中野なかの

八幡宮

 
 「八幡宮(中野八幡宮)」の鎮座地は中野字桜野で、祭神は誉田別命である。神体は木造将軍地蔵騎馬像(高さ20.3cm)で、甲冑を着け、弓矢をとって馬にまたがる形につくられている。像本体は一本造で彩色。製作時期は室町時代後期とされ、享保2年(1717年)に塗り替えられている。神木はイチョウの大木で、本殿は享保10年(1725年)に造られたものだという。境内社として「苺神社」が祀られている。昭和12年(1937年)3月の高座郡神職会編の『高座郡神社略誌』には「村社八幡宮 有馬村中野 祭神 誉田別命」とあり、由緒については不詳で、明治6年2月に村社列格、大正4年9月に神饌幣帛料供進神社に指定されたとある。また、境内は285坪で、氏子数は50戸と記載されている。
 別当は「盛福寺」であった。 村内に鎮守八幡社、曹洞宗盛福寺、日蓮宗妙泉寺がある。

八坂神社鳥居

石橋の石

 今里から門沢橋にかけての広い有馬耕地の土地改良事業のうち、中野地区が完了したのは昭和44年(1969年)で、区画割りも正しく幾すじもの用水路の橋も全部コンクリートに変わった。むかし橋と言えば所によって一本橋あり、板橋あり、土橋ありで石橋は稀であったが、雪里地域の北端が社家に接しようとするところの用水だけに石橋がかけてあった。まだ地番の設定のなかった昔は恐らく修復の必要のない橋と注目もされ、有難がられていたことであろう。そしてこの付近の耕作者はきっと「石橋の田んぼにいるからお茶を持ってきて・・・」と特定の指定に利用していたにちがいない。それがいつの間にか地名になってしまったのである。
 うれしいことにこの石はいまなお健在で、中野八幡社の鳥居のそばに「土地改良事業完成記念碑」と使命を変えて立っている。高さ208cm、幅67cm、厚さは最高で23cmと、橋になっていた時はさぞ頼もしく感じられたことであろう。右側に立ち並んでもう一基、この石の由来を刻んだ高さ142cmの碑があり、碑文を一部省略して以下に記載する。なお、竿石の語は立石と読み替えたいが、とにかくこの石は海老名氏館の敷石次に石橋、そしてこの記念碑と世の推移につれて三度も社会に御奉公の足跡をもった輝かしい御影の石である。

 記念碑竿石由来について
 此の石は康平年間(八五〇年以前)当地の大守海老名源八季定邸の敷石に使われていた一三枚中の一枚にして、其の後中野部落の田圃の用水路の石橋として使用していたが、工事の完成と共に不用となる。此の石を後世にのこすため敢て竿石とする。
 昭和四十四年七月吉日
 有馬土地改良組合大六区(中野)

囃子

 中野の囃子は明治時代に行われていたという言い伝えがある。よそに祭りがあると叩きたくて居ても立っても居られず、花(五十銭くらい)をかけて叩かせてもらった。


神輿

 


祭礼の歴史

 。昭和12年(1937年)3月の高座郡神職会編の『高座郡神社略誌』には例祭10月4日、祈年祭2月19日、新嘗祭11月23日とある。現在の例祭は4月14日に近い日曜日である。


中野の歴史

 中野(なかの)は海老名市の南部に位置し、北は社家、東は本郷・中河内、南は門沢橋に接し、西は相模川を隔てて酒井(厚木市)に対する。『風土記稿』によれば村域は「東西十町ばかり南北五町ばかり」とあり、村域はすべて相模川の沖積地にあり低平である。中野の名の由来は、江戸時代初期の寛永や寛文の文書に「中ノ村」あるいは「中之村」と記され、この表記通り、社家と門沢橋の間に位置する村という意味であろう。『元禄郷帳』で「中野村」と記されるようになるが、この場合の「野」は単なる当て字であって、原野を意味するものではないと考えられる。川崎にも「中ノ島」を「中野島」と表記した地名がある。
 中世には中野村は海老名郷五か村の一つであり、江戸時代に入ってはじめ幕府直轄領と久氏などの大名領、元禄10年(1697年)以降は旗本天野氏・佐藤氏・本間氏の知行所に分給されて三給の地となる。村高は三八〇石五斗余であった。村名は『政保国絵図』には記載されず、『元禄国絵図』に至ってはじめて記載されたが、その図による位置は不正確で、中新田と河原口の間に置かれている。佐藤氏知行所分は天領の時期を経て、享保13年(1728年)に下野烏山藩領となり幕末に至る。『風土記稿』によれば19世紀前半の頃の家数は49軒で「流作場あり御料所」と記され、また「八王子道村の中程を貫く、道幅九尺」と記されている。


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