下依知しもえち

神社の紹介

  下依知の鎮守である「八幡神社」の創立年月は不詳だが、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると村持ちの「八幡社」が記載されている。下依知村のこの他の神社・小祠には村持ちの「第六天社」・「稲荷社」・「吾妻社」・「神明社」・「山王社」・「熊野社」・「御嶽社」が記載祭れている。明治期の『皇国地誌』に記載される祭神は「誉田別命」であるが、当社では『風土記稿』に神体が木像と記されているような衣冠束姿の木造男神立像を御神体として伝えている。
  当社には天明8年の建立棟札と嘉永5年(1852年)の再建棟札があり、天明の棟札には名主岩崎浅衛門ら4名の村役人と、及川村大工桐生長五郎の名が記されている。また、社前には江戸文政年代(1818〜1829年)に納められた「八幡宮」と認められた額がある。境内には寛政4年(1792年)銘の「山王社」や寛政5年(1793年)銘の「神明社」、そのほか「第六天社」等の石祠7基が合祀されており、明治23年(1890年)像立の「猿田彦(さるたひこ)尊」も祀られている。奉納された絵馬には座本氏の雷神図岩崎氏の明智左馬の助け図と片倉氏の神宮皇后の図等があり、また当地古墳からの出土品数点も奉納されている。

2008.8.242008.8.24
八幡神社社殿
2008.8.242008.8.24
石祠記念碑
2008.8.242008.8.24
下依知自治会館境内

囃子

  囃子屋台が繰り出される。「下依知太鼓連」



神輿

  子供神輿が繰り出される。



例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の8月15日であった。近年まで4月1日であったが、現在は4月第1日曜日になっている。昔は神社氏子が実施したが、現在は自治会と子供会が加わって実施する。
  大祭当日は神前に供物をあげ、氏子総代や世話人など30人ほどが参列し、神官により神事が行われる。
  昔の余興は芝居・歌舞伎・神楽であった。芝居は新派の雲井が決まりで、歌舞伎は今泉(現海老名市)の中村ゴチャン・ヤスチャン一座、神楽は酒井の垣沢さんを頼んだ。また、昔は露天商はなかったが、戦前頃から出るようになった。   



下依知の歴史

  旧下依知村は厚木市域の北東部に位置し、村域の大部分は中津原台地にあり、台地東縁・西縁の段丘崖下は沖積地である。概して平坦な土地で占められているが、中央部に小段丘があって西側が一段高くなっている。周辺は、東側は相模川を隔てて高座郡四ツ谷村(現座間市)・同上郷村、西側は中津川を隔てて三田村、北側は中依知村、南側は金田村に接している。中世の文書には「下依知」と記した資料はなく、天正19年(1591年)の「浅間神社への朱印状写」に載る「相州中郡下依知之郷」が初見である。
  旧集落は台地東縁の段丘沿いにある。かつては段丘下にも屋敷地が多くあったが、相模川の洪水による水害を避け、段丘上に屋敷地を移した家が多いという。台地上の畑地が主たる耕地であり、かつては水田はなかった。台地西側の段丘上の耕地は金田村からの出作が多かったという。『風土記稿』では小名として「牛久保」を載せるが、集落名としては伝承されていない。近世の支配は、初期は幕府・旗本領の3給、以後は5〜6給であった。『風土記稿』によると幕末の戸数は26戸で、『皇国地誌』によると明治初期は31戸であった。
  明治22年(1889年)に金田村・中依知村・上依知村・関口村・山際村・猿ヶ島村と合併して依知村大字下依知となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字下依知となる。昭和20年代に東部の沖積平野の耕地整理が行われて水田となり、台地西側は金田村分にかけて昭和40年代に次々と工場が建設された。台地下段の東側部分は昭和50年代から土地区画整理事業が実施され、かつての村落景観は大きく変容した。


戻る(厚木市の祭礼)