社家
三島社
「三島社」の鎮座地は社家字宇治山で、祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)。祭神の本地仏は『風土記稿』によれば天保(1830〜43年)のころは薬師如来で、現在でもいくつかの仏像が伝えられている。このうち木造薬師如来立像(高さ49.4dm)は寄木造で、江戸中期頃の作とされる。神体は武者姿の画像であったが、昭和21年(1946年)頃の火災で焼失したという。神木は周囲約8.5mの槻(つき)の木で中に空洞があり、大蛇が住んでいたとの伝承がある。
村内に三島社、朱院地を持つ日蓮宗常在寺、浄土真宗の浄光寺・法閑寺・明窓寺などがある。
| 八坂神社 | 鳥居 |
祭礼の歴史
例祭日は4月23日に近い日曜日。
鷹狩と地名
徳川幕府は江戸十里四方のあちこちに鷹狩の場を設けたが、市内の旧村々はみなこの鷹場の指定を受けていた。これに関連する地名に「鷹匠橋」というのが本郷にあり、鷹匠とは鷹を飼育訓練し、将軍に従って狩に出る役人のことで、この者がしばしば渡った橋からこの名が生まれたのである。橋そのものは構築物であるが、地名の場合にはその橋のあるところという意味である。
いま一つ、そのものずばりの地名ではないが社家に「高番堂」と呼ばれたところがある。高番堂つまり「鷹番所」または「高番処(ど)」の訛りの確率が高いとみてまず間違いないであろう。幕府は各村に対して鷹番2人を常置し、殺生人の見張りをさせたというが、鷹番所とはその番所のことなのである。享保3年(1718年)の文書に「御鷹番の儀は村を離れ田畑見はらしよき耕地中に立て置き申すべき旨仰せ付けられ・・・」とある。社家の場合は宇治山を通過する東名高速道路にかかるところで、集落と集落の切れ目に当り、河原の方も見張りのできる位置である。
ここに程近い中野に名主を勧められた落合家があり、そこには鷹狩関係の文書が驚くほど沢山ある。そうしたことを考えると、高番堂は鷹番所の転訛との確信が一層深くなる。
囃子
社家の囃子は「新囃子系」で、明治時代に行われていたという言い伝えがある。楽曲の構成は屋台(ブッコミ、屋台の地、一の玉、カンチガイ、二の玉、カンチガイ、三の玉)、地(玉をいれてもよい)、上り(キリ)。川向うの厚木の岡田や境へは片道五銭の渡船料を払って行った。座間や新磯方面へは「自転車のケツに提灯ブル下げ」て走って行った。「社家はやし連」
神輿
社家の歴史
社家は海老名市の南西部に位置し、北は中新田に接し、東は今里・上河内・中河内である。南は中野に連なり、西は相模川を隔てて岡田(厚木市)に対する。『風土記稿』によれば「東西八町余南北十四町」の村域とあり、「流作場あり」と記され、村内を「八王子道南北に通ず幅九尺」とも書かれる。社家は西に相模川の流れに臨む沖積低地・氾濫原から成り立ち、相模川には岡田の渡しがあった。
『風土記稿』によれば「有鹿神社の古縁起には、古昔神職多くここに住せし故、この村名起れりと云い、村民の口碑には郡内一ノ宮、鎌倉八幡等の社家、群居せし故なりと云う」と記されている。『広辞苑』によると社家の意味は「世襲神職の家筋のこと」であるので、昔は神職が多く居住した地が由来であるかのように考えられるが、そうした事跡は確認できず、由来は不明とせざるを得ない。
中世は海老名郷?五か村の一つで、江戸時代初めは旗本高木氏知行所となった。その後は久世氏などの大名藩領の時期、幕府直轄領の時期を経て、元禄11年(1698年)以降は大久保・丸山・小栗の旗本三氏の知行所となり、三給の地として幕末に至る。『風土寄稿』によれば家数は七五軒、『天保郷帳』による村高は六〇八石一斗余である。
大正15年に相模鉄道(現JR相模線)の社家駅が開設された。
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