黒岩くろいわ

池之神社

  「池之(いけの)神社」の祭神は「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」である。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』と明治14年(1881年)の『皇國地誌』でみると、黒岩村の鎮守「池之明神社」で、檀那寺は「正泉寺」であった。また、『国府村地誌』によると社格は村社で、「天ノ字須賣ノ命」を祭神としている。御神体は震災で潰れた神社を修理する再に確認したところ、高さ20〜30cmの木像で金箔が塗ってあり、顔は人間で体には蛇が巻き付いていて、裏側に弘安10年(1287年)の銘があったという。守屋松三郎氏宅には弘安10年霜月8日に池之神社が勧請され、650年祭を昭和13年(1938年)霜月8日に執行したと記されてある。
  「皇国地誌」には「社地中菩提珠ノ老一株アリ、囲ミ一尺」とあるが、今も神社の裏には囲み180cmの御神体がある。正月にはオシメと根元に一文字飾りを、祭礼にはオシメを張る。大きな菩提珠でこんもりしていたが、下の家がコサになるので上の方を6・7尺切ってしまった。秋にできる実は葉の上の真中辺りに軸が出て、先が2つに分かれて2つなり、色は最初青で赤に変わり、熱すると黒になる。子供達はトリコッコの木といい、葉を裏返すと鳥のようになるという。その外他に大きい松1本と太い杉が10本あって境内は暗かったが、昭和20年(1945年)代に切って売り拝殿を修理した。
  池之神社には戦時中に供出した梵鐘があり、守屋松三郎氏宅のメモには「池之神社大半鉦ノ年代を記ス、嘉永元年(1848)申ヨリ、昭和17年(1942年)迄94年ナリ 昭和17年12月12日 守屋松太郎 81歳」とある。12月5日に牛車で運んだが、釣鐘の供出だといって牛の角に紅白をつけて部落の人が神社で見送り、役員が村役場まで運んだという。その後は梵鐘はなかったが昭和48年(1973年)にゴルフ場から寄付され、宮総代が守屋弥市郎氏の時に京都の岩沢梵鐘KKで鋳造し、8月9日に梵鐘奉納祭式が行われた。また、境内の手洗鉢の正面には「奉納」、左側に「天保11年(1840年)庚子生霜月吉祥日」、右側に「願主當村守屋久右衛門(守屋紀忠氏の5代前)」とある。
  黒岩・虫窪西久保ではかつて国府村であった頃、現在では新宿馬場中丸の氏神である六所神社が第二次世界大戦前まで鎮守であった。しかし、黒岩では池之神社、虫窪では天神社、西久保では飯綱神社をそれぞれ氏神として祭祀していた。

池之神社鳥居
梵鐘
拝殿覆殿・幣殿
手洗鉢黒岩公民館(旧青年堂)
境内

  池之神社では戦後から2月25日に祈願祭をやるようになり、13時から式典を行う。



例大祭

  例祭日は『風土記稿』によると旧暦の9月8日であったが、『皇國地誌』と『国府村地誌』では10月9日に変わっているので、新暦になって変ったものと思われる。その後農作業が忙しかったので5月9日になったが、疫病が流行したたため4月9日になったという。明治39年(1906年)と大正12年(1923年)の垂れ幕には、それぞれ4月吉日・4月9日とある。現在は4月9日に近い日曜日になっている。
  宵宮(ヨイミヤ)に戸主が幟を立て舞台掛けの準備をするが、幟は長さが二丈八尺、幅二尺五寸という河内木綿の立派なもので、その幟を立てるために鳥居の前に四尺ほどの穴を掘るので大変な作業であった。明治の頃は神社だけではなく、本多山へも立てたという。青年は太鼓のやぐらや舞台の花つくりをやり太鼓を叩く。また、芝居師の家まで道具一式を荷車で取りにいくが、この役目は戸主が交代で勤めた。役者の宿は1軒が1人分の割りで受け持ち、飯番は順番で勤め重箱に入れて役者のもとへ届けた。芝居を開始する前に舞台の正面に米1升、酒1升を供え、塩をまいて舞台を清めてから三番叟を演じる。芝居をやろうとしたらカツラがなかったので、馬ですっとんで取りに行ったこともあったという。芝居は夜中の1時か2時頃までやるが、終わると青年が賛助員(青年を抜けて30歳までの人)の指図で舞台をこわし、布団を持ってきて役者を多少ゆとりのある家へ泊めた。翌日は幟をはずしたり、道具・ふとん・みしろを返したり、後片付けをやるので宵宮から3日間は野良仕事を休んだ。青年は後片付けを終えてからハチハライをして共同飲食をした。
  幟には紺色で「奉納池埜大明神 天保五甲午祀?(1834年)九月吉日 大正5年9月再修 江戸關克明敬書 當村氏子中」と染め抜かれている。大正5年(1916年)に再修した費用は氏子38軒の寄付で賄い、最高5円(守屋松三郎)から40銭(三村歌五郎)で計38円86銭かかり、紺屋は秦野町東道永野卯之助であることが納めておく長持に記されてある。この幟を取りに行くときは、宮世話人がお赤飯をでえけえ一荷担いで持っていったという。
  大正初期には舞台が青年会館と神楽殿を兼用にし、組立式にできていて戸袋を移動すると花道となった。舞台は8畳2間で、裏の15畳の座敷を楽屋として使用した。終戦後の昭和30年頃までは田舎芝居の余興を行っており、公民館があるのでそこを舞台にした。雨が降っても見物人は濡れるが芝居はできた。この頃は菜種梅雨でよく雨が降ったが、芝居の途中で降ってきたときはそのまま続け、朝から雨だと翌4月10日になった。その場合は井ノ口の簑笠神社と重なり、役者が馬で往復し掛け持ちをしたこともあったという。昔は貧乏村でよくそんだけのことをやったという位、芝居は盛大だったといわれている。役者は小田原の千代から馬車で呼んできた。30円くらいで歌舞伎芝居をやった。役者の接待も大変で子役も入れて15・6人だが、15人の役者が来れば15軒で、1軒1人分の割で昼飯番はどこからどこまで、よう飯番はどこからどこまでと順番につくり、重箱へ入れて持っていく。一時女子青年に頼んだこともあった。
  祭礼の日は各家に親戚が正月よりも大勢くるので賑やかであったが、ご馳走を出すのに忙しく、泊まっていく人もいたので布団の用意が大変であった。子供達はお神楽や芝居があるので、お重を持って見る場所を先に取っておいた。また、神社の上と下の道に飯綱神社に来るのと同じと思われるおもちゃなどの露店も2・3軒出ているので楽しみにしていた。

太鼓

  祭りの時の太鼓は青年がやり、太鼓には金が掛かるので、太鼓を買うための資金集めが大変だった。薪山の残りの薪を青年が貰って、それを売って資金にしたこともある。若い衆は太鼓の櫓を組んだりして舞台掛けをし、太鼓を叩いた。
  4月9日に祭礼だった頃は20日位前から練習したが、昔は村に弔いでもなければ青年は一年中太鼓を叩いていた。



神輿

  明治の頃は青年というのがあり、その時には神輿を作ったらしい。この神輿は守屋佐平さん(元町収入役で虫窪に在住していた)の父金蔵さんが、馬場の大工戸塚佐十郎さん(佐一郎祖父)方へ年季奉公に行っているときに、普通の大工だが宮大工もやっていた棟梁の佐十郎さんがつくったもので、明治30年(1897年)代の作であると思われる。
  神輿はケヤキの白木造りで、4尺1寸3分四方、彫刻はホウノ木、担ぎ棒1丈4尺5寸、重さは米4俵分で240kgある。ケヤキは3cmの間に年輪10あれば銘木だといわれてるが、20以上ある銘木を使用してあり、立派な神輿で県下にもあまりないという。魔除けのために1ヶ所間違えた所がないといけないといわれ、この神輿は2ヶ所の間違いがある。1つは正面のカゴの網み方で、カゴの目は右のヘゴが上へのっているのが普通だが、下へもぐっている。もう1つはカゴの鳥が目から出ている所がある。なお、東照宮には逆さ柱が1本あるという。
  大正時代に部落で神輿に色を塗ろうという話が出て値段を聞いたところ、麦が1俵1円50銭の頃に2千円かかるといわれ止めたという。当時は神輿が大きい割りに黒岩部落の担ぎ手は少なく、さらに若い衆が兵隊に取られたりよそへ出て行ったたため、神輿に御霊を入れて担いだのは大正15年(1926年)までであった。その後、昭和5年(1930年)と昭和32・33年(1957・58年)頃に祭礼で神輿を神輿堂から出しておいたのを、青年が担ぎ出したことがあるだけで殆ど担がなかった。しかし、昭和52年(1977年)4月10日に52年振りに担いだ。この日は12時から神主・宮総代・宮世話人・区長が参加して式典を行い、御霊を移して16時頃に担ぎ還御祭が行われた。太鼓は小型トラックの荷台に屋台を載せて叩いた。



天王さん

  黒岩の天王さんは7月15日であったが子供神輿はなく、子供達は天王さんが近づいてくると酒屋から4斗入りの酒樽を借りた。酒樽を反対にして新聞紙で回りを囲い、糸でしばってその上に紙を貼って絵を書き、手傘をかぶしてむいてから4隅をこしらえた。そして、子供達が金を出し合って買った飾りや提灯を付け、担ぎ棒をつけて樽神輿を作った。学校から帰るとカバンをほっぽりだして神輿を担いだ。神輿は上・下の組で2つ作り、晩には池之神社でぶつけっこをしたという。その後は子供の数が増えたので上・中・下の3組で子供達が板をぶつけて作り、色を塗って飾りや大人神輿の小さい鳳凰をつけて担いだりした。
  しかし、子供の数が少なくなったので、昭和46年(1971年)に守屋喜助さんが個人で神輿を作り、寄付したものを部落でかつぐようになった。当日は池之神社へお参りしてから上・中・下と回り、もらったお賽銭を皆で分ける。また、黒岩では農作業が順調に済むと7月9日を休みにして真田の天王さんへお参りに行ったという。



青年団

  青年団の黒岩支部(代表者は支部長)には、高等2年を卒業すると16歳で加入して25歳までで、先輩に青年団の顧問になってもらっていた。東電の集金を請け負ったり、税金の徴収などもして手数料を稼いで資金にした。昭和8,9年(1933,34年)に農村が経済的に疲弊した時に、県から救済事業があった道路工事もしたこともある。また、開墾可能な土地を開いて、「今日は青年の畑でおかぼかりだ」、「麦刈りだ」といって、その金で資金を貯めた。お祭りで儲かったので温泉に行ったなどというのは戦後のことだという。
  祭りの余興も青年が受けて、芝居を買った。どの芝居を買うかを相談して、役者はどこがいいかとか、三味線はどこが上手かなどと情報を集めた。昔は村々が祭りの度に芝居を興行していたので、皆であちこちに見に出かけた。居倍の前日に役者を迎えに行って、役者を泊めるために各家から布団を集めた。芝居が終わると道具を返しに行き、秦野の赤坂や中井町の下井ノ口まで役者の荷物を届けた。
  今の集会所は池之神社の元神楽殿で、明治時代に建てられたものだったが、建て替えて集会所にして「青年堂」と呼び、そこで芝居をした。役者は座長以下20人位は来て、楽屋にも寝泊りしたが家々にも泊めた。芝居は平塚から呼んだことが多く、本宿にあった市川を名乗る「わたや」という一座で、こっちから行って花水橋を渡ったところにあった。戦争前はお祭りの前に座長のうちに頼みに行き、当時は今のように自動車がなかったので荷車を曳いて二ノ宮に出て行った。その頃は何でも二宮に出る道しかなく、東にでる道は荷車が通らなかった。また、生沢に行くにも川伝いに行った。
  青年はいつも青年堂に集まっていた。青年堂と呼ぶのは昔その場にお堂があったかららしく、この近所の家で堂の前と呼ばれる家もある。青年が集まってガタガタしていると、近所の人に怒られるので、「閉めちまえ、閉めちまえ」といって戸を閉めて、中で遊んでいた。鍵はあったが、掛かっていたためしがない。


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