山車だし

移動神座

  奈良盆地に美しい山容をみせる三輪山は山そのものが神とされ、大神おおみわ神社が神殿を持たないのは三輪山を神としてきたからである。山そのものを神とするこうした神体山は全国各所にあって、聖地として人の立ち入りを厳しく禁忌する。神霊の鎮まる聖なる山の信仰はわが国古来のものであり、ホコ、ヤマは基層に流れるそうした心意を背景に成立したものであろう。
  神は去来し、その神が依る神座は時と場に応じて変化した。御蔭祭りのように神馬の背に立つ一本の榊もあれば、象徴化された幣束、さらには神輿のように工芸的なものまで多様である。しかしその一方で、祭りの終了と同時に消え去るべき存在であった移動神座は、忌避すべき神の祭りにおいてその姿を永く留めた。祟る御霊や疫神の祭りがまさにそれであった。災いとして顕現するそれらの神は、時を定めて迎えられるものではない。したがってその祭りは災いの消除をはかるのが目的であり、神の怒りを鎮めて送り出そうとするかたちをとった。御幣などに跋扈ばっこする疫神等を依り付かせ、それを集めて祭り、神輿に乗せて領域の外に遷却する御霊会のあり方はそれを端的に物語る。
  移動神座を作り、最後にそれを水に流し、燃やし、あるいは破却する祭りの方式は疫神の祭りに後々まで踏襲された。中世の半ば頃から現れ、疫神送りはもちろんのこと、虫送り、盆の精霊送り、あるいは雨乞い等々に盛んに行われた「風流拍子物ふうりゅうはやしもの」は、神霊を囃して鎮送する機能を本質とする集団的歌舞である。風流拍子物の「風流」とはそこで囃される作り物や仮装の意であり、それこそは消除を願う神霊の座に違いなかった。ホコやヤマはそうした神霊の座として作り出されたものにほかならない。



ホコ(矛)とヤマ(山)

  ホコは矛と習合したが本来は聖なる柱を意味した。7年に一度の信州諏訪の「御柱祭り」は、山から聖木を伐り出し、木遣きやりで囃して里に曳き、それを御柱として神殿の四周に立てるという神事である。御柱は枝を払い先端を三角に切り出した大きなもみの丸太に過ぎないが、伊勢神宮の心の御柱と同じ意味を帯びた神の依るホコの典型であった。
  これに対しヤマは、作り物の山を聖なる神の山に見立てたものであり、大嘗祭における「標山」をその典型とするのが通説である。標山の形は一様ではないが、もっとも装飾的なそれは、山形に「梧桐」や「恒春樹」を立て日月や五雲を配し、西王母などの人形を飾った造り山であった。趣向は中国の故事にちなむものが多く、悠紀・主基の東西二基がその度ごとに製作され、内裏の祭場まで曳行された。『貞観儀式』には標山製作の建物が「広さ方四尺、高さ三丈八尺」とみえ、総高10メートルを超える大きな規模であったことが知られる。
  そうしたホコ・ヤマの流れが、山鉾という造形物となって恒常的に現れるのは鎌倉末期のことであり、京都の祗園御霊会がその舞台であった。町組を生活拠点とする市民の成長がそれを導き、山鉾の祭りという新しい祇園祭へ展開したのである。



山鉾と屋台

  日本の都市の祭礼で人の耳目を惹きつけるものに、「山」や「鉾」と「屋台」の祭りがあり、その総数は全国で1500件に及ぶものと推定される。そして、その多くは祇園祭りの鉾のように風流の趣向を凝らした作り物の有形の文化財で組み立てられているばかりではなく、笛・鉦・太鼓などの楽器や歌などによる囃子や、舞踊や芝居などの芸当といった無形の文化財を伴っている。
  現行の山鉾の祭りはそう古いものではない。京都祇園祭りなどのごく一部を除くと、ほとんどのものが近世都市が成熟する江戸中期から後期にかけて成立発展したものであり、近世都市文化にほかならない。こうした山鉾の祭りは近世における「練物」の祭りから展開したもので、練物とはおおまかに趣向を凝らした作り物や仮装などのいろいろな出し物で構成されたパレードといってよい。練物は祭りの規模に応じて幾つかの番組で編成され、番組は通常、複数の出し物で構成されていた。その構成の基本は囃される造形物とそれを囃すものがセットになった形態である。
  地域社会で中心的な位置を占めるような主要な山鉾の祭りは、例外なく練物の祭りとしてはじまった。練物の基本構成は囃されるホコやダシとそれを囃すものから成り立っており、それらを構成していた多彩な出し物の一つを選択的に育てるかたちで、それぞれの山・鉾・屋台の祭りを創り上げてきた。「山」や「鉾」は囃されるもので依代の本質を受け継ぐものであるが、それが造形物として展開し一定の形態をもつに至ったのが山であり鉾である。一方、歌舞伎等の芸能を演じる舞台としての芸屋台や囃子を演奏するための囃子屋台は、囃される山鉾等に付随して発展した。



山車

  近年、伝来の呼称を無視し山・鉾・屋台などを全て「山車(だし)」と呼ぶところが増加している。山車は既に標準語であり、山・鉾・屋台の祭りを山車祭りと言い換えられるように総称として使うには都合は良いが、山車の語には検討を要する大事な問題がある。
  近代国語辞書で「山車」を採用したのは明治23年(1890年)5月に刊行された大槻文彦の『言海』で、こには「だし 山車<飾物二出ス意カ>祭礼ノだんじり(東京)」とあり、ダンジリは「だんじり 車楽だんじり、山車<台躙ダイニジリノ転カ>祭礼ノ行装ニ引キ廻ハス飾物ノ名。山、人物、草木、禽獣ナド甚ダ高く作リ立テテ、錦?ナド絡ヒ、車ニ載セテ囃シ行ク。関東にだし、京畿に山、鋒ナドイフモコレナリ」とされている。すなわち「だんじり」の称が一般的であり、「山車」はいはば東京方言だったということで、「ダシ」と読ませる「山車」は近代に生まれた用語である。天下祭りといわれた江戸山王権現と神田明神の祭りなどで、鉾頭の飾り物を指した「出し」の呼称が、江戸形山車の完成とともにしだいに全体の呼称となり、「山車」と表記したところから広がったものである。
  「山車」の使用例がこの時期に多くなったものと考えられるが、新聞記事における「山車」の使用は管見では、明治15年(1882年)10月3日の「時事新報」である。その「寄電 神田祭礼休業」欄に、神田祭を10月15日に執行と決定、「内外神田の氏子中」が「踊屋台山車おどりやたいだしなどを出し賑はしく致さんと評議一決」し、「鉄道馬車」の1日休業をはかっている云々とみえるのがそれである。しかし、同紙の別記事には「花車踊屋台等」とあって、「山車」を「花車」と書いている。明治17年(1884年)の神田祭は「大江戸時代のものに復古せしめん」と各町から「山車四十五本踊屋台十五台」が出揃い大変な賑わいをみせた。福沢諭吉は同紙「漫言」欄に載せた文章で「山車」に「だし」とルビをふるが、同紙の一連の記事ではほとんど「花車」と書かれている。なかには「外神田台町は従前鋒に人形の山車を出せしが本年は人を廃し新に巨大の鈴を鋳立て之を山車にて挽出し」(九月五日)といった記事もみえる。この「山車」は鉾の「出し」の意であり、部分名称であった本来の呼称が生きていたことを物語る。
  『時事新報』にみるこの表記の不統一は、いうまでもなく「山車」が未だ広くは認識されていなかったことを示すものである。それがわずか数年で『言海』に採用されるに至ったわけであるが、そこに江戸の祭礼に浸透していた「出し」の語が大きく働いたことは確かであろう。鉾の部分名称であった「出し」が全体構造すなわち鉾(いわゆる江戸型山車)の呼称ともなったのは江戸末期にさかのぼり、江戸の人々はそれを使い分けてきたのである。
  鉾や笠鉾の上の飾り物を「出し」というのは全国共通である。祗園祭りの鉾頭もかつてダシと呼ばれ、練物の生きた祭りである長崎くんちの笠鉾のそれもダシである。山・鉾・屋台の祭りでいうダシとは鉾・笠鉾の部分名所であって、山や屋台のそうした飾り物をダシということなない。つまり「山車だし」は江戸の祭礼に展開した「出し」に宛てられた新語であり、「山車」はすなわち「鉾(鉾・笠鉾)」と同義であった。したがって、当然ながら山車と書いてダシという使用例は原則として存在しない。
  全国を通観した文化3年(1803年)の『年中行事大成』は山・鉾・屋台の類を以下の様に記している。

『年中行事大成』より
祭礼名山・鉾・屋台類の名称
紀州和歌祭山鉾・練物
熱田祭車楽・山車
津島祭車楽だんじり・山車
博多祗園会造山・山笠
吉田天王祭(愛知)飾山
多賀祭(滋賀)造花ねり物
譽田八幡若宮例祭檀輾だんじり・車楽
座摩祭(大阪)車楽
天神祭(大阪)お迎船・楽船・車楽
江戸山王祭山鉾・花だし・練物・牽山・傘鉾・屋台
浅草祭車楽・練物
今宮祭(京都)祭鉾・練物・迎え提灯
七里祭・八瀬祭(京都)踊鉾
祇園会(京都)山鉾

  熱田祭と津島祭に「山車」とみえるが、当代の地誌によればそれは「車楽」と対になる「大山おおやま」のことであり、「山車」と書いて「やま」とよばれていたといえる。美濃・尾張では今も「車辺に山」や「山辺に車」という組み合わせの漢字を書いて「ヤマ」とよぶところがあり、古老は決して「ダシ」とよばないのである。ここに明らかなことは、江戸末近くになっても「ヤマホコ」・「ヤマ」・「ダンジリ」・「ヤタイ」というのが普通で、それらがなお練物に包摂される段階のものも少なくなかったことである。
  きわめて稀だが、確かに「山車」と書かれるものがあり、有名な射楯兵主神社三つ山神事の大永元年(1521年)の初見資料には「装山車」とみえる。これは作り物を飾った曳山としてよいが、翌大永2年(1522年)には「装山」とあり、つまりそれが「カザリヤマ」と呼ばれたことを示すものである。こうした作り山を山車と記すところには車で曳く山のイメージが反映しているからに思われるが、中国の文献に出る「山車(サンシャ)」から出たとみるのが妥当とも取れる。
  「山車」・「陸船」のことは『資治通艦』の唐記(粛宗、至徳元載)に出て、つとに知られていた。例えば村瀬拷亭はその著『藝苑日渉』でこの記事を引き、京都祇園祭りの山鉾を「山車」・「山棚」・「陸船」と表現している。また、江戸山王祭礼の出しを「山車」と表記した『江戸繁昌記』は、「本日昧爽まいそう山車鼓譟さんしゃこそうし、次を以ってき出す。其の数、山王は四十五両、明神は則ち三十六」「友人某、神田祭の歌の句に云ふ、棚車ほうしゃ三十六有輛」という風に述べるのであり、『藝苑日渉』とのつながりをうかがわせる。



祇園祭りの山鉾

  山鉾の巡行でその名の高い祇園祭りは、京都の都市的な発展とともに見られる祭りとして最も早く展開した祭りである。山鉾はそこで人々の目をひきつけながら形成されたものであり、山鉾で賑わう祗園祭りは中世の末頃から都への憧れにのって日本の各地にその影響をおよぼし、さまざまな山鉾の祭りが展開した。
  山・鉾・屋台を華とする祭りはいまも全国で広く行われており、それらは京都の祇園祭りと関係づけて語られることが多く、祇園祭りはまさしく山鉾の祭りのルーツとみなされている。ただし、そうした祭りの全てが祇園祭りとの関係にあるわけでなく、何によって関係付けられるのか分からない祭りの方がむしろ多いのである。それにも関わらず、そのように伝えられるところに、山・鉾・屋台の祭りにおける祇園祭りの位置の大きさが現れているといえよう。しかし、祇園祭りの歴史や山鉾についてはこれまでもいろいろと説かれているが、その研究を深めたものは以外に乏しく、祇園祭山鉾の形成史については未だ明らかとは言い難い。
  祇園祭りの山鉾は現在32基を数え、そのうち重要有形民俗文化財に指定されたものが29基、あとの3基は近年になって復活をみたものである。この3基はともに由緒ある山鉾で、芸能部分を別にすればともによく古態を保っており、形態を考える上では区別する必要のないものである。32期の山鉾はその形態において、「鉾」・「山」・「笠鉾」の3つに大別され、「山」はさらに「曳山ひきやま」と「舁山かきやま」に分けられるのが通例である。山には囃す存在であった芸屋台系のものもある。すなわち、祇園祭りの山鉾は4種類に分類されているわけだが、その分類は便宜的で、例えば船形でで知られる「船鉾」をその呼称のみで鉾に入れるというように厳密なものではない。山鉾の形態を論じるためには、まず指標を定め、新たに分類を試みる必要がある。
  分類する指標としてはいくつかのものが考えられるが、それは山鉾の特質によるのが基本となり、いうまでもなく山鉾の特質の第一はそれが「依代」としてはじまったというところにあろう。すなわち、指標の第一は「依代」ということである。祇園祭山鉾は山鉾そのものが依代とされているが、なかでも特に大事な部分があり、それは「ホコ」と「ヤマ」でとらえられるところである。「ホコ」は鉾の「真木」、「ヤマ」は山の胴・松であり、笠鉾の柄もホコとみなされるがひとまず別個のものとする。   祇園祭りの山鉾は以下のように5つの形態、すなわち「鉾」・「笠鉾」・「曳山」・「舁山」・「屋台」の5種に分類される。

ほこ
  鉾とは頂に「ホコガシラ(出し)」を付けた「真木」を主体とするのが特色で、その長大な真木の柱を中心に屋形を組み、それに車をつけて曳きまわす形態のものである。
かさ(傘)ぼこ
  笠鉾は傘状の上に風流の作り物や松を飾ったいわゆる風流傘(笠)であり、それに伴う拍子物はやしものが中心となるものである。
曳山ひきやま
  曳山は鉾の真木が「松」に代わるだけで、他は鉾と同形態のもの。
舁山かきやま
  舁山は饅頭型の籠を緋羅紗で包んで「胴(洞)」という山形を作り、それに松(または杉)を立てた「ヤマ」に特色を持ち、屋台の上には人形などを飾りつける。ヤマはないがそれに相当する社殿をもつものもある。舁山は舁いで(担いで)運ぶものである。
●屋台
  「ヤマ」を持たない舁山
船鉾ふねぼこ
  船鉾は江戸初期まで帆柱を持っており、その帆柱をホコとする見解もあるが、人形で飾る方式は山特有の共通要素であり、鉾には存在しない。また船鉾は車が付くという構造において曳山に近く、ヤマを持たない点では屋台に分類すべきものであり、このことから山と考えられる。

  祇園祭りの山鉾には囃される「依代系」とそれを囃す「囃子系」とがあり、そのすべてが依代であったわけではない。笠鉾は囃される笠鉾と囃す囃子が一対という形態であり、鉾は囃子が鉾本体と一体化したものにほかならないのである。また、山には囃す存在であった芸屋台系のものもあり、単純に山鉾は依代とはいえないのである。
  こうした山・鉾・屋台の祭りは、祇園祭りの山鉾が示すようにただ一種類の山鉾で構成されたものはむしろ少なく、異なるタイプの山鉾が混在するのが一般的である。歴史をさかのぼるほどにその造形物は多様であり、それらは本質において「囃されるもの」と「囃すもの」とに分類すべきものであった。祇園祭りは疫神の祭りであり、山鉾の機能は疫神を遷却することにあった。その遷却には疫神を依らせ可視化する造形物と、それを囃すという装置が不可欠である。

山・鉾・屋台の類型

  地方に盛行する山・鉾・屋台は極めて多様で、それぞれ祭りごとに特色があり、差異を問えば限りなく分類可能であろう。ここでは山・鉾・屋台の本質を囃される依代とそれを囃すものを指標に3系列9タイプに分類して解説する。

山鉾の分類
囃されるものホコ系祇園祭の鉾など
笠鉾高岡の御車山、秩父祭りの笠鉾など
ヤマ系作り山博多山笠・敦賀祭りの曳山・角館祭りの曳山など
人形山江戸型山車・名古屋型山車・大津祭りの曳山など
飾り山三つ山神事の山など
灯籠山夜高行灯・ネプタ・ネブタなど
囃すもの囃子系芸屋台長浜祭りの曳山・秩父祭りの屋台など
囃子屋台城端の庵屋台・岸和田の地車など
太鼓屋台新居浜祭りの太鼓台など

●ホコ系
  シンボル的な出しが柱状の先端などを飾り、またそれを構成するいわば縦形の作り物であり、「鋒型」と「鉾型」の2形態に分けられる。
  鉾・・・祇園祭りの鉾が典型的に示すような柱主体の造形に特色をみせるホコ
  笠鉾・・・笠状に広がる笠や台の頂きに作り物の出しを展開するホコ
●ヤマ系
  出し飾りが面的に広がる横型の作り物である。大半がこのタイプであるが、その形態から、「作り山」・「人形山」・「飾り山」・「灯籠山」に分けることができる。
  作り山・・・人形その他で古事伝説・物語等の一情景を表現する山
  人形山・・・特定の神霊や人物を表す人形を主体とする飾り山
  飾り山・・・山や松、社殿などが主体となる山
  灯籠山・・・灯籠を山風に拵えた風流灯籠
●囃子系
  歌舞伎や所作事・踊り・音曲などの芸能が主体となるものである。その本質は鉾・山に付きそれを囃す機能にあり、囃しの態様によって「芸屋台」・「囃子屋台」・「太鼓屋台」に分けられる。
  芸屋台・・・踊りや所作事、歌舞伎狂言などの芸能を演じる移動舞台となる屋台
  囃子屋台・・・囃子の演奏を主とする屋台
  太鼓屋台・・・鋲打の大太鼓を屋台に載せて打ち囃す屋台

  山鉾には原則として専用の囃子が付く(シャギリと呼ぶ場合が多い)。芸屋台は基本的に山鉾の運行を囃す囃子と演奏を聞かせる囃子、およびそこで演じる芸能の囃子を個別にもっており、山鉾と囃子が不可分のものであることを端的に示すものである。また、山・鉾・屋台の囃子には2つの存在形態があり、それは「セット型」と「一体型」である。
  セット型は上野天神祭りのように、ホコ・ヤマ系と囃子系が一対になるもので、なかには屋台がなく徒囃子の形態もある。一方、大半を占る一体型は山・鉾本体に囃子方が同乗する形態で、ホコ・ヤマ系に2層構造のものが圧倒的に多い理由でもある。祇園祭の鉾がその典型で、高く大きくという見栄えの問題もあるが、1層を囃子の座としたのがその要因であったと考えられる。
  この他にも形式的には、曳く、舁く、置くの違いがあり、本体の構造型式の違いも考慮すべきである。



人形山車

  人形を台上に飾り付けて行道する山車だしはその字のごとく"山"を象徴する車に発したが、その山は神降臨の場を意味し、山車は曳行することを必枢としたことから生じた。そのため、本来動かない山車はない。人形を山車に飾り付けて市街を曳行するものを「人形山車」としょうする。
  一般論としてその人形は最初、神の遷坐よりましとして巫子・翁?・聖者・伝説人物などを装置した。中世には風流化の影響によって能人形・武将・王者などが登場し、近世に及んで歌舞伎・人形芝居の主要人物なども現れた。また、人形山車の濫觴(起源)を「指南車人像(飛鳥)」や大嘗会の「標山人像(平安)」とする考説がある。
  神奈川県の人形山車は山車の多さに比べ大変少なく歴史も浅い。たいてい明治以降のものである。但し、先年焼失した腰越の人形山車は江戸期のものと言われ、藤沢市大鋸諏訪神社にあった人形はもと鵠沼皇大神宮のもので江戸時代の製作とされたが昭和四十年の所見では破損のため既に廃棄されていた。他の人形山車も交通禍はなはだしくほどんど居山車となって曳行せず、山車も人形も破損したらそのままで修復されないのが現状である。現在、人形を持たない山車は数百台を算えるであろう。

神奈川県の主な人形山車
所在社名祭日台数備考
伊勢原市三ノ宮比々多神社4/223加藤清正・熊谷次郎直美・先代萩の男の助
藤沢市辻堂諏訪神社7/274武内宿禰・神功皇后・源頼朝・源義家
藤沢市鵠沼皇太神宮8/179
三浦市宮川町神明社8/292神武天皇・他
鎌倉市極楽寺熊野新宮9/91八幡太郎義家・従者
鎌倉市長谷神明社9/141
横須賀市走水走水神社10/154神功皇后・他


  


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参考文献
タイトル著者/編集出版/発行出版年
祗園祭植木行宣・中田昭(株)保育社1996(平8)
山・鉾・屋台の祭り-風流の開花植木行宣(株)白水社2001(平13)

  ※上記の文献は他のページでも引用していることがあります。