西久保にしくぼ

飯綱神社

  西久保地区の氏神は「ユヅナ様」と呼ばれる「飯綱神社」で、祭神は「保食神(うけもちのかみ)」を祀り、境内社は八坂神社がある。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると西ノ久保村の鎮守とし、同村は二宮の川勾神社の氏子として祭事に関係しているが、その理由は不明であると述べている。明治14年(1881年)の『皇國地誌』でも飯綱神社は西之窪村(久保が窪に変更されている)の鎮守とされ、本村は往古黒岩村の内で、何時の頃か分村し一村となり、黒岩の西方の窪地にあったので西久保と称したとある。『国府村地誌』には無各社で祭神不詳とある。
  飯綱大権現棟札には二宮川匂神社とあるように、川匂神社の氏子でもあり、現在も川匂神社の祭事には宮世話人が行く。お宮さんの役は宮世話人といい2年務めて交代するが、昔は同じ家がずっとやっていた。
  震災では社殿が倒潰し、氏子一同が協力して大正13年(1924年)3月15日に改築奉仕竣工した。当時の宮世話人は松本慎三・松本澄・熊沢広吉・社掌二見徳次郎とあった。また、当社の本殿は、中井町五分一に鎮座している飯綱神社の本殿とは向かい合っているといわれている。

鳥居神殿
神輿堂?境内


例大祭

  例祭日は『風土記稿』と『皇國地誌』共に9月24日となっているが、『国府村地誌』には7月15日とある。大正7・8年(1918・19年)頃から4月4日になり、最近は4月4日に近い日曜日になっている。このように祭礼の日が変わった理由は、農作業の関係や台風シーズンで雨や大風が吹くためだという。西久保では氏子総代のことを宮世話人といい、1名を選出して1期を2、3年で交替する。大祭当日は川匂神社の二見神主が来て祝詞をあげるが、神主なしでやったこともあった。最近の祭りは余興もなく、神主が祝詞をあげ、みんなで酒を一杯飲む程度である。
  かつては祭に芝居がかかり、青年が年寄のいうことを聞き芝居を買いにいく。舞台掛けは宵宮(ヨイミヤ)に村中の戸主や青年がでて、丸太・梯子・板・簾(スダレ)・荒縄などを各家から持ち寄ってつくる。まず丸太を組んで2間半から3間の梯子を並べてその上に板を敷き、その板と丸太を荒縄で縛ってからゴザを敷く。部落の人の席は杭を打ち縄を張ってとっておいた。大祭当日に芝居師は13人位きて、芝居が終わると部落の家に何人かに分かれて宿泊した。役者の宿は交替で勤め、夕飯は宮当番が重箱に入れて役者のいる舞台に届けたという。また、親戚からも大勢来るのでご馳走づくりや接待が大変であった。祭りの翌日に芝居師へ勘定を済ませてから舞台を取り壊した。そして戸主や青年がハチハライをした。
  西久保には芝居好きな人がいて役者に明るくいい芝居を呼ぶことができ、地元だけでなくこの近辺からも大勢見にきて賑やかだった。大正12年(1923年)頃に芝居が雨でのびのびになって9日の黒岩のお祭りといっしょになり、黒岩からも西久保の歌舞伎役者がくる芝居を見に来たことがあったという。雨の時は延期だが途中で雨が降ってくると、今はないが松本藤吉さん宅を借りてやり、座敷が10・8・10畳の3間続きで土間も広くゴザを敷いた。余興をやる時とやらない時があったが、やる時は芝居師を小田原市千代や平塚市から呼んだ。平塚の人はハチケン道路のそばに住んでいて錦屋をしている人で、余興か何かで役者をしていた。謝礼は話し合いで、予算がないときは本当は30円くらいでも20年くらいでやってくれたりした。昭和7・8年(1932・33年)頃で謝礼は20円ぐらいであった。演物は相談して決めたが、「先代萩」・「阿波の鳴門」・「弁慶上使の段」などであった。
  昔は石段がなかったので、鳥居の前の道路に饅頭屋・菓子屋など三軒くらい露店も出たが、おもちゃ・農具は売らなかった。昔は幟があったが今はない。

太鼓

  太鼓は4月4日前後の日曜日に行い、その前に練習を4、5日やる。祭りの宵宮にムラを回る。
  昔は太鼓がなかったが、昭和末か平成初年頃に太鼓の道具を寄付してくれた人がいて、若い頃に平塚市吉沢の「山の神」で覚えた人が子供たちに教えている。
  7月15日は夏祭りで「天王様の祭り」といわれているが、最近は祭日が日曜日になっている。小さな神輿が西久保の中を渡御し、太鼓を叩いて歩く。太鼓は1組あり、三人が1組である。



神輿

  西久保の氏子は二宮町の川匂神社(二宮神社)の氏子にもなっているので、川匂神社の祭礼(節分祭)と国府祭には宮世話人が参加する。さらに、秋の浜降り神事にはコシ(神輿)を担ぎに呼ばれていく。その関係で最近は川匂神社の神輿が西久保の中を渡御する。



天王さん

  西久保は黒岩と同じ7月15日で「天王様の祭り」といわれていたが、最近は祭日が日曜日になっている。この日が近づくと子供達はむいからの大束を折り曲げて棒を作り、飾りつけをして簡単な神輿を作り晩がた担いだ。各家を回ってもらった賽銭を皆で分け、花火もあげたりしたので子供達の楽しみの一つであった。
  その後は樽神輿を作って担いだりしたが、昭和28年(1953年)に大工の熊沢正幸さんが作って寄付した神輿を担ぐようになった。飯綱神社の境内にある神輿堂は稲荷小屋のように小さかったので、新しい神輿堂を部落で昭和51年(1976年)4月4日に作った。



天王社

  かつては西久保の字松木田に天王さんの小さな祠があり、『風土記稿』には「天王社・村持」とある。しかし、周りの共有地を処分するときに、祠が腐って倒れかけていたので、神主さんにお祓いをしてもらい壊した。その後、この土地を買った家では不幸が続いたので、部落で買い戻しクヌギを植え2度ばかし切ったが、不動産家を通して再び売り、22軒で分けて県営水道を敷く費用にした。現在はその土地を買って家を建てた人が、過去の話を聞き新しく祠を建てた。
  明治の初めに共有地の畑1町5・6反を売った金と、中井の公所の栗畑の整地作業で得た金で、米3俵分の重さの神輿をつくった。しかし氏子が20軒たらずで若い衆が少なく、神輿が重いので担ぎ手がいなかった。その上、道が悪かったので息杖を使わなければならず、息杖天王さんと呼んでいたが、5・6年程して湯河原の吉浜へ売ってしまった。宝の持ちぐされで売ったのではなく、村の有力者がバクチで負けてその穴埋めのために処分したとか、悪知恵の者4・5人が相談せずに売って山分けしたといわれている。神輿は彫り物が立派で塗りもよく、川匂神社の神輿よりもよかったという。



西久保の歴史

  『神奈川県皇国地誌残稿』の西之窪村の本文中にある里伝によると、本村は昔は黒岩村に属し、黒岩村の西に当たる低凹の地であるところから字を「西ノ窪」と称したが、何時の頃からか分離して一村となった。虫窪・黒岩・西久保の三地区の中では西久保が最も後から開発され、西斜面の水源近くに集落をつくった。
  『風土記稿』によると西ノ久保村は20戸であり、『皇国地誌』にある西之窪村の編纂は明治14年(1881)で、社寺を含まない西之窪の戸数は19、人口は116人(男64人、女52人)であった。明治19年(1886年)の調査による『国府村地誌』によれば、西久保村の戸数は20(内社1)で、人口は119人(男65人、女54人)であった。ここまでは戸数の増減はあまりないことがわかるが、昭和22年(1947年)の臨時国勢調査によると西久保村の戸数は32で、人口は177(男81人、女96人)と、戦後になると著しい増加が見られる。


戻る(中郡の祭礼)