下山下しもやました

若宮八幡神社

  「若宮八幡神社」は下山下の氏神社で、社殿の建立は棟札によると文化2年(1805年)である。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると小名下山下村の鎮守として「若宮八幡宮」の名があり、末社は「山王」であった。
  神社の屋根葺は農閑期に行われ、屋根葺職人は金目吉沢方面から呼んだ。手間と称して6〜7人が手伝った。萱は高根から買ってきたが、繩は1軒で3ボ(1ボは20尋のこと)出したという。屋根が葺きあがってから掛かった費用を各氏子に割り当てたが、氏子を「オヤ」・「チュウ」・「シタ」の3段階に分けてそれぞれの段階に応じて費用を負担させたという。

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若宮八幡神社鳥居
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社号柱
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水鉢
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拝殿覆殿
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住吉神社
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境内


ヨイミヤ

  下山下では祭りの前日に「ヨイミヤマツリ」をした。氏子全員が若宮八幡神社に集まり、氏子総代の音頭で五穀豊穣を祈願してお神酒を一杯飲んでから解散した。また、氏子全員で幟立てをし、幟には「氏子中」と「若者中」という2本があった。
  下山下には「灯明講中」というのがあり、かつての若者連や青年会に入会した者が議員になったという。下山下の土地に生まれた者で15歳になると、灯明講の仲間にならなければならなかった。灯明講中は参道に常夜灯を15本ぐらい立て、社殿の中にはご神灯を2本立てた。ご神灯はかわらけに種油を浸して燈芯に火を点したもので、1本に6灯ついており全部で12灯であった。灯明講の人々は灯明を一晩中点して「オコモリ」をしたという。
  



例大祭

  例祭日は『風土記稿』によると旧暦の4月3日であったが、現在は4月の第1土曜日である。第二次世界大戦後に野菜栽培が盛んとなり、4月には多忙で祭りが出来なかったので9月28日に行ったことがあった。この時は上山下の八幡神社と一緒に祭りを行ったが、台風などによく遭遇したため4月3日に戻した。戦前までは3反ほどの宮田があったといい、宮当番は祭典費として各家から米2升を徴収し、その米を売って祭りの費用に充てた。
  祭りの当日は神主を呼び、祝詞をあげてからお神酒を飲んだ。神主は春日神社平塚八幡宮高麗神社から呼んできた。かつては神主の祝詞が終わると宮当番の引継ぎを行ったといい、式は本殿の中の宮座敷と称される場所で行われた。席順は決まっていないが総代と氏子は東に座り、西には一番上座に神主が座り、その横に新旧の宮当番が座った。神主の祝詞が終わると総代が下番(カバン)の人に「本年の当番、ありがとうございます。」といって、オヤワン(大きな椀)に酒を注いで飲ませる。下番の人は「どうもいたりませんで、ご迷惑をおかけしました。」といって、オヤワンの酒を飲み干してオヤワンを返した。酒を飲み干さないと上番(ジョウバン)にはまわらなかったという。酒は宮当番の代表者がその任に当たったというが、このオヤワンは現在残っていない。
  祭典の後は現在のように神輿や屋台がなかったので、社殿の中で三番叟を踊ったり、太鼓を叩いたという。祭りの翌日は「幟カエシ」といって幟を片付けてから、「カンジョウ」といって会計報告をした。その後は「ハチハライ」と称して酒を一杯飲んだという。

囃子

  神輿や太鼓は昭和50(1975年)頃に作った。



神輿

  


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