早田そうだ



神社の紹介

  「造化神社」は早田地区の鎮守で、祭神は「高皇産之命(たかみむすびのかみ)」・「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」・「神皇産之命(かみむすびのかみ)」で、この三神は造化三神と称す。創立鎮座年月は不詳だが往古は「第六天」と称し、伝えられるところによると水島鐸次郎氏の祖先が勧請し、その後早田・人増の人達の信仰するところとなったという。
   明治3年(1870年)に「造化神社」と改称し、明治6年(1873年)に雑社に定められた。明治45年(1912年)5月6日に熊野神社へ合祀され、合祀後の造化神社は敬神の念が厚い水島鐸次郎氏に分霊された。昭和24年(1949年)に熊野神社から分祀し、再び神霊を迎え復祀された。

造化神社鳥居・神殿
 


例大祭

  例祭日はかつて4月1日(4日?)で、現在は4月第1日曜日である。祭礼は神主の祝詞やお祓いが終わった後に、境内に筵などを敷いてご馳走やお神酒を共同飲食するだけであった。

太鼓

  ずっと昔は青年のことを「ワカイシュレン」といっており、それを青年会と呼ぶようになり、青年団となる。青年団になってからは25歳までであった。また、主として熊野神社の祭礼に太鼓(祭囃子)を叩くための集団があって、「自生会」と名づけられていた。これは16歳から加入できて35歳までの者で構成され、大正の初め頃の戦争中まであったそうである。この様な祭囃子のための会は早田・人増にも1組あった(他には上惣領(矢沢)になく、惣領分に1組、大庶子分に1組あった)。熊野神社の祭りの時は境内に舞台を4つかけて太鼓を競った。



神輿

  



早田地区

  「早田」は「ハヤタ」ではなく「ソーダ」と呼んでいるが、湿地や沼地を意味する地名といわれる。


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