眞田尊さなだそん

与一堂

  境内には真田与一義忠の廟所(死者の霊を祀る所)である「与一堂」があり、一般的には「真田の与一さん」といわれている。与一堂は「天徳寺」の門を入ってすぐ左手奥にある。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には与一堂の名はなく、明治11年(1878年)に堂宇が建立されたという。
  廟堂(びょうどう)横の鐘楼(しょうろう)には寛永六己巳季(1629年)と銘のある梵鐘(ぼんしょう)が掛けられ、戦災や戦時供出からも免れた鐘である。乳頭数100個の梵鐘の総高は約1mで、長文の銘末には、助城檀那、市川隠岐守信忠・上野和泉権守信友・斎藤伊予守直吉とあり、寛永6年(1929年)に足柄下郡千津島の大工石塚金吾が鋳したと刻まれている。

与一堂(廟所)水鉢
玉垣
燈籠門柱
狛犬狛犬
廟堂
白山堂白山堂由来
石祠
鐘楼
真田公力石
眞田城址と天徳寺の由来


天徳寺

  「天徳寺」は萬種山と号し、本尊に如意輪観音を安置している曹洞宗の寺院である。天徳元年(957年)に美濃国鋳物屋荘(岐阜県関町)に創建されたが、後に学仲周の時に美濃の兵乱を避けて近江国(滋賀県)掛川に移った。天正(1573〜93年)年間に岐阜天徳寺七世義翁盛訓の時に現在の地である真田に転じ、このとき七世義翁に北条氏の臣であった鈴木隼人が帰依し、自分の知行地に招いて一寺を建立せしめたのが現在の天徳寺の起こりであるという。天徳寺は与一の城址であったところに開基したといわれ、そのときに与一の霊を真田明神としてあがめて奉祀した。慶安元年(1648年)には寺領11石の御朱印を賜ったと伝えられている。
  天徳寺の境内には上記の与一堂(真田与一の廟所)のほか、白山社や多くの石仏や真田学校跡碑などがある。また、天徳寺では石橋山で戦死した与一を偲んで、昭和中頃まで義太夫が23日夜から朝まで演じられていた。

天徳寺
結界石寺号塔


真田与一の館(真田城)

  真田与一義忠には二人の男子があって長男を与一実忠といい、次男は岡崎家を継いで岡崎左衛門尉盛実を名乗って岡崎城を守った。与一義忠が石橋山で討死した後は長男実忠が館を守ったが、建暦3年(1213年)に起こった「和田合戦(和田の乱)」で敗れた和田義盛に味方していたために、実忠は二子と共に討死した。以後は次男の岡崎盛実とその子孫が二城に居城していたが、応永23年(1416年)の「上杉禅秀の乱」のときに岡崎氏一統は禅秀側に立ったので、足利持氏の兵に敗れて岡崎城を追われ、持氏の武将の小田原城主式部大輔頼春の持城となってしまった。そして、岡崎・真田の二城は三浦氏の一族が縁籍の大森氏と提携して永く守り続けていたが、明応4年(1495年)北条早雲の小田原城攻めのとき、大森藤頼が小田原城を逃れて真田城に入った。そして防戦3年の後に落城したので、このときから真田城は廃城となったのである。岡崎城もこのときに落ちて廃城となった。
  その後、戦国時代になり小田原北条氏の家臣鈴木隼人が真田城址に曹洞宗天徳寺を建立し、与一の霊を真田明神として祀ったといわれる。このことは『風土記稿』の中の大住郡真田村「天徳寺」の項に記載がある。



真田与一(佐奈田与一義忠)

  平安時代末期の武士であった「佐奈田義忠(さなだよしただ)」の生まれ故郷は大住郡岡崎(現伊勢原市)の岡崎城で、三浦義継の四男であった岡崎城主・岡崎四郎義実の長男として生まれた。与一は父と分居して大住郡真田(現平塚市)に築城し、佐奈田与一義忠と名乗ったのである。通称は与一(余一)、『吾妻鏡』によると名字は真田ともある。父の領地の一部であった真田の地(現在、天徳寺境内になっている地)に館(後の真田城)を構えていたことから「真田与一」といわれた。
  治承4年(1180年)8月に源頼朝が伊豆で平氏打倒の兵を挙げると三浦氏は一族を挙げて頼朝の味方につき、真田与一も父に従って相模国石橋山でその前衛をつとめたが、大庭景親の弟である俣野五郎景久と組討となり25歳の若さで討ち死にした。与一は敵将の俣野五郎を組み伏せたが、与一の刀は血糊がこびりついて抜けず(この前に平家方の一人岡部弥次郎を討ち取った際に刀を拭わずに鞘にさしたため)、その間に敵の長尾新六に討ち取られた。
  一説によると与一は痰(たん)が喉にからんだために討たれてしまったとも言われており、その後は痰や喘息の神(真田明神)として近郷近在の人々によって信仰されるようになったという。与一の戦死した地(現在の小田原市石橋)には「佐奈田霊社」が建てられている。

京都で製作された人形中央が真田与一
左が陶山文三右は腰巻文六
上記三名の絵与一と俣野五郎との組合
  


石橋山古戦場

  小田原市石橋には「石橋山古戦場」があり、この付近は源頼朝が治承4年(1180年)8月に以仁王(後白河天皇の皇子)の遺命を受けて平家追討の挙兵をした所である。伊豆を出発した源氏は関東武士を頼って東に進み石橋山の合戦となり、このとき相模の名族三浦党の岡崎四郎義実や、その嫡子である真田(佐奈田)与一義忠も参陣した。しかし、急の挙兵のため頼朝軍は僅か300であり、平家軍の敵将大庭景親の3000と石橋山にて決戦となる。決戦は8月23日の夜になって豪雨と暗闇の中で始まり、与一は頼朝の先方をうけたまわると、郎党(家臣)陶山文三(すやまぶんぞう)とその弟である腰巻文六(こしまきぶんろく)、そして武藤三郎等15騎で豪族俣野五郎景久(景尚)の73騎と戦い、両将組討の末に与一は討死した。一方、大勢の敵に押し隔てられて主人の行方を見失った陶山文三家安(『源平盛衰記』の記述で『吾妻鏡』では豊三家康)は、敵将稲毛三郎の軍隊に囲まれて8人までは斬ったが、遂に与一の跡を追って壮烈な戦死(享年57歳)を遂げた。与一の緒戦での討死は頼朝方には大きな打撃となり、頼朝軍は多勢に無勢でたちまち苦戦となって一夜にして平家軍に敗れた。
  頼朝は箱根外輪山の複雑な地形も幸いし、土肥一族や源氏方の人々によって助けられ、山中を敗走すると岩浦(真鶴岬)から船で安房国(千葉県南端)猟島へ逃れた。その後、勢力を盛り返した頼朝は平家を倒すこととなり、最終的にこの元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる治承・寿永の乱を勝利して、頼朝は武家政権をほぼ確立させて鎌倉幕府を開くに至った。

石橋ICを過ぎ熱海方面へ南下左手頭上の看板に従って
右側の道へ入りしばらく進む旅館前まで来ると分かれ道
看板に従って右折東海道本線に沿って北上
道沿いに左へ曲がると石橋山古戦場の石碑
石橋山古戦場の標識に従って左折
道沿いに右へ曲がると左手にねじり畑
山頂付近から見下ろした古戦場左手には佐奈田霊社が見える


与一塚・文三堂(神奈川県指定史跡)と佐奈田霊社

  「与一塚」と「文三堂」はこの合戦で戦死した与一と文三を祀ってあるところで、共に神奈川県の指定史跡となっている。『吾妻鏡』には石橋山合戦後の建久元年(1190年)に頼朝が伊豆山権現参詣の帰途で両者の墓を訪れ落涙したと記されているので、戦死後まもなく墓が築かれたようである。さらに建久8年(1197年)には与一の冥福のため、鎌倉山内に証菩提寺という寺を建立したとされている。
  与一塚の傍らには与一を祭神とする「佐奈田霊社」が建てられ、現在も信仰を集めている。霊社下の畑は組討した場所と伝えられ「ねじり畑」と呼び、このためかこの畑の作物は全てねじれてしまうとも伝えられている。

与一塚の看板に従って右手の石段を登る
途中にある常夜燈右手には佐奈田講の石碑
さらに上ると左手に霊社750年記念の石碑
石段を登り切ると燈籠が建つ境内へ
参道を進むと両側に狛犬
左手に御神木右手には石碑関係が集まる
小田原ふるさとの原風景百選与一塚と文三堂の解説
境内から見渡せる相模湾御神木横の与一塚
さらに奥へ進み道なりに左へ進む
水鉢や石碑が続く
こちらは佐奈田義忠の千附石水鉢がもう一つ
左手には観音堂眞田尊與一神輿保存會のベンチ
一番奥には佐奈田霊社右手に木遣塚と
のぞみ観音が並ぶさらに奥には潮音閣
北側の出入り口へ向かう霊社800年祭開帳記念の石碑
坂を下りると左手に駐車場入り口の社号柱
佐奈田霊社の看板古戦場と霊社の説明書き
坂道を少し上って撮影相模湾も見渡せる
霊社を後にし坂を下ると最初に来た分かれ道へ
霊社の石段付近へ戻ると標識に従って文三堂へ向かう
70m程進み文三堂へ到着石段を登る
境内に上がる境内入り口の燈籠
社殿には文三堂の神額

  陶山家の子孫は現在でも真田の地で家名を守り、仏壇には真田与一・陶山文三・腰巻文六の位牌が祀られているという。



与一甚句

  「与一甚句」は昭和55年(1980年)の『与一八百年祭』に陶山卯佐治氏(平成18年に他界)によって作られ、境内にある眞田尊八百年祭記念碑(昭和57年8月23日)には與一甚句の一節が刻まれている。

『与一甚句』 (作詞:陶山卯佐治)

  セエー さあさエー みなさま お唄いなされヨー
  歌じゃエー ご器量はヨー 下がりゃせぬ

(一)片葉の葦
  セー 聞いてください
  聞いてください みなさまよ 真田与一の 幼名(おささな)は
  丈夫に育てと 荒千代(あらちよ)ぞ ただし幼少 病弱で
  高熱発し 意識なく 乳母の吾嬬(あづま)は 大山へ
  平癒祈願(へいゆきがん)に お参りし 全快かなうが おそわれた
  片葉(かたば)の葦(あし)に 助けられ

(二)三浦党
  セー 聞いてください
  聞いてください みなさまよ 真田与一の 父親は
  岡崎四郎の 義実(よしざね)で 武勇名高き 白旗に
  恩義深き 三浦党 土屋義清(よしきよ) 弟で
  一族そろって 戦立ち 敵は三千 平家軍
  味方三百 源氏軍

(三)与一
  セー 真田名代(なだい)は
  春は花咲く 真田城 秋は稲穂の 黄金色
  聞いてください みなさまよ 真田与一と いう人は
  源氏旗挙げ そのときに 文三文六 ひきつれて
  雨の石橋 闇のなか 俣野五郎を 組み伏せて
  太刀を抜けども 抜けやせぬ 声は発(だ)せども 声は出ぬ
  あわれ与一はよ 花と散る

(四)七騎落ち
  セー 聞いてください
  聞いてください みなさまよ 石橋敗れ 真鶴(まなずる)の
  浜から安房(あわ)へ 落ちんとす 義実おりろと 云われしを
  二つの命で 仕えたが 与一失い おりられん
  土肥(どひ)の遠平(とおひら) 舟おりる 七騎(しきち)の侍 武者震い
  頼朝天下の 船出なり

(五)頼朝
  セー 聞いてください
  聞いてください みなさまよ 与一戦死(討死) 頼朝は
  命があれば とむらうぞ 伊豆山権現(いずさんごんげん) 参詣し
  石橋山を 訪れし 思わず涙 とめどなく
  魁秀明神(かいしゅうみょうじん) 奉(たてまつ)る
  証菩提寺(しょうぼだいじ) 建立(こんりゅう)す
  頼朝厚く 追善(ついぜん)す



その他の行事

●平成25年(2013年)10月6日・・・伊勢原観光道灌まつり(一眞會編)

神輿

  陶山卯佐治氏が与一甚句を作った翌昭和56年(1981年)8月23日に神輿殿である「真風堂(しんぷうどう)」が完成し、更に翌年の昭和57年(1982年)8月に「眞田尊與一神輿保存會」が発足されると陶山氏が初代会長となった。「眞田與一(眞田尊)神輿」が完成した時期については定かではないが、真風堂ができる以前には既に完成していたといわれ、陶山氏により保存会へ寄贈されたようである。
  神輿は提灯を四方に張り巡らせた万灯型で、正面には真田与一、正面向かって右手が家老の陶山文三家安、左には文三の弟である腰巻文六義政の絵が電光パネルに描かれている。平塚市内の神輿では一番重くその重量は1トンといわれており、実際に神輿を担いだ人達からは1.2トンあるいは1.3トンあるともいわれる。
  平成14年(2002年)10月19日には平塚市民センターにてこの神輿と与一甚句が披露され、この他にも小田原市石橋の「佐奈田霊社852年祭」や、東北岩手県の「花巻まつり」などにも参加した経歴を持つ。

真田尊の万灯神輿四方に張り巡らされた弓張提灯
正面には真田与一背面
向かって左が腰巻文六向かって右が陶山文三
『與一』の轅『眞田尊』
神輿を運ぶ台車真風堂
神風堂健立浄財寄進者芳名壁には多くの提灯
初代会長の故陶山氏平塚市民センターホールにて
昭和50年代くらいの写真平塚市神輿連絡協議会
眞田尊のポスター眞田尊八百年祭記念碑


例大祭

  本祭は真田与一が石橋山で討死した8月23日に行われ、当日は多くの人が集まり痰咳平癒を祈願した神符も出される。これとは別に正月23日は「シンヨイチ(新与一)」、12月23日を「シマイヨイチ(終い与一)」といって小祭を行う。これらの日に与一の家臣で与一に殉じた陶山文三の子孫である陶山家2軒では、赤飯を炊いて廟で参拝者に配ったという。
  8月23日の本祭時には天徳寺住職が廟所で経を唱え、夕方には男火(おび)といって護摩が焚かれる。松明は参拝者が買って奉納し、余一堂から門前の通りまで松明が炊かれるという。余一堂を信仰する講を「松明講」といい、藤沢市や横浜市などで結成されており、本祭りには各地の講中が訪れて賑わった。余一堂の信仰圏の広さは、昭和51年(1976年)建立の玉垣からうかがうことができる。
  かつては夜7時頃から朝5時まで一晩中義太夫をやり、天徳寺本堂の畳を上げて舞台を作った。太夫は東京の方から呼び、上手い人は夜中の遅い時間に出演した。7月9日は真田(天王さん)の祭りで、当日参詣した後は安斉所の神輿に参ってから天徳寺境内にある与一さんにも参拝した。天王さんに詣った人は必ず与一さんにもお詣りするものだといわれていた。

マイクロバスの一行は遠方の千葉県から
境内では神輿保存会が無料でかき氷を配る
神輿に賽銭をし参拝
神輿前の供物私の御神酒も供えてもらえました
白山堂や石祠も同様に参拝
与一堂で御符やせき止飴を買う
私も飴を購入中には真田尊の説明
お堂に上がりお経が始まる
玉垣には例大祭の幟のほか家老や
兄弟など与一に関係する武将の幟


神輿準備

  例大祭当日は17時30分頃から神輿渡御の準備が始まり、神輿を真風堂から与一堂前に移動させたり、友好団体の受付などを行う。

神輿前の賽銭箱と供物を移動し
担ぎ手が集まる肩を入れて
馬を取り出す神輿を台車に載せ
真風堂から神輿を出す
その場で旋回し
お堂前に止める
友好団体が続々と到着し受付で記帳
用意してあるタオルをご祝儀のお礼に渡す
軽トラでは飲み物の準備水の入った容器に入れる
砕いた氷を容器に入れて冷やす
境内ではテーブルを並べお神酒の準備
吸殻入れには蚊取り線香記念撮影をする団体


神輿渡御

  友好団体が集まるとお神酒で乾杯をし、18時30分頃に天徳寺を出発する。神輿が重いためにあまり上下には振らず、「どっこい」の掛け声に合わせてゆっくりと進んで行く。神輿は天徳寺を出ると公民館跡付近の交差点で左折し、真田神社を通過して休憩場所へ向かう。

友好団体が集まったところで與一神輿保存会が司会進行
会長の挨拶お神酒を配り
会員の音頭で乾杯
神輿を持ち上げ台車から馬に入れ換える
提灯を点灯し一本締め
肩を入れて担ぎ上げる
真風堂前を通過し境内を進むと
門を通過
天徳寺を後にし渡御が始まる
1トンの神輿はゆっくりと進む
公民館跡を通過し交差点を
左折お宮方面に向かう
しばらく民家前を練り歩くと
甚句の合図で神輿を台車に載せる
ここからは台車で移動お宮横を通過
道沿いに右カーブし休憩場所に到着
左に旋回し神輿を止める
しばらく休憩し一本締め
神輿を道路側に移動し肩を入れ
天徳寺を目指し再びお発ち

  休憩が終わると再び出発し、来た道を戻って天徳寺へ向かう。天徳寺の境内に入ると与一堂前に向かい、甚句に合わせて練った後に輿を降ろす。

お宮前を通過
しばらく進むと台車に載せ公民館跡前あたりまで曳く
再び肩を入れ練り歩く
交差点を右折すると目の前には提灯の明かり
門を通過し境内に入る
真風堂を通過し与一堂前に到着
お堂前で神輿を揉む
迫る神輿を押し戻す
途中で甚句が数回入り神輿の勢いが増す
最後に甚句の合図で輿を降ろす
一本締めで無事に渡御が終了
境内で食事をとったのち神輿を担ぎ上げ
真風堂に納め友好団体は帰路に着く

戻る(真田)