新田宿
諏訪明神社
「諏訪明神社」は新田宿の鎮守で、祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)である。境内には覆殿・幣殿・拝殿を三棟一宇とした本殿と神楽殿があり、境内社として蚕影社・天神社・秋葉社・稲荷社・鮭明神などが祀られている。
創建は慶長7年(1602年)頃と伝えられ、別当寺であった新田山寿命院の開祖昌清が自らの生国である信濃国の諏訪大社より、分霊を勧請して当地に祀ったのがはじまりといわれている。昌清はもと上杉家の家臣といい、各地を流浪したのちに当地に居を定め、寿命院を開山した。『新編相模国風土記稿』にはこの寿命院について「本山修験 小田原玉滝坊配下 新田山昌清寺 開山の名を用う と号す。開山昌清 信濃国の人新田氏なりと云ふ、明暦二年九月朔日寂す (中略) 本尊不動及役行者の像を安ず」と記されている。諏訪大社の分霊はその後しだいに村民の信仰を集めるようになり、新田宿の鎮守としてあがめられるようになったといわれる。また、別の説では当社は入谷の諏訪神社の分社といわれ、入谷村からの分村として発達した新田宿村の村民らが、母村の諏訪明神の分霊を勧請して祀ったものだともいわれている。
社殿は万治3年(1660年)、延宝9年(1681年)、宝永2年(1705年)、正徳5年(1715年)、宝暦11年(1761年)、嘉永6年(1853年)にそれぞれ再建され、各再建時の棟札が現存する。その後、安政3年(1856年)に出火があって社殿が全焼し、記録類も失われたが、翌安政4年(1857年)に再興されている。
明治6年(1873年)に諏訪明神社は新田宿村の村社となり、明治10年(1874年)には拝殿・幣殿が新築された。大正15年(1926年)には神饌幣帛料供進神社に指定されている。平成5年頃の諏訪明神社の氏子数は135戸、崇敬者数は約20人となっている。年間の主な祭事としては、1月1日の元旦祭、2月節分日の節分祭、4月29日の天神社・蚕影社合同祭(春祭)、10月第1日曜日(もとは10月7日)の例大祭、11月15日の七五三祭、11月23日の新嘗祭、12月31日の大祓いなどが行われており、また、毎月1日・15日には月次祭が行われている。
| 諏訪明神 | 社号柱(諏訪明神) |
| 狛犬(吽) | 狛犬(阿) |
| 鳥居 | 石碑 |
| 掲示板 | 手水舎 |
| 幟竿奉納者芳名 | 諏訪明神社由緒 |
| 社殿改修事業奉讃者芳名 | 諏訪明神改修記念碑 |
| 燈籠 | 燈籠 |
| 拝殿 | 幣殿・覆殿(本殿) |
| 神楽殿 | 社号柱(村社諏訪明神) |
| 神変大菩薩碑は | 市指定重要文化財 |
| 天満宮蚕影社 | 社殿 |
| 石祠 | 境内 |
境内社のうち、天神社・秋葉社・稲荷社の勧請年は不詳であるが、蚕影社は慶応2年(1866年)に創建されたもので養蚕の守護神である。また、鮭明神は本殿内に祀られており、万治3年(1660年)および元禄2年(1689年)再興の棟札が残されている。古老の話ではかつて相模川には多くの鮭が遡上し、新田宿の東に流れる小川の中にも鮭の姿が見られたといい、その鮭の豊漁を祈って鮭明神が祀られたという。また、ある嵐の日に諏訪明神の回廊の上で一尾の鮭が跳ねていたとの伝承にちなんでこの神を祀ったともいわれ、『新編相模国風土記稿』にも「相伝て暴雨の時、当社の神殿に鮭一尾あり、依て神に祀りしと云う」と記されている。更に、境内にある神変大菩薩碑(じんぺんだいぼさつ)は寛政12年(1800年)に建てられたもので、修験道の開祖、役小角(えんのおづめ)/役行者(えんのぎょうじゃ)を祀ったものである。先の『新編相模国風土記稿』の記述にも、別当寿命院に役行者の像が祀られていたとあるので、当時の別当僧が役小角の没後1,100年目にあたる寛政11年(1799年)に、天皇から小角に神変大菩薩の称号が追賜されたことを記念してこの碑を建立したものと思われる。
隣接の新田邸はもと諏訪明神社の別当寺で、新田山寿命院昌清寺といい、いまも本尊の不動明王(木像)がある。別当寿命院の七世円隆は葛城・大峯の両山に二度入山して修験道を修めたほか、文化13年(1816年)には境内に寺子屋「神月堂」を開いて多くの子女の教育にあたった人物である。この寺子屋は明治6年(1873年)に公立小学校が開設されるまで、3代50年余にわたり教育施設としての重要な役割を果たした。寺子屋には新田宿のみならず座間宿・四ツ谷・新戸など各地から多くの子女が集まり、修了者は数百名にも及んだという。旧別当家はその後、還俗して諏訪明神社の宮司(新田家)となった。
囃子
新田宿は大正の始めに阿久和(横浜市泉区)から入れたというが、阿久和は「下町(シタマチ)系」に属する。新田宿ではもとは獅子頭などもあり、横浜の伊勢佐木町の祭りや9月15日の祭礼には囃子を叩きに行ったこともあるという。獅子はもちろん、オカメとヒョットコの踊りもしたが、今はすっかり衰退してしまい、獅子頭などの所在も分からなくなっている。龍源院の弁天様の祭礼にも出たし、入谷にも教えに出向いたこともあったという。
神輿
新田宿の歴史
「新田宿」は昭和3年の『高座郡座間村全略図』にも、現在と同様の名で載っている。座間市の西方に位置し、西側は相模川をはさんで厚木市(旧愛甲郡依知村)の関口と中依知と、南は座間市の四ツ谷地区、北は相模原市(旧新磯村)の新戸と境を接しており、東川は座間一丁目と二丁目に接している。これにかつて入会地であった北東部の遠隔地(現、相模が丘五、六丁目)が加わる。新田は新たに開発された農地をいうが、「新田宿」の開発がいつごろのことかは定かではない。氏神とされる諏訪明神社や専念寺の創建が慶長年間(1596〜1615年)というので、そのころの可能性も考えられる。
はじめは「座間新田」といわれていたらしく、元禄15年(1702年)の相模国郷帳には「古ハ座間新田」と書かれている。村の名が「新田宿」となるのは政保以後のこととされ、やや時を経た寛文年間(1661〜73年)の水帳に「今の村名(新田宿村)を記せり」とある。江戸時代の「宿」は「しゅく」と呼んで、宿屋・旅籠屋の意から旅宿の並ぶ集落をいうようになる。それらの「宿」は街道沿いの家並みがつづく帯状の集落で、「新田宿」もこのころ「新田宿大通り」を中心に町並みが整ったのであろう。成立が「座間宿村」とあまり変わらず、同じように東西南北に四方固めと称する稲荷社を祀っている。寛文のころ久世大和守広之の所領となり、大和守は用水路を掘り、相模川に堤防を築いていたので米穀の収穫量は増大し、開拓も進んだ。慶長のころの収穫は185石余であったが、元禄15年では258石余となっている。
諏訪明神社を北端に大通りはおよそ南北に通じ、町並みは北から上組(上屋)・中組(中屋)・下組(下屋)にわかれる。「窪河原」の河川敷に渡船場があり、大通りの北部から相模川の渡船場へ「渡船場道」があった。この道の鳩川に架かる橋を「鷹匠橋」というのは、相模川河岸一帯が鷹の狩り場であった名残りといわれている。北西(乾)の固めとされる岩岡稲荷近くに蔵屋敷があったといい、かつて付近に豊かな湧水による池があり、流出する水が「池の川」と呼ばれていたという。かなりの水量であったことから、蔵屋敷の年貢米はこの川を利用して相模川まで舟で運んだのではないかともいわれる。現在、池の川は用水掘の水を流して「古俣川」の名で残っている。
『新編相模国風土記稿』には戸数73、東西14町という数値が見え、『皇国地誌村誌』には明治9年(1876年)の戸数82、人口423のほか、馬30、漁船を記し、田35町1反・畑26町1反余りの税地を示して、米・麦・粟・繭などの産物と、その輸送先である八王子・川尻村(現城山町)・上溝村(現相模原市)を記す。明治初年に80戸だった住民の名字に30有余種があり、近隣にみられぬ名字も多いため、当初、どのような方法で誘致されたものか興味がある。
相模川の流路の移動からか、享保18年(1734年)に久世氏の築いた堤防から西方に新堤(防)を築き、久世氏の方を旧堤(防)という。相模川は暴れ川で、明治初期の記録によると、寛政元年(1789年)から明治21年(1888年)までの100年間に30回も洪水で堤防が切れる災害があった。そのたびに住民は駆り出された上、用水路や堤防の維持管理も容易ではなかった。加えて、新田宿住民にあたれられた市域東方の芝原は、他の地区のそれよりもさらに遠隔の地にあったので、耕作に通うのも並大抵ではなかったという。その相模川も戦後の砂利採取で川底が下がり、上流にダムが建設されたこともあって洪水は見られなくなった。「新田宿」は現在でも水田地帯ではあるが、宅地化が進み、農地は次第に減少している。
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