真田
真田神社
真田の鎮守である「真田神社」は「真田の天王さん」の名でよく知られた神社で、集落の東端(小名では宿)に鎮座し、祭神は「建速須佐之男命」である。真田神社は与一堂と共に近郷近在から篤い信仰を受けていた神社であり、祭礼には真田近在の村々だけではなく、横須賀・藤沢・相模原・秦野・二宮・小田原などからも参拝者が多くあった。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「牛頭天王(ごずてんのう)社」が2つあり、1つが鎮守(天徳寺持)で拝殿・神楽殿があり、もう1つは村民持ちであった。また、末社として「山王」・「大日」・「熊野」・「稲荷」・「地神」が、村民持ちの小祠としては「稲荷社」・「御嶽社」・「神明社」・「第六天社」が記されている。鎮守であった牛頭天王社が現在の真田神社に当たり、天正19年(1591年)11月には徳川家康公より一石五斗の神領を寄附されている。村民持ちであった牛頭天王社は久保の上野家1軒で祀り、同家の裏山にあたる天王台に鎮座している。同家は『風土記稿』に「旧家八兵衛」とある家で、上野家で祀る牛頭天王社には明治年間に神明社と第六天社が合祀されている。祭りは真田神社と同じく7月9日で、牛頭天王宮と書かれた幟を2本立て、餅を供えていたという。
かつて真田神社の近くには真田与一の居城があり、牛頭天王社の創建は与一の郎党陶山文三の子孫が京都の八坂社を勧請したといわれる。この陶山家は陶山豊後といって代々牛頭天王社の神主を勤めていた家であったが、現在は比々多神社の永井宮司が真田神社の神主を兼務する。陶山家では「牛頭天王厄病除之札」という神札を配布したという版木が残されており、版木での神札の配布は天保12年(1841年)頃まで行われていたという。また、同家には天保10年(1839年)の神祗宮統領白川伯王殿からの風折烏帽子、浄衣浅黄指貫着用の許可状も残されている。
牛頭天王社は明治初期に「八坂神社」と改称しており、明治3年(1870年)の「相模大住郡真田村明細帳」には「鎮守八坂社 社地四百坪 内上々畑三畝三歩 上畑四畝歩 御年貢地 御朱印地 田一反五畝十歩 高一石五斗、氏神八坂大神祭礼ハ六月七日神楽修業」とあり、明治4年(1871年)の「社寺名書上」には「鎮守八坂大神 相州大住郡真田村 神主復飾願中 天徳寺弟子蝶禅」とある。また、明治4年の年号を持つ上野家文書には別の資料もあり、社殿の様子や社領、神官などについて概ね知ることができる。明治6年(1873年)に村社と定められ、明治9年(1876年)8月に真田神社と改称し現在に至っている。社殿の建立は棟札によると寛延2年(1749年)で、「武野城下中野喜右門門弟秋山三四郎」(「生産八王子来矢名邑主文左ェ門之気」)の手によるもので、当地の大工とは別系統の流派によることに起因するものと思われる。
真田神社 | 社号柱 |
鳥居 | 神楽殿 |
手水舎 | 社務所 |
拝殿 | 幣殿・覆殿 |
神輿殿 | 神社由緒 |
神社の祭礼で必ず使用されていた大幟は旗を支える木製支柱の老朽化に伴い、平成3年(1991年)を最後に神社の奥で眠っていた。さらに境内を囲う玉垣も老朽化が進んだため、氏子で協議した結果、境内の整備が行われることになった。平成23年(2011年)7月に境内整備実行委員会を立ち上げ、参道整備や玉垣新設のための寄付を募り、同年10月から工事が着工された。工事は真田・北金目地区の区画整理事業に伴うもので、擁壁積石工事および玉垣設置工事のほか、太鼓橋、幟枠(幟竿)、社名由来碑、手水舎、参道なども新設された。さらに社殿内の床板の張替えや格子戸、祭具庫なども新調された。翌平成24年(2012年)5月13日には真田神社玉垣工事竣工式が行われ、午前9時から恒例の月次祭が執り行われた後、10時から役員・総代・関係者などが参列し、境内に設けられた斎場において竣工式が斎行された。当日は20年ぶりに幟が掲げられ、旗の長さは17mで、幟竿は地上から19mとなった。
境内整備を終えた真田神社 | 新設された石段と玉垣 |
幟竿 | 修復された燈籠 |
手水舎 | 社名由来碑 |
上組と谷津組の道祖神 | 古札納め所 |
参道 | 太鼓橋 |
犬走りも新設 | 拝殿へ上がる階段 |
保全樹木(市指定)の大けやき | 本殿周りの玉垣 |
宵宮(午前)
●準備(8:00〜)
宵宮では朝8時に大祭の準備が開始され、神社総代や交友会、そして育成会などが協力して作業を進めていく。社殿では式典の準備、神楽殿では余興の準備、境内では電飾燈籠や竿立て、そして太鼓用の山車の組み付けなどが行われる。また、神輿渡御の行在所となる自治会館では、御仮屋のテントが設営される。
朝8時頃から準備開始 | 神楽殿から木材を出し |
鳥居付近へ運んでいく | 北東側では境内に穴を掘る |
社殿では正面から | 引き戸を外し |
続いて側面の引き戸も | 全て外していく |
神楽殿から | 太鼓山車の材料を運び出し |
トラックの周辺へ | 置いていく |
電飾看板は水葺きし | 鳥居付近にも穴を掘る |
社殿側の参道では | 念入りに掃き掃除 |
社殿内では整理整頓 | 境内では山車の木材を積む |
神楽殿の裏から | 木の旗竿を取り出し |
鳥居を通過して | 反対側まで来ると |
太い方を奥側にして | 旋回 |
参道と平行にして | 地面へ下ろす |
山車の組み付けが始まる | 鳥居付近では穴掘りが続く |
社殿の北側では掃き掃除 | 社殿では掃除機をかける |
神楽殿から運び出したのは | 屋根になる板 |
鳥居前では木材を組んで | 枠を作り |
屋根を受ける桁(母屋)を渡し | 両端に破風板を取り付ける |
棟木と桁に板をネジ止めし | 屋根を作っていく |
拝殿では垂紙を取り付け | 境内では掃除が続く |
日の丸の旗を | 神楽殿から運んだ竿に付け |
先端には植物の葉を | 旗の真下にはロープを結ぶ |
枠が完成し | 枠の横に電飾看板を置く |
屋根部に手を掛け | 持ち上げると |
鳥居側に寄せるが | 柱が穴に入らず |
鳥居に沿ってさらに枠を上げ | 柱を穴へ入れる |
穴を支点にして枠を起こし | 垂直に立てると |
両側の穴を | 土で埋めていく |
新調した幟竿の周りには | 縄を張る |
一方、日の丸を付けた竿には | 根元に押さえの柱を2本添え |
彫刻の施された木を | 横に1本通す |
鳥居前では電飾看板に | ワイヤーを掛けて引き上げ |
左右の高さを揃えながら | 看板を押し上げ |
門灯篭の完成 | 最後にワイヤーを固定する |
次は人手の必要な竿立て作業 | 竿を両側から抱え上げ |
3本のロープで引きながら | 竿を起こしていく |
東側の1本は | 道路を挟んだ電柱へ |
1本は北側の電柱へ | 1本は南側、手水舎横の玉垣へ |
3本のロープで調整しながら | ゆっくりと竿を起こしていく |
国旗下に結ばれたの3本のロープ | 竿が垂直になると |
倒れを微調整し | 穴に土を入れる |
途中で土を押し固めながら | 穴を埋めていく |
北側の電柱 | 東側の電柱 |
南側の玉垣にロープを固定し | 竿立てが完了 |
境内では注連縄張りの真最中 | 神楽殿 |
社務所 | 社殿と、縄に垂紙を挟んでいく |
続いて幟を広げると | 金属の棒に上辺の乳を通し |
新調した竿で幟立てが行われる | 金属の棒にロープを繋げ |
ロープで幟を引き上げると | 長辺の乳と竿を樹脂製のリングで |
固定しながら引き上げていく | その間に神楽殿では清掃 |
山車の組み付けと | 効率よく準備が進められていく |
この日は雨雲が広がる中 | 徐々に幟が上げられ |
南側の幟揚げが終了 | 最後に両脇のフックに |
ロープを結び付けて固定 | 一方、山車では軒桁を渡すと |
小屋束ごと棟木を載せ | もう一方の軒桁を渡す |
北側の竿では垂紙を取り付け | こちらも幟揚げが始まる |
幟の揚がった南側の竿では | 彫刻の飾りを取り付ける |
神楽殿の床は水を直接掛け | 汚れを洗い流す |
幟とロープを金具で固定し | 幟を引き上げていく |
北側の幟が揚がる中、南側では | 獅子の彫刻が付けられる |
山車では破風板が付けられ | 提灯用の横棒が渡される |
鳥居にも垂紙が付けられ | 拝殿前の柱に竹と榊が飾られる |
竹と榊は鳥居にも飾られ | 縄で固定していく |
山車では骨組みが終わると | 今度は屋根を取り付ける |
切妻の片面サイズのポリカ波板を | 棟木と軒桁に渡していく |
竿ではロープを巻き付け | 幟揚げが無事に終了 |
こちらは交友会の花場の準備 | のし紙用の両面テープを貼る |
山車にものし用の板をはめ | 組み付けはほぼ完成 |
幟竿には北側にも | 彫刻の飾りをはめ込む |
山車正面では横架材を渡し | 締め太鼓用の枠を取り付ける |
社務所前では竹で作った | 神輿用の神籬を設置 |
社殿では神事に向けて準備 | 社殿前では竹の長さを切り揃え |
神楽殿前にも同様に杭を打って | 神事用の神籬を設置する |
山車では3面に提灯を付け | 運転席側には花を垂らす |
一方、彫刻飾りが竿に嵌らず | 鑿で凸部を削り |
角を面取りして | 再度、竿にはめ込んでいく |
山車では太鼓枠を紐で吊るし | 上部に雨よけの庇を取り付ける |
庇を支える角材をネジ止めし | ビニールシートを角材で挟んで固定 |
彫刻が嵌らず今度は鋸で | 凸部を詰めて鑿で仕上げ |
三度目の正直で無事に嵌る | 下にも獅子の彫刻を置く |
拝殿入口には垂れ幕を掛け | 横にも紅白幕を掛ける |
神楽殿前に立てた竹に | 注連縄を張る |
幟竿の彫刻には | 雨よけの屋根をつける |
神楽殿横では掲示板の準備 | 社殿では椅子を並べる |
準備が一段楽した境内では | 参道を中心に掃き掃除 |
●神輿準備(10:00〜)
10時頃には境内での準備が一段落つき、眞田交友会は裏の神輿殿から子供神輿2基と大人神輿1基を出し、神輿渡御に向けて飾り付けなどの準備を進める。
飾り付け前の真田神社神輿 | 子供用の小・中神輿 |
神輿殿の前に軽トラが到着 | 荷台からテーブルを下ろし |
コンテナに立て掛けると | いよいよ神輿の準備が始まる |
最初に小神輿を | 神輿殿から運び出し |
続いて中神輿を | 運び出す |
馬も運んで拝殿の南側に | 2基の神輿をおろす |
続いて大人神輿を | 奥の部屋から台車ごと引き出し |
本殿の裏を通って | 右折すると |
拝殿の北側に止める | 馬を犬走りの上に置き |
神輿に肩を入れると | そのまま横に移動し |
馬の上に神輿を下ろす | こちらは神輿の台車 |
拝殿に上がって晒を伸ばし | よって縄状にしていく |
境内にはお神酒と饅頭の準備 | 縄作りは3人掛かり |
社殿の反対側では小神輿と | 中神輿の飾り付け |
こちらは真田神社の提灯 | 箱台輪下にはバッテリーを付ける |
神楽殿の横の掲示板は | 合板が全て貼られて完成 |
神輿では屋根にあがって | 鳳凰に晒を巻いていく |
境内では総代代表の挨拶があり | お神酒と饅頭を頂く |
私も饅頭を頂きました | 神輿では晒を鳳凰の足から |
四隅の蕨手まで渡し | 輿棒までの捩りに巻き付ける |
胴の四隅には | 真田神社の提灯を掛ける |
拝殿で縄状にした晒しは | 胴の周りを |
一周させ | 四隅に鈴を結びつける |
鈴を付け終わると | 垂紙を縄に挟んで固定 |
次ぎに榊を選んで | ハサミで長さを調節し |
鳥居柱に麻紐で結びつけ | 垂紙を取り付ける |
鳳凰の嘴にも垂紙を取り付ける | 子供神輿の飾りつけは完了 |
神楽殿では紅白幕を張り | 舞台の準備が進む |
電飾看板には新品の蛍光灯 | 神輿の屋根を椿油で拭き |
イレギュラーですが・・・ | 鉢巻を締めて飾り付けが完成 |
12時頃になると準備は完了し、各団体は食事のために一度解散する。
宵宮(午後)
●子供神輿宮出し(出発14:30)
午後には小神輿と中神輿による神輿渡御が行われるため、担ぎ手である子供達は14時までに境内に集合する。14時20分になるとお宮の太鼓が叩かれ、2基の子供神輿をお祓いしたのち、一本締めて真田神社をお発ちする。
真田自治会館前に設置された | 新しい御仮屋 |
小・中神輿は境内に | 大人神輿は社務所前に移動 |
太鼓をのせた山車 | 夕方は神楽殿で記念式典 |
比々多神社の神職らが | 式典の準備を進める |
境内に集った子供達が | 社殿を離れ |
山車へ乗り込み | 太鼓を叩く |
式典のため | 山車を降りると |
小・中神輿の周りに集合し | 育成会の説明を受ける |
式典の時刻に近づくと | 子供達は社殿前に移動し |
整列すると | 14時20分に太鼓が叩かれる |
神職と共に | 子供達も一拝し |
拝殿から降りると | 小・中神輿をお祓い |
続いて子供達もお祓い | 最後に二拝二拍手 |
一拝して | 子供達は小・中神輿へ移動する |
準備が整うと | 一本締めて |
小神輿 | 中神輿の順で担ぎ上げる |
小神輿が先に参道へ出ると | 右に旋回して |
拝殿前の階段に乗り上げて | 小神輿を揉む |
宮出しの間に打たれる太鼓 | 暫く揉むと社殿を離れる |
宮出しに合わせて囃子が始まる | 小神輿は反転して参道を通り |
鳥居へ向うと | 待機していた中神輿が |
大人神輿さながらに | 神輿を乗り上げ |
しばらく揉むと | 反転して鳥居へ向う |
小神輿に続いて | 中神輿が鳥居と |
門灯篭を潜り | 真田神社を出発 |
道沿いに左カーブし | 境内の北側を進むと |
太鼓の山車に先導され | 子供神輿の渡御が始まる |
お宮を出発した2基の子供神輿は太鼓の山車に先導され、真田地区を約2時間半かけて渡御していく。このあとは神輿渡御(宵宮)を参照。
●動座祭(19:00〜19:20)
19時からは動座祭が執り行われるが、社務所を出発した式典の参列者は社殿裏を回り、境内を玉垣沿いに歩いて正面の鳥居から境内に入り、社殿へ上がってから式典が始まる。式典が終わる頃には神輿の担ぎ手である友好団体は、宮出しに向けて境内の正面付近に移動する。
式典参加者は社務所を出発し | 社殿裏から境内の外を周ると |
正面から境内へ入り | 鳥居を潜る |
参道を通って直進し | 社殿へ上がっていく |
提灯に明かりが灯される神輿 | 出席者は着席し |
太鼓の合図で | 動座祭が始まる |
神職が境内へ降り | 真田神社神輿へ向うと |
神輿の正面でお祓い | このあとも神事は続く |
境内の外には友好団体が待機 | 子供神輿の担手も境内に集合 |
動座祭も終わりに近づき | 眞田交友会が社殿前に整列 |
玉串奉奠で二拝二拍手一拝 | 式典が終了 |
●宮出し(出発19:30)
式典が終わると宮出しとなるが、真田神社では一般の神社では見られない、非常に珍しい宮出しを目にすることができる。社務所前に置かれた神輿では非常に早いテンポで環が叩かれると、境内の外で待機していた担ぎ手達が参道を全速力で走り抜け、神輿の前の輿棒から次々と肩を入れていく。輿棒が全て埋まると神輿が担ぎ上げられ、環が通常の「どっこい」のテンポに変ると、真田特有の「よいやーさー」の掛け声で神輿を担いでいく。
ここから神輿への御霊遷しが行われるが、ここでも真田神社特有の御霊遷しとなる。通常は式典の途中で馬に置かれた神輿に神主が御霊を入れるが、真田神社では神輿を担いだまま社殿前にギリギリまで寄せ、唐戸の鍵を開けて御霊が入れられる。通常は絹垣(きぬがき)と呼ばれる白い布で神輿を覆って御霊が遷されるが、真田神社では白い布製の管蓋(かんがい?)で宮司と御霊を覆い、御霊を見せないように神輿へ遷していく。
動座祭が終わると | 神輿の環を速いテンポで叩き |
「よいやさー」の掛け声と共に | 眞田交友会を先頭に |
担ぎ手が参道を走り抜け | 次々に輿棒へ肩を入れると |
拍子木の合図で | 神輿が担ぎ上げられる |
環のテンポが通常に戻り | 参道へ移動した神輿は |
その場で | 180度旋回し |
正面を社殿へ向けると | そのまま前進 |
奥から白い布の管蓋が現れ | 神輿はギリギリまで社殿へ寄る |
宮司が「オー」という警蹕を発し | 御霊を神輿へ遷していく |
管蓋内で御霊遷しが終わると | 唐戸に鍵を掛ける |
御霊の入った神輿は社殿を | 離れてゆっくり後退すると |
参道上で | 180度旋回し |
正面を鳥居側へ向けると | 参道を進んでいく |
神楽殿前を通過し | 鳥居を潜ると |
神輿を下げて電飾燈籠を潜り | 真田神社をお発ち |
神輿は左折して道路脇へ寄る | 一方、中・小の子供神輿も |
お宮を出発し | 馬におろされた大人神輿を |
追い越して練り歩く | 大人神輿では一本締めて |
ここからは「どっこい」の掛け声で | 神輿が担がれる |
一行は境内の北側を通り | 西へ向って練り歩く |
御霊が神輿へ遷されると唐戸の鍵が閉められ、神輿は再び威勢よく担がれて宮立ちしていく。真田神社神輿が宮出しされると一度台車へおろされ、小・中の子供神輿2基が続けて宮出しされると、子供神輿は真田神社神輿を抜いて渡御していく。
ここから真田神社神輿は一本締めで渡御となるが、掛け声は「どっこい」となって最初の休憩場所となる御仮屋を目指す。
真田の歴史
真田の名は大根川の沖積作用による沃田地帯の美称であるといわれ、旧真田村は村高836石余りと大住郡にいおては大村の部に属し、耕地に関しては田が畑の約2倍に達する大住郡有数の穀倉地帯にある村落であった。真田村の検地については慶長8年(1603年)に行われたことが写しから確認されるが、北金目村・広川村などの近隣諸村の多くが経験する寛文期(1661〜1672年)の検地は行われた形跡が見られないことから、真田村が寛文期以前の検地によってすでに近世村落として充分に領主側に把握されていたものと考えられる。
真田村は天正18年(1590年)に徳川家康が関東へ入部して以降、天領(江戸幕府の直轄領)の村であったが、隣村北金目村など他の平塚市域の村々の多くがそうであったように、幕府の対旗本政策である「地方直し」の対象村落となった。寛永4年(1627年)以降、寛政5年(1793年)に至る166年間に前後11回に渡り繁雑な知行割替が行われ、延べ7人の旗本が領主として登場し、この過程を経て寛政5年以降幕末に至るまで5氏の旗本地行所と天領とで構成される「六給」の「相給村落」として固定されることとなる。
天保6年(1835年)の真田村「地誌御調書上帳控」によれば、真田村には「久保」・「原」・「宿」・「谷戸」・「寺尾」・「横町」の6つの小名(こな)があったことが分かる。この小名全てが集落を含むものかどうかは分かっていないが、天保元年(1681年)頃の古地図からみると、久保・原・宿の3つの小名には集落が存在していた様である。近年の真田地区にあてはめると真田神社の裏手にあたる「宿(上・中・下)」、天徳寺の東側丘陵の「寺尾」、天徳寺の西側に対面する久保谷戸と呼ばれる谷戸沿いに展開する「久保(窪)」、この谷戸の南奥から台地に至る「原」、久保の今一つ西側で現在は谷津と称される「谷戸」となる。残った横町がどこにあたるかのかは不明だが、近隣組が三つに分かれる宿のいずれかに相当するのではないかと思われる。
近年の真田は東部の「坂上」と西部の「坂下」に二分され、坂上を真田東部自治会、坂下を真田西部自治会と呼ぶ。さらに坂上が宿の上・中・下と寺尾、坂下が久保、原、谷津の近隣組に別れる。真田の古くからの集落は北金目台地の西北に開けているが、景観的には大根川へ開く谷津沿いの坂下(久保・原・谷津)と、東側に真田村の田地の主要部分を望む台地上の坂上(宿・寺尾)に大別できる。台地上の集落である坂上(東部)には真田神社と天徳寺があり、谷津沿いの集落は2つの谷筋に開け、一方を「久保通り」、もう一方を「谷津(ヤト)通り」と呼んで、両社を合わせて坂下(西部)といっている。坂下の台地上は近年住宅地造成が進み、小田急線の東海大学前駅(旧大根駅)に近い西部の大地は既に新築住宅が建ち並んでいる。新たな家は集落のなかった坂下の台地上、台地と大根川の間の低地に密集しており、古くからの集落の中には学生寮などが多く見られる。
戸数の変遷を簡単に取り上げると、天明7年(1788年)の「惣村高帳」によれば総百姓数は1ヵ寺を含む34戸であり、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「民戸三十三」とある。明治3年(1870年)の「相模国大住郡真田村明細帳」には農家38戸・寺2戸(合計40戸・267人)とあり、江戸時代後期以降、戸数はほぼ安定した状態にあったといえる。伝承による真田の戸数の変遷は、始まりは6戸で次ぎは14戸になり、その後35戸になったといわれている。ちなみに昭和50年(1975年)の国勢調査によれば1094世帯(2338人)で、急激な増加は昭和38年(1963年)に北金目に東海大学が建設されてから始まり、秦野市と境を接する真田の西部は宅造によって増えた家がほとんどである。
ムラの組織(役員)
ムラの役員に関しては、自治会長・土木委員(生産組合長)・組長・連絡員(生産班長)・宮世話人などがある。このうち自治会長と土木委員は東部自治会(坂上)と西部自治会(坂下)に各1人ずつおり、組長は自治会下の各組に1人、連絡員は東部生産組合と西部生産組合下の組(自治会の組とほぼ同じ)に1人ずついる。自治会という組織になったのは昭和50年(1975年)頃からで、それ以前は部落長といい、坂上と坂下に各1人ずつあった。さらに部落長以前は常設委員といい、常設委員と組長の間にジュウニン頭という役があったといわれている。部落長の任期は2年で土木委員の任期は2年(以前は4年)となっている。ムラ運営のあり方は坂上と坂下の部落長が協議して真田が一つとなっていたにしても、形式上は二分して運営されていたといえる。
先にあげた役員のうち真田神社の社務・運営にあたる宮世話人は真田全体から選出されており、かつてはムラ中が寄って7人の宮世話人を選挙で決めていた。このうち3人と真田神社宮司(三之宮比々多神社の永井宮司が兼務)が責任役員となり、神社庁に届けて宗教法人上の責任者となっている。近年では宮世話人は各組から出すようになり、自治会になってからは10人となっている。宮世話人は氏子総代ともいわれ、任期は2年で、祭りの準備は10の組を東西に分けて1年交代で務める。祭礼は7月9日に大祭、4月9日に小祭が行われ、毎月の9日には宮世話人・組長・自治会長が寄って、神主に祝詞をあげてもらっていた。小祭の時はかつて青年会が代神楽をしたり演芸をしていたりしたが、近年はお神酒が出るくらいとなった。正月にはムラ全員が集って祈年祭をし、三ノ宮・真田神社・皇太神宮のお札を配っている。
坂上(東部)・・・寺尾組・宮上組・宮下組・下組・中組
坂下(西部)・・・久保第1組・久保第2組、原第1組・原第2組・谷津組
青年会と青年団
青年会と青年団はともに青年達の集団であるが、青年会は40歳くらいまで入っており、青年団は25歳までであった。真田を含めこの周辺の村々では、青年会と青年団の2つの集団が1つのムラの中にあるのが一般的であった。この場合、青年会は祭りなどを通じてムラ運営に関与するのに対し、青年団は運動会や弁論大会などムラ運営に関与せず、ムラを超えて村・郡で組織された修養適集団となっていた。
青年会は高等科を終えると家にいる男子は皆入り、学校を終える人のところへ役員が入会するか聞いて回った。4月10日が春の花見でこの時が青年会の総会となり、新たに入会する人は酒を一升買って入会した。旧公民館はもと青年会館といい、総会は青年会館や役員の家で行った。入会したての青年はコワカイシュ(小若い衆)とか部屋住みの青年といい、次の人が入るまで下働きや使い歩きをした。青年会は秋に月見をしたり、真田神社の祭りに神輿を担いだり、余興の世話もしていた。さらに与一堂の本祭では義太夫をしたり、4月9日の真田神社の小祭に代神楽や演芸をした。青年会は金目川で砂利振りをして資金を稼いだりしもし、40歳で抜けるときも酒を一升出した。また、会員が嫁を迎えるときには、青年会の役員が提灯を持って村境まで嫁を出迎えに行き、婿の家から青年会へ酒が一升出たので、青年会堂に運んで飲み食いした。。
青年会は真田というムラで完結した集団であるのに対し、青年団は郡・村で系統だった組織であった。中郡青年団が西・南・北に分かれ、西に秦野と大根・土屋・金目の青年団が入っていた。真田は大根村青年団真田支部となり、これはすなわち官製青年団で、高等科を卒業後に入団し、25歳まで入っていた。青年団では運動競技などをしたという。
真田囃子
真田の囃子は平塚市域で多く聞かれる囃子と同系統で、締太鼓(ツケ)2個と大太鼓(大バチ)1個で構成される。曲目にはかつて「バカッパヤシ」・「宮昇殿」・「地昇殿」・「鎌倉」などがあったようだが、現在は「真田囃子」と「ミヤシロデン(宮代殿)」の2曲で、大祭の時にミヤシロデンが演奏されることはあまりない。また、昔は太鼓の山車が2台くらい出ていたようだが、ケガ人が出たために止めてしまった。その後は境内に櫓を建てて神楽や芝居の合間に太鼓を叩いていたが、近年になりトラックに櫓を載せるタイプの山車を製作した。
太鼓の練習は6月から始まり、土日を使って自治会館で計8回ほど行われる。6時から7時半が子供の練習で、7時半から9時過ぎまでが大人の練習となっている。子供は小学4、5年生がツケ(締太鼓)を練習し、6年生になると大バチ(大太鼓)を練習する。トラックの山車は宵宮の子供神輿の渡御に同行し、大祭当日は大人神輿の渡御が行われる前に単独で真田地区を巡回するが、これ以外は神社の境内に山車をとめて子供達によって太鼓が叩かれる。
かつては青年会と青年団とは別に太鼓を叩く「テイコレン(太鼓連)」が組織され、テイコレンには高等科を終えた男子が入り、結婚すると抜けた。現在は太鼓連が組織されておらず、囃子(太鼓)の運営は神輿と同様に眞田交友会が中心となって行われ、真田神社の例大祭を盛り上げている。
山車(正面) | 山車(側面) |
山車の上から | 大祭での子供達の演奏 |
真田 囃子 |
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神輿
真田神社の神輿は明治24年(1891年)の製作と伝えられ、眞田交友会の40周年記念となる平成24年(2012年)では神輿造営120年としている。以前所有していた神輿は厚木市の戸田へ明治期に譲渡されており、今なお現存しているようである。神輿はもとは素木であったようで、大正11年(1922年)に修理をした際に塗装を施したといわれ、社務所内には大正12年(1923年)7月8日に撮影された神輿の写真が残されている。その後は昭和50年(1975年)に東京の浅草で450万円をかけて修営されているが、この時はお宮の木を伐ったことで修理費用を集めることができた。真田神社神輿はかつて青年会で担がれていたが、青年会が解散してから神輿を担げなくなったので、現在の交友会が組織されたという。
真田神社にはこの他にも子供用の中神輿と小神輿があり、2基とも昭和49年(1974年)に購入した。この時は1軒につき5千円程度集めて200万円になり、中神輿が150万円で造れたので、残りのお金で小神輿を購入した。
かつて真田では神輿を担ぐ際の掛け声は「ヨイヤサー、コラサー」で、さらにそれ以前は「コリャ、コリャ」の掛け声で揉みに揉んだといわれていた。神輿の担ぎ方は今よりも荒っぽく、金具を打つリズムは同じだが、神輿の上下動はしなかった。平塚市域の神輿の担ぎ方は近年になり「どっこい」が主流となっており、真田でも昭和55年(1980年)頃からどっこいに変っているが、真田神社ではこのどっこいの担ぎ方に、それまで伝わっていた「ヨイヤサー」の掛け声を合わせた担ぎ方をしている。大人神輿の渡御は眞田交友会以外の友好団体も応援に来るため、「ヨイヤーサー」の掛け声は宮出しと宮付け(宮入り)の時だけであるが、中・小2基の子供神輿は終始この「ヨイヤーサー」の掛け声で渡御が行われる。この掛け声の由来は分かっていないが、平安時代末期の武士であった真田与一にちなんで、「よいちさん、さー」から派生したという説もある。
真田神社神輿 | 台車 |
大正12年7月8日の写真 | 当時の真田神社神輿 |
中神輿 | 小神輿 |
真田神社では一般的な神社とは異なる宮出しと宮付けの風景が見られ、神輿の行在所である御仮屋の存在も合わせて、非常に特徴のある神輿渡御となっている。宵宮の夜に神輿が宮立ちとなるが、この時の御霊遷しは担ぎ手に担がれたまま静止せずに、神輿が上下に揺れる状態で御霊が神輿へ遷座される。宮立ちした神輿は御仮屋へ着輿され、ここで一晩安置される。大祭当日に神輿は神社へ帰輿し、旧来の宮入りは石段より神輿を差し上げて早足で練りこんでいたが、現在は担いだまま参道を練り歩き、宮立ちと同様に神輿から神社へ御霊が遷される。
昭和34年(1959年)頃までの御仮屋の位置は現在の自治会館(以前の公会堂)前ではなく、真田110の古屋寿家の所にあって「オカリヤ場」といった。当時は御仮屋が真田神社の方向を向いており、神社前の道から御仮屋が正面に見えたが、この場所に御仮屋が立つようになったのは真田与一(与一堂)のためであるといわれる。
2008(H24)年の公会堂と御仮屋 | 神輿は南向きに置かれた |
新設された真田自治会館 | 新設された神輿殿 |
真田神社神輿の柱間は二尺。露盤の形式は不明だが、四面を龍の彫物が取り囲むのが珍しい。軒付けは三重、扇垂木二軒で、組物は禅宗様尾垂木二本を持つ三手先。尾垂木先端は龍、拳鼻は鳥である。いずれも異様に大きい。木鼻は獅子である。長押は二重で、欄間には丸彫りに近いような鶴仙人、亀仙人などを施す。土台と地長押の間はいずれも波に山羊のような動物の彫物である。戸脇は龍で桟唐戸の格間にも動物と花の浮彫をはめる。屋根・柱・長押は蝋色塗で、柱・長押には螺細を施す。垂木・軒裏・鳥居・囲垣・長押下端は朱塗とする。組物・彫物は金箔押である。垂木先・長押・柱・幣軸などの餝金具を打つ。彫物が多彩で大振りなのがこの神輿の特色である。 ※神輿の仕様は平塚市文化財調査報告書第34集から抜粋
●真田甚句
セェー 真田名代は
清き流れの大根川 烏鳴く丘四十塚
とどう坂やら地蔵坂 誰がつくやら寺の鐘
爺さん婆さん孫連れて 真田神社のお祭りに
土産は紅の鬼灯(ほおずき)よ
空にのびゆく大けやき
ホオズキ市
かつて真田神社の例大祭では、神社のまわりに「ホオズキ(ホウズキ)市」といわれるぐらいホオズキを売る店が立ち、これは神楽をたのむ愛甲の人達がつくったもので、神楽師が昼間ここでホオズキを売ったりしていた。ホオズキが売られるのは真田与一が持病に喘息を持ち、そのためにホオズキの根を煎じて飲んでいた事に由来すると言われている。
現在はホオズキ市を目にすることはできないが、鉢植えのホオズキが社殿で売られており、往時の真田与一に対する信仰の深さを垣間見ることができる。
社殿前では | お守りとお札 |
そして鉢植えのホオズキを販売 | ホオズキ市の由来 |
大祭(午前)
●準備
大祭の準備は前日にほとんど終わっているため、朝は眞田交友会が山車パレードの準備のために8時頃に自治会館へ集合し、役員らは8時30分頃に社務所へ集合して前日から泊まっていた宮番と交代する。また、参道の両脇と社殿の北側には露店商が出店を設置し、午後からの営業に向けて準備を進めていく。
神社では社務所から太鼓を出し | 山車へ載せる |
山車は自治会館へ移動 | 御仮屋で一晩安置された神輿 |
供物は着御祭のまま | 自治会館では太鼓を締め |
山車へ運ぶと | 締太鼓用の枠へ入れ |
上下に棒を差し込んで | 締太鼓を枠へ固定する |
隣に大太鼓を固定すると | 叩き手が山車へ上がり |
太鼓を叩く | 軽トラックでは受付の準備 |
山車では大太鼓の角度がきつく | 面を少し起こして |
再度固定し | 子供を混ぜて太鼓を叩く |
太鼓の準備が整ったので | 眞田交友会は山車へ上がり |
太鼓を叩いたまま | 自治会館を出発 |
東へ向って進むと | 右手にはお宮が |
境内には入らず | カーブを曲がり |
境内の正面へ山車をとめる | 空にそびえる大幟 |
境内には露店商のトラックが入り | 屋台を組み立てていく |
社殿では巫女が記念撮影 | 社殿横でも屋台の準備 |
社殿内では拭き掃除と | 式典の椅子の準備 |
交友会は境内の花場と | 山車にのし紙を貼っていく |
山車と受付の軽トラックはお宮を | 出発して真田地区をパレード |
屋台の準備が進む境内 | 比々多神社の宮司が到着し |
社殿へ向うと二拝 | 二拍手 |
一拝で参拝し | 式典の準備に取り掛かる |
神楽殿前の神籬でも | 式典に向けて準備を進める |
太鼓の音が聞こえると | パレード中の山車が現れ |
今度は西へ向う | 社殿では供物の準備 |
木箱を社殿から出す | 社務所に設けられた受付 |
屋台の準備も大詰め | 社殿横には射的の屋台 |
露天商の車がもう一台入り | 焼き鳥の屋台を設置 |
●式典(開始10:00)
9時45分頃になると式典の参列者が社務所前に集り始め、桶に入った水で身を清めると、隊列を組んで10時に社務所前を出発する。社務所を出発した一行は宵宮の動座祭と同様に境内を出て正面の鳥居から境内へ入るが、これも真田神社例大祭の特徴の一つといえる。一般的な神社では参列者は直接社殿へ上がって式典が執り行われるが、真田神社のように社務所から社殿裏を通って境内の外に出て、境内の正面から鳥居を潜って社殿へ向う動作は珍しい。
鳥居から境内へ入った行列は直接社殿へ向うのではなく、神楽殿前に設置された神籬の前に一度整列し、修祓の神事を済ませてから社殿へ上がる。式典前に参列者が水で手を洗って身を清めるのは多く見られるが、社殿に上がる前に特別に設置された神籬前で修祓する例も珍しい。
社務所前に参列者が集り | 宮司から桶の水で手を洗う |
宮司には傘が差される | 参列者は順番に手を洗う |
木箱が担がれ | 宮司の後ろへ付くと |
参列者がそのあとに並び | 行列は社務所を出発 |
社殿の裏を回り | 境内を出ると |
右折して | 玉垣沿いに右カーブ |
正面の石段を上り | 鳥居を潜ると |
社殿へ向わずに | 神楽殿前に整列 |
神籬の前で | 修祓が行われる |
最初に木箱をお祓い | 続いて宮司をお祓い |
巫女をお祓いして | 参列者をお祓い |
榊の葉に水を付け | 頭に振りかざす |
榊を台の上に置くと | 神楽殿を離れ |
参橋を渡り | 社務所前を通過 |
先頭から順番に | 社殿へ上がると |
履き物を揃え | 式典が始まる |
最初に一拝して | 開扉 |
続いて献饌 | 供物を祭壇へ運んでいく |
祝詞を奏上し | 氏子総代の祭文奏上 |
玉串奉奠が終わると | 太鼓が叩かれ |
式典は終了 | 参列者は境内へ降り |
社務所へ上がり | 直会が開かれる |
神籬前で修祓を済ませた一行は10時10分頃に社殿へ上がり、10時40分頃に式典が終了すると社務所へ移動して直会が催される。このあとは神輿渡御(大祭)の山車太鼓パレード(午前)へ。
大祭(午後)
●御仮屋式典(開始16:00)
午後は御仮屋で式典があるため、15時40分頃から社務所前に参列者が集り始め、15時55分頃に一行は社務所を出発する。社殿の裏を回って境内を出発した一行は、宵宮から神輿が安置されている御仮屋へ歩いて移動し、16時から御仮屋にて式典が開始される。
三ノ宮の宮司が到着し | 宮総代らと挨拶 |
店番をしていた巫女達が | 社殿を降りる |
境内には参拝客や | 神輿の友好団体の姿が |
桶で手を洗って身を清めると | 一行は社務所を出発 |
社殿の裏を通り | 境内を出ると |
今回は左折して | 御仮屋へ向う |
神輿が安置されている | 御仮屋に着くと |
裏では友好団体が集合し | 眞田交友会が渡御の説明 |
御仮屋では式典が始まる | 交友会の説明が終わると |
お神酒を配り乾杯の挨拶は | しないでお神酒を空けていく |
式典では神輿をお祓い | 続いて供物 |
宮司と巫女 | そして禰宜 |
最後に参列者をお祓い | 修祓が終わると |
続いて献饌 | 神輿に供物を供えていく |
次ぎに宮司による祝詞奏上 | そのまま玉串を奉奠し |
続いて各団体の玉串奉奠 | 最後に撤饌で供物を下げ |
式典を終えると | 御仮屋出しの準備に取り掛かる |
●御仮屋出し(出発16:30)
式典は16時17分頃に終了し、御仮屋から小神輿と中神輿を移動させると、眞田交友会会長の一本締めで神輿が御仮屋から出される。
式典が終わると小神輿と | 中神輿を御仮屋から移動し |
自治会館の玄関付近におろす | 眞田交友会は神輿へ移動 |
友好団体も移動し | 自治会館の正面へ集る |
眞田交友会の会長が | 轅に上がって一本締め |
担ぎ手は神輿を抱え | 段差のある道路へおろすと |
肩を入れて | 90度右へ旋回 |
西へ向くと | 「どっこい」の掛け声で |
御仮屋をお発ち | 台車も一緒に出発する |
安全のため | 神輿の横にはロープを張る |
大通りを渡り | 真田地区を渡御していく |
神輿は御仮屋を16時30分頃に出発し、真田地区を渡御していく。このあとは神輿渡御(大祭)の@相原建設へ。
●子供神輿宮付け(到着19:00)
18時頃に御仮屋をお発ちした小神輿と中神輿は大通りを横断した後に引き返し、御仮屋前を通過して休憩場所となる柳川牛乳へ向う。18時40分頃に柳川牛乳へ到着した子供達は15分ほど休憩を取り、18時55分頃に柳川牛乳を出発して宮入りを目指す。
引き返して来た | 小神輿と |
中神輿は | 自治会館前を通過 |
東へ進むと | 右手には真田神社 |
境内に沿って | 右へカーブするが |
境内には入らず | そのまま直進 |
境内に止められた山車では | 太鼓が叩かれる |
南へ進む子供神輿は | 柳川牛乳へ到着 |
敷地内へ入り | 神輿をおろすと |
お茶をもらって休憩 | 15分ほど休憩すると |
一本締めで | 神輿を担ぎ上げ |
今度は中神輿が先に出発し | 小神輿が後に続いて右折 |
お宮へ向った中神輿は | 左折して正面の石段を上がり |
電飾灯篭と | 鳥居を潜る |
続いて小神輿も石段を登り | 鳥居を潜って宮入り |
社殿内では太鼓が叩かれる | 中神輿が社務所前まで来ると |
そのまま社殿へ迫り | 元気よく神輿を揉む |
中神輿はその場で左へ旋回し | 社務所側へ移動すると |
後方で待機していた小神輿が | 社殿前で威勢よく神輿を揉む |
中神輿が社殿の横へ移動 | 小神輿は社殿を離れる |
中神輿を犬走りの上に下ろす | 小神輿は大人へ手渡され |
社殿横へ向うと | 犬走りの上に下ろされる |
神輿を担ぎ終わった子供達は | 山車に上がって太鼓を叩く |
子供に人気の社殿横の射的 | 社務所の正面にある焼き鳥 |
参道側の出店も賑わいを見せる | 私はこれから御仮屋へ移動 |
子供神輿が宮付けする19時頃には、御仮屋で休憩を取っていた担ぎ手たちが、大人神輿を担いで御仮屋を出発する。このあとは神輿渡御(大祭)のB柳川牛乳を参照。
●宮付け(到着20:30)
最後の休憩場所であるB柳川牛乳を出発し、境内の正面で神輿を台車へおろした担ぎ手は、直ぐに一本締めて神輿を担ぎ上げるといよいよ宮入りとなる。それまで「どっこい」の掛け声で担いでいたが、宮出しと同様に真田特有の「よいやーさー」の掛け声で宮入りしていく。
神輿が社殿前まで来ると宵宮と同様に神輿を社殿一杯まで寄せ、前の輿棒を抱えた状態で神輿が担がれたまま唐戸の戸が開けられると、管蓋を宮司ごと覆って御霊が神輿から遷し出される。
一旦神輿を台車にのせるが | 直ぐに一本締めて |
神輿を再び担ぎ上げると | 「よいやーさー」の掛け声で前進 |
お宮の正面で右へ折れ | 電飾灯籠を潜るため |
神輿を下げて石段を上がる | 宮入りを待つ参拝客 |
神輿を抱えたまま鳥居も潜ると | 再び威勢よく神輿を担ぎ上げる |
神楽殿からは甲冑隊も声援 | 参道を練り歩く真田神社神輿 |
会長は社殿の前で神輿を待つ | 参橋を渡る神輿 |
前棒は全て交友会の会員 | 環も交友会が担当 |
神輿はそのまま前進を続け | 前の輿棒を突っ込むと |
前棒を抱えた状態で | 唐戸の鍵を開けていく |
担ぎ手と参拝客で埋まる境内 | 三ノ宮の宮司が神輿へ向かい |
管蓋を被せて御霊を抜く | 珍しい担いだ状態での御霊遷し |
管蓋ごと御霊を社殿へ戻すと | 唐戸の鍵を閉める |
前棒を抱える眞田交友会 | 御霊遷し完了の合図を出すと |
前の輿棒に肩を入れ | 神輿を後ろへ下げる |
参橋手前まで下がった神輿は | 勢いを付けて |
社殿へ | 押し寄せる |
迫り来る神輿を | 押し返すが |
神輿は再び社殿へ向っていく | 担ぎ手の勢いは止まりません |
神輿の押し合いを | 繰り返し |
会長の拍子木の合図で | 無事に宮付け |
三本締めで二日間に渡る | 神輿渡御を締め括る |
山車の上では | 太鼓が叩かれる |
宮付け |
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御霊が神輿から出されると唐戸の鍵を締め、社殿前で神輿を揉むと会長の拍子木の合図で神輿が宮付けされる。
●式典・直会
神輿が無事に宮付けされると社殿内では式典が執り行われる。一方、神輿渡御を終えた友好団体は裏の神輿殿へ移動し、眞田交友会の接待を受けて食事を取る。眞田交友会は社殿前に整列し、食事を終えた友好団体を一団体ずつ一本締めて見送っていく。
式典が20時50分頃に終わると、参列者達は社務所へ移動して直会が開かれる。友好団体の見送りを終えた眞田交友会も神輿殿へ移動し、交友会としての直会が催される。
社殿では式典が始まる | 神輿周辺では記念撮影が |
裏の神輿殿では | 友好団体が直会 |
交友会は接待で大忙し | こちらは南側の神輿殿 |
直会中も | 式典が続く |
帰路に就き始める参拝客 | 直会を終えた友好団体は |
眞田交友会の見送りを受け | 一本締めで帰路に就く |
見送りの途中で | 社殿では式典を終える |
境内では露天商が | 店じまい |
21時も近くなり | 最後の団体を見送る交友会 |
社務所では式典出席者が直会 | 眞田交友会は神輿殿へ移動し |
会長の挨拶で | 直会が始まる |
直会が終わり後片付け | 2日間ありがとうございました |
祭典は22時頃に全てが終了し、社務所と神輿殿では直会の後片付けが行われる。祭典全体の後片付けは翌日の月曜日の午前8時頃から行われるが、眞田交友会は夜が明けるか明けないかの時間帯に片付けを開始するため、一部のメンバーはお宮に泊まっていく。
真田神社の祭祀
真田神社の例祭日は『風土記稿』によると旧暦の6月7日で、明治3年(1870年)や明治4年(1871年)の資料にも祭日が6月7日とあり、神楽をしたことが記されている。その後は7月9日になったが、いつ頃から7月9日に祭礼を行うようになったかは不明である。平成10年(1998年)から祭日は7月9日付近の日曜日に変更になり、現在は7月の第2日曜日になっている。
旧高座郡や中郡一帯の村では真田神社の祭礼までに田植えを済ませるというのが大きな目標で、7月9日の祭礼までに田植えが終わればいいといわれるほど、かつてはこの地域で最大級の祭りだったようである。人々には「真田の天王さん」の名で親しまれ、田植え終了後の祭りとして東は藤沢から、西は秦野や中井からも参拝者が絶えなかったという。明治14年(1881年)と昭和27年(1952年)の玉垣の寄進者名を見ると、いかに広い範囲から信仰を集めていたかが分かり、信仰園の広さでは平塚市域では最大の神社であったといえる。しかし、同時期に開催される七夕祭りの盛行などにより、現在では往時の賑わいはなくなったといわざるを得ない。
7月9日に祭礼が行われていた頃の段取りを記すと次のようになる。
7月上旬のノアガリ・・・祭典のための寄合い(役員)、後に当番寄合い
7月 5日・・・餅つき、ゴック(御供)とオスワリをつくる
7月 6日・・・御供切り(餅を切る)
7月 7日・・・買物
7月 8日・・・全員で掃除・幟立て、神楽殿の設営、オカリヤ(行在所・お旅所)の設営、榊・鯉をとりにいく。宵宮で鯉を供えて式典がある。ミヤダチをして、神輿の巡行、オカリヤに安置
7月 9日・・・神楽(近年は素人演芸)、ホウズキ・農具市がたつ、札売り
7月10日・・・全員で片付け
このような手順で祭礼が行われていたが、祭礼の準備や諸役は坂上と坂下が年番となって行うのが原則となっている。ちなみに昭和54年(1979年)は坂下(西部自治会)が当番であった。上記の手順を日を追って順に説明していく。
真田では神社の祭礼があるため、他よりも田植えを早く終わらせなければならず、田植え終了後には「ノアガリ(野上がり)」といって休日が出た。ノアガリになると村中が骨休みとなり、7月9日の祭礼を老若男女が楽しみにしていた。この休日を利用して宮世話人等が集って祭礼の寄合いをし、寄合いが済むと年番に当たっている組(坂上か坂下)が当番寄合いといって集り、諸役を決める。年番は餅つきや榊・鯉の用意、飲み食いの段取りをするのが主な仕事である。年番の者は7月5日の朝に1俵の糯米を研ぎ、晩に餅を搗いてのばしておく。また、神社に供えるオスワリをつくる。7月6日には前日の餅を四角に切り、神社に供えるゴック(御供)をつくる。7月7日には祭礼に必要な品物を買い揃える。7月8日の祭礼前日には氏子全員で掃除や幟立て(竿の長さは12間)、神楽殿の設営などを行う。オカリヤは公民館の前に設置されるが、これは坂上(上組)が作ることに決まっている。坂下(西部自治会)は坂下の谷津に国旗を立てる。一通り準備が済むと当番の人が榊を取りに行き、川へ生きた鯉を捕りに行く。
宵宮になると三ノ宮の宮司が5人の神職と雅楽奏者3人(太鼓・笙・箏)を伴って来ると、当番の組が宿を世話してこの日は真田へ泊まる。以前は神主の宿はお宮に近い宮世話人が受けたともいう。宵宮には神社のオミタマを神輿へ移し、ミヤダチといってオカリヤ(行在所)まで渡御をする。以前は行在所を古屋寿家の前に作ったが、近年は公民館の前に作っている。ミヤダチした神輿はムラ中を渡御し、行在所に安置されるが黒羽織を着た宮世話人が2人両側に座っていた。宮番は当番に当たっている者が行い、行在所には2・3人が泊まり、残りの者が神社に泊り込む。なお、行在所の神輿は翌9日の午後まで安置しておく。
祭礼当日になると真田神社から与一堂までの道に露店がいっぱい立ち並び、小屋物が3つくらいかかったこともある。鍬・鎌・桶などを売る農具市も立ち、鍛冶屋は伊勢原、桶屋は秦野から来たという。昭和30年(1955年)代以降に農具が機械化されてからは、平塚の農機具屋が近くの農家の庭をかりて実演をしていた。通りには見世物小屋が掛けられ「見ていらっしゃい、聞いていらっしゃい、かわいそうなのはこの子でございます。花ちゃんやー」の客寄せの声に答えて、小屋の中から「あいーあい」と声が聞こえてくる、何とも哀れであった。また、お化け屋敷やサーカスも来ていたという。麦藁帽子に白絣(しろがすり)姿の人で押すな押すなの賑わいで、平塚駅から臨時バスが出たり、秦野街道は歩いて来る人で蟻の行列のようであった。
天王様に参った人は必ず与一堂にもお参りするものだといわれ、参拝者は天王様に参ったあとに行在所の神輿に参り、天徳寺境内にある与一堂にも参拝した。真田神社は疫病よけの神として信じられ、疫病防除夏病み退散の神札を出し、与一堂では痰咳快癒の祈祷とその護符を頒つのが例となっていた。また、祭りの帰途に伊勢原市坪ノ内の痢病尊へ参る人も多かったという。
午前中には神社で式典があり、午後には行在所でオタチの式典がある。神輿が神社へ帰るのは夜になり、これをミヤヅキといって、神輿からオミタマを神社へもどし、神官による式典が行われる。近年は素人演芸にかわっているが、以前は夜に神楽殿で神楽が行われ、愛甲(厚木市)の神楽師を頼んで神楽をあげていた。初めに三番叟をし、次に面神楽(神代神楽)、このあと筋物をした。この日は神楽師が真田へ泊まり、この宿も当番の組がおこなう。
祭りの翌日の10日には氏子全員が出て祭りの後片付けをし、社務所の前で一晩安置(宮番は交友会)された神輿を掃除してから神輿殿へ安置し、幟なども片付ける。午後になると当番だけでハチハライをし、収支決算をしてから酒を一杯飲んで解散する。
オノボリ交換
真田神社の祭礼の日には「オノボリ交換」といって、参拝者が手拭ほどの大きさの幟を作って持参し、古い幟と交換して家に持ち帰るという習慣があった。持ち帰った古い幟を一年間屋内にかけておくと、夏ヤミや疫病を防ぐことができると信じられていた。翌年の祭礼には借りていた幟に新しく作成した幟と若干の奉納金をつけて真田神社へ返還し、御供と祈祷札と共に再び古い幟を持ち帰った。オノボリ交換は近隣の人がすることは少なく、高座郡や相模原の人が多かったという。
博物館所蔵のオノボリ | 手拭ほどの大きさの幟 |
平塚市博物館には真田神社に保管されていたオノボリ30枚のうち27枚が寄贈されており、白い布に「奉納真田神社・年月日・地名・氏名」などが墨書されている。いくつかの幟には四隅に画鋲であけた穴があり、この幟を壁などに掛けていたことが伺える。30枚の幟の奉納年代は昭和一桁代が最も多く、最も古いのは昭和5年(1930年)に愛川町半原から奉納されている。最新の幟は平成元年(1989年)で、この頃がオノボリ交換の最後であったという。博物館にはこの他にもかつて使われていた明治28年(1895年)の大幟1対と、中ぐらいの大きさの幟も保管されている。
大幟(左)と中幟(右) | 広げた状態の大幟 |
真田神社の信仰圏
7月9日に行われる真田神社の祭礼には近郷近在の農村の人々だけでなく、相模湾沿岸の漁村の人々も多く来るなど、真田神社は相模川下流域西岸では最も大きな信仰圏を持っていた神社であるといえる。参拝者の範囲を具体的に示す資料はないが、田植えは真田の天王様までに済ますと言っている地区や、真田神社の玉垣の寄進者によって概ねその範囲を知ることができる。玉垣の1本1本に刻まれた寄進者を表にすると以下の様になるが、玉垣の寄進は金銭的なもので実際の参拝者の範囲はこれより広かったと推測される。藤沢付近の寄進者は少ないが、藤沢では真田の天皇様までに田植えをするという所が多く、実際は多くの人が参拝に来ていたと考えられる。
旧郡 (現市町) | 村名 | 数 | 旧郡 (現市町) | 村名 | 数 |
大住郡 (平塚市) | 北金目村 | 12 | 大住郡 (秦野市) | 落幡村 | 6 |
南金目村 | 11 | 北矢名村 | 2 | ||
広川村 | 3 | 上曽屋村 | 1 | ||
片岡村 | 3 | 南矢名村 | 3 | ||
土屋村 | 4 | 蓑毛村 | 1 | ||
上吉沢村 | 5 | 堀斉藤村 | 2 | ||
下吉沢村 | 3 | 下大槻村 | 1 | ||
大畑村 | 3 | 横野村 | 1 | ||
西海地村 | 2 | 東田原村 | 1 | ||
矢崎村 | 2 | 曽屋村 | 1 | ||
入山瀬村 | 1 | 大住郡 (厚木市) | 小稲葉村 | 1 | |
下島村 | 1 | 大住郡(?) | 真登比村 | 2 | |
城所村 | 1 | 淘綾郡 (平塚市) | 出縄村 | 1 | |
小鍋島村 | 1 | 山下村 | 1 | ||
公所村 | 1 | 淘綾郡 (大磯町) | 西小磯村 | 1 | |
根坂間村 | 4 | 虫久保村 | 1 | ||
真土村 | 1 | 黒岩村 | 1 | ||
中原村 | 2 | 中丸村 | 1 | ||
四之宮村 | 1 | 淘綾郡 (二宮町) | 山西村 | 1 | |
豊田村 | 1 | 足柄上郡 (中井町) | 鴨沢村 | 1 | |
平塚宿 | 1 | 比奈窪村 | 1 | ||
馬入村 | 2 | 足柄上郡 (秦野市) | 菖蒲村 | 1 | |
須賀村 | 2 | 足柄下郡 (小田原市) | 前川村 | 3 | |
大住郡 (伊勢原市) | 田中村 | 1 | 飯泉村 | 1 | |
坪之内村 | 1 | 羽根尾村 | 1 | ||
大山町 | 2 | 小田原宿 | 1 | ||
下谷村 | 1 | 小田原緑町 | 1 | ||
下平間村 | 1 | 小田原十字町 | 1 | ||
高森村 | 1 | 足柄下郡(?) | 下原村 | 1 | |
善波村 | 1 | 愛甲郡 (厚木市) | 厚木町 | 1 | |
伊勢原村 | 2 | 七沢村 | 2 | ||
東富岡村 | 1 | 東京 (東京都) | 浅草旅籠町 | 2 | |
上粕屋村 | 1 | 神田鍛冶町 | 1 | ||
西富岡村 | 2 | 大住郡 (平塚市) | 当村 | 1 | |
笠窪村 | 2 | 当村 宿 | 39 | ||
東大竹村 | 1 | 当村 寺尾 | 7 | ||
上平間村 | 1 | 当村 谷津 | 7 | ||
三之宮村 | 1 | 当村 久保 | 8 | ||
計72町村(205人) | 当村 原 | 6 | |||
当村 周旋人 | 2 |
旧町村名 (現市町) | 字名 | 数 | 旧町村名 (現市町区) | 字名 | 数 |
金目村 (以降 平塚市) | 北金目 | 14 | 南秦野町 | ? | 1 |
北久保 | 1 | 北秦野村 | 菩提 | 1 | |
南金目 | 7 | 西秦野村 | 堀西 | 1 | |
広川 | 1 | 東秦野村 | 蓑毛 | 1 | |
片岡 | 3 | 大根村 | 落幡 | 16 | |
土沢村 | 寺分 | 1 | 下大槻 | 1 | |
上吉沢 | 2 | 北矢名 | 7 | ||
中吉沢 | 2 | 南矢名 | 5 | ||
岡崎村 | 丸島 | 2 | 宿矢名 | 2 | |
城島村 | 城所 | 1 | 厚木町(厚木市) | 旭町 | 1 |
小鍋島 | 2 | 玉川村(厚木市) | 七沢 | 1 | |
旭村 | 徳延 | 2 | 二宮町(〃) | 元町 | 1 |
根坂間 | 2 | 一色 | 1 | ||
万田 | 1 | 大磯町(〃) | 西久保 | 1 | |
大野町 | 八幡 | 1 | 前羽村(小田原市) | 前川 | 1 |
南原 | 1 | 下中村(小田原市) | ? | 1 | |
真土 | 1 | 茅ヶ崎市(〃) | 新町 | 1 | |
豊田村 | 小峯 | 1 | 中島 | 1 | |
本郷 | 1 | 藤沢市(以降〃) | 片瀬川袋 | 1 | |
金田村 | 長持 | 1 | 藤沢 | 1 | |
平塚市 | ? | 2 | 渋谷町 | 高倉 | 1 |
平塚 | 4 | 横須賀市(〃) | 深田台 | 1 | |
新宿 | 5 | 横浜市(〃) | ? | 1 | |
須賀 | 1 | 鶴見 | 1 | ||
比々多村 (以降 伊勢 原市) | 三ノ宮 | 3 | 和田町 | 1 | |
串橋 | 3 | 中区 | 2 | ||
善波 | 1 | 西区 | 1 | ||
坪ノ内 | 1 | 熱海市(〃) | 東田原町 | 1 | |
笠窪 | 1 | 掛川町(掛川市) | ? | 1 | |
神戸 | 1 | 富士町(富士市) | ? | 1 | |
高部屋村 | 七五三引 | 1 | 東京都(〃豊島区) | 豊島町 | 1 |
西富岡 | 2 | 東京都(〃中央区) | 日本橋 | 1 | |
成瀬村 | 見附島 | 1 | 茅場町 | ||
前高森 | 1 | 目黒区(東京都〃) | 中目黒 | 1 | |
大山町 | 子易 | 1 | 大田区(東京都〃) | 調布嶺町 | 1 |
伊勢原町 | 東大竹 | 3 | 上池上町 | 1 | |
板戸 | 1 | 荒川区(東京都〃) | 町屋 | 1 | |
田中 | 1 | 足立区(東京都〃) | 下谷田町 | 1 | |
伊勢原 | 1 | 小金井町(東京都 小金井市) | ? | 1 | |
? | 2 | 東京都(〃) | ? | 1 | |
秦野町 (以降 秦野市) | ? | 5 | 川口市(埼玉県〃) | 飯塚町 | 1 |
曽屋 | 1 | 四日市市 (三重県〃) | ? | 1 | |
片町 | 3 | 当村(平塚市) | 天徳寺 | 3 | |
東道 | 1 | 氏子 | 114 | ||
計86市町村(278人) |
境内の明神鳥居の柱の裏には「文久癸亥年(1863年)6月 石工 大阪(大坂)炭屋町 見かげや新三郎」と刻まれ、傍らの添碑の文面から次のことが判る。この鳥居は瀬戸内海沿岸の花崗岩で、大阪石工の見かげや新三郎が製作し、大阪より船によって三浦半島の浦賀に運び、さらに船便で平塚の須賀湊に運んだものである。それを真田村まで近郷近在の村々が協力して運搬し、その村々は中原・豊田本郷・豊田宮下・豊田小嶺・豊田平等寺・矢崎・別名・北大縄・西海地・大畑・丸嶋など11ヵ村以上を数える。明治維新を目の前にした幕末期に商業経済もかなりの発達を見ていたであろうが、相州の一寒村の牛頭天王社が大阪から花崗岩の鳥居を調達したことは稀有のことといわざるを得ない。近在からの厚い信仰を受けていただけではなく、それを支える財力に対し瞠目するだけである。
伝承では漁師や仕事師の信仰が篤く、須加(平塚市)や南湖(茅ヶ崎市)、そして鎌倉などの漁師は必ず来ていたという。近年では代表者が来るだけとなっていたようだが、かつては大勢で連れだって来ていた。漁師や仕事師は節分に豆まきに来て、ここから大山へ回っていったという。漁師の信仰は昭和54年(1979年)に奉納された神社拝殿の鈴の紐からも知ることができ、「奉納 商売繁昌 海上安全」として平塚市須賀の浅八丸と伝平網が寄進している。
また、大谷忠雄氏の調査によれば、5月末には平塚の旭の人達が天王様に胡瓜の初物を供えに来、他村では7月9日の祭礼に疫病除けの神様だからといって胡瓜を持って参拝に来た。一方、代々神主を務めていた陶山家では胡瓜を食べなかったという伝承があるという。
その他の行事
●平成21年(2009年)8月23日・・・眞田尊
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