下戸田しもとだ

神社の紹介

  下戸田部落字「淵の上」に鎮座する「菅原神社」の創建は江戸時代といわれ、別当寺院は当所の「延命寺」であった。祭神は「菅原道真公」を祀り、本殿内には御神体として木造菅公の座像(高さ34cm、台座12cm)がある。当社の創建は不詳だが、この神体には元禄5年(1692年)11月25日と銘記されており、江戸前期頃の可能性もある。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には小名下戸田の鎮守として「天満宮」とある。
  現在の社殿は昭和4年(1929年)に再建され、近年になり更に大修理が行われている。木造入母屋造亜鉛葺の拝殿(間口3間半、奥行2間)に続き、切妻造の幣殿(間口奥行共9尺4方)と覆殿(間口奥行共2間4方)があり、いずれも屋根は亜鉛葺きである。享保15年(1730年)建立の本殿(間口4尺奥行3尺程)は木造流造で屋根は板葺で、この他に木造の神輿殿がある。昭和46年(1971年)には部落内の各所に祀れていた諸石像等を境内地に集めて祀り、道祖神碑、不動明王地主神、庚申塔の他に数基ある。昭和47年(1972年)には境内地北側の地に社務所を兼ねた木造平家亜鉛葺の下戸田公民館を完成させ、昭和49年(1974年)境内地の一部を児童小公園として各種の体育器具を備えた。
  かつて、荻野地区に住した鋳工師木村喜三郎重則が寛文10年(1670年)歳末に造った釣鐘があったが、大東亜戦争中には釣鐘を軍事資源として供出したため、一時期その響きは途絶えていた。昭和46年(1971年)に氏子諸家協議によって、高岡市にある梵鐘の老舗、老子次郎左衛門氏に再鋳を依頼し、新しい銅鐘(総高さ1.15m、口径62cm程)を鐘樓に掛けた。この鴻鐘には次の銘記がされている。
  「東に相模の流れ、西に雨降の霊峰をいたゞき、こゝ戸田の地は、高きに憧れ、悠久を慕ふ文化の探究地として幾千年の昔から多くの人々が、高い理想と希望を以って住んで居ました。北條の頃、時の人菅公の徳を慕ひ勧請祭祀したのが当社であり、里の鎮めとあがめられて居ます。氏子は明日への希望と光を響せた古鐘は昭和16年大東亜戦争の勃発するや、やがて徴発するや、やがて徴発するの止む無きに至り、以後は其響は枯絶えたが、此度氏子の人々相諮り新たに鴻鐘を鋳て奉納致します。云々。」
  境内右手には道祖神、左奥には石造物九基と暗渠あんきょ完成記念があり、この中で上部に不動明王を載せた道標は元治元年(1864年)の造立である。

2008.6.282008.6.28
菅原神社鳥居
2008.6.282008.6.28
手水舎
2008.6.282008.6.28
拝殿幣殿・覆殿
2008.6.282008.6.28
 
2008.6.282008.6.28
 厚木市下戸田公民館
2008.6.282008.6.28
境内

  

太鼓

  下戸田太鼓連  下戸田の太鼓は田村の下宿(下町)から伝わったといわれ、大神を経由したという説と直接伝わったという説がある。



菅原神社神輿

  下戸田において神輿の普請が計画されたのは明治29年初頭であり、氏子の世話役は阿夫利山麓の大工明王太郎と普請の話を始めた。『明王太郎日記』に発注時の様子が次の様に記されている(概略)。
  明治29年2月に大工明王太郎が平塚の前鳥神社に出張した折のことである。下戸田の菅原神社の世話役の米山嘉三郎他4名が四之宮に出向き、四之宮の八坂神社神輿を拝見し、この神輿を雛形として同じ寸法の神輿を造って欲しいとの申し入れを明王太郎にした。四之宮の八坂神輿は6年前に明王太郎が建造したものであり、喜ばしい要請であった。
  同年2月15日に世話人代表の米山嘉三郎と明王太郎の間で神輿普請の契約が結ばれ、証文の通り神輿の普請は金二八七円九五銭で請負われた。四之宮八坂神社の神輿とほぼ同額であった。ここで注目すべきは、証文の中の「金二十三円也大鳥燕代、但し此の二口、本年は旧品を採用したる事」の記述があることで、錺金物の鳳凰とつばくろは間に合わないので、その年は従来のものを用いることになった。菅原神社にはそれまで担がれていた古い神輿があったのである。
  完成期限が証文に7月15日と約束され、工期が5ヶ月間であり、明王太郎作の塗りの神輿の中では最も短いものとなった。請負の翌日に明王太郎は喜寿(77歳)の祝いをしている。歳を重ねたが弟子と共に大工仕事を続け、予定通りに神輿を完成させた。神輿は明治29年(1896年)7月19日に、阿夫利山麓の地において完成し引き渡された。その時のことが明王太郎の手控えに次のように記録されている(要約)。
  明治29年7月7日より組み立てを開始し、明王太郎と息子五郎の2人で行い、錺金物の取り付けを含め全て13日に出来上がった。目出度く世話人見分。7月19日に相川村下戸田の世話人以下67〜68人が来て神輿を引き取り候。世話人持参の祝金を大工7名、彫方4名、塗方4名、錺方5名に配分した。この様子から、神輿を運ぶのに十分な人手が下戸田から大山へ出向いたことと、神輿の建造に携わった職人が合計20人もいたことなどが分かる。
  明王太郎景元(かげもと)は自分の作った十棟余りの神輿の各々の出来具合を評価しており、菅原神社の神輿は自分でも十分に満足できる良い出来上がりであったのであろう。「上作なり、最上としるべし」と評価した。神輿は昭和58年(1983年)4月に平塚市の仏具店で修理が行われ、漆が塗り直され新造時の姿がよみがえった。
  昔はオコシが村中を練り歩き相模川へ入った。今も昼頃から担ぐが、相模川の土手で川の水をかけ、その後宮入となる。



例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の8月25日であった。その後は田んぼの一番草が終わり農作業が一段落する頃の7月25日であったが、戦後は4月25日から4月15日と変わり、現在は4月第4日曜日に行っている。昔は部落中の人で幟を立てたが、戦後やめている。宵宮(前夜)に自治会、老人会などが中心となりカラオケをやる。
  昔は神楽殿があり御神楽も行われたが、昭和45年頃に神楽殿は取り壊され公民館となった。また、昔は親戚の人などが大勢来た。


戻る(厚木市の祭礼)