中河内
貴日土神社
「貴日土(きびと(つ))神社」の鎮座地は中河内字旭で、明治8年(1875年)10月に中河内村の「弁財天」・「稲荷」・「金比羅」の3社を合祀して創建された。祭神は宇気母知命(うけもちのみこと)で、相殿に厳嶋媛命(いつくしまひめのみこと)と大山咋命を祀る。本殿は金比羅社(旧河内村の鎮守)の本殿を充当したものと言われ、神体は丸石である。
境内に文久2年(1862年)8月に佐藤八左衛門が寄進した手水鉢(ちょうずばち)があるが、これは合祀以前の3社のいずれかのものと思われる。「貴日土」の社名は中河内村の寺子屋の師匠植田佐兵衛(うえださへい)が、農業にとって大切な「日を貴び、土を貴ぶ」という意味で名付けたと言われている。明治24年に改築されている。境内に「御嶽大神(日本武命)」を祀る。
| 八坂神社 | 鳥居 |
祭礼の歴史
例祭日は4月10日に近い日曜日である。
囃子
中河内の囃子は「新囃子系」で、大正時代から戦前に行なわれていたという言い伝えがある。よその祭りへも随分回ったが、先生筋に当たる門沢橋の祭りには招待された。五十銭の花代を出すと一円也と書いて貼ってくれ、二円くらいの菓子をもらって叩かせてもらった。
神輿
中河内の歴史
中河内(なかごうち)は海老名市の南部に位置し、北は上河内、東から南にかけて本郷と接し、西は社家に連なる。大部分は相模川の沖積低地の水田地帯であるが、東側は段丘の台地にかかる。
中世は恩馬郷に属し、後に杉久保・上河内などと共に本郷村から分村した。元禄16年(1703年)の『相模国高座郡役高帳』には「上川内村・中川内村」と載り、『社寺考』には「河内村今は上中下三ヶ村に分つ。但し下河内村は本郷村に属し上河内村は杉窪村に属す」と記され、もと一村だったものが近世になって三分割された様子がわかる。江戸時代はじめは幕府直轄領と旗本太田氏知行所であったが、天領分は寛文8年(1668年)に上野国前橋藩の藩領となり、一時天領に戻ったが、元禄10年に旗本馬場氏知行所となり幕末に至る。『風土記稿によれば』村域は「東西八町南北五町半」とあり、家数は41軒であった。『天保郷帳』によれば「村高三六三石七斗余」で、明治元年の『旧高旧領取調帳』には「太田氏知行所二〇二石余、馬場氏知行所一六一石余」と載せられている。村内に真言宗吉祥寺がある。
『風土記稿』では中河内村の小名として半島町・溝下町・弁財天町・稲荷町・富士塚町・辻地蔵町の六つを挙げている。そして「共に屋敷地・田畑等の名にて市店あるに非ず」と記し、町=マチが市街地をあらわすものでないことをいっている。
上河内の歴史
上河内(かみごうち)は海老名市の南部に位置し、東は杉久保、南は中河内・本郷に接し、西は社家、北は今里に連なる。『風土記稿』によれば「東西八町南北三町半」の村域と記される。河岸段丘の西側下に沿う水田地帯である。上河内の「上」は上・中・下の上であり、位置関係を表し河内地域の最北部を意味する。河内=コウチの元の意味は「山や台地にはさまれた河畔の平地」ということで、それから転じて「川が氾濫すれば川の内になってしまう氾濫原」の呼称ともなる。このような地は広い水田耕作地になることから、「耕地」の表記が宛てられることも多い。相模川沿岸低地に位置して川内の地形を意味し、同時に広大な水田地帯の耕地という土地利用も表わす地名である。
中世は恩馬郷に属し、当村と中河内・杉窪の三か村は共に本郷村から分村した村であるという。江戸時代はじめには幕府の直轄領で、元禄12年(1699年)から武蔵忍藩領、宝永2年(1705年)から旗本武田氏知行所、宝暦10年(1760年)から下総佐倉藩領となって幕末に至った。村高は『天保郷帳』によると「二一一石五斗余」、戸数は『風土記稿』の記載で一九戸、村内に臨済宗建長寺派の定国寺がある。
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