土屋
神社の紹介
「熊野神社」は字小熊(こうま)にあり、第二次世界大戦前までは旧土屋村全体の鎮守で「オクマサン」とか「オクマハン」と呼ばれている。創立鎮座年月は不詳だが、鎌倉時代の建久年間(1190〜98年)に土屋ノ庄の領主「土屋三郎宗遠(むねとう)」が、庄内鎮護のため尊崇していた紀州(現在の和歌山県と三重県南部の一帯)熊野の熊野権現を勧請したと伝えられる古社で、宗遠の四男四郎宗光が今の地を社地と定めたという。小熊の地名も紀州の熊野に対して小熊野と称したのが、いつのまにか小熊(こうま)と呼ばれるようになったという。また、熊野神社の創建については、金目川をご神体(神輿ともいわれる)が流れていたのを引き上げてこれを祀ったともいう説もある。
祭神は「伊邪那美之命(いざなみのみこと)」・「速玉之男命(はやたまおのみこと)」・「輿母津事解之男命(よもつことわけおのみこと)」・「愛宕大神」・「十二社大神」・「造化二社大神」・「八坂二社大神」である。天正19年(1591年)に徳川家康から社領5石の地を寄付され御朱印を賜った。元和4年(1618年)9月に社殿を修造しており、このときの棟札が残っている。明治6年(1873年)7月30日には郷社に列せられた。
熊野神社は明治45年(1912年)に上庶子分(字十二社)と遠藤原で祀っていた「十二社神社」、下庶子分の「八坂神社」、惣領分の「八坂神社」、寺分の「八坂神社」、上惣領(矢沢)にあった「愛宕神社」、早田の「造化神社」、中庶子分(字八面)の「造化神社」の計7社を合祀した。そこで祭りの時は土屋中からから集まっていたが、昭和24年(1949年)に上惣領の愛宕神社と惣領分の八坂神社、早田の造化神社は分祀して熊野神社の氏子を抜けた。
熊野神社 | 玉垣 |
大鳥居 | 神社由緒 |
手水舎 | 中鳥居 |
狛犬 | 狛犬 |
熊野本宮御遷座百年記念樹 | 社務所・神楽殿 |
拝殿 | 弊殿・覆殿 |
拝殿には見事な彫刻 | 社殿内にも彫刻が |
奉献された土屋氏の絵 | 昭和17年頃の社殿は茅葺屋根 |
御神木の欅 | 境内 |
熊野神社は現在では「大庶子分」の「庶子分」・「小熊」・「遠藤原」、「大寺分」の「寺分」・「人増」の鎮守となっている。
若宮八幡社・相馬神社
現在の下庶子分(土屋台)地区には、昔「鉄砲馬場」と呼ばれた広い台地が開けていて、その一角に「若宮八幡社」と「相馬神社」があった。「若宮八幡社」は土屋三郎宗遠が再興した神社であるといわれるが、現在では「相馬神社」の石祠を残しているだけである。この馬場は流鏑馬の神事が行われていた場所で、相馬神社は馬の神様であるといわれている。祠内には「若宮八幡大神」と「奉斉相馬神社」の棟札があったので、古い若宮八幡社を再興するにあたって、そこに相馬神社を合祀したのではないかと考えられている。現在この相馬神社は熊野神社境内に移転され、隣に立っていた「祈國威發場碑」も平成11年(1999年)3月4日に境内へ移されている。
相馬神社 | 祈國威發場碑 |
熊野神社に合祀されている神社
●八坂神社(寺分)
寺分地区の鎮守である「八坂神社」の祭神は「須佐之男命」で、創立鎮座年月は不詳だが旧来は「天王宮」と称していた。明治3年(1870年)に八坂神社と改称し、明治6年(1873年)に雑社と定められ、明治45年(1912年)5月6日に熊野神社へ合祀された。昭和25年(1950年)頃までは「お天王さん」と呼ばれ、毎年8月19日の例祭には出店が並び演芸会も行われ、他地域からも大勢の老若男女が集まり賑わったこともあったという。現在は「正藏院」の右側山林の丘に神社の形跡らしきものが見られるが、社などは現存はしていない。
●十二社神社(上庶子分・遠藤原)
上庶子分の字十二社(じゅうにそ)に鎮座する「十二社神社」は平安末期に勧請されたと伝えられ、祭神は「天津神国津神」で、かつて当社は「十二社権現」と称した。土屋弥三郎なる者が、熊野から熊野神社を勘定した時に一緒に十二社権現を祀り、その土地をジュウニソと呼ぶようになったと伝える。さらに、十二社権現の側に地蔵堂を建てて地蔵を安置したという。建久年間(1190〜98年)に土屋宗遠が再興したという。明治3年(1870年)2月に十二社神社と改称し、明治6年(1873年)に雑社と定められ、明治45年(1912年)2月8日に熊野神社へ合祀された。現在は字十二社の地蔵堂に地蔵菩薩座像が1体だけ安置され、例祭日は6月26日であっが、毎月23日に上庶子分と中庶子分の人達によって念仏講が行われていたという。
遠藤原は1つの集落が道路を挟んで中井町と平塚市に分かれ、中井町分を「ウワブン」、平塚市分を「シタブン」という。現在のシタブンの氏神は熊野神社であるが、十二社権現が熊野神社に合祀される前は、上庶子分(字十二社)と共にこの十二社権現を祀っていた。一方、ウワブンでは「日吉神社」を祀る。
●造化神社(中庶子分)
字八面(やつおもて・はちめん)にある「造化神社」は中庶子分地区の鎮守で、建久年間(1190〜98年)に土屋宗遠が再興したと伝えられる。祭神は「造化三柱大神」で古くは「第六天(社)」と称し、「道化神社」とも呼ぶ。零細7月8日と12月8日の「野あがり」の日に行っていたが、その後は7月15日の「万能鍬洗い(まんがれい)」になり、さらに7月15日前後の日曜日に変わった。明治3年(1870年)2月に造化神社と改称し、明治6年(1873年)に雑社と定められ、明治45年(1912年)2月8日に熊野神社へ合祀された。
●八坂神社(下庶子分)
「建速(軍?)神社」は下庶子分地区の鎮守で、かつては「宗憲寺(そうけんじ)」の裏山に社があったが現存していない。例祭日は7月8日であったが、近年は7月8日前後の日曜日に自治会館で幟を立てて執り行われているという。この建速神社は文献上では見当たらないが、大正11年(1922年)の『熊野神社誌』に小字庶子分下谷戸に鎮座する「八坂神社」とあり、これが建速神社と同一のものと思われる。さらに同誌によれば祭神を「素戔鳴尊」と「猿田彦之命」とし、創立年月は不詳だが当初は「天王宮」と称し明治3年(1870年)に八坂神社と改称、明治45年(1912年)に熊野神社へ合祀されたとある。
餅作り
宵宮の前日には大祭で撒くための餅作りが、毎年18時頃から4〜5時間ほど掛けて行われる。餅は紅白がそれぞれ1個づつで1組とし、5000組を目標として作業が進められる。ちなみに平成20年(2008年)は7000組も作ったという。
境内で釜にお湯を沸かしてもち米を炊き、炊き終わると神楽殿に置いた餅つき機で粘りが出るまでこねる。平成14年(2002年)頃までは臼と杵で餅をついていたが、現在は機械のみでついている。つき終った餅は丸い棒で片栗粉をまぶしながら薄くなるまで伸ばし、伸ばし終わった餅は重ねて置いていく。紅い餅を作る際にはつく前に食紅を混ぜ、つき終わると白い餅と同様に薄く伸ばしていく。この日の作業はここまでで、続きは翌日の宵宮に行われる。
宵宮前夜から餅作り | 洗ったもち米を境内で炊く |
神楽殿では餅作り | 炊き上がったら餅つき機へ |
しゃもじでほぐして | しばらくこねる |
一方、紅い餅は | 食紅を一緒に入れ |
しゃもじで混ぜて | こねる |
餅がこねあがると | 蓋を開ける |
板に片栗粉を敷き | 中央に紐を置く |
餅を板の上に移し | 紐で中央を切る |
片方の餅を | 隣へ移す |
餅に片栗粉をまぶし | 手で伸ばしていく |
ある程度伸びたら | 棒で伸ばす |
棒で伸ばし終えると | 片栗粉をまぶす |
折りたたんで | 餅を移動 |
餅を広げて | 重ねていく |
余った餅は | 鍋に移し |
裏へ運ぶ | 餅を水に付け |
小さくちぎって | 黄粉と大根おろしを付ける |
餅を全て引き伸ばすと | 神楽殿の掃除 |
餅つき機をエアーで掃除 | 服に付いた粉もエアーで飛ばす |
境内では火を消し | テーブルに餅と飲み物を並べる |
神楽殿の入り口に柱を立て | シャッターを降ろす |
神輿保存会が境内に集まり | 皆で餅を食べる |
味付けは大根おろしと | 黄粉の2種類 |
私もご一緒させて頂きました | 餅を食べ終わると |
テーブルを折りたたむ | 続きはまた明日 |
宵宮では男性陣が神輿や境内の準備を行うため、餅作りは女性陣が中心になって進められる。朝の9時前頃から前日に重ねておいた餅を角状に切り分け、熊野神社と書かれた白い紙と一緒に赤と白の餅を1個づつ袋に詰めていく。昼前になると境内の準備を終えた宮世話人達も餅作りを手伝い、昼食を挟んで全ての作業が終わるのは15時頃になる。
宵宮は早朝から餅作り | 女性を中心に作業開始 |
薄く伸ばした餅を | 角状に切る |
切った餅がたまると | 袋詰め |
紅白の餅を1個づつと | 熊野神社の紙を入れて封をする |
境内の準備を終えた | 宮世話人も加わり作業は続く |
神楽殿前ではたまった餅を | 数えて袋にまとめる |
お昼になると作業を中断 | 神輿保存会は拝殿へ |
昼食をとると | 午後も作業は続く |
よやく餅作りが終わり | シートの上を片付ける |
粉を掃き、シートを雑巾で拭く | 最後にシートを折りたたむ |
宵宮
かつてヨミヤの晩には小熊の者が境内に集まって宮番をし、酒を一杯飲みながら昔話の肴にして朝まで番をしたこともあったという。幟立ては小熊の者が行うが、幟倒しも小熊の者が行う。また、祭りの期間中はノボリカンシといって、雨のときに幟を降ろす役割も2名があたった。幟竿は7間もあり、神社の縁の下に置いてあった。以下は現在の宵宮の様子である。
●大祭準備
朝8時までに宮世話人は境内に集まり、打ち合わせで仕事の役割分担を確認した後に大祭の準備を進めていく。準備は9時30分頃には終わり、手が空いた者から神楽殿での餅作りを手伝う。
早朝から祭壇に供える | 供物を運ぶ |
宮世話人が境内に | 集まると |
朝の打ち合わせが始まる | 宮世話人会会長の挨拶 |
準備の役割分担を確認して | それぞれの持ち場へ移動 |
倉庫からは | 資材を取り出し |
運び出す | お神酒とビールは |
軽トラックに積み | 各行在所(自治会)へ運搬 |
中庭の中鳥居には | 注連縄を張る |
入り口の大鳥居にも張る | 写真に従って |
手水舎や | 御神木のケヤキ |
祈國威發場碑の鳥居 | 神輿格納庫にも注連縄を張る |
拝殿横では柱を立て | ベニアを張り掲示版を作る |
こちらはお宮の花車 | 屋根を取り付け |
花を垂らし | 幕を張って完成 |
本殿や幣殿 | 拝殿内では掃き掃除 |
ガラスの窓を拭く | |
本殿に幕を垂らし | 祭壇の準備 |
本殿や | 社殿内に注連縄を張る |
拝殿前にも注連縄を張り | 扉を外す |
柱には笠を立て | 提灯を取り付ける |
拝殿の外周には | 紫の幕を張る |
こちらは御魂抜きで使う青い幕 | 拝殿から幕を出し |
掲示版へ掛け | 天日干し |
境内入り口では | 幟竿に板を取り付け |
板に彫刻をはめる | 下にも小さい彫刻 |
笠を取り付け | 木の柵を張る |
幟を準備し | 紐で吊るす |
幟を引っ張り上げながら | 紐と竿を固定 |
更に紐を引っ張り | 2枚の幟を |
揚げ | 余った紐は巻きつける |
幟竿の横のポールには | 日の丸の国旗を揚げる |
準備が終わると | 神楽殿前で休憩 |
●神輿準備
神輿保存会は8時30分頃から神輿の準備を始め、モジリ掛けや提灯などの飾り付けを行う。神輿の準備は昼頃までにほとんどが終わる。
神輿保存会は神輿保管庫へ | 馬を運び |
神輿を台車ごと | 境内へ移動 |
古い輿棒を | 棒穴へ差し込み |
台車を抜いて | 馬に乗せる |
古い輿棒を | 抜き |
神楽殿から新調した輿棒を | 取り出し、掲示板裏を通って |
境内へ運び | 箱台輪へ差し込む |
2本目も同様に | 差し込む |
芯出し綱を通し | 輿棒に巻きつけておく |
こちらは稲穂を束ね | 2本を交互に組む |
中心を紐で結び | 左右のバランスを取る |
紙を中心付近に巻きつけ | 紐で固定する |
組物に注連縄を張る | 鳳凰に巻いてある |
サラシを外し | 最上部の露盤へ |
足を差し込む | 嘴に紙垂を掛ける |
4つの小鳥は | 蕨手に差し込み |
ピンで固定 | 鳥居には榊を飾る |
サラシを鳳凰に掛け | 蕨手に巻きつける |
モジリを掛けていく | 鳳凰の嘴に稲穂を掛ける |
4個の鈴を | サラシへ結び付ける |
網を広げ | 胴回りに掛けていく |
4つの提灯は | 角へ取り付ける |
●生姜とキュウリ
地元で取れた生姜とキュウリを洗って、食べやすい大きさにする。生姜は量が多く土を落とすのに時間が掛かるため、作業は午後まで掛かる。
軽トラが到着 | 荷台には地元で取れた生姜 |
生姜を降ろして | 水で土を落とす |
茎を切り取り | 仕上げ洗い |
洗浄後はケースへ | こちらはキュウリ |
水で洗い | 並べていく |
食べやすい大きさに切り | ケースに入れる |
塩を降り | 手で揉む |
●午後の準備
神輿保存会は午前中に神輿の準備を終えると、直会で使う御神酒の準備や神輿巡行で配る焼酎割りなどの準備を行う。全ての準備が終わるのは17時30分頃で、神輿保存会はここで解散となり、会員は各々の自治会へ戻って太鼓の準備などを行う。
神輿保管庫から | 一斗瓶を運ぶ |
中に水を入れて | 手で口元を押さえ |
左右に振って | 洗浄 |
中の水を捨て | ひっくり返して水を切る |
こちらは中に入れる日本酒 | 一升瓶10本を並べる |
明日はこの枡で | 直会 |
軽トラにカラーコーンと | 『駐車禁止』の標識 |
コーン・バーを積み | お宮を出発 |
標識を立て | コーンを立てる |
お宮では拡声器の準備 | 新品を箱から取り出す |
しまってあった拡声器は | 電池を確認 |
神輿の台車は軽トラへ | ひっくり返して |
荷台へ載せ | 大祭で使う場所へ移動 |
一斗瓶の水気を拭き取り | 酒を入れていく |
十升は時間が掛かるので | 漏斗(じょうご)が登場 |
一升瓶を逆さにして | 勢いよく注ぐ |
満タンになると蓋をし | 社殿へ運ぶ |
本殿へ向かい | 祭壇前に一斗瓶を置く |
神楽殿からは焼酎を出し | 裏へ運んでいく |
空いたボトルに焼酎を入れ | 水で割る |
コップに注ぎ | 皆で試飲大会 |
ちょっと濃くない? | いやこんなもんだ! |
続いてお茶割り | ボトルを振ってよく混ぜる |
ウーロン割りも作り | ボトルに種類を表示 |
境内に花車のトラックが到着 | 中を掃除し |
シートを敷き | 入り口に紅白幕を垂らす |
ビニールシートを回し | 紐で張る |
神輿保存会の幕を掛け | 中に御座を敷く |
飲み物などを運び | 荷台に積み込む |
神輿は夜露対策で | ビニールシートを掛ける |
蕨手は外に出し | 井垣付近で結ぶ |
準備もそろそろ終盤へ | 倉庫からテーブルを運び |
拝殿横に積んでいく | 神楽殿に照明を取り付ける |
お宮での準備が終わると | 境内で一服 |
神輿保存会はここで解散 | 各地区の準備へ向かう |
宵宮では神輿を担いだり境内で余興を催すことはないが、各地区の山車が太鼓を打ち鳴らしながら土屋地区を巡回する。
お宮の準備中に太鼓の音が | 庶子分の山車がお宮を |
通過 | 反対側からは |
地元小熊の山車 | 土屋地区を巡回していく |
夜になると小熊はお宮前で叩く | 明日はいよいよ例大祭 |
囃子
土屋地区の祭り囃子は昭和10年(1935年)代までは笛と鉦が入っていたと伝えられ、戦後の混乱で笛や鉦が消失し人材も少なくなったという。太鼓を叩くのは各部落の青年達で、大太鼓1・小太鼓2・笛で1つの組が形成されていた。太鼓は神社の境内に丸太で作られたタナの上で叩かれ、その準備には各地区の太鼓連があたった。
遠藤原の青年はかつて小熊部落の太鼓一揃いを借りていたが、近年になり別に買い揃えた。太鼓は嫁迎えのときにも叩いた。また、ウワブン(中井町)の祭礼の時にも出掛けて叩いた。
現在の熊野神社では「小熊太鼓連」・「遠藤原太鼓連」・「庶子分太鼓連」・「人増自治会」・「寺分太鼓囃子保存会」の5団体が例大祭に参加しており、神輿が町内を巡行する際には5台の山車が土屋地区を巡回する。各山車は神輿を先導する役目があり、基本的には行在所がある地元の山車が神輿の前を走り、それ以外の4台は行在所の周辺で早めに待機するようになっている。なお、小熊には神輿と一緒に回る山車以外に、小熊地区を専用で巡回する山車がもう1台出る。
小熊(横) | 小熊(正面) |
小熊の地元巡回用(横) | 小熊の地元巡回用(正面) |
遠藤原(横) | 遠藤原(正面) |
庶子分(横) | 庶子分(正面) |
人増(横) | 人増(正面) |
寺分(横) | 寺分(正面) |
太鼓の練習は各団体毎に別々に行い、各自治会館などで大祭に向けて練習をする。小熊太鼓連では子供達の夏休みを利用して、お盆期間には土・日を除く平日の19時30分から1時間ほど練習をするという。下記は宵宮前日の境内での練習の様子である。
小熊太鼓連が境内で練習 | 大人は子供達に太鼓の指導 |
拝殿前では太鼓を | 柱にくくりつけて叩く |
囃子 (小熊) |
---|
土屋地区は平塚市と秦野市の境にあることも関係してか、平塚系統と秦野系統が混ざったような調子に感じられる。太鼓の革はそれほど極端に強く張ることはなく、子供が中心に叩く団体が多く見受けられる。演奏する曲は俗に言う「ばかっぱやし」がほとんどで、それ以外の曲はあまり叩かれていないか、または伝承がされていないようである。
土沢地区太鼓まつり
「土沢地区太鼓まつり」は土沢地区の相互親睦ならびに友愛と団結を旗印として、昭和52年(1977年)から4月17日に行われていた。自治会主催で太鼓連による競演や、婦人会による民謡等の踊りが盛大に行われていた。愛宕山自然公園の桜が満開に咲き誇る中で、10基の太鼓が勢ぞろいした姿は見事であったという。当行事は残念ながら現在は行われていない。
神輿
熊野神社神輿の内部には嘉永7年(1854年)8月の修理銘があり、二宮町の棟梁伊勢松他によって修理された記録が残されている。その後は昭和58年(1983年)と平成20年(2008年)にも修理が行われている。一説によると三ノ宮から譲り受けたという話もある。
昭和29年4月17日の写真 | この頃は三ノ宮の様な蕨手 |
昭和58年9月の修理記念額 | 蕨手が細くなっている |
昭和61年3月16日の写真 | 蕨手は細いまま |
平成2年4月22日の修復祭 | 蕨手が元に戻る |
平成20年9月の神輿改修記念 | 蕨手が一回り大きくなる |
平成21年9月26日撮影 | 同左の飾り付け後 |
H20大神輿改修奉賛者御芳名 | 社殿左横の神輿格納庫 |
土屋地区にはこの大神輿の他に各地区ごとの子供神輿が7基あり、例大祭当日の式典に集結する。
小熊 | 遠藤原 |
上庶子分 | 中庶子分 |
人増 | 寺分 |
下庶子分 | 境内に揃う子供神輿 |
上記の神輿以外に現在では担がれていない神輿があり、本殿の両脇に保管されている。1基は子供サイズの神輿でかなり古く、惣領分で譲り受けたという説もあるが定かではない。もう1基は平成12年(2000年)頃に伊勢原市の小稲葉で製作された塗りの無い白木の神輿で、大神輿が担がれなかった時期に変わりに担がれていたものである。この白木神輿は平成20年(2008年)に大神輿が改修されてからは担がれていない。
今は担がれない子供神輿 | 一時期担がれていた白木神輿 |
かつては祭りの準備は各部落にそれぞれの役割が当てられ、幟を立てるのは小熊、拝殿・奥の院の清掃は遠藤原と上庶子分、神輿のモジリカケは下庶子分が受持ち、神楽殿の清掃・幕張などその他の雑事には残りの部落が当たった。神輿の「モジリカケ」というのは神輿を古い麻縄で下締めをし、前年に用いた晒(さらし)で中巻をし、最後に上巻といって新しい晒で綺麗に巻くことである。また、神輿に乗っている孔雀(鳳凰)の口に稲の穂を縛り付けるが、この稲穂はネリタで作った早稲で9月に収穫したものであった。また、熊野神社の境内では神輿渡御の際に一番太鼓・二番太鼓・三番太鼓が打たれ、三番太鼓は神輿の中にミタマが入った合図であった。
戦前まで熊野神社の境内を出発した神輿はネリバタケ、引き続いてネリタ(ミコシダともいわれる)という場所に入って神輿をネッた。ネリタは個人持ちの田を1反ぐらい借りておき、稲刈りの終了後に青年たちが共同で鍬で耕してドブドブの状態にしておく。神輿はこのネリタで稲作物が豊熟するようにと祈念されながらネられるが、神輿が田の中で倒れることはめったになかった。神輿をネってから相馬神社へ行き、そこに神輿をすえると鉄砲馬場で流鏑馬が開始された。鉄砲馬場は大乗院の東側にあり、流鏑馬の他に草競馬などをしたという。流鏑馬に出る者は惣領分にある駒ヶ滝へ行って滝に打たれて身を浄め、鳥帽子を被り白装束で弓を射った。流鏑馬は2人で行われた。流鏑馬が終ると神輿は熊野神社に戻った。
一時期、神輿は部落中を巡回した。その順は、遠藤原→上惣領→矢沢→琵琶→脇→上庶子→中庶子→下庶子→早田→人増→寺分→下庶子→小熊であった。各部落では竹を2本立てて縄を張り、注連をつけた行在所(アンザイショ)を作って、そこにその地区で収穫された農作物や海のものなどを供物として供えた。行在所では「タチオミキ」を称して酒などを飲んだ。その行在所に神輿が回ってきたが、重労働であることから自動車を用いることもあった。合祀された神社がもとの場所に戻ると、熊野神社の神輿は全ての部落を次第に巡回できなくなってきた。
甚句
熊野神社の祭礼は一時期、太鼓や神輿が衰退していたが、昭和50年(1975年)頃に氏子の篤い思いにより、太鼓連が各地区で盛んになってきた。昭和54年(1979年)7月15日に「熊野神社神輿保存会」が結成されると神輿が土屋の里を練り歩くようになり、神輿に付き物の甚句が唄われるようになった。
ここでは土屋に関する甚句を2つを紹介する。1つ目は下庶子分の小清水守三氏が作詞した「土屋甚句」で、土屋の里に関する歴史や自然、土沢地区太鼓まつりの様子などが書かれている。2つ目は「熊野神社神輿保存会甚句」で、作詞は本神社の宮司である武藤一枝氏である。
●土屋甚句 (作詞:小清水守三)
(一) セー 土屋よいとこ歴史の里よ 古き鎌倉時代には
頼朝公の側近で 土屋三郎宗遠の 今に残せしその墓と
今に残せし館跡 遠き相模のつわものよ
(二) セー 土屋名代は熊野神社の神輿
紺で揃った半天は 熊野神社神輿保存会
小熊ふりだし遠藤原 庶子分 人増 大寺分
稲穂くわえた鳳凰が 羽を揺らせてゆさゆさと 部落 部落をうかれゆく
(三) セー 太鼓祭りは 春は桜の愛宕山 部落自慢の太鼓連
染井吉野か八重桜 桜そこのけ山車が行く
腕を競いし馬鹿っぱやし 今年は何処が鳴ったやら
桜吹雪が杯に 舞い散る愛宕の花見酒 丹沢山まで打ち鳴らせ
(四) セー 土屋の野山に鳴く鳥は 正月笹鳴き鴬よ
梅が咲いたらホーホケキョ 三月そろそろ揚げ雲雀
燕飛び来る春四月 五月頬白あちこちに 一筆啓上つかまつる
六月梅雨の田圃には 水鶏の叩くいとおかし
七月小綬鶏の親子連れ 蝉の野山を一巡り
八月日照りに小雀は 小川の浅瀬で水遊び
月の九月に雁が行く 十月柿の実秋目白
椋鳥千羽霜の月 師走のヒヨドリ春を待つ
●熊野神社神輿保存会甚句 (作詞:宮司 武藤一枝)
(一) セーーエエー 荘厳なる 熊野神社のみそのねよ
御苑の繁みはうっそうと けやきの古木は清風(きよかぜ)に
神苑(みその)の奥に宮び建つ 今の世稀(まれ)な厳(いか)しさに
匠の妙技(わざ)のノミのあと 祖先を祀る信仰の
あつい心に 感深く
(二) セーーエエー 勧請(かんじょう)杉苗
熊野本宮 御祝典(みまつり)に 世話人達が招かれて
栄(は)えの代表参拝し 尊い神符(ふみだ)と杉の苗
かたじけなくも勧請し 賢き本宮の神威こめ
未来に伸びよ熊野杉
(三) セーーエエー 化粧なおしたよ
眩いばかりなこの神輿 御神輿に集え若者よ
担いで練って睦みあり 甚句を唄え音頭とれ
祈れ土屋の弥栄(いやさか)を 守れ氏子のよ幸せを
土屋の地域区分
当地区全体を指す「土屋」という地名の由来を調べると、『和名称』に「窟説文云 窟以 土屋此也」とあることから、土屋は「岩屋」といわれたところで、岩屋(イワヤ)は現在の大寺分の寺中にある「土屋窪」と「上土屋窪」に当たる地域のことである。寺分の1777番地南方の雑木林の中に複雑な構造をした地下式壙があり、この付近を岩屋といっていたものが転じて土屋窪といわれるようになり、これが土屋の起源だといわれている。
土屋は平塚市の一大字であるが、江戸時代の1702年における地方支配の基本的な年貢徴収の帳簿である『元禄郷帳』によると、「土屋惣領」・「土屋庶子分村」・「土屋寺分村」とあり、1834年の『天保郷帳』によると土屋村は一村となっている。また、永禄2年(1559年)の『小田原衆所領役帳』によると土屋地区は4分割されており、この4つは「惣領分」・「庶子分」・「寺分」・「五分一」のことである。これが1830〜1844年の『天保考定図』によると「土屋村」と「五分一村」となっており、土屋村は惣領分・庶子分・寺分をまとめた地域であった。
五分一村とは土屋地区の南西部にある現在の平塚富士見カントリークラブのクラブハウスを含めた、その西側の葛川までの一帯をいい、北は井口村、東は葛川、南は一色村(二宮町)、西は久所村と井口村に接した地域で、明治19年(1886年)に井口村に合併している。五分一とい名の由来は、貞永式目の第32条に勤厚積労の嫡子が継母の讒言(ざんげん)あるいは庶子の偏愛のために廃嫡された場合には、新嫡子の所領のうち五分の一を廃嫡子に与える規定があり、当地の五分一は土屋氏のうちで過失無くして廃嫡された人の遺領であると思われる。
昭和54年(1979年)時点の土屋地区には4つの自治会があり、さらに自治会組織の中にはかつての部落に相当する「区」と呼ばれる区分が存在する。寺分の1〜4区は自治会の区を整備する時に作られたと思われ、比較的新しいまとまりであるが、他は旧来からのものと思われる。これらの部落は講などの結成の基盤であり、大山灯籠を立てる時の組ともなり、村仕事などもこれを単位としてなされた。部落毎に道祖神の祭祀を行うことも多く、また部落の氏神的な神社を持つところもあり、部落を基盤として行われる伝統的民族行事は多い。
各地区の配置状況を大観すると、惣領分は土屋地区の西部、庶子分は土屋地区の東部の内で地区内のほぼ中央部を東流する座禅川の北側で、その川の南側が寺分となっている。上述のように惣領分はさらに分割され、西側の奥まった方が上惣領、その東側が惣領分となっている。
自治会(分) | 区(部落・組) | 読み方 | 区毎で祀る神社 |
大寺分 | 寺分(上・中・下) | てらぶん | 八坂神社(1) |
早田 | そうだ | 造化神社(1) | |
人増 | ひとふえ | ― | |
大庶子分 | 上庶子分 | かみしょしぶん | 十二社神社 |
中庶子分 | なかしょしぶん | 造化神社(2) | |
下庶子分 | しもしょしぶん | 八坂神社(2) | |
小熊 | こうま | 熊野神社 | |
遠藤原 | えんどうはら | 十二社神社 | |
惣領分 | 上谷 | かみや | 八坂神社(3) |
脇 | |||
八坂下 | |||
琵琶 | びわ | ||
上惣領 (矢沢) | 上屋 | かみや | 愛宕神社 |
中川 | |||
中手 | |||
下屋 | しもや | ||
中入 | なかいり |
※氏神社の( )内の数字は異なる神社を意味する。土屋村の総鎮守であった熊野神社は、現在では人増・小熊以外にも寺分・庶子分(上・中・下)・遠藤原が祀る。人増は昔から独自の神社がなかったようである。
いくつかの部落が集まってできたまとまりを「分(ぶん)」と呼び、「惣領分(そうりょうぶん)」・「大庶子分」・「大寺分(おおてらぶん)」がある。「上惣領」は惣領分の一部であったらしいが、現在は独立している。これらを統一して近世村である土屋村があり、民族の慣行の中ではこの段階で行われるものとして、村氏神である熊野神社の祭礼が代表的なものである。「分」は土屋の村組織上の特徴の1つに数えられるといえよう。
こうした地域区分の由来は土屋城主であった土屋三郎宗遠によるもので、当時宗遠には子供がなく、そのため岡崎城主の岡崎四郎義実の次男の義清を養子に迎え、これを土屋次郎義清と名付けた。ところがその後宗遠に実子の土屋三郎宗光が生まれ、この二人に所領を与えるにあたって宗光の所領を惣領分、義清の所領を庶子分とし、これとは別に宗遠が関係した寺院のために用意した土地を寺分とした。
土屋城
現在、「土屋城」をの跡地を示す標柱は庶子分の「大庭」という小字の北東部の三叉路の角に立っているが、土屋城の範囲はその北側の子熊にある大乗院を中心とした子熊・高神山・木舟・堂ケ山・ヤウジに跨っていた。その遺構とみられるものとして熊野神社の東側の傾斜地に曲輪らしき2、3段の土塁や、弁天様の祀られている井戸跡と思われる清水の湧き出ている箇所がある。また、『風土記稿』には土屋宗遠の屋敷地として「宗憲寺境内なりと云、その辺の字に下屋敷・屋敷内などの唱あるのみ、遺形と覚しき所なし」とあり、宗憲寺は尾根筋にある大乗院の末寺で、明治初年に大乗院に合併されて廃寺となっている。旧地は庶子分の谷の奥、丘陵尾根近くの南に面した緩やかな階段状の平坦面にあり、その方形敷地の西隅には一族の墓がある。
当地付近の字名の「高神山」は高台の陣地を意味し、これを城とする説もある。「木舟」は宗遠が出陣の折に祈願した「木舟神社」があったことに由来し、「堂ケ山」は大乗院末寺の正福寺薬師堂があった裏山といわれ、別に熊野神社の流鏑馬の馬場があった所ともいわれている。「ヤウジ」の由来は不詳である。
土屋一族の墓は大乗院の南約100mm、土屋城跡の碑の南の傾斜面の中腹にあり、元は東側の畑になっているところにあったが、屋敷跡が開墾された昭和10年(1935年)に供養碑・五輪塔などを現在地に収集移転したものである。そこには土屋宗一族の供養碑・五輪等23基・供養塔3基・石碑・記念碑などが置かれている。
青年
●友愛会(大庶子分)
大庶子分には戦前まで「友愛会」が組織されていて、16歳で加入して37歳までの青年層の組であった。世話人は年長者がなり、青年集団の一切を取り締まる。大庶子分では長男でないと役員にはなれず、役員は12名程あった。婿はいくつになっても下っ働きをした。小熊にあった集会所に集まって、十五夜の月見や春の花見に酒を飲んだ。遠藤原の青年も小さな小屋を建てて、「青年クラブ」という集会所を持っていた。
友愛会の活躍は主として祭礼の時であり、祭り囃子の組を組んでいた。祭礼には大寺分・惣領分からも青年が来て、競争で太鼓を叩いていたので、小熊には部落の青年の宿ができていた。大寺分は越光愛次郎家、惣領分は栗山益三家、大庶子分は蓑島周吉家であり、各地区の青年は祭礼の日に弁当を持ってそれぞれの宿に集まる。宿は各青年の役員が頼み込んで決めたものである。
●自生会(寺分)
昔は青年のことを「ワカイシュレン」といっていたが、それを「青年会」と呼ぶようになり、「青年団」となった。また、主として熊野神社の祭礼に太鼓を叩く(祭り囃子)ための集団があり、「自生会」と名付けられていた。これは16歳から加入できて、35歳までの者であった。自生会は大正の初め頃に結成されたといわれ、戦争中まであったそうである。このような祭り囃子のための会は早田・人増にも1組あり、熊野神社の祭りの時は境内に舞台を4つ(寺分・早田と人増・大庶子分・惣領分の4つか?)掛けて太鼓を競った。
以上述べた青年の集団とは別に「青年団」があって、これは16歳で加入して25歳までであった。青年団は大寺分・大庶子分・惣領分と分かれていて、大寺分内でも寺分・早田・人増は別組織であった。
流鏑馬・競馬行事
土屋三郎宗遠が当地を領して以来、土屋一族が流鏑馬を行い、古来より重き行事として伝えられた。また、競馬は徳川時代に地頭長谷川甚四郎によって始められた。流鏑馬と競馬は昭和15年(1940年)頃までは神社近くの馬場において奉納され、神事としてその年の豊作を祈ったといわれる。この馬場は「鉄砲馬場」とも呼ばれ約300mの直線馬場で、流鏑馬は馬場の東から出発して、途中の松の木にある的を射ながら西へと走り抜けた。これに出場する馬は惣領分の駒ヶ滝の水で清め、神事に向かったと伝えられている。流鏑馬は三頭馬で一番馬・二番馬・三番馬の順に、装束に身を固めた射手が一人二射したといわれている。このあとに草競馬が直線コースで行われた。
この地区は農耕だけでなく乗馬も盛んで、小熊には92間の、遠藤原には200間の鉄砲馬場があった。馬の頭数は明治3年(1870年)の『村差出明細帳』には39頭とある(当時の戸数は179戸)。土屋地区に馬がいたのは昭和35年(1960年)頃までで、当時は矢沢に2頭位いた。馬が多かったのは大正時代までで、矢沢(上惣領)では50軒中30軒くらいにはいたという。馬にはカゲ馬(赤毛)、アオゲ(黒光りしている馬)、クリ毛、アンゲ(白っぽい馬)がいて、小熊の「相馬神社」が馬の神様だといわれている。
御供田祭・練り田儀式
かつての土屋村は土屋寺分・土屋惣領分・土屋庶子分にして、永禄時代(1558〜69年)の地頭湯本村の早雲寺・神田次郎右衛門・石巻正寿らが、田地(神田地)2反を寄進した。古くから重き祭事としてその神田地において年番毎に祭事である「御供田祭」を執り行った。その後は、徳川時代になり地頭大久保右近次郎が神田地を寄進している。9月の祭礼ではこれらの寄進された田において神輿渡御である「練り田儀式」を行い、引き続き土屋若宮八幡宮に渡御をしてから神前にて流鏑馬神事や競馬が奉納された。
9月29日は御神体が金目川から上がった日といわれ、その場所は「ミコシダ」といわれる神田で3畝ほどであった。祭礼の時は熊野神社を出た神輿が初めにミコシダに行って練り、ミコシダは神輿をネルので「ネリダ(ネリタ)」とも称した。ネリタは土屋92番地付近にあり、この他に「ネリバタケ」が土屋74番地付近にある。練り田儀式は昭和の始め頃まで執り行われていたが、流鏑馬と競馬と同様に現在は行われていない。
例大祭
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると例祭日は旧暦の9月29日であったが、第二次世界大戦後に農作業の関係で4月15日・4月19日・10月15日などに変更された。その後、野菜栽培や酪農の関係で現在の9月最終日曜日になった。
昭和10年(1935年)代までは神事の際に、笛・太鼓・篳篥・笙などの楽器で雅楽が演奏されていた。また、神楽殿で神楽や田舎芝居などが行われ、神楽番を組織して芝居などの準備に当たったが、昭和30年(1955年)代からはその姿は消えてしまった。祭りの日には露店が20〜30軒ほど軒を並べ、賑わった。
小熊有志神楽修得記念 | 平成21年は露店が3店出る |
以下は現在の例大祭の様子である。
●大祭準備
境内では7時頃から準備が進められ、宮世話人は社務所前に、神輿保存会は神楽殿横にそれぞれ受け付けのテーブルを設置する。その後は式典や神輿の準備などが進められる。
子熊の山車がお宮に到着 | 境内に宮世話人が集まる |
羽織姿の行列進行管理者 | 受付の準備 |
神輿保存会も | 受付の準備 |
お宮と | 保存会の花車の準備 |
拝殿内では掃除をし | 式典用の椅子を並べる |
神輿はシートを外し | 稲穂を整える |
神輿用の襷の準備 | 小熊の子供用の山車が到着 |
宮司が到着し | 受付で挨拶を済ますと |
社殿へ向かい | 祭壇の確認 |
続いて神職も到着 | 社殿へ向かう |
保存会は紙コップにお酒を注ぎ | 乾杯用の御神酒の準備 |
●子供神輿と太鼓山車の集結
7時30分頃になると各地区の子供神輿と太鼓の山車が到着し、7基の子供神輿は境内へ並び、5台の山車はお宮前の道路沿いに止める。
遠藤原の子供神輿が到着 | 軽トラから神輿を降ろし |
境内に置く | 大神輿では扉の鍵を開ける |
2番目は下庶子分 | 神輿を降ろす |
寺分も直ぐに到着 | 境内まで神輿を運び |
下庶子分と | 寺分が神輿を並べる |
大神輿では肩を入れ | 担ぎ上げる |
社殿前に移動し | 輿を降ろす |
4番目は上庶子分 | 境内に神輿を並べる |
遠藤原太鼓連の | 山車が到着 |
お宮前を通過し | 小熊の後ろに着ける |
5番目に小熊の神輿が到着 | 奥側に輿を降ろす |
6番目は中庶子分 | 更に奥へ神輿を置く |
庶子分太鼓連の山車が到着 | 遠藤原の後ろに着ける |
寺分太鼓囃子保存会が到着 | 一番後方に着ける |
最後に人増自治会が到着 | 庶子分と寺分の間に入る |
最後は人増の子供神輿 | 参道を通り |
鳥居を通過 | 7基の子供神輿がお宮に集結 |
●式典と御魂入れ
8時になると六所神社の宮司により式典が執り行われる。この時間帯になると神輿の担ぎ手である友好団体も次々と到着し、受け付けを済ますと式典が終わるまで境内で待機する。社殿内での神事が終わると関係者は境内に降り、神輿に御魂を入れた後に、神輿前にて神事を執り行う。
関係者が拝殿に集まる | 宮司が社殿へ向かい |
太鼓の合図で | 式典が始まる |
神輿の友好団体は受付へ | のし紙を花車へ貼っていく |
地元の担ぎ手がお宮へ向かう | 境内に集まった担ぎ手たち |
子供達も境内に集まる | こちらは大神輿前で記念撮影 |
太鼓の合図で | 社殿内での神事が終了 |
中から青い布を取り出す | 神職は境内に降り |
神輿をお祓い | 横からもお祓い |
続いて子供神輿を | お祓いしていく |
布の準備ができると | 神輿を一周して |
覆い | 宮司により御魂が入れられる |
神輿保存会は | その間に餅を運び出す |
御魂入れが終わると | 布を外す |
神輿前に榊を置き | 神輿前での神事が始まる |
最初に修祓 | 神輿をお祓い |
続いて宮世話人と保存会 | その他関係者をお祓い |
子供会もお祓い | 修祓が終わるとお札を持ち |
子供神輿へ向かう | 1基ずつ順番に |
お札を付けていく | 子供神輿の御魂入れに続き |
祝詞奏上 | 玉串奉奠で式典終了 |
式典が終わると神輿がお宮を出発し、夕方まで土屋地区を巡行していく。神輿渡御には「西廻り(お上り)」と「東廻り(お下り)」があり、通る道は同じであるが隔年で回る方向を反転させる。ちなみに平成21年(2009年)は西廻りであった。また神輿が町内を巡行している間、境内では午後になるとバンド演奏や飛び入りカラオケなどの余興が催される。神輿渡御の様子は下記を参照。
・神輿渡御(前半)
・神輿渡御(後半)
●式典と直会
神輿が無事に宮着けされると関係者は拝殿に上がり、18時頃から式典が執り行われる。式典は15分程で終了し、その後は「直会(なおらい)」という行事が行われる。直会は神輿渡御と同様に神輿保存会の宮発ちの甚句から始まり、フンドシに腹巻姿の男五人衆が宵宮に準備をした一斗瓶を担ぎ上げて、「ドッコイ」の掛け声に合わせて観客の輪の中を一周していく。各団体の代表者が名乗りを上げると「サセ・サセ」の掛け声で枡に酒を注ぎ、酒を飲み干すと「サシター・サシター」の掛け声に変わる。最後は宮入りの甚句が入り、神輿保存会の会長が飲み干すと終了となる。
関係者が拝殿に上がり | 太鼓の合図で |
式典開始 | 担ぎ手は境内で休憩 |
なにやら怪しい人影が | 裏へ行くと裸の男達が |
フンドシと腹巻姿で現れ | 拝殿前で打ち合わせ |
太鼓の合図で式典が終了 | 男達は拝殿へ向かう |
拝殿内から | 一斗瓶を受け取る |
副会長から直会の説明があり | 境内に円を描くように |
塩を撒く | 塩から内側には入れない |
宮発ちの甚句が始まり | 宮世話人会会長へ酒を注ぐ |
『サセ・サセ』の掛け声が入り | 枡に酒を満たすと |
飲み干していく | 男達はその間、囃し立てる |
続いて宮司が挑戦 | 宮司が飲み干すと |
反時計回りに移動し | 各団体の代表者へお酌 |
観客の手拍子に合わせ | 男達は円に沿って回っていく |
次々と酒を注ぎ | 囃し立てる |
男達がカメラの前にやって来た | 友好団体の方が飲み干す |
拝殿前に戻り | 宮世話人になみなみと注ぐ |
腕を天に突き上げ | 『サセ・サセ』 |
豪快に飲み干す | 『サシター・サシター』 |
再び神輿の友好団体の方が | 名乗りを上げ、飲み干す |
締めは神輿保存会の会長 | 宮入りの甚句が入り |
『サセ!・サセ!』 | 飲み干す |
会長の胴上げで | 直会は無事に終了 |
直会 (宮入り) |
---|
●餅撒きと余興
18時30分頃に直会が終わると宮世話人と神輿保存会は直ぐに神楽殿へ上がり、昼間の行在所と同様に紅白の餅を境内の参拝客へ撒いていく。餅撒きが終わると神楽殿では余興が行われ、平成21年(2009年)には和太鼓の集団「絆」による演奏が披露された。神輿の友好団体は境内で和太鼓を聞きながら食事を取り、食事が終わった団体から拝殿前に整列した神輿保存会へ挨拶を済ませて帰路に着く。
宮世話人と保存会が | 神楽殿に上がる |
拝殿前には人が集まり | 舞台から餅を撒く |
境内は大賑わい | 勢い良く餅を撒いていく |
餅に飛びつく参拝客 | 餅撒きが終わると |
舞台では和太鼓の準備 | 代表者の挨拶 |
境内では保存会がテーブルを | 並べて食事の準備 |
湘南和太鼓『絆』の演奏 | 力強い音が境内に響く |
境内では和太鼓を聞きながら | 神輿の友好団体が食事 |
保存会は拝殿前に整列 | 食事が終わった団体から |
拝殿前で保存会と挨拶 | 一本締めで |
帰路に着く | 最後の一人が終わると |
保存会は休むまもなく | 後片付け |
『絆』の発表が終わり | 観客も帰路に着く |
小熊の山車に叩き手が乗り込み | 自治会館へ帰っていく |
ようやく保存会も境内で食事 | 今年の神輿渡御を振り返る |
宮世話人達は | 拝殿に上がって食事 |
休憩もつかの間 | 保存会は後片付け |
神輿を写真に収める会員 | 片付けはまた明日 |
20時頃になると神輿保存会は解散となり、幟や神輿などの後片付けは翌日に行われる。かつては祭りが終わると神社の境内でハチハライと称して、祭りの後片付けをしてから酒などを飲食した。宮世話人は拝殿の中で行った。
その他の行事
●平成20年(2008年)・・・熊野神社神輿改修竣工式典
戻る(平塚市の祭礼)