中野なかの

中野八幡宮

 
 「中野八幡宮(なかのはちまんぐう)」の鎮座地は中野字桜野で、祭神は誉田別命(応神天皇)である。「八幡社」は旧中野村の鎮守で勧請年代は不詳であるが、神体の将軍地蔵騎馬像は室町時代後期の作とされる。本殿内にある慶長8年(1603年)の古棟札2枚から本殿および覆屋を新造したことがわかり、室町時代後期に遡る古社であることは間違いないと思われる。
 神体の将軍地藏騎馬像は木造で、高さは20.2cm、甲冑を着けて弓矢をとり馬にまたがる形につくられている。像本体は一本造で彩色され、この彩色は台座の裏銘により享保2年(1717年)に塗り替えられていることがら、像自体の製作はさらに遡る。昭和12年(1937年)3月の高座郡神職会編の『高座郡神社略誌』には「村社八幡宮 有馬村中野 祭神 誉田別命」とあり、由緒については不詳で、明治6年2月に村社列格、大正4年9月に神饌幣帛料供進神社に指定されたとある。また、境内は285坪で、氏子数は50戸と記載されている。
 本殿は覆殿内部に安置され、中規模の一間社流造(いっけんやしろながれづく)りの内宮である。創建年代は18世紀前期頃と推定され、平成16年(2004年)に海老名市の重要文化財に指定されている。大きさは間口5尺、奥行きは母屋が4.1尺、向拝出が3.9尺で、母屋の柱には直径5.8寸の丸柱が用いられている。母屋の正面、黒漆塗りの桟唐戸は草花の幾何学文を彫り、彩色を施した珍しい建具である。正面両脇の小壁には竹と梅に鶯の彫刻をはめ、中備(なかぞなえ)にあげた本蟇股(かえるまた)の脚間にも彫刻をはめる。当本殿は洗練された意匠の彫刻装飾を多用していることが大きな特色で、また、木部を全て彩色しているうえに、銅製の飾り金具が多く用いられている。かつ、保存状態も良い。
 別当は「盛福寺」であった。 村内に鎮守八幡社、曹洞宗盛福寺、日蓮宗妙泉寺がある。現在は末社として境内に白山社が祀られている。新しい社殿は平成15年(2003年)10月26日に竣工した。神木はイチョウの大木で、境内社として「苺神社」が祀られている。

参道石物
地蔵堂石碑
中野八幡宮社号柱(村社八幡宮)
狛犬(吽)狛犬(阿)
鳥居鳥居建立 寄進者御芳名
庚申塔八幡宮の由来
手水舎祠・水鉢
燈籠拝殿
幣殿・覆殿(本殿)本殿は市指定重要文化財
中野八幡宮祭事中野堤外共有地の由来
燈籠平成の御造営奉賛者御芳名
神楽殿社務所
 
白山社燈籠
倉庫御神木
境内入口
中野集会所 あいあい館ふれい広場

囃子

 中野の囃子は「新囃子系」で、明治時代に行われていたという言い伝えがあり、曲目は「屋台ばやし」、「鎌倉」、「四丁目(しちょうめ)」、「昇殿」がある。よそに祭りがあると叩きたくて居ても立っても居られず、花(五十銭くらい)をかけて叩かせてもらった。中野公民館の火災(楽器焼失)を経て昭和49年(1974年)に八幡宮と自治会の協力の元、楽器を新調して保存会を設立した。
 伝承する団体は「中野はやし保存会」で、中野八幡宮の例大祭や自治会の盆踊り、門沢橋小学校の運動会、市民まつりなどで活動していたが、令和7年(2025年)より休会となっている。毎週土曜日の夜に練習をしていた。


神輿

 


祭礼の歴史

 昭和12年(1937年)3月の高座郡神職会編の『高座郡神社略誌』には例祭10月4日、祈年祭2月19日、新嘗祭11月23日とある。現在の例祭は4月14日に近い日曜日である。


中野の歴史

 中野(なかの)は海老名市の南部に位置し、北は社家、東は本郷・中河内、南は門沢橋に接し、西は相模川を隔てて酒井(厚木市)に対する。『風土記稿』によれば村域は「東西十町ばかり南北五町ばかり」とあり、村域はすべて相模川の沖積地にあり低平である。中野の名の由来は、江戸時代初期の寛永や寛文の文書に「中ノ村」あるいは「中之村」と記され、この表記通り、社家と門沢橋の間に位置する村という意味であろう。『元禄郷帳』で「中野村」と記されるようになるが、この場合の「野」は単なる当て字であって、原野を意味するものではないと考えられる。川崎にも「中ノ島」を「中野島」と表記した地名がある。
 中世には中野村は海老名郷五か村の一つであり、江戸時代に入ってはじめ幕府直轄領と久氏などの大名領、元禄10年(1697年)以降は旗本天野氏・佐藤氏・本間氏の知行所に分給されて三給の地となる。村高は三八〇石五斗余であった。村名は『政保国絵図』には記載されず、『元禄国絵図』に至ってはじめて記載されたが、その図による位置は不正確で、中新田と河原口の間に置かれている。佐藤氏知行所分は天領の時期を経て、享保13年(1728年)に下野烏山藩領となり幕末に至る。『風土記稿』によれば19世紀前半の頃の家数は49軒で「流作場あり御料所」と記され、また「八王子道村の中程を貫く、道幅九尺」と記されている。


石橋の石

 今里から門沢橋にかけての広い有馬耕地の土地改良事業のうち、中野地区が完了したのは昭和44年(1969年)で、区画割りも正しく幾すじもの用水路の橋も全部コンクリートに変わった。むかし橋と言えば所によって一本橋あり、板橋あり、土橋ありで石橋は稀であったが、雪里地域の北端が社家に接しようとするところの用水だけに石橋がかけてあった。まだ地番の設定のなかった昔は恐らく修復の必要のない橋と注目もされ、有難がられていたことであろう。そしてこの付近の耕作者はきっと「石橋の田んぼにいるからお茶を持ってきて・・・」と特定の指定に利用していたにちがいない。それがいつの間にか地名になってしまったのである。
 うれしいことにこの石はいまなお健在で、中野八幡社の鳥居のそばに「土地改良事業完成記念碑」と使命を変えて立っている。高さ208cm、幅67cm、厚さは最高で23cmと、橋になっていた時はさぞ頼もしく感じられたことであろう。右側に立ち並んでもう一基、この石の由来を刻んだ高さ142cmの碑があり、碑文を一部省略して以下に記載する。なお、竿石の語は立石と読み替えたいが、とにかくこの石は海老名氏館の敷石次に石橋、そしてこの記念碑と世の推移につれて三度も社会に御奉公の足跡をもった輝かしい御影の石である。

 記念碑竿石由来について
 此の石は康平年間(八五〇年以前)当地の大守海老名源八季定邸の敷石に使われていた一三枚中の一枚にして、其の後中野部落の田圃の用水路の石橋として使用していたが、工事の完成と共に不用となる。此の石を後世にのこすため敢て竿石とする。
 昭和四十四年七月吉日
 有馬土地改良組合大六区(中野)


御神木 大銀杏

 中野の大銀杏は樹木医によると樹齢は800年を越えていると診断され、古文書や伝承がそのことを証明している。万治2年(1659年)に編纂された『鷹倉社寺考』には、「八幡宮の鎮座時期は古文書や棟札がないので本当の事はわからない。但し、社殿や神木をよく調べてみると古い時代の鎮座と思われる。」享保10年(1725年)に書かれた現在の御本殿造営古文書「鎮守八幡宮歓物之札」には、「正徳6年(1716年)この中野村の鎮守様の八幡宮は、長い間の歳月がたって痛みがひどく寂れてしまった。」とあり、村中で再建の話が出ていた矢先に翌年の8月16日に大風が吹き、御神木の銀杏が倒れて本殿が大破した。これにより村人の本殿再建の意志は強く固まり、7ケ月の計画を立てて金五十九両余りの寄付金が集まった。
 天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると、「神木銀杏樹周囲一丈五尺(6m)」と記され、この当時には既にかなりの巨木であったことが伺える。大正8年(1919年)11月に撮影された境内の写真には大銀杏の健全な姿が写されており、雑木で実は付けていないが、幹から乳(にゅう)が下がり特異な姿であった。以前は境内を蓋うほど枝葉が茂り遠くからも見えたと伝えられているが、昭和40年(1965年)の台風によって根が浮き上がり、拝殿の屋根を破損して主幹が枯れてしまった。折れた枝でまな板を作り、氏子に配られた。その後、南側の幹から芽が出て復活したが、平成6年(1994年)に樹勢が衰えてしまったため、樹木医の診断を受けて治療が施され、枯れてしまった部分には保存の手当が行われた。その結果、幹の一部が樹勢を回復し、平成17年時点で枯れた部分を含め8.5m程である。
 大銀杏は樹齢200年を超えると診断され、近代では稀な大銀杏として手当が施された。また、この大銀杏は平岩弓枝の小説『華やかな魔獣』に登場し、「岩とも木ともつかぬ奇怪な塊」という表現が用いられている。

大銀杏解説

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