長者町ちょうじゃまち

長者町の祭礼

  かつて長者町の祭礼は7月7日で、神輿を担いで南下町の中川家へ訪れることを例としていた。これは長者町を創設した初代大磯町長中川良知へのお礼参りであり、帰路は南下町を回り北下町を通って戻ってきた。また、この渡御は7月18日の高來神社の夏季大祭に備えたものであったが、交通事情のため何時ごろからか行われなくなった。
  近年になり、長者町の祭礼は高來神社の夏季大祭の宵宮に行われるようになった。昭和35年(1960年)以前は会館の前の広場に芝居の舞台が丸太を組み合わせて造られ、お神楽や芝居また舞踊などが夜更けまで、あかあかと裸電球のもとで演ぜられた。夜店も出て金魚すくいや綿あめ、またおもちゃも売られた。



高來神社夏季例大祭

  長者町には単独で祀っている氏神は存在せず、大磯町の11町内で祀っている高來神社が長者町の氏神であり、長者町の祭礼行事は高來神社の夏季例大祭に他の町内と合同で参加する形で執り行われている。
  高來神社の神輿渡御(浜降渡御)には長者町の神輿を大磯港の祭場まで担いで式典に参加し、高來神社の神輿が町内渡しで長者町を渡御する際は、長友会が中心となって次の町内の引き渡しまで肩を入れる。それ以外の時間帯に長者町の神輿や子供神輿、そして囃子の山車が長者町を巡行するというのが、長者町の大まかな祭礼の流れである。
  長者町では6月末の「合同会議」から夏季例大祭の準備が始まり、「町内会」・「長友会」・「長栄会」・「長者町囃子保存会」・「子供育成会」・「こだま会」の各団体が役割分担を決めて、夏季例大祭を実行していく。
  ここでは平成27年(2015年)に行われた高來神社夏季例大祭の7月19日(日)の本宮と、前日の18日(土)に行われた宵宮の様子を、長者町を中心に紹介する。



祭礼準備(開始8:00)

  本宮の前日(土曜日)は朝8時から準備が行われ、神輿の捩り掛けや幟立てなどが行われる。なお、宵宮の前日(金曜日)にも朝8時から準備が行われ、山車の組立や子供神輿の飾り付けなどが行われる。

宵宮の朝は8時前から準備が始まる
テントでは天幕を外す神輿の準備の為に
山車を広場から出し北側へ移動
パイプテントは折り畳む山車は道祖神前で停車
会館の玄関では神輿を中から運び出す
見た目以上に重さがあるようです
広場の中央で神輿をおろし神輿の飾り付けが始まる
会館内から轅を
2本運び出しポールへ立てかける
こちらは神輿に積むバッテリー鳳凰など
飾り付けの道具を運び出すこちらは蕨手
脇棒2本も会館から運び出す
倉庫の上から長い竹をおろし
北側へ運ぶ竹はもう1本あります
どうやらこの竹は幟竿のようです
道祖神前では燈籠を設置
幟を竹に通し終わると
提灯を避けて竿をゆっくりと立てていく
中空の竹といえどもかなり重そうです
敷地内に入り支柱に固定
会館側でも幟を立て支柱に固定する
燈籠は正面の蓋をして完成神輿では蕨手を取り付ける
親棒を抱えて180度旋回し
会館側へ運び棒穴へ
もう片方の親棒は北側から挿入
残りの蕨手を取り付け鳳凰を露盤へ差し込む
神輿横のスペースを空ける為に奥にあった松龍會の神輿を
会館側へ移動させ会館内から
子供神輿を運び出し玄関から出すと
広場へ移動大人神輿では捩り掛けが始まる
子供神輿は大人神輿の隣へ捩りは紅白の晒を用いる
鳳凰から四隅の蕨手へ渡し紅白の晒を編む
轅に巻き付けて固定していく
蕨手の上部に小鳥を差し込んで固定する
トンボを親棒の上に渡し台を釘で打って固定
トンボは親棒へ結びつけ
カケヤを使って増し締め
仕上げに水を掛ける鳥居には榊を結びつける
掲示板にのし紙を張り付ける会館から締太鼓を運び出し
向かう先は昨日組み立てた山車
前方にもトンボを渡し脇棒を結びつける
会館から大太鼓を運び山車の方へ
道祖神前では太鼓を締める山車では電球の取り付け
脇棒もカケヤで増し締め
注連縄に紙垂を挟み四方に提灯を取り付ける
山車では提灯の取り付け会館のバルコニーでは照明の配線
神輿の屋根に枠を取り付け提灯を並べていく
隅木下には飾り金物を垂らす紙垂を取り付けるお宅も
松龍會も神輿の飾り付けこちらも紙垂を取り付け
中央が長者町で両脇に長友會こちらの商店でも紙垂の取付
山車では大太鼓を載せ枠にはめて固定
鳳凰の四隅に鈴を垂らす神輿の準備はほぼ終わり
ここで大磯神輿連合會の神輿が到着
山車では締太鼓を枠へ設置
広場では山側のポールを抜き長者町の神輿を
山側へ移動鉄の棒を縦に入れて掛ける
あおりを開けて短い轅を挿しトラックを広場へ寄せると
神輿を抱え上げトラックを前方へ移動
長者町と松龍會の間に連合の神輿をおろす
バルコニーでは電球を取り付けつかない箇所を点検
会館から供物を運び出し
轅の上に置いたテーブルに並べていく
バルコニーでは提灯の取り付け室内では締太鼓の調整
大磯神輿連合會と松龍會も祭壇を設置


式典(開始10:30、終了11:00)

  宵宮は10時30分の式典から始まり、高來神社の宮司により神輿に御霊が遷される。毎年、本宮の浜降渡御に長者町から同行する大磯松龍會の神輿も式典に参加しているが、今年は大磯神輿連合會の神輿が初めて長者町の式典に参加した。

式典の準備が整い高來神社の宮司が到着
祭壇を確認し衣装を整えると
式典が始まる神輿をお祓いし
参列者をお祓い山車もお祓い
続いて祝詞奏上隣の子供神輿も修祓
続いて玉串奉奠宮司から始まり
2番手は長者町の区長
代表者が続き長友会の会長
長者町囃子保存会の会長順番に拝礼し
玉串奉奠で長者町の式典は終了
続いて松龍會の神輿前で式典が始まる
修祓に続き祝詞奏上
続いて玉串拝礼
松龍會は夏季例大祭に毎年長者町から参加しています
最後に中央の連合の神輿前で式典
連合は今年初めて長者町で式典を執り行う
これで長者町での式典は終了
西隣の山王町から囃子の山車が巡行
最後に希望者をお祓いし祭壇の供物を
下げ会館内へ運ぶ
式典が終わると連合の神輿はトラックへのせ
轅を抜いてアオリを閉め長者町を出発


山車巡行(出発12:30、到着13:15)

  14時からの子供神輿渡御まで空き時間があったため、囃子保存会が高來神社への挨拶回りを兼ねて、町内を囃子の山車で巡行した。

宵宮は14時まで行事が無いので
囃子保存会が山車へ乗り込み
日本端子前での発表曲目を練習を兼ねて演奏
演奏中も山王町の山車が通過私も一緒に叩かせて貰いました
囃子の演奏を一旦止め山車が
会館を出発これから高來神社を目指す
太鼓を再び叩き笛も入れます
東へ向かって巡行し総務宅にて休憩を取る
再び出発し国道134号に出ると
直ぐに平塚市に入り下花水橋西交差点を左折
下花水橋を通り金目(花水)川を渡ると
直ぐに左折し川沿いに北上
東海道本線を潜り国道1号で左折
再び川を渡って花水橋で右折花水橋バス停で左折すると
目の前には高麗山住宅地に入り
左手に高麗の山車が右手に鐘楼が見え
慶覚院前で山車を止め参道を歩いていく
階段を上り境内へ
ご祝儀を渡しますこちらは高來神社の山車
奥では高麗の神輿を飾り付け社殿前には本社神輿が
挨拶を済ませ山車へ戻り
高來神社を出発高来神社入口で
国道1号を右折囃子を演奏しながら二宮方面へ
東海道本線を潜り長者町に入る
長者町交差点を通過し山王町交差点を左折
会館へ到着し道祖神前に山車を止める


子供神輿渡御(出発14:00、到着15:05)

  宵宮では子供神輿が囃子の山車と一緒に町内を巡行するが、国道1号の北側は道幅が狭く山車が通れないこともあり、湘南農業協同組合の大磯東支店付近で山車は別行動で巡行する。子供神輿の渡御は宵宮のみで、巡行が終了すると会館に子供神輿が収められる。

会館の2階では囃子保存会が子供たちを集め
注意事項を説明1班が山車へ乗り込み
2班と3班は子供神輿の前で一本締め
今度は南下町の山車が通り過ぎる
子供神輿を担ぎ上げ広場を出発
平塚方面へ向くと十字路をそのまま直進
左手には長友會のテントわっしょい♪わっしょい♪
突き当りで道なりに左折
子供神輿の後を追う山車十字路を左折し
二宮方面へ向かうと十字路を左折
一周して広場へ戻ると
Y字路を左折して平塚方面へ進む
途中で左手にある民家へ入り神輿をおろす
山車は道路脇で待機水分を補給し休憩を取る
家主にお礼を言い5分ほどの休憩を終えると
再び出発し平塚方面へ練り歩く
山車も出発ケイユー鳥惣大磯店
KRキムラを通過し十字路で左折
山側へ進むと左手の池田公園へ入る
山車は公園の手前で待機神輿をおろして休憩を取る
3分程で休憩を終え公園を出発
右折して来た道を引き返し
十字路を左折して平塚方面へ
日本端子まで来ると左折し山側へ向かうと
先ほど寄った総務宅前で神輿をおろす
お菓子と飲み物を頂きお礼を言います
今回は長めの10分程休憩を取り一本締めて
出発山側へ向かい
突き当りのT字路を左折
国道134号の側道を進むと国道1号に突き当り
左折して、しまむらストアーローソン
ジョリーパスタを通過長者町交差点まで来ると
山車が子供神輿を追い越しここから別行動
子供神輿は信号待ちをし国道1号を渡る
さらに134号を渡ると湘南農業協同組合の
大磯東支店で神輿をおろす1分程の小休止で
直ぐに神輿を担ぎ駐車場を出発
134号を上がり直ぐに左折
どうやら国道の北側にも長者町の一部があるようです
大磯丘の上テラスの敷地に沿って坂を上がると
左手の細い道へ入り二宮方面へ進んでいく
山王町との境界線は複雑で地元の方でも分からないとか
魚貞まで来ると担ぎ手が大人に交代
ここからはさらに道が狭くなるようです
4点棒には厳しい狭さです
一番の難所を通り抜け国道1号に出る
お隣のコインランドリーで一旦神輿をおろし
ここからは再び子供たちが担ぎます
長者町の会館を目指し国道1号を二宮方面へ
山王町バス停を通過し山王町交差点で神輿をおろす
信号のタイミングを見て担ぎ上げ国道1号を横断し
会館に向かって直進先に到着していた山車
子供神輿は北側から広場へ入り
神輿をおろして三本締め
その横を北本町の山車が通過
子供神輿は宵宮だけなので脇棒と
トンボを取り外す子供たちは
会館の2階へ移動囃子ではこの後も出番がある
二天棒になった子供神輿を会館へ入れる


山車巡行(出発15:30、到着16:05)

  夜の町内渡御までに時間があるため、囃子の山車が町内を巡行する。なお、会館の2階のバルコニーにも太鼓を設置し、宵宮と本宮では会館と山車に分かれて囃子が演奏される。

お隣の東町が町内を巡行2階のバルコニーでは太鼓をセット
子供たちが太鼓を叩く
太鼓の班は3つあり大人神輿の渡御までは
2班が山車へ乗り込み町内を巡行
巡行中も会館では囃子を演奏
30分程で巡行を終え2班は会館へ上がる
会館では太鼓を叩き続け16時半頃になると
1班と2班を集めお弁当を手渡し
両班はここで解散外では長友會が照明を設置
3班と囃子保存会は夜の巡行に備えて会館で食事を取る


町内神輿渡御(出発17:25)

  宵宮の夕方から夜に掛けては長者町の神輿が町内を渡御する。

17時20分に担ぎ手が集まり最初に長友會の挨拶
続いて応援団体の紹介
そのあとにお神酒を配る
会館から3班が移動し山車へ乗り込む
乾杯をして肩を入れると
神輿を担ぎ上げ広場をお発ち
直ぐに甚句を入れ神輿を揉むと
右折して海側へ向かいこれから町内渡御が始まる


  このあとは町内神輿渡御へ。



山車巡行(出発19:50、到着20:25)

  例年では宵宮の行事は町内の神輿渡御で最後となるが、この年は50分ほど早く渡御が終わったため、囃子の山車だけで町内渡御の予定時刻まで長者町を巡行した。

今年は50分ほど早めに神輿渡御が終わったので
叩き足りない子供たちの為に急遽山車だけで巡行する事に
奥で引き返してきた山車に3班が乗り込み
道祖神前を出発
町内を巡行していく広場で食事を取る担ぎ手
従来の神輿の到着予定20時30分前に山車が到着
広場では食事が終わり残った担ぎ手が神輿へ集まる
シートを掛ける松龍會長者町の神輿を担ぎ上げ
会館へ向かい正面を平塚側へ向け
バックして広場へ入れると松龍會の隣へおろす
山車から大太鼓を運ぶ長者町の神輿にシートを被せる
山車から締太鼓を運ぶ宵宮は全ての行事が終了
囃子保存会は3班を集めて挨拶明日はいよいよ本宮です


祭事斎行(開始5:30、終了5:45)

  ここからは本宮の様子を紹介する。高來神社では早朝5時半から社殿にて神事が執り行われる。

時刻は午前5時場所は高來神社
社殿前には高來神社神輿(宮神輿)
神輿殿には高麗の村神輿と
子供神輿高麗の関係者が境内に集まる
町内の担ぎ手により宮神輿の正面を社殿側へ向ける
高麗の子供神輿も移動して
神輿殿前におろしその横に馬を置き
今度は村神輿を神輿殿から
出して境内へ移動
180度旋回して正面を神輿殿へ向け
馬を入れて村神輿をおろす
社殿では式典の準備担ぎ手が増えてきました
式典の出席者が拝殿へ上がり
5時半に太鼓が叩かれ祭事が開始
途中で宮司が境内へ降り宮神輿をお祓い
続いて担ぎ手をお祓いし拝殿へ戻る
社殿前ではお神酒を紙コップへ注ぎ乾杯の準備
宮司が境内へ降り宮神輿へ御霊を遷す
御霊入れを終え社殿へ戻る宮司
5時45分に神事が終了し出席者は社殿を出る
社殿内から神事で使った
大太鼓を運び出し下へ移動する


本社出御(出発6:00)

  社殿での神事が終わると境内で宮神輿の出御の為の式典が行われ、高麗の神輿と共に高來神社をお発ちする。宮神輿の渡御を取り仕切っているのは大磯神輿連合會(通称“連合”)である。

大磯神輿連合會の進行最初に氏子総代会会長の挨拶
続いて大磯町長の挨拶11町区長会代表の挨拶
大磯神輿連合會会長の挨拶続いて襷の受け渡し
色々な役があるようですこちらは全神輿渡御総責任者
今度は総責任者から襷を渡す
長友會の会長も襷を受け取る
襷の受け渡しが終わり総責任者の挨拶
用意をしたお神酒を取りに行き
氏子総代の掛け声で乾杯
宮神輿と高麗の神輿に代表者が上がり
一本締めで肩を入れる
神輿を担ぎ上げると同時に花火が打ち上げられる
社殿前で旋回し
正面を鳥居側へ向ける
高麗の神輿が社殿側へ移動し宮神輿の後ろに付くと
宮神輿が社殿前を出発し階段を下りていく
階段を下りて参道を練り歩くと
下では高麗による囃子の演奏宮神輿に続いて
高麗の神輿も階段を下りる次の階段を下り
鳥居に向かって進んでいく後に続く高麗の神輿
2基の神輿は二の鳥居を潜り海側へ向かって練り歩く
後方に見えるのが高麗山宮神輿は一の鳥居を潜り
準備してあったトラックの荷台へ寄せ
神輿を少し下げて前棒をアオリへ掛ける
神輿をずらして荷台へのせる後方には高麗の神輿
国道1号の二宮側には高麗の山車が待機
宮神輿をのせたトラックは国道1号に出て左折し
平塚方面へ移動高麗の神輿も鳥居を通過し
国道前で輿をおろす長者町はここで神社を離れる


山車巡行(出発7:25、到着7:50)

  長者町では浜降渡御までに時間があるので、1班が山車へ乗り込み長者町を巡行する。なお、会館前の広場は山王町と北下町の神輿の出発地点となっており、山車が巡行している間に、2基の神輿が広場へ置かれ、松龍會と合わせて計4基の神輿が広場に並ぶ。

会館へ歩いて戻ってきました時刻は6時40分
掲示板ののし紙が増え私のも貼っていただきました
1階入り口が受付です2階では囃子保存会のもと
子供たちが活動開始バルコニーに台を設置し
太鼓を枠へセット
山車では太鼓を締める松龍會が神輿の準備
他の町内が馬を持ち込み二宮方面から神輿の姿が
バルコニーでは囃子を開始神輿は山王町で
広場へ入って馬に輿をおろす
1班の子供たちが山車へ乗り込み
道祖神前を出発町内の巡行が始まる
2階のバルコニーでは残った2班と3班が囃子を演奏
私も笛を借りて参加広場では神輿を積んだ
軽トラックが到着北下町の神輿を
広場へおろし4基の神輿が並ぶ
太鼓の音が聞こえると町内を巡行中の山車が
会館前を通過し1周して道祖神前に到着
会館から締太鼓を運び枠へセット

  このあとは浜降渡御へ。

囃子

  長者町は明治23年(1890年)の大火によって新設された町内であり、長者町の囃子は移住してきた南下町の流れを汲む可能性も考えられるが、その起源については記録が残されていない。昭和初期頃には長者町の囃子は殆ど消滅した状態で、叩ける者は他町内を渡り歩いたという。昭和30年(1955年)頃に子供神輿を購入した際に、太鼓も新調して囃子を復活させることになり、当時の青年団の有志が他町内より教えを受け、子供達にも教えるようになった。これにより御船祭には子供達の山車が町内を巡行するようになったが、結局、青年達の間で囃子が定着することはなかった。
  昭和50年(1975年)頃になると青年団有志の一人であった柏木一雄氏が子供達の指導に当たるようになり、昭和60年(1985年)に「長者町こども会・囃子保存会」を発足し、年間を通して活動するようになった。当時は「屋台」・「宮昇殿」・「昇殿」・「四丁目」・「仁羽」・「さんかん」を合わせた計6曲が演奏されており、同年から平塚市下山下の当時の青年会から「宮昇殿」と「屋台」の笛を習うようになり、長者町の太鼓を笛に合わせて編曲することで笛を取り入れる様になった。
  2002年(平成14年)には「長者町囃子保存会」が結成され、高來神社氏子11町では唯一の囃子保存会となっている。長者町以外の町内でも囃子が伝承されているが、ほとんどが子供会として活動している。現在演奏されている曲目は「屋台(やたい)」・「宮昇殿(みやしょうでん)」・「昇殿(しょうでん)」・「神田丸(かんだまる)」・「唐楽(とうがく)」・「鎌倉(かまくら)」・「四丁目(しっちょうめ)」・「仁羽(にんば)」・「さんかん」・「きざみ」の10曲で、全ての曲に笛と鉦が入るまでに至っている。
  長者町の囃子は二宮地区でいう大山囃子系統に近いが、大山囃子にはない「玉」というバチを革上で小刻みに弾ませる小バチのような独特な奏法が特徴である。囃子の構成は締太鼓2・大太鼓1・笛1・鉦1の五人囃子であるが、笛と鉦が抜けて太鼓のみで演奏されることも多い。巡行中は山車に乗って演奏するが、会館の2階のバルコニーにも太鼓が1カラ準備され、山車に乗らない班の子供達や囃子保存会のメンバーらによって叩かれる。
  長者町の山車の巡行では子供達が中心に囃子を演奏しており、1班から3班まで班分けをし、囃子保存会の指示のもと、班毎に叩く時間に差が出ない様に時間を調整している。

山車(側面)山車(正面)
五人囃子での演奏会館バルコニーでの演奏
屋台

  囃子保存会の練習は毎月1回のペースで行われ、そのうち2か月に1回(偶数月)は子供達を集めて指導を行っている。また、高來神社夏季例大祭直前の練習は日曜日を除く10日間ほど行っている。以下に、平成27年(2015年)12月27日(日)に行われた、大磯町立ふれあい会館(3F大集会室)での練習の様子を紹介する。

朝8時に会館へ集合し鍵を開ける
2階から台と太鼓を降ろす
左義長で使う燈籠と飾り類
会館から台と
太鼓を運び出し車の荷台へ
会館を出発しふれあい会館に到着
車から荷物を降ろしエレベーターを使って
3階の大集会室へかなり広いです
締太鼓の枠を組み立て
L字の鉄棒をボルト下へ通し締太鼓を枠へセット
防音の為厚手のカーテンを閉める
大太鼓もセットし子供たちが椅子に座ると
挨拶をして9時10分頃に練習開始
保存会が丁寧に指導間に鉦や
笛を入れる大太鼓の見本を見せる
指導に熱が入ります親御さんは後ろで見学
9時45分に演奏を止め低学年(1〜3年)の練習は終了
今回は親御さんの要望で左義長の太鼓の指導
囃子と異なり大太鼓を横にセット保存会が見本を見せ
続いて子供が叩く単調なリズムの繰り返しです
10時10分頃に低学年は解散休憩を挟み10時30分頃から
高学年(4〜6年)の練習11時頃に練習を終え
最後は保存会の練習最初に基本の合わせる練習
続いてぶっこみから屋台の練習
続いて全10曲を通しで練習
最後に屋台を回し
12時50分頃に練習を終える荷物を運び
会館の外へ車に積んで長者町へ向かう
車から荷物を降ろし憩いの家へ運ぶ
最後に戸締りをして解散


神輿

  長者町の神輿の製作年代や作者などは分かっていないが、地元では寒川の方から譲られたという言い伝えがあり、100年以上は経っているという。長者町の創設10周年にあたる大正10年(1921年)の町内役員と移街碑の写真には、この神輿と思われるものが一緒に写っており、同一のものであれば大正10年以前の制作といえる。神輿の保管場所は長者町ではなく、高來神社の倉庫に保管されている。
  神輿の掛け声は「ほーらきたー」が標準となっているが、このほかにも「そーらきたー」や「そーらきたい」等の掛け声も交じって聞かれる。これらの掛け声がいつどこで発生したかは分かっていないが、一説によると大磯には元々「ほーらきたー」の掛け声があり、大磯神輿連合會ができた時にこの掛け声に統一したという。担ぎ方は湘南地区で多く見られる「どっこい」と同じで、神輿を上下に揺さぶり、間に「甚句」を入れて神輿を揉む。
  神輿の轅(輿棒)は基本的には四天棒であるが、本宮の午後の町内渡御だけは脇棒を外して二天棒にし、掛け声も湘南地区で多く聞かれる「どっこい」になる。長者町には子供神輿もあり、宵宮の午後に1時間だけ町内を渡御する。

長者町の神輿飾りつけされた状態
四天棒二天棒
子供神輿町内を渡御する子供神輿
掛け声

  昭和43年(19768年)頃より全国的に神輿ブームが起こり始め、長者町でも夏の祭りに神輿を出したいという気運が高まった。尾崎春雄氏や安倍川岩吉氏らが中心となって準備に取り掛かり、有志を集めて昭和44年(1969年)の夏祭りに町内渡御を復活させた。翌昭和45年(1970年)に「長友會」という神輿会を発足することになり、初代会長に安倍川岩吉氏を起用して活動し、尾崎春雄氏の力を借りて神輿の修復を行った。長友會のシンボルマークは大磯町の町紋に「長」の字を入れたもので、色は灰色で現在まで変えることなく続いている。



浜降渡御

○老人憩いの家(出発8:15)
  広場では大磯神輿連合會の司会進行で式典が行われ、長者町・山王町・北下町の3基の町内神輿と松龍會の神輿が一斉に一本締めを行い、浜降渡御に向けて4基の神輿が長者町をお発ちする。

8時5分から関係者が集まり出発に向けて式典が始まる
ここでも司会進行は連合応援の団体を紹介
紹介が終わると総責任者の挨拶
北下町と山王町長者町
松龍會が轅に上がり4基揃って一本締め
最初に長者町が肩を入れ神輿を担ぎ上げると
広場をお発ち左折して
山側へ向かう長者町の次は
山王町が出発し長者町に続いて練り歩く
続いて北下町が肩を入れ広場を出発
長者町の広場は利便性が高く重要な場所の様です
最後は松龍會が肩を入れ神輿を担ぎ上げて
会館を出発し3基の神輿を追う
山車には2班が乗り込み浜降渡御が始まる


  このあとは浜降渡御へ。



○老人憩いの家(到着13:20)
  浜降渡御を終えた長者町の神輿が会館へ到着すると、午後の町内渡御に向けて脇棒とトンボを外して二天棒の状態にする。なお、松龍會の神輿渡御はここで終わり、長者町の会館を去っていく。

国道134号を渡り平塚方面へ
暫く直進し途中で
左折して山側へ移動
暫く直進すると左手に会館が山車は一足先に到着
神輿も会館へ到着し広場へ入る
松龍會の神輿はここで長者町を去ります
長者町の神輿を会館側へ寄せ
夜の町内渡御に向けて脇棒を外し
会館へ運んでいく
これから暫く休憩になります


山車巡行(出発15:00、到着15:20)

  午後の町内渡御までの時間帯は、1班が山車へ乗り込み囃子だけで町内を巡行する。

山車に1班が乗り込み道祖神前を出発
これから午後の巡行が始まる2階のバルコニーでは
笛を交え囃子保存会と残った
2班と3班で囃子を演奏町内を巡行する山車
20分丁度で山車が道祖神前に到着
広場には高麗の山車も到着


町内渡御(出発15:30、到着16:30)

  宵宮に引き続き、本宮でも長者町の神輿が町内を渡御する。渡御コースは宵宮と異なり、会館の南側を巡行して一旦広場で休憩を取り、その後は会館の北側を中心に巡行する。轅は二天棒となり、掛け声もこのときだけは「どっこい」で神輿が担がれる。長者町の神輿が渡御するのは午後の町内渡御で最後となる。
  なお、会館での休憩時間の間は長者町囃子保存会のメンバーの内2人だけで、通常の5人囃子とは違ったオリジナルの演奏を披露する。

長友會会長の一本締めで二天棒になった神輿を
担ぎ上げて会館をお発ち今回は“どっこい”の掛け声です
2班が乗り込んだ山車も出発し
神輿を追い掛ける今回は平塚方面へ向かわず
海側へ向かいしばらく直進すると
右折して二宮方面へ
T字路を右折し山側へ進むと
仲よし公園の入り口で右折し平塚方面へ
神輿の後を追う山車神輿は左折して
先ほどの道へ戻ると会館へ向かって練り歩く
広場ではテントを設置会館へ戻って来た神輿は
甚句を入れて揉むと
バックして広場へ入る囃子保存会は慌ただしく
太鼓を運び出す神輿は会館前で輿をおろす
これから何かイベントが始まるようです
町内を巡行する長者町の山車
どうやら黒半纏の2人だけで演奏するようです
力強いブッコミから演奏が始まる
軽快なテンポで観客を魅了します
演奏を終え拍手が沸き起こる5分間のハイレベルな演奏でした
テントでは祭壇の準備10分程の小休止を終え
再び町内渡御が始まる山側へ向かい右折
平塚方面へ進むと道沿いに左折
左折して二宮方面へ
十字路を直進し町内を練り歩く神輿
日枝神社に突き立って左折3班が乗った山車が後を追う
神輿は左折し神戸商会前を通過
長者町の神輿は最後の渡御馬をT字に組んで足場を作る
テントでは祭壇が完成し神事の準備が整う
芯出しのために長友會の会長が馬に上がる
甚句を入れて神輿を揉む担ぎ手
押し寄せる神輿を一旦後退させる
神輿は再び前進し甚句を入れる
社は無くとも一般の宮入りと変わりません
道祖神前まで下がる神輿
神輿は再び前進
甚句を入れて神輿を揉み
到着してから5分程で拍子木を打つ
馬を入れて腰をおろすと
三本締めで町内渡御を終える
担ぎ手は広場で食事を取り1班はお弁当を貰って解散
2班と3班は会館で夕食私も頂きました


囃子演奏・日本端子前(開始17:50)

  宮神輿が東町から長者町へ受け渡されるまでに、長者町囃子保存会は町内渡しの日本端子付近で、囃子の演奏を披露する。宵宮と本宮の巡行では子供たちが中心となって演奏をしているが、宮神輿渡御前の発表では、囃子保存会のメンバーが演奏し、レパートリーである10曲全てを披露する。

17時20分頃に2班を載せた山車が
会館を出発し日本端子へ向けて移動
道祖神前の神輿から馬を抜き
轅を抱えて会館側へ移動
山王町の町内会が高來神社の旗を持って移動
氏子総代も提灯を持って移動宮神輿を待つ東町
宮神輿は遅れているようです触れ太鼓が会館を通過
25分遅れで宮神輿が姿を現す
後方には高來神社の山車会館を通過し
左折して平塚方面へ東町の神輿と山車が後に続く
私は囃子保存会の演奏を聴きに日本端子へ移動
17時50分頃に演奏を始める
トラックに載せて東町を巡行する宮神輿
観客が増えてきました高來神社の山車と
東町の子供神輿と山車が日本端子前を通過
全曲を通しで披露する囃子保存会
正面の沿道にも観客が並ぶ息の合った演奏を
10分程で終えると宮神輿の到着まで
屋台を演奏高來神社氏子11町の中で
囃子保存会があるのは長者町だけになります
練習を月一で行っているせいか全体的にレベルが高いです
囃子保存会の演奏が終わり観客から拍手を頂く
その後も子供たちの演奏が続く神輿の到着を待つ担ぎ手


宮神輿渡御(開始18:40、終了19:40)

  東町では宮神輿は担がずにトラックで巡行し、日本端子前で長者町に引き渡されると、会館までは休憩を取らずに約1時間担いで長者町を渡御する。宮神輿が会館へ到着すると、広場に設置された神酒所で神事が執り行われる。

触れ太鼓の音が聞こえ日本端子前に到着
宮神輿が姿を現すと担ぎ手が立ち上がる
予定時刻より30分遅れで宮神輿が日本端子前に到着
高來神社の山車も到着荷台へ担ぎ手が集まる
山車から東町の子供達を降ろす後方には東町の神輿と山車
山車には東町に代わって長者町の2班が乗り込む
荷台から宮神輿をおろし日本端子の正門へ移動
馬の上に置くと直ぐに長友會会長の一本締めで
肩を入れて宮神輿を担ぎ上げる
神輿のトラックは会館へ移動宮神輿は日本端子をお発ち
これから宮神輿が長者町を練り歩く
行列の先頭は触れ太鼓
続いて高來神社の社名旗氏子総代
蛸江之丞そして宮神輿
高來神社の山車には長者町の2班
最後尾の長者町の山車には3班と保存会が囃子を演奏
後方には東町が続く宮神輿は
会館を目指して二宮方向へ練り歩く
宮神輿に肩を入れると担ぎ手のテンションが
上がるようですほーらきたー♪
日が暮れ始め島田畳店を通過
宮司と氏子総代が会館へ到着宮神輿は会館近くまで来ると
会館へは向かわずに左折して海側へ進む
十字路に来るとバックして脇道へ入り
高來神社の山車と長者町が宮神輿を追い越す
山車が通過すると宮神輿は右折して
来た道を引き返し山側へ練り歩く
2階の囃子に迎えられ宮神輿が会館へ
広場前を甚句を入れて揉み
広場を通り過ぎて十字路で右折
2台の山車も宮神輿の後に続く
宮神輿渡御はまだまだ続きます
神輿と山車は平塚方面へ進み
道沿いに左折十字路を左折し
二宮方面へ山車も後に続く
お馴染みのコースです十字路を直進
神輿模型をライトアップするお宅休憩なしで担ぎ続ける宮神輿
日枝神社に突き当たって左折さらに左折すると
会館まで最後の直線
町内渡御とは異なり正面を会館側へ向け
足場を神酒所前に設置甚句を入れて
神輿を揉みますが直ぐに拍子木を叩き
輿をおろして一本締め
テントで神事が執り行われる神事が終わると
宮神輿では宮入りに向けて脇棒を外して二天棒へ
広場からトラックが移動し神輿の近くに停車
外した脇棒とトンボを荷台へ載せる
二天棒になった宮神輿を担ぎ上げ
トラックの後方へ移動
アオリは下げずにそのまま荷台へのせる
氏子総代は山車へ乗り込み宮神輿が長者町を出発
長友會と囃子方は長者町の山車へ乗り込み
休む間もなく会館を出発国道1号に出て高來神社へ


本社還御(到着20:20)

  宮神輿の町内受け渡しは長者町が最後となり、長者町での神事を終えると直ちに宮神輿をトラックへ乗せて、高來神社の一の鳥居前まで移動し、ここから宮神輿を担いで宮入りとなる。
  長友會と囃子保存会は宮入りに向けて山車へ乗り込んで出発し、囃子保存会は高麗の山車と共に宮神輿を二の鳥居横で出向かえ、長友會は宮入りする宮神輿に肩を入れる。

宮神輿の宮入りに向け国道1号を平塚方面へ
神社入口で降ろしてもらうとちょうど宮神輿が
荷台からおろされ鳥居前をお発ち
一の鳥居を潜り幟の間を通過
二の鳥居横では高麗の山車と
長者町の山車が囃子で宮神輿をお出迎え
宮神輿が二の鳥居を潜り
参道を進んで社殿を目指す
各神輿会の提灯に先導され
宮神輿が坂を上がっていく
石階段の前まで来ると宮神輿は一旦止まり
前棒を抱えて階段を上がっていく
参道を担いで進むと再び目の前に石階段が
前棒を抱えて上がっていくこの先がいよいよ社殿です
石階段を登り切った宮神輿社殿前では馬で足場を組む
神輿は社殿へ向かいいよいよ芯出しが始まります
社殿前で甚句を
交え神輿を揉む担ぎ手
長者町にはお宮がなかったので
今回初めてとなる社殿前での芯出しが新鮮に感じられます
盛り上がりが最高潮に達したところで
拍子木を打ち鳴らし無事に還御
14時間以上に渡る宮神輿の渡御が
総責任者の三本締めで無事に幕を降ろす
境内ではお神酒が配られる
宮司が宮神輿に向かい御霊を取り出す
御霊を取り出すと御霊を持って社殿へ向かう
続いて氏子総代の挨拶連合会長の挨拶
代表者の挨拶が続き
最後に襷の返還が行われる
式典が終わると担ぎ手が宮神輿に集まり
轅を抱えて90度旋回し神輿を横向きに
馬の上におろして飾り付けが外される
長友會はここで社殿を後にし長者町の山車へ
乗り込み高來神社を出発
国道1号を二宮方面へ進み山王町の交差点を左折
9時近くに会館へ到着
明日の行事は片付けと八祓い長者町の皆様お疲れ様でした

  宮神輿が宮付けされると、長友會と囃子保存会は山車へ乗って長者町へ戻り、軽く片づけをして解散となる。全体の後片付けは本宮の翌日に行われ、片付け後は八祓いが行われる。



長者町の歴史

  相州大磯は海岸に迫っており、北下・南下の両町は人口が過密で、特に南下町が大きな問題を抱えていた。海に面した南下町は土地が狭く、高潮の被害も多くあり、ゴミは路に積り、溝には濁り水が溢れていたため、疫病がよく流行していた。その上に火災もよく発生していた。明治23年(1890年)8月には大火災が発生し、大磯町の全町を焼き尽くすまでに至った。これをきっかけとして山王町の東方を区画整理して、南下町の漁民の一部を移住させ、同年11月に「長者町」が新設された。
  記録によると明治の頃の下町通りは浪が堤防を乗り越ると陸揚げしておいた舟は浮き上がり、舟同士がぶつかりあって家を壊すなどの被害があった。狭い横道の家は軒先がくっつき合い、病気などが発生すると直ぐに広がった。漁家は不漁が続くと飢餓となり、鍋釜の類までも質草にして金を借りた。当時の下町気風は「宵越しの金は残さない。その日のうちに使ってしまう。」といった風習があり、貯蓄心は極めて乏しく、少し不漁となると生活は大変なものであった。
  大磯町の大火の発生により、初代町長「中川良知」氏が南下町の一部を別の場所に疎開させることを議会に図り、中郡長であった増田氏に申請した。山王町の日枝神社の東方一町四反歩を中川氏が自費で購入し、区画整理をして東西・南北の道路を広く取った。工事は9月に始まり、11月に竣工した。当地への移住者を募集したところ74世帯の応募があり(のちに8世帯が追加応募した)、明治23年10月頃から移転が始まった。ちなみに当時、北下町にあった高麗寺の末寺である慶長18年(1613年)創建の「慶覚院」も南下町の大火により、檀家が多い高麗地域、村持地蔵堂に移っている。
  現在、大磯町に保管されている記録としては、郷土資料館にある「建物台帳」が最も古いもので、これには82戸の家主の名前が記されている。これによると各戸の宅地はおおむね30坪未満で、建て家は木造板葺本平家一棟とあり、建坪は大別して七坪五合・十坪五合・十四坪の3つに区分することができる。後年、各人に割り振られた地所は大磯町長から売渡証書が交付され、相応な価格を以て売り渡しが行われた。
  この住宅造成地は長者町と名付けられ、この地が有名な長者林に沿っている所から命名された。長者林は松の林であり、長々と現在の東町三丁目辺りまで続いていた。また、長者町は別名「新地」とも呼ばれた。古老の話によれば日枝神社の東側は小川が流れ、荒れ果てた野原であったが、鎌倉時代にはこの長者林の辺りは商店が軒を並べ、遊女も多くいて、鎌倉・腰越からは海岸を経て来て遊んだという。吾妻鑑には「左金吾頼家到大磯ニ到リ止宿セ命シメ給フ。遊君等ヲ召シ歌曲ヲ盡被。」とあり、皰る繁華の地であったことが伺える。
  長者町では中川氏の功績を後世に伝えるために、明治23年12月に大磯移街碑が建てられた。碑面は全面漢文で書かれており、元師陸軍大将山縣有朋の篆額で、三島中州侍講の撰文、巖谷一六の書になっている。当初は弁天池の傍らに建てられていたが、基礎工事が不十分であったために倒壊し、後に町の有志および青年諸子の手により現在の位置に建立された。

大磯移街碑碑文抄約

  長者町はで比較的よく区画整理がなされ、東西に伸びた三筋の主要路が造られた。一番南側の通りを「松下通り」といい、長者林の東端にあった「松下の池」に通じることから名付けられた。中央の通りは「辨天通り」といわれ、東端に通じる辨天池に「虎池辨天(弁天様)」が祀られていたことに由来する。残りの一筋は旧東海道の松並木の影になることから「松陰通り」と呼ばれていたが、後年の国道1号の新設により吸収された。この他には一番北側に「片側通り」と呼び慣らされていた細い道があり、東側の延長は「竹縄地区」に及んでいた。竹縄地区は別の名を「移転地」とも呼ばれ、明治35年(1902年)12月の火災で当時北本町にあった遊郭が小高い丘の一角に移された場所であった。更にこの移転地は「化粧町」とも呼ばれ、郷土屋・柳川棲・小柳棲などの妓棲が建ち並び、夜の燈の下にさんざめきの聞こえる歓楽の港であった。
  次に後発の「池田地区」・「芦添地区」・「竹縄地区」の由来と、「ビツコツ田」について記載する。

●池田地区
  池田地区はかつて花水川の曲流による河跡の池の様で、「池田公園」が僅かにその名をとどめている。古くは広大な池があったようだが、江戸時代から次第に埋め立てられて土地開発が進められてきた。この開発地は「虎池新田」と呼ばれていたようで、大正の頃には2haの広さがあり、その中の島に「池田弁天(虎池弁天)」が祀ってあった。虎池は昭和初期にかけて県の事業として埋め立て工事が進められ、現在の日本端子あたりから海岸まで南に向けてトロッコの路線が引かれ、浜の砂をトロッコに積んで埋め立てが行われた。
  その後、弁天様の小社は2079番地先に遷され、昭和の中期まで「弁天様の池」として長者町の町民に親しまれ、線香の煙が絶えなかった。しかしながら宅地化の波は更に押し寄せ、その後は北本町の「延台寺」の境内に遷されて祀られた。延台寺の古文書によれば延台寺の前身であった「法虎庵」は虎池に創設され、永禄年間(1558〜1570年)に現在の場所へ移転したとある。
●芦添地区
  芦添地区は道路を挟んで東町三丁目に接した地域で、地形からいえば丸山地区の東南周辺の低い地区である。この辺りは芦が繋がっていた湿地帯で水田耕作地域であったが、宅地開発により埋め立てられ、現在は往時の面影は見られない。僅かに残る水田地帯があったが、これも平成2年(1990年)の初頭には埋め立てが進められ、「芦添公園」がその名をとどめている。大磯バイパスに沿った土手には一叢の芦の茂みが残っていて、昔の面影の語り草となっている。
●竹縄地区(丸山地区)
  日本NCR大磯工場(2007年閉鎖)のあった一帯はかつて田甫や畑があり、やや盛り上がった地域で丸山と呼ばれていた。また、松下氏が経営する大正舎なる牛の放牧場があった。丸山は長者林の北東に位置し、口伝によればこの地は鎌倉幕府が栄えたころは大変賑わった地区といわれている。この丸山に隣接して国道1号と大磯バイパスの分岐点辺り一帯を竹縄地区と称し、家の屋敷の周りに竹を多く植えて住居の一集団をなし、往時は共に繁栄を極めた地域でったといわれている。
●ビツコツ田
  長者町には東に辨天さんの池、西にビツコツ田があった。三沢川の護岸工事が完全ではなかった頃は、少し大きな雨が降ると土手が切れて川水が溢れることがしばしばあった。このための遊水地的な役目をしたのがこのビツコツ田で、おおきな沼の様な池であった。南西側には竹藪の一叢があり、海岸に面して小松林が東西にのびていた。鰤敷の魚具などを貯蔵する格納庫が一角にあり、無縁塚が程近く夜ともなると淋しい一帯であった。片瀬〜大磯間の湘南歩道路計画が世上にのぼった昭和6、7年にこの池の埋め立て工事が行われ、ここも次第に宅地化されて人家も建てられるようになった。

  長者町の創設当初は西は山王町の日枝神社を境とし、東は現在の移街碑が建てられている辺りまでであったが、中期の長者町は上記のように次々と宅地造成が進んでいった。長者林に沿った俗称野球道路一帯も徐々に家が立ち並んでいき、平成2年(1990年)には面積約14ha、戸数は470世帯、人口は1550名に達した。



長者町青年団

  昭和初頭の青年団組織は「浜(はま)青年」と「陸(りく)青年」の2つの組織があり、両者が合体して「長者町青年団」と称していた。男子は15歳になると何れかに所属する慣わしになっていた。特に浜青年は団長以下75名くらいで漁業の若い衆を母体とし、財力的にも体力的にも恵まれており、浜青年の協力がなければ年間のあらゆる行事を実行することが出来なかったくらい実力を持っていた。下町は漁業の町として知られるように往時は水揚げも多く、浜青年には年2回か3回の「釣り上げ」といって、漁に出てその日の水揚げ金全部を青年団に寄付する制度があった。一方、陸青年は団長以下25名くらいで、毎月拾銭という当時では高額な金額を青年団に拠出することになっていた。



公民館の変遷

  ここでは長者町共有の土地および会館の変遷について述べる。現存する書類の中では昭和2年(1927年)5月10日の土地登記原本が最も古い記録で、土地の表示はまだ畑地であり、住所は中郡大磯町大磯字山王後一八九五番地ノ二であった。この土地は長者町の東のはずれで移街記念碑に近く、同年12月13日に土地の購入を終えると青年団の手によって「青年会館」が建てられた。
  当時の青年の幹部の話によると、青年が集まって会合する場所がないために会館建設の話を持ち出したところ、町の長老から「若い衆の遊び場」か「博打場」かと罵られ嘲られたが、青年たちはこれに反発して益々団結し、会館建設を目標に一致協力して資金の確保に努めた。当時の団長鈴木甚太郎氏は茅ヶ崎の水沢材木店に勤めていた関係で、材木に関しては専門であり、それに小学校の廃材をもらい受け、団員等の奉仕によって遂に青年会館の建設に漕ぎ着けた。その頃は南下町にも北下町にも会館が無かった時代で、率先して長者町に会館が実現したことは先見の明のある快挙であり、以後、長者町の諸会合は専らこの会館が利用された。
  その後、国道1号の改修工事が施工されると、青年会館の土地建物一切が国に買収されることになり、昭和15年(1940年)12月11日に内務省から当時の青年団長山田初太郎氏宛に「物件移転協議書」が提出され、前金額は五百貮拾七円五銭であった。この補償の金額をもって求めたのが現在の「老人憩いの家」の敷地で、中郡大磯町大磯一九二二番地である。この土地は@一九二二番一一(宅地・46坪)とA一九二二番二二(宅地・42坪)に分割されており、このうち@については時の大磯町長船橋晋吉氏に道路として一部を移譲したため40坪となった。管理者については@尾崎金太郎・平田武夫、A平田武夫・柴崎正男と定めて登記し、土地確保が出来ると直ちに新しい青年会館の建設に移り、昭和16年(1941年)2月14日に建築届書が提出された。
  青年会館という名称は長いこと続き、長者町町民に親しまれてきたが、建物は昭和29年(1954年)4月17日に青年会から町内役員が買い受けた。さらに役員7名の連署にて小田原区裁判所に登記申請し、青年会館は「長者町会館」と名称が変更された。
  木造で建てられた長者町会館は次第に老朽化が進み、昭和51年(1976年)4月に尾崎区長に至りいよいよ新会館建設が急務となった。昭和52年(1977年)5月に班長総会において尾崎区長より会館新築の必要性をはかり、建設準備委員会の設置が承認された。同年8月には長者町所有の公共用地を大磯町に移譲する書面を豊田大磯町長に提出し、10月に竹内議会議長に「老人憩いの家」建設の促進をはかる陳情書を提出した。この陳情書に対して12月21日に議会議長より回答があり、「陳情の趣旨は理解出来るので採択とし、内容等については理事者側とよく検討し早期実現出来るよう努力を願う」との要旨であった。年内には「長者町会館(假称)建設準備委員会規定」を制定し、翌昭和53年(1978年)1月に建設資金の募金活動が開始された。同年8月に旧会館の取り壊しが開始され、10月25日より匠建設株式会社により鉄筋コンクリート造2階建の新築工事が着工された。翌昭和54年(1979年)3月に工事が完了し、30日に大磯町主催による竣工披露式が行われ、続いて4月15日には長者町主催による祝賀式を挙行した。

長者町の拠点 通称“会館”防災備蓄倉庫
建物の正式名称は大磯町立長者町老人憩の家


長者町の守護神

  長者町は新興の町であるため他町のように神社が無く、創町の頃から道祖神を町の鎮めとして町内の一角に社域を設けてきた。初期の道祖神の社域は山王町から長者町に入る坂(桶屋の坂と呼んだ)の下、すなわち現在の消防第二分団の詰所の北側の、国道1号の真ん中のところに鎮座していた。昭和12年(1937年)に日支事変が起こり、召集や入営の兵士が出るたびに、道祖神の社前で町内会長の激励の挨拶を受け、武運長久を祈る旗幟や日の丸の小旗に送られて大磯駅へ向かったものであった。昭和14年(1939年)に建設省の新国道事業計画により移転を余儀なくされ、現在の場所へ移った。長者町の道祖神は「双体道祖神」と呼ばれ、1つの石に2体の像が並んで彫られている。
  また、大磯町はしばしば大火に見舞われてきた史実があり、当時町の長老であった関野松五郎氏や清田重吉氏らが相諮って、火伏せの神様として御嶽神社を道祖神の隣に合わせ祀った。ちなみに、大磯町の火災の記録を拾うと古くは天保7年(1835年)に510戸、近くは明治6年(1873年)に97戸、明治35年(1902年)に640戸が消失した記録が残されている。この他に長者町への移街を余儀なくされた明治23年(1890年)の大火もあり、これらの大火を見て町の指導者たちは御嶽神社を招いたのである。

会館の一角に設けられた社域双体道祖神は第八番所
左が道祖神右が御嶽神社
左の社殿内には賽銭箱と双体道祖神
右の社殿内には賽銭箱と大口真神のお札




平成27年(2015年)7月19日(日) 神輿渡御時間割
町内名/場所受渡場所/行事  (◎神酒所)時刻
高來神社祭事斎行5:30
神社神輿出御6:00
高麗鳥居前6:20
山王町化粧坂7:00
榎木前 ◎8:30
神明町三沢橋8:45
北下町道祖神社9:00
浅間神社 ◎9:45
南下町月貫 (北下番)10:05
熊野神社 ◎10:20
芦川酒店前 木遣奉納10:25
照ヶ崎134号線横断開始10:55
134号線横断終了11:50
大磯港式典会場式典斎行12:00
神社神輿出御13:30
茶屋町馬返し13:50
裡堂杉本前14:10
白山神社 ◎14:30
茶屋町さざれ石福祉会館前 ◎14:50
南本町南本町公民前 ◎15:10
北本町穐葉神社 ◎15:30
神明町神明神社 ◎15:50
山王町三沢橋16:20
日枝神社17:00
東町長者町憩の家17:15
福祉会館 ◎17:45
長者町日本端子前18:10
長者町老人憩の家 ◎19:10
高來神社鳥居前19:30
神社神輿還御19:50

  ※時刻は予定されたもので、状況によって前後する。



              



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