御船祭
祭りの概要
「御船祭」は大磯町の氏神である「高来神社」の隔年に行われる大祭で、大磯町の無形民俗文化財に指定されている。この祭りは北下町と南下町が中心になって「権現丸」と「明神丸」という2艘の「祭り舟(マツリブネ)」を出し、この船形の山車が大磯の目抜き通りを曳かれていく行事である。とくに大正初期の頃は鰤(ぶり)が豊漁であったので、この船祭も大変な賑わいであったという。この祭り舟は平成5年(1993年)から曳かなくなり(山車船は資料館に展示されている)、神輿だけになった。
高麗権現の本地は千手観音像であるが、これは照ヶ崎で蛸之丞という漁師が海中から拾ったものだと伝えられ、神社の祭礼は拾った日だという7月18日になった。現在は第3週の土・日曜日に実施されている。かつての御船祭は漁師の義務であり、何処に漁に出ても祭りには帰ってこないと村八分だとか、大磯の敷居は跨げないぞなどと言った。
往古の姿
昭和62年(1987年)の『神奈川県民俗芸能誌増補改訂版』によれば、昔、高麗権現の本地仏千手観世音像が大磯照ヶ崎の漁夫蛸之丞(加藤家)によって海中から取得されたので、高麗寺と大磯漁民が共催でこの祭礼を執行してきたという。この頃の祭式は南下町より「権現丸」、北下町より「観音丸」を仕立て、往昔の天鶏船を模し、舟の帆で作った幟・旗を艤した。祭り舟には船子漁師が大勢乗り込んで囃子を奏し船歌を歌いつつ、大磯浦から花水川をさかのぼって高麗山麓(高来神社)に着き、神輿を迎えて再び船で照ヶ崎の海で浜降りの禊をした。最盛期には200人もの若衆がおり、砂浜の上を勢いよく曳かれるマツリブネは実に勇壮であったという。
古老の伝承では2艘の神船が船飾りをして、高麗権現の神輿を隔年交代で神船に乗せ花水川を下った。供奉船は南下町・北下町で各10艘と観覧船数10隻が相模灘に出て、オオシバナ・雛磯を右手に見て照ヶ崎に着き、神輿の浜降りなどの禊があったといわれる。この様な祭りの形式がいつごろに船型山車による巡行になったかは明らかではないが、ある年の暴風雨によって海上を渡御することができなくなったためとか、地震で花水川の河床が浅くなったなどと伝えられている。神事次第の概要は次のようであった。
祭りに先立ち7月15日に南下町と北下町では神船の組み立て・飾り付けを行い、神船の点検をする。この神船は17日の宵宮に神主が祝詞を上げてから本格的に組み立てられ、町内を往来する。夕方になると子供2人が高来神社の鉾を持ち、付き添いの4人と共に大磯町を回る。その時に「ヤッショコウライ、エイトウサ」という唱え言を発する。これが宵宮である。祭り当日の18日早朝に神輿のミタマ移しがあり、神社五人衆の合図で大太鼓が3回打たれ神輿の渡御が始まる。その行列は先頭の露払いの太鼓4人に続いて、権現丸(船山車)−世話人−五人衆−天狗−蛸之丞−氏子総代−大榊−鉾を持つ子供5人−伶人5人−神主−賽銭箱−神輿(近年は車で運ぶ)−明神丸(舟山車)−供奉者−各町内神輿30基ほどである。沿道の各家では注連縄を張る。行列の途中に一定の場所で行列を止め、木遣りと舟歌を上げる。
東海道などの目抜き通りを渡御するが、一時期交通ラッシュのために中止になり、昭和41年(1966年)の西湘バイパスの完成に伴い復活した。御船は先船が旧国道の井川帽子クリーニング店の前から、後船が高来神社一の鳥居前から引き出していたが、このコースは交通事情により昭和45年(1970年)で廃止され、その後は旧国道(東海道)を引くことはなく町内だけを巡行するようになった。巡行後は、照ヶ崎に浜降りして潔斎した後に帰還する。
この祭りは魚師だけで構成される青年団によって行われていて、当時は遠方に仕事に出ていても祭りの準備には必ず帰った。また、漁民以外の者の参加を認めなかったことや、神霊の乗ったマツリブネを2階から見下ろしてはいけないことなど厳しい戒律もあったようである。
大磯船祭保存会
昭和41年(1966年)にこの船祭を後世に伝えることを目的にして「大磯船祭保存会」が発足し、祭典日などを規約もつくられている。その規約にそって少し概観する。
祭日は昭和41年度から7月の第3日曜日とし、祭礼は例年通りの紀元年数奇数年である。組織は南下町・北下町の世話人および浜青年役員に、大磯に在住する有志から構成される。また、船祭は1年おきとし、高来神社の祭礼と同時に行うこと、祭典の役員は南下町・北下町の世話人および本会の役員と協議の上運営すること、祭場準備および船飾り付けは両町が別に古式通り行うこと、木遣り舟歌は木遣師の指導によることなどを規定してある。
ハマセイネン
漁師の若者たちで「ハマセイネン(浜青年)」と呼ばれる青年団を組織しており、正式には「北浜青年団」などの呼称があった。北浜青年団は明治の終わりから大正の初め頃には結成されていたようで、昭和初期には120名ほどの団員がいた。15歳から加入し、38歳位までの青年・壮年から構成され、役員の構成は団長1名・幹事長2名・十人頭10名・書記1名・大世話人2名などであった。大世話人は青年団を退いた者から選ばれ、御船祭の責任者となった。
青年団としての活動は御船祭の執行の他に救難救助活動があり、特に暴風雨の際には団員総出で捜索や救助を行っていた。明治32年(1899年)の『大磯町北浜青年団規約書』には、組織・役割・違反者への制裁などが記されており、ここで注目される点は青年団の仕事・祭礼への不参加や、喧嘩・口論・賭博に対する制裁が記されていることである。具体的には違約過怠金・酒一升などの徴収、あるいは相応の制裁となっており、こうした形で青年集団の秩序維持がはかられていたことが分かる。
太鼓
祭り舟
船型山車である「祭り舟」は「舟山車」・「山車舟」・「神船」・「御船」などと呼ばれ、北下町と南下町が交代で先(さき)船と後(あと)船をつとめる。「権現丸」と「明神丸」の2艘の形態に多少の違いはあるが、漆塗りの船体に彫刻や水引、襖(ふすま)・幟などで鮮やかに飾られる。
舟山車である神明丸の舟首から屋形にかけて縄を張り、無数の「お猿さん(サルンボ)」を掛ける。これは赤布で作った弾き猿型に子供の姓名・年齢を書いて、三角形の袋物を付ける。これは子々孫々の繁栄と無行息災を祈るものである。
船山車が出なくなった理由としてはいくつか上げられるが、歌い手・踊り手・曳き手がいなくなったことなどで、曳き手は50名ほど必要である。また、祭りが終了すると舟山車から飾り付けを外し、再来年に使うために虫に食われないようにしまうが、この後片付けが出来る人がいなくなってしまった。その結果、魚師だけではこの祭りを維持することは出来なくなった。
神輿
昭和25年(1950年)頃は神輿の浜降りがあり、港が整備される以前は神輿が海に入っていた。
木遣と船歌の奉納
木遣と船歌は漁民たちによって唄われるもので、高麗権現の渡来や千手観音が海中から引き揚げられた由来などを伝える歌である。北下町(北浜)と南下町(南浜)に伝承されている木遣と船歌は、高麗地区にある高来神社の祭礼である御船祭で奉納される。木遣を歌う者は「木遣師」、船歌を歌うものを「歌上げ師」と呼び、木遣師は船型山車の上に上がって歌い、歌上げ師は山車の下で歌う。木遣と船歌は町内に設けられた神酒所と神社で奉納されるが、場所ごとに歌う木遣と船歌が決まっており、その場所ごとにまつわる内容の歌詞になっている。
『郷土誌 北下町』によると昭和55年(1980年)の祭礼において北浜によって奉納された木遣と船歌は次の通りである。
奉納場所 | 木遣 | 船歌 |
引き立て | 年号 | 権現くどき |
熊野神社 | こゆるぎさん | 山谷ぬき |
保存会福田 | 東下り | 山谷ぬき |
浅間神社 | くつがた | 山谷まる |
おおしばな | おおしばな | 山谷ぬき |
二挺玉吉・大世話人 | 船のきやり | 山谷ぬき |
宵宮おさめ | 花見 | 権現くどき |
奉納場所 | 木遣 | 船歌 |
長者町神酒所 | 西国 | 山谷ぬき |
山王町神酒所 | 山王さん | 山谷ぬき |
神明神社 | 綿つみ | 山谷ぬき |
道祖神社 | 今日の北野 | 初春 |
浅間神社 | 東下り | 山谷まる |
北下町神酒所 | 西国 | 初春 |
熊野神社 | 西国 | 初春 |
南下町神酒所 | 船のきやり | 山谷ぬき |
照ヶ崎引き下げ | おおしばな | 山谷ぬき |
式場 | 船祭り | 権現くどき |
愛宕神社 | あたごさん | 山谷まる |
四つ角わかれ | 蝉?丸 | 山谷ぬき |
御供丸 | 船のきやり | 山谷ぬき |
船大工 | 蝉?丸 | 山谷ぬき |
組合長 | 船のきやり | 山谷ぬき |
龍宮様(魚市場) | 東下り | 山谷ぬき |
山下清晴・大世話人 | 東下り(花見) | 山谷ぬき |
葛西さん | 船のきやり | 山谷ぬき |
おさめ | 年号 | 権現くどき |
高来神社(引立て) | 船祭り | 権現くどき |
以上のように木遣が14種類と船歌が3種類奉納され、神酒所と神社以外では世話人など個人の家の前で奉納することもある。また、船歌の中で「まる」・「ぬき」という表示は、同じ歌であっても「ぬき」の場合は一部を省略して歌うことを表していて、実際には「アトサキ」とよばれる初めと終わりの部分だけを歌っている。木遣の1部は2人で歌うが大部分は1人で歌うものであり、舟歌は全員で歌うことになっている。木遣にはこれらの14種類のほかに「道中木遣」や「かけづか」があり、前記の14種類の木遣をとくに「古趾木遣」という。
木遣と木遣師
木遣師は御船の上に乗って歌うが、御船の広さから考えるとだいたい12人位までしか乗ることができない。大正2年(1913年)生まれの話者は19歳のときに木遣師になり、当時は木遣師が20歳前後の者から65歳位までの者まで12・13人位いた。「船祭り」を歌うのは年長者に決まっていたという。木遣師の中のリーダーを「センドウ」といい、センドウが木遣を教えた。当時は希望者がかならず木遣師になれるわけではなく、木遣師の欠員が出たときに青年団の1月の総会の時に声のよい者が指名され、木遣の稽古に加わることになった。このときに、船歌を担当する歌上げ師も一緒に指名された。
とくに祭礼の年は日時を決めてセンドウの家で稽古が行われ、普段でも冬の寒いときには寒稽古といって海岸に出て練習した。潮風が喉によいとか、寒中に声を出すと喉が広がるなどといった。また、夏の間も夜になると海岸へ行って、声がつぶれるくらい大きな声を出す練習をしたという。
センドウから習うときには練習用の扇子を持ち、正座をして習った。口伝で覚えるので、家で覚えた歌詞をノートに書いたりしたという。たいてい「東下り」から習い、次に「船のきやり」・「蝉?丸」・「西国」などの短いものを覚えた。まずセンドウが歌い、センドウに「お前、一つやってみろ」と言われるとセンドウの真似をして歌い、歌い終わると間違っている部分を教えてもらったという。木遣は御船の上で1人で歌うため、祭礼の年はセンドウから「お前は山王さんをやってみろ」というように指名され、指名されたものはその該当する木遣を練習した。木遣が奉納されているときは聴衆は静かに聞くものとされ、近くまできた神輿さえ止められ、咳一つしても「やかましいぞ」と叱られたという。そのような中で1人で歌わなければならず、大変緊張するものであった。
木遣師の服装は麻の単衣で、袖口は赤と青で二重にしたヒロソデ、頭には五尺の黒い木綿布を被った。古くはカタビラに烏帽子を被った。手には扇子を持ち、扇子を開いて拍子を打った。楽器は入らないが、木遣の中で一部2人で歌う箇所があり、そこで太鼓が入る。太鼓は木遣師が叩く。
木遣には「古趾木遣」・「道中木遣」・「かけづか」がある。古趾木遣は奉納する場所にちなんだ内容を持つものであり、道中木遣は御船を移動するときに歌う。よく「短い木遣は長くやれ、古趾木遣(長い木遣)はつめてやれ」といった。これは短い木遣は長く節をひっぱって歌うのがよく、古趾木遣のような長いものは下で聞いている聴衆が分かるように、節をひっぱらないで歌うのがよいということだという。木遣の間に「ヤッ」という合いの手が入るが、これは御船の下にいる世話人や歌上げ師、綱を引いている人たちによるものである。
船歌と歌上げ師
船歌はもともと船の櫓を漕ぐときに唄っていたもので、御船祭ではマツリブネの下で歌上げ師が全員で歌う。歌の稽古は歌上げ師の中の指導者の家に集まり、口移しで習ったという。歌上げ師も木遣師と同様でかつては1月2日の青年団の初集会のときに青年の中から指名された。
この総会では、朝に高来神社のお堂に木遣師と歌上げ師、世話人が集まった。神主の祝詞のあとに木遣と船歌の歌い始めが行われ、先船の町内から歌い、次に後船の町内が続いた。歌い始めでは引き立て合図の歌、「道中木遣」・「かけづが」と続き、次に船歌の権現くどきとなり、「ご祝儀」・「舟祭り」・「あとづけ」・「ご祝儀」・「年号」・「あとづけ」となる。年号の後にはその時に応じた木遣が出て、「蝉?丸」は分かれの歌であるので、蝉丸以外ならどの木遣でもよかったという。このようにしてかつては5曲くらいの歌が続いておひらきになり、このくらい歌うと朝から始めても昼頃までかかり、その後に青年団の初集会に出た。
北浜の歌上げ師である細住幸太郎氏が昭和12年(1937年)に筆記した「船歌本」には、「祝儀」・「権現くどき」・「初春」・「飾揃い」・「美人揃い」・「山谷や(まる)」・「山谷や(ぬき)」の6種類が筆記されている。「船歌本」にある歌のうち、「飾揃い」と「美人揃い」は今では歌われていない。また、「山谷や(まる)」というのは「山谷や」の全曲のことであり、かなり長い歌であるので、現在では「山谷や(ぬき)」といって短いほうを歌うことがほとんどである。
南浜では「皇帝」・「名勝名勝」・「白浪」・「富士の山」・「品川くどき」・「夏くれば」・「西は九州」・「小袖揃い」などがある。
北浜では地域の中学生など若い人への伝承も少しずつ続けられ、大磯中学校3年生の技能教科である音楽で、選択授業の一つとして木遣や船歌の実習がある。平成8年(1996年)度は男女13名が選択して授業が行われ、そこでは北浜の木遣師と歌上げ師が先生となって木遣や船歌の由来を語る。そして実際に歌うという授業が行われ、生徒も「年号」などの短い木遣を習う。
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