麗による囃子の演奏 | 宮神輿に続いて |
高麗の神輿も階段を下りる | 次の階段を下り |
鳥居に向かって進んでいく | 後に続く高麗の神輿 |
2基の神輿は二の鳥居を潜り | 海側へ向かって練り歩く |
後方に見えるのが高麗山 | 宮神輿は一の鳥居を潜り |
準備してあった | トラックの荷台へ寄せ |
神輿を少し下げて | 前棒をアオリへ掛ける |
神輿をずらして荷台へのせる | 後方には高麗の神輿 |
国道1号の二宮側には | 高麗の山車が待機 |
宮神輿をのせたトラックは | 国道1号に出て左折し |
平塚方面へ移動 | 高麗の神輿も鳥居を通過し |
国道前で輿をおろす | 長者町はここで神社を離れる |
山車巡行(出発7:25、到着7:50)
長者町では浜降渡御までに時間があるので、1班が山車へ乗り込み長者町を巡行する。なお、会館前の広場は山王町と北下町の神輿の出発地点となっており、山車が巡行している間に、2基の神輿が広場へ置かれ、松龍會と合わせて計4基の神輿が広場に並ぶ。
会館へ歩いて戻ってきました | 時刻は6時40分 |
掲示板ののし紙が増え | 私のも貼っていただきました |
1階入り口が受付です | 2階では囃子保存会のもと |
子供たちが活動開始 | バルコニーに台を設置し |
太鼓を | 枠へセット |
山車では太鼓を締める | 松龍會が神輿の準備 |
他の町内が馬を持ち込み | 二宮方面から神輿の姿が |
バルコニーでは囃子を開始 | 神輿は山王町で |
広場へ入って | 馬に輿をおろす |
1班の子供たちが | 山車へ乗り込み |
道祖神前を出発 | 町内の巡行が始まる |
2階のバルコニーでは残った | 2班と3班が囃子を演奏 |
私も笛を借りて参加 | 広場では神輿を積んだ |
軽トラックが到着 | 北下町の神輿を |
広場へおろし | 4基の神輿が並ぶ |
太鼓の音が聞こえると | 町内を巡行中の山車が |
会館前を通過し | 1周して道祖神前に到着 |
会館から締太鼓を運び | 枠へセット |
このあとは浜降渡御へ。
囃子
長者町は明治23年(1890年)の大火によって新設された町内であり、長者町の囃子は移住してきた南下町の流れを汲む可能性も考えられるが、その起源については記録が残されていない。昭和初期頃には長者町の囃子は殆ど消滅した状態で、叩ける者は他町内を渡り歩いたという。昭和30年(1955年)頃に子供神輿を購入した際に、太鼓も新調して囃子を復活させることになり、当時の青年団の有志が他町内より教えを受け、子供達にも教えるようになった。これにより御船祭には子供達の山車が町内を巡行するようになったが、結局、青年達の間で囃子が定着することはなかった。
昭和50年(1975年)頃になると青年団有志の一人であった柏木一雄氏が子供達の指導に当たるようになり、昭和60年(1985年)に「長者町こども会・囃子保存会」を発足し、年間を通して活動するようになった。当時は「屋台」・「宮昇殿」・「昇殿」・「四丁目」・「仁羽」・「さんかん」を合わせた計6曲が演奏されており、同年から平塚市下山下の当時の青年会から「宮昇殿」と「屋台」の笛を習うようになり、長者町の太鼓を笛に合わせて編曲することで笛を取り入れる様になった。
2002年(平成14年)には「長者町囃子保存会」が結成され、高來神社氏子11町では唯一の囃子保存会となっている。長者町以外の町内でも囃子が伝承されているが、ほとんどが子供会として活動している。現在演奏されている曲目は「屋台(やたい)」・「宮昇殿(みやしょうでん)」・「昇殿(しょうでん)」・「神田丸(かんだまる)」・「唐楽(とうがく)」・「鎌倉(かまくら)」・「四丁目(しっちょうめ)」・「仁羽(にんば)」・「さんかん」・「きざみ」の10曲で、全ての曲に笛と鉦が入るまでに至っている。
長者町の囃子は二宮地区でいう大山囃子系統に近いが、大山囃子にはない「玉」というバチを革上で小刻みに弾ませる小バチのような独特な奏法が特徴である。囃子の構成は締太鼓2・大太鼓1・笛1・鉦1の五人囃子であるが、笛と鉦が抜けて太鼓のみで演奏されることも多い。巡行中は山車に乗って演奏するが、会館の2階のバルコニーにも太鼓が1カラ準備され、山車に乗らない班の子供達や囃子保存会のメンバーらによって叩かれる。
長者町の山車の巡行では子供達が中心に囃子を演奏しており、1班から3班まで班分けをし、囃子保存会の指示のもと、班毎に叩く時間に差が出ない様に時間を調整している。
山車(側面) | 山車(正面) |
五人囃子での演奏 | 会館バルコニーでの演奏 |
屋台 |
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囃子保存会の練習は毎月1回のペースで行われ、そのうち2か月に1回(偶数月)は子供達を集めて指導を行っている。また、高來神社夏季例大祭直前の練習は日曜日を除く10日間ほど行っている。以下に、平成27年(2015年)12月27日(日)に行われた、大磯町立ふれあい会館(3F大集会室)での練習の様子を紹介する。
朝8時に会館へ集合し | 鍵を開ける |
2階から台と | 太鼓を降ろす |
左義長で使う燈籠と | 飾り類 |
会館から | 台と |
太鼓を運び出し | 車の荷台へ |
会館を出発し | ふれあい会館に到着 |
車から荷物を降ろし | エレベーターを使って |
3階の大集会室へ | かなり広いです |
締太鼓の枠を | 組み立て |
L字の鉄棒をボルト下へ通し | 締太鼓を枠へセット |
防音の為 | 厚手のカーテンを閉める |
大太鼓もセットし | 子供たちが椅子に座ると |
挨拶をして | 9時10分頃に練習開始 |
保存会が丁寧に指導 | 間に鉦や |
笛を入れる | 大太鼓の見本を見せる |
指導に熱が入ります | 親御さんは後ろで見学 |
9時45分に演奏を止め | 低学年(1〜3年)の練習は終了 |
今回は親御さんの要望で | 左義長の太鼓の指導 |
囃子と異なり大太鼓を横にセット | 保存会が見本を見せ |
続いて子供が叩く | 単調なリズムの繰り返しです |
10時10分頃に低学年は解散 | 休憩を挟み10時30分頃から |
高学年(4〜6年)の練習 | 11時頃に練習を終え |
最後は保存会の練習 | 最初に基本の合わせる練習 |
続いてぶっこみから | 屋台の練習 |
続いて全10曲を | 通しで練習 |
最後に屋台を | 回し |
12時50分頃に練習を終える | 荷物を運び |
会館の外へ | 車に積んで長者町へ向かう |
車から荷物を降ろし | 憩いの家へ運ぶ |
最後に戸締りをして | 解散 |
長者町の神輿 | 飾りつけされた状態 |
四天棒 | 二天棒 |
子供神輿 | 町内を渡御する子供神輿 |
掛け声 |
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昭和43年(19768年)頃より全国的に神輿ブームが起こり始め、長者町でも夏の祭りに神輿を出したいという気運が高まった。尾崎春雄氏や安倍川岩吉氏らが中心となって準備に取り掛かり、有志を集めて昭和44年(1969年)の夏祭りに町内渡御を復活させた。翌昭和45年(1970年)に「長友會」という神輿会を発足することになり、初代会長に安倍川岩吉氏を起用して活動し、尾崎春雄氏の力を借りて神輿の修復を行った。長友會のシンボルマークは大磯町の町紋に「長」の字を入れたもので、色は灰色で現在まで変えることなく続いている。
浜降渡御
○老人憩いの家(出発8:15)
広場では大磯神輿連合會の司会進行で式典が行われ、長者町・山王町・北下町の3基の町内神輿と松龍會の神輿が一斉に一本締めを行い、浜降渡御に向けて4基の神輿が長者町をお発ちする。
8時5分から関係者が集まり | 出発に向けて式典が始まる |
ここでも司会進行は連合 | 応援の団体を紹介 |
紹介が終わると | 総責任者の挨拶 |
北下町と山王町 | 長者町 |
松龍會が轅に上がり | 4基揃って一本締め |
最初に長者町が肩を入れ | 神輿を担ぎ上げると |
広場をお発ち | 左折して |
山側へ向かう | 長者町の次は |
山王町が出発し | 長者町に続いて練り歩く |
続いて北下町が肩を入れ | 広場を出発 |
長者町の広場は利便性が高く | 重要な場所の様です |
最後は松龍會が肩を入れ | 神輿を担ぎ上げて |
会館を出発し | 3基の神輿を追う |
山車には2班が乗り込み | 浜降渡御が始まる |
このあとは浜降渡御へ。
○老人憩いの家(到着13:20)
浜降渡御を終えた長者町の神輿が会館へ到着すると、午後の町内渡御に向けて脇棒とトンボを外して二天棒の状態にする。なお、松龍會の神輿渡御はここで終わり、長者町の会館を去っていく。
国道134号を渡り | 平塚方面へ |
暫く直進し | 途中で |
左折して | 山側へ移動 |
暫く直進すると左手に会館が | 山車は一足先に到着 |
神輿も会館へ到着し | 広場へ入る |
松龍會の神輿はここで | 長者町を去ります |
長者町の神輿を | 会館側へ寄せ |
夜の町内渡御に向けて | 脇棒を外し |
会館へ | 運んでいく |
これから暫く | 休憩になります |
山車巡行(出発15:00、到着15:20)
午後の町内渡御までの時間帯は、1班が山車へ乗り込み囃子だけで町内を巡行する。
山車に1班が乗り込み | 道祖神前を出発 |
これから午後の巡行が始まる | 2階のバルコニーでは |
笛を交え | 囃子保存会と残った |
2班と3班で囃子を演奏 | 町内を巡行する山車 |
20分丁度で | 山車が道祖神前に到着 |
広場には | 高麗の山車も到着 |
町内渡御(出発15:30、到着16:30)
宵宮に引き続き、本宮でも長者町の神輿が町内を渡御する。渡御コースは宵宮と異なり、会館の南側を巡行して一旦広場で休憩を取り、その後は会館の北側を中心に巡行する。轅は二天棒となり、掛け声もこのときだけは「どっこい」で神輿が担がれる。長者町の神輿が渡御するのは午後の町内渡御で最後となる。
なお、会館での休憩時間の間は長者町囃子保存会のメンバーの内2人だけで、通常の5人囃子とは違ったオリジナルの演奏を披露する。
長友會会長の一本締めで | 二天棒になった神輿を |
担ぎ上げて会館をお発ち | 今回は“どっこい”の掛け声です |
2班が乗り込んだ山車も | 出発し |
神輿を追い掛ける | 今回は平塚方面へ向かわず |
海側へ向かい | しばらく直進すると |
右折して | 二宮方面へ |
T字路を右折し | 山側へ進むと |
仲よし公園の入り口で右折し | 平塚方面へ |
神輿の後を追う山車 | 神輿は左折して |
先ほどの道へ戻ると | 会館へ向かって練り歩く |
広場ではテントを設置 | 会館へ戻って来た神輿は |
甚句を入れて | 揉むと |
バックして広場へ入る | 囃子保存会は慌ただしく |
太鼓を運び出す | 神輿は会館前で輿をおろす |
これから何か | イベントが始まるようです |
町内を巡行する | 長者町の山車 |
どうやら黒半纏の2人だけで | 演奏するようです |
力強いブッコミから | 演奏が始まる |
軽快なテンポで | 観客を魅了します |
演奏を終え拍手が沸き起こる | 5分間のハイレベルな演奏でした |
テントでは祭壇の準備 | 10分程の小休止を終え |
再び町内渡御が始まる | 山側へ向かい右折 |
平塚方面へ進むと | 道沿いに左折 |
左折して | 二宮方面へ |
十字路を直進し | 町内を練り歩く神輿 |
日枝神社に突き立って左折 | 3班が乗った山車が後を追う |
神輿は左折し | 神戸商会前を通過 |
長者町の神輿は最後の渡御 | 馬をT字に組んで足場を作る |
テントでは祭壇が完成し | 神事の準備が整う |
芯出しのために | 長友會の会長が馬に上がる |
甚句を入れて | 神輿を揉む担ぎ手 |
押し寄せる神輿を | 一旦後退させる |
神輿は再び前進し | 甚句を入れる |
社は無くとも | 一般の宮入りと変わりません |
道祖神前まで | 下がる神輿 |
神輿は再び | 前進 |
甚句を入れて | 神輿を揉み |
到着してから5分程で | 拍子木を打つ |
馬を入れて | 腰をおろすと |
三本締めで | 町内渡御を終える |
担ぎ手は広場で食事を取り | 1班はお弁当を貰って解散 |
2班と3班は会館で夕食 | 私も頂きました |
囃子演奏・日本端子前(開始17:50)
宮神輿が東町から長者町へ受け渡されるまでに、長者町囃子保存会は町内渡しの日本端子付近で、囃子の演奏を披露する。宵宮と本宮の巡行では子供たちが中心となって演奏をしているが、宮神輿渡御前の発表では、囃子保存会のメンバーが演奏し、レパートリーである10曲全てを披露する。
17時20分頃に | 2班を載せた山車が |
会館を出発し | 日本端子へ向けて移動 |
道祖神前の神輿から | 馬を抜き |
轅を抱えて | 会館側へ移動 |
山王町の町内会が | 高來神社の旗を持って移動 |
氏子総代も提灯を持って移動 | 宮神輿を待つ東町 |
宮神輿は遅れているようです | 触れ太鼓が会館を通過 |
25分遅れで | 宮神輿が姿を現す |
後方には高來神社の山車 | 会館を通過し |
左折して平塚方面へ | 東町の神輿と山車が後に続く |
私は囃子保存会の演奏を | 聴きに日本端子へ移動 |
17時50分頃に | 演奏を始める |
トラックに載せて東町を | 巡行する宮神輿 |
観客が増えてきました | 高來神社の山車と |
東町の子供神輿と山車が | 日本端子前を通過 |
全曲を | 通しで披露する囃子保存会 |
正面の沿道にも観客が並ぶ | 息の合った演奏を |
10分程で終えると | 宮神輿の到着まで |
屋台を演奏 | 高來神社氏子11町の中で |
囃子保存会があるのは | 長者町だけになります |
練習を月一で行っているせいか | 全体的にレベルが高いです |
囃子保存会の演奏が終わり | 観客から拍手を頂く |
その後も子供たちの演奏が続く | 神輿の到着を待つ担ぎ手 |
宮神輿渡御(開始18:40、終了19:40)
東町では宮神輿は担がずにトラックで巡行し、日本端子前で長者町に引き渡されると、会館までは休憩を取らずに約1時間担いで長者町を渡御する。宮神輿が会館へ到着すると、広場に設置された神酒所で神事が執り行われる。
触れ太鼓の音が聞こえ | 日本端子前に到着 |
宮神輿が姿を現すと | 担ぎ手が立ち上がる |
予定時刻より30分遅れで | 宮神輿が日本端子前に到着 |
高來神社の山車も到着 | 荷台へ担ぎ手が集まる |
山車から東町の子供達を降ろす | 後方には東町の神輿と山車 |
山車には東町に代わって | 長者町の2班が乗り込む |
荷台から宮神輿をおろし | 日本端子の正門へ移動 |
馬の上に置くと直ぐに | 長友會会長の一本締めで |
肩を入れて | 宮神輿を担ぎ上げる |
神輿のトラックは会館へ移動 | 宮神輿は日本端子をお発ち |
これから宮神輿が | 長者町を練り歩く |
行列の先頭は | 触れ太鼓 |
続いて高來神社の社名旗 | 氏子総代 |
蛸江之丞 | そして宮神輿 |
高來神社の山車には | 長者町の2班 |
最後尾の長者町の山車には | 3班と保存会が囃子を演奏 |
後方には東町が続く | 宮神輿は |
会館を目指して | 二宮方向へ練り歩く |
宮神輿に肩を入れると | 担ぎ手のテンションが |
上がるようです | ほーらきたー♪ |
日が暮れ始め | 島田畳店を通過 |
宮司と氏子総代が会館へ到着 | 宮神輿は会館近くまで来ると |
会館へは向かわずに左折して | 海側へ進む |
十字路に来ると | バックして脇道へ入り |
高來神社の山車と | 長者町が宮神輿を追い越す |
山車が通過すると | 宮神輿は右折して |
来た道を引き返し | 山側へ練り歩く |
2階の囃子に迎えられ | 宮神輿が会館へ |
広場前を | 甚句を入れて揉み |
広場を通り過ぎて | 十字路で右折 |
2台の山車も | 宮神輿の後に続く |
宮神輿渡御は | まだまだ続きます |
神輿と山車は | 平塚方面へ進み |
道沿いに左折 | 十字路を左折し |
二宮方面へ | 山車も後に続く |
お馴染みのコースです | 十字路を直進 |
神輿模型をライトアップするお宅 | 休憩なしで担ぎ続ける宮神輿 |
日枝神社に突き当たって左折 | さらに左折すると |
会館まで | 最後の直線 |
町内渡御とは異なり | 正面を会館側へ向け |
足場を神酒所前に設置 | 甚句を入れて |
神輿を揉みますが | 直ぐに拍子木を叩き |
輿をおろして | 一本締め |
テントで神事が執り行われる | 神事が終わると |
宮神輿では宮入りに向けて | 脇棒を外して二天棒へ |
広場からトラックが移動し | 神輿の近くに停車 |
外した脇棒とトンボを | 荷台へ載せる |
二天棒になった | 宮神輿を担ぎ上げ |
トラックの | 後方へ移動 |
アオリは下げずに | そのまま荷台へのせる |
氏子総代は山車へ乗り込み | 宮神輿が長者町を出発 |
長友會と囃子方は | 長者町の山車へ乗り込み |
休む間もなく会館を出発 | 国道1号に出て高來神社へ |
本社還御(到着20:20)
宮神輿の町内受け渡しは長者町が最後となり、長者町での神事を終えると直ちに宮神輿をトラックへ乗せて、高來神社の一の鳥居前まで移動し、ここから宮神輿を担いで宮入りとなる。
長友會と囃子保存会は宮入りに向けて山車へ乗り込んで出発し、囃子保存会は高麗の山車と共に宮神輿を二の鳥居横で出向かえ、長友會は宮入りする宮神輿に肩を入れる。
宮神輿の宮入りに向け | 国道1号を平塚方面へ |
神社入口で降ろしてもらうと | ちょうど宮神輿が |
荷台からおろされ | 鳥居前をお発ち |
一の鳥居を潜り | 幟の間を通過 |
二の鳥居横では | 高麗の山車と |
長者町の山車が | 囃子で宮神輿をお出迎え |
宮神輿が | 二の鳥居を潜り |
参道を進んで | 社殿を目指す |
各神輿会の提灯に | 先導され |
宮神輿が | 坂を上がっていく |
石階段の前まで来ると | 宮神輿は一旦止まり |
前棒を抱えて | 階段を上がっていく |
参道を担いで進むと | 再び目の前に石階段が |
前棒を抱えて上がっていく | この先がいよいよ社殿です |
石階段を登り切った宮神輿 | 社殿前では馬で足場を組む |
神輿は社殿へ向かい | いよいよ芯出しが始まります |
社殿前で | 甚句を |
交え | 神輿を揉む担ぎ手 |
長者町には | お宮がなかったので |
今回初めてとなる社殿前での | 芯出しが新鮮に感じられます |
盛り上がりが | 最高潮に達したところで |
拍子木を打ち鳴らし | 無事に還御 |
14時間以上に渡る | 宮神輿の渡御が |
総責任者の三本締めで | 無事に幕を降ろす |
境内では | お神酒が配られる |
宮司が宮神輿に向かい | 御霊を取り出す |
御霊を取り出すと | 御霊を持って社殿へ向かう |
続いて氏子総代の挨拶 | 連合会長の挨拶 |
代表者の | 挨拶が続き |
最後に | 襷の返還が行われる |
式典が終わると | 担ぎ手が宮神輿に集まり |
轅を抱えて90度旋回し | 神輿を横向きに |
馬の上におろして | 飾り付けが外される |
長友會はここで社殿を後にし | 長者町の山車へ |
乗り込み | 高來神社を出発 |
国道1号を二宮方面へ進み | 山王町の交差点を左折 |
9時近くに | 会館へ到着 |
明日の行事は片付けと八祓い | 長者町の皆様お疲れ様でした |
宮神輿が宮付けされると、長友會と囃子保存会は山車へ乗って長者町へ戻り、軽く片づけをして解散となる。全体の後片付けは本宮の翌日に行われ、片付け後は八祓いが行われる。
長者町の歴史
相州大磯は海岸に迫っており、北下・南下の両町は人口が過密で、特に南下町が大きな問題を抱えていた。海に面した南下町は土地が狭く、高潮の被害も多くあり、ゴミは路に積り、溝には濁り水が溢れていたため、疫病がよく流行していた。その上に火災もよく発生していた。明治23年(1890年)8月には大火災が発生し、大磯町の全町を焼き尽くすまでに至った。これをきっかけとして山王町の東方を区画整理して、南下町の漁民の一部を移住させ、同年11月に「長者町」が新設された。
記録によると明治の頃の下町通りは浪が堤防を乗り越ると陸揚げしておいた舟は浮き上がり、舟同士がぶつかりあって家を壊すなどの被害があった。狭い横道の家は軒先がくっつき合い、病気などが発生すると直ぐに広がった。漁家は不漁が続くと飢餓となり、鍋釜の類までも質草にして金を借りた。当時の下町気風は「宵越しの金は残さない。その日のうちに使ってしまう。」といった風習があり、貯蓄心は極めて乏しく、少し不漁となると生活は大変なものであった。
大磯町の大火の発生により、初代町長「中川良知」氏が南下町の一部を別の場所に疎開させることを議会に図り、中郡長であった増田氏に申請した。山王町の日枝神社の東方一町四反歩を中川氏が自費で購入し、区画整理をして東西・南北の道路を広く取った。工事は9月に始まり、11月に竣工した。当地への移住者を募集したところ74世帯の応募があり(のちに8世帯が追加応募した)、明治23年10月頃から移転が始まった。ちなみに当時、北下町にあった高麗寺の末寺である慶長18年(1613年)創建の「慶覚院」も南下町の大火により、檀家が多い高麗地域、村持地蔵堂に移っている。
現在、大磯町に保管されている記録としては、郷土資料館にある「建物台帳」が最も古いもので、これには82戸の家主の名前が記されている。これによると各戸の宅地はおおむね30坪未満で、建て家は木造板葺本平家一棟とあり、建坪は大別して七坪五合・十坪五合・十四坪の3つに区分することができる。後年、各人に割り振られた地所は大磯町長から売渡証書が交付され、相応な価格を以て売り渡しが行われた。
この住宅造成地は長者町と名付けられ、この地が有名な長者林に沿っている所から命名された。長者林は松の林であり、長々と現在の東町三丁目辺りまで続いていた。また、長者町は別名「新地」とも呼ばれた。古老の話によれば日枝神社の東側は小川が流れ、荒れ果てた野原であったが、鎌倉時代にはこの長者林の辺りは商店が軒を並べ、遊女も多くいて、鎌倉・腰越からは海岸を経て来て遊んだという。吾妻鑑には「左金吾頼家到大磯ニ到リ止宿セ命シメ給フ。遊君等ヲ召シ歌曲ヲ盡被。」とあり、皰る繁華の地であったことが伺える。
長者町では中川氏の功績を後世に伝えるために、明治23年12月に大磯移街碑が建てられた。碑面は全面漢文で書かれており、元師陸軍大将山縣有朋の篆額で、三島中州侍講の撰文、巖谷一六の書になっている。当初は弁天池の傍らに建てられていたが、基礎工事が不十分であったために倒壊し、後に町の有志および青年諸子の手により現在の位置に建立された。
大磯移街碑 | 碑文抄約 |
長者町はで比較的よく区画整理がなされ、東西に伸びた三筋の主要路が造られた。一番南側の通りを「松下通り」といい、長者林の東端にあった「松下の池」に通じることから名付けられた。中央の通りは「辨天通り」といわれ、東端に通じる辨天池に「虎池辨天(弁天様)」が祀られていたことに由来する。残りの一筋は旧東海道の松並木の影になることから「松陰通り」と呼ばれていたが、後年の国道1号の新設により吸収された。この他には一番北側に「片側通り」と呼び慣らされていた細い道があり、東側の延長は「竹縄地区」に及んでいた。竹縄地区は別の名を「移転地」とも呼ばれ、明治35年(1902年)12月の火災で当時北本町にあった遊郭が小高い丘の一角に移された場所であった。更にこの移転地は「化粧町」とも呼ばれ、郷土屋・柳川棲・小柳棲などの妓棲が建ち並び、夜の燈の下にさんざめきの聞こえる歓楽の港であった。
次に後発の「池田地区」・「芦添地区」・「竹縄地区」の由来と、「ビツコツ田」について記載する。
●池田地区
池田地区はかつて花水川の曲流による河跡の池の様で、「池田公園」が僅かにその名をとどめている。古くは広大な池があったようだが、江戸時代から次第に埋め立てられて土地開発が進められてきた。この開発地は「虎池新田」と呼ばれていたようで、大正の頃には2haの広さがあり、その中の島に「池田弁天(虎池弁天)」が祀ってあった。虎池は昭和初期にかけて県の事業として埋め立て工事が進められ、現在の日本端子あたりから海岸まで南に向けてトロッコの路線が引かれ、浜の砂をトロッコに積んで埋め立てが行われた。
その後、弁天様の小社は2079番地先に遷され、昭和の中期まで「弁天様の池」として長者町の町民に親しまれ、線香の煙が絶えなかった。しかしながら宅地化の波は更に押し寄せ、その後は北本町の「延台寺」の境内に遷されて祀られた。延台寺の古文書によれば延台寺の前身であった「法虎庵」は虎池に創設され、永禄年間(1558〜1570年)に現在の場所へ移転したとある。
●芦添地区
芦添地区は道路を挟んで東町三丁目に接した地域で、地形からいえば丸山地区の東南周辺の低い地区である。この辺りは芦が繋がっていた湿地帯で水田耕作地域であったが、宅地開発により埋め立てられ、現在は往時の面影は見られない。僅かに残る水田地帯があったが、これも平成2年(1990年)の初頭には埋め立てが進められ、「芦添公園」がその名をとどめている。大磯バイパスに沿った土手には一叢の芦の茂みが残っていて、昔の面影の語り草となっている。
●竹縄地区(丸山地区)
日本NCR大磯工場(2007年閉鎖)のあった一帯はかつて田甫や畑があり、やや盛り上がった地域で丸山と呼ばれていた。また、松下氏が経営する大正舎なる牛の放牧場があった。丸山は長者林の北東に位置し、口伝によればこの地は鎌倉幕府が栄えたころは大変賑わった地区といわれている。この丸山に隣接して国道1号と大磯バイパスの分岐点辺り一帯を竹縄地区と称し、家の屋敷の周りに竹を多く植えて住居の一集団をなし、往時は共に繁栄を極めた地域でったといわれている。
●ビツコツ田
長者町には東に辨天さんの池、西にビツコツ田があった。三沢川の護岸工事が完全ではなかった頃は、少し大きな雨が降ると土手が切れて川水が溢れることがしばしばあった。このための遊水地的な役目をしたのがこのビツコツ田で、おおきな沼の様な池であった。南西側には竹藪の一叢があり、海岸に面して小松林が東西にのびていた。鰤敷の魚具などを貯蔵する格納庫が一角にあり、無縁塚が程近く夜ともなると淋しい一帯であった。片瀬〜大磯間の湘南歩道路計画が世上にのぼった昭和6、7年にこの池の埋め立て工事が行われ、ここも次第に宅地化されて人家も建てられるようになった。
長者町の創設当初は西は山王町の日枝神社を境とし、東は現在の移街碑が建てられている辺りまでであったが、中期の長者町は上記のように次々と宅地造成が進んでいった。長者林に沿った俗称野球道路一帯も徐々に家が立ち並んでいき、平成2年(1990年)には面積約14ha、戸数は470世帯、人口は1550名に達した。
長者町青年団
昭和初頭の青年団組織は「浜(はま)青年」と「陸(りく)青年」の2つの組織があり、両者が合体して「長者町青年団」と称していた。男子は15歳になると何れかに所属する慣わしになっていた。特に浜青年は団長以下75名くらいで漁業の若い衆を母体とし、財力的にも体力的にも恵まれており、浜青年の協力がなければ年間のあらゆる行事を実行することが出来なかったくらい実力を持っていた。下町は漁業の町として知られるように往時は水揚げも多く、浜青年には年2回か3回の「釣り上げ」といって、漁に出てその日の水揚げ金全部を青年団に寄付する制度があった。一方、陸青年は団長以下25名くらいで、毎月拾銭という当時では高額な金額を青年団に拠出することになっていた。
公民館の変遷
ここでは長者町共有の土地および会館の変遷について述べる。現存する書類の中では昭和2年(1927年)5月10日の土地登記原本が最も古い記録で、土地の表示はまだ畑地であり、住所は中郡大磯町大磯字山王後一八九五番地ノ二であった。この土地は長者町の東のはずれで移街記念碑に近く、同年12月13日に土地の購入を終えると青年団の手によって「青年会館」が建てられた。
当時の青年の幹部の話によると、青年が集まって会合する場所がないために会館建設の話を持ち出したところ、町の長老から「若い衆の遊び場」か「博打場」かと罵られ嘲られたが、青年たちはこれに反発して益々団結し、会館建設を目標に一致協力して資金の確保に努めた。当時の団長鈴木甚太郎氏は茅ヶ崎の水沢材木店に勤めていた関係で、材木に関しては専門であり、それに小学校の廃材をもらい受け、団員等の奉仕によって遂に青年会館の建設に漕ぎ着けた。その頃は南下町にも北下町にも会館が無かった時代で、率先して長者町に会館が実現したことは先見の明のある快挙であり、以後、長者町の諸会合は専らこの会館が利用された。
その後、国道1号の改修工事が施工されると、青年会館の土地建物一切が国に買収されることになり、昭和15年(1940年)12月11日に内務省から当時の青年団長山田初太郎氏宛に「物件移転協議書」が提出され、前金額は五百貮拾七円五銭であった。この補償の金額をもって求めたのが現在の「老人憩いの家」の敷地で、中郡大磯町大磯一九二二番地である。この土地は@一九二二番一一(宅地・46坪)とA一九二二番二二(宅地・42坪)に分割されており、このうち@については時の大磯町長船橋晋吉氏に道路として一部を移譲したため40坪となった。管理者については@尾崎金太郎・平田武夫、A平田武夫・柴崎正男と定めて登記し、土地確保が出来ると直ちに新しい青年会館の建設に移り、昭和16年(1941年)2月14日に建築届書が提出された。
青年会館という名称は長いこと続き、長者町町民に親しまれてきたが、建物は昭和29年(1954年)4月17日に青年会から町内役員が買い受けた。さらに役員7名の連署にて小田原区裁判所に登記申請し、青年会館は「長者町会館」と名称が変更された。
木造で建てられた長者町会館は次第に老朽化が進み、昭和51年(1976年)4月に尾崎区長に至りいよいよ新会館建設が急務となった。昭和52年(1977年)5月に班長総会において尾崎区長より会館新築の必要性をはかり、建設準備委員会の設置が承認された。同年8月には長者町所有の公共用地を大磯町に移譲する書面を豊田大磯町長に提出し、10月に竹内議会議長に「老人憩いの家」建設の促進をはかる陳情書を提出した。この陳情書に対して12月21日に議会議長より回答があり、「陳情の趣旨は理解出来るので採択とし、内容等については理事者側とよく検討し早期実現出来るよう努力を願う」との要旨であった。年内には「長者町会館(假称)建設準備委員会規定」を制定し、翌昭和53年(1978年)1月に建設資金の募金活動が開始された。同年8月に旧会館の取り壊しが開始され、10月25日より匠建設株式会社により鉄筋コンクリート造2階建の新築工事が着工された。翌昭和54年(1979年)3月に工事が完了し、30日に大磯町主催による竣工披露式が行われ、続いて4月15日には長者町主催による祝賀式を挙行した。
長者町の拠点 通称“会館” | 防災備蓄倉庫 |
建物の正式名称は | 大磯町立長者町老人憩の家 |
長者町の守護神
長者町は新興の町であるため他町のように神社が無く、創町の頃から道祖神を町の鎮めとして町内の一角に社域を設けてきた。初期の道祖神の社域は山王町から長者町に入る坂(桶屋の坂と呼んだ)の下、すなわち現在の消防第二分団の詰所の北側の、国道1号の真ん中のところに鎮座していた。昭和12年(1937年)に日支事変が起こり、召集や入営の兵士が出るたびに、道祖神の社前で町内会長の激励の挨拶を受け、武運長久を祈る旗幟や日の丸の小旗に送られて大磯駅へ向かったものであった。昭和14年(1939年)に建設省の新国道事業計画により移転を余儀なくされ、現在の場所へ移った。長者町の道祖神は「双体道祖神」と呼ばれ、1つの石に2体の像が並んで彫られている。
また、大磯町はしばしば大火に見舞われてきた史実があり、当時町の長老であった関野松五郎氏や清田重吉氏らが相諮って、火伏せの神様として御嶽神社を道祖神の隣に合わせ祀った。ちなみに、大磯町の火災の記録を拾うと古くは天保7年(1835年)に510戸、近くは明治6年(1873年)に97戸、明治35年(1902年)に640戸が消失した記録が残されている。この他に長者町への移街を余儀なくされた明治23年(1890年)の大火もあり、これらの大火を見て町の指導者たちは御嶽神社を招いたのである。
会館の一角に設けられた社域 | 双体道祖神は第八番所 |
左が道祖神 | 右が御嶽神社 |
左の社殿内には賽銭箱と | 双体道祖神 |
右の社殿内には賽銭箱と | 大口真神のお札 |
町内名/場所 | 受渡 | 場所/行事 (◎神酒所) | 時刻 |
高來神社 | 祭事斎行 | 5:30 | |
神社神輿出御 | 6:00 | ||
高麗 | 鳥居前 | 6:20 | |
山王町 | ○ | 化粧坂 | 7:00 |
榎木前 ◎ | 8:30 | ||
神明町 | ○ | 三沢橋 | 8:45 |
北下町 | ○ | 道祖神社 | 9:00 |
浅間神社 ◎ | 9:45 | ||
南下町 | ○ | 月貫 (北下番) | 10:05 |
熊野神社 ◎ | 10:20 | ||
芦川酒店前 木遣奉納 | 10:25 | ||
照ヶ崎 | 134号線横断開始 | 10:55 | |
134号線横断終了 | 11:50 | ||
大磯港式典会場 | 式典斎行 | 12:00 | |
神社神輿出御 | 13:30 | ||
茶屋町 | ○ | 馬返し | 13:50 |
裡堂 | ○ | 杉本前 | 14:10 |
○ | 白山神社 ◎ | 14:30 | |
茶屋町 | ○ | さざれ石福祉会館前 ◎ | 14:50 |
南本町 | ○ | 南本町公民前 ◎ | 15:10 |
北本町 | ○ | 穐葉神社 ◎ | 15:30 |
神明町 | ○ | 神明神社 ◎ | 15:50 |
山王町 | ○ | 三沢橋 | 16:20 |
日枝神社 | 17:00 | ||
東町 | ○ | 長者町憩の家 | 17:15 |
福祉会館 ◎ | 17:45 | ||
長者町 | ○ | 日本端子前 | 18:10 |
長者町老人憩の家 ◎ | 19:10 | ||
高來神社 | 鳥居前 | 19:30 | |
神社神輿還御 | 19:50 |
※時刻は予定されたもので、状況によって前後する。
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