鈴鹿・皆原
諏訪明神
入谷一丁目に鎮座する「諏訪明神」は鈴鹿と皆原の鎮守で、祭神は建御名方命(たてみなかたのみこと)を祀り、例祭日は4月17日である。創建年は不詳であるが、享保9年(1724年)再建の棟札を伝え、江戸時代中期にはすでに祀られ、別当は入谷の心岩寺であった。社殿は梨の木坂の北側の台地にあって、階段下を藤沢街道が通り、社殿のすぐ東側には鎌倉古道が通る。西方に大山丹沢の山並みを望み、眼下はるかに相模川が流れている。現在の社殿は崖下を見下ろす西向きに建てられているが、かつてそれは東向きで鎌倉街道に面していたという。
伝承によれば、信州から当地に移り住んだ人々が故郷の諏訪大社の分霊をこの地に祀ったという。『座間古説』には「鈴鹿之南に梨之木といふに諏訪在、古社なり」とあって、鈴鹿明神社延喜にかかわる海老名の有鹿明神との神戦伝承が述べられており、鈴鹿の神宝を奪わんと狙う有鹿の蛇神を「社地之内成諏訪と弁天追出し、南之やのふけに三神大蛇ニ而戦ひしが、有鹿かなハずして南大川にかくれおち」とされている。鈴鹿明神の配下である諏訪神・弁天との戦いに敗れた有鹿はその後も鈴鹿の森の西、腰巻の地で神輿を吹き飛ばされ、「其時よりなしの木諏訪坂ハ御通りなし」ということになったという。
この諏訪神社を式内社で相模十三座のひとつ「石楯尾神社(いわたておじんじゃ)」にあてる説も古くからあり、『新編相模国風土記稿』には「諏訪社、神体幣束、式内石楯尾神社なりと云ふ。(中略)天安元年(857年)五月石楯尾神官社に列せし事。国史に所見あり」とあり、「今座間入谷村、諏訪社是なりと伝ふ、又下鶴間村、大島村、津久井県佐野川村、名倉村にも、旧社の傅あり、是否詳ならず、」とし、近郷各社の筆頭にこの社を挙げている。また、『皇国地誌村誌』には「或ハ石楯尾神社、(中略) 字鈴鹿ノ岸頭ニアリ、社地中に老松数樹アリ、六七百年前ノモノタリ、岸腹ニ横穴数所ニアリ、何故タルヤ伝ハラズ、口碑ニ延喜中石楯尾神社ノ号ヲ賜ハリシト、惜シイカナ、別当本村心岩寺明治三年(1870年)庚 午回禄ニ 罹リ、社ノ旧記悉ク焼失セシヲ以テ証スベキナシ」と述べられている。別当寺であった心岩寺が明治3年(1871年)に火災に遭い、古い記録を消失してしまったという記述があり、入谷の諏訪神社が石楯尾神社であることを裏付ける確かな証拠はなく、推論の域を出ないのが現状である。
| 諏訪明神 | 鳥居 |
| 石碑(鳥居建設記念) | 社殿 |
| 石碑(鎌倉街道) | 境内 |