愛名あいな

諏訪神社

  「諏訪神社」の創建は江戸初期頃と伝えられ、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると愛名村の鎮守を「諏訪社」とし、「古くは高松山にあり、高松明神と唱う」とある。後に現在の地へ遷座し社号を「諏訪神社」と改めた。祭神は「建御名方命」で、社前の正徳2年(1712年)10月に奉納された灯籠には「高松明神」と彫られている。愛名村のこの他の神社・小祠には妙昌寺持ちの「神明社」・「山王社」・「稲荷社」2社・「道祖神社」が記載されている。
  当社に蔵される明暦3年(1657年)の棟札には正保2年(1645年)に愛名村の大明神が破損したことに合わせて、妙昌寺15世の僧日雄が高松山山頂に祀られていた高松明神を移し、「諏訪大明神」とした由緒が記されている。また、神社入口には、高松山山頂より当所に遷座して340年を記念した昭和60年建立の社標がある。
  拝殿(間口3間、奥行2間)は元禄10年(1697年)4月の建立で、本殿(間口6尺5寸、奥行3尺5寸)の屋根は板葺で正面の向拝は唐破風、上屋は寄棟千鳥破風造にて、嘉永6年(1853年)4月に覆殿(間口奥行共3間4方)が建立されている。なお、拝殿前には竜の彫られた額(長さ2m程)が掲げられているが、厚木出身で我国彫刻界の大家となった関野星雲が13歳の時に、恩曾川の流木を以って竜を見事に彫り当社前に奉納したと伝えられている。また、当社の資料として嘉永6年の別当長愛山24世の棟札がある。
  木造切妻形の神楽殿(間口4間、奥行2間半)があり、これには下屋2間に奥行2間半がある。

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諏訪神社社号柱
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鳥居石階段
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手洗鉢燈籠
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燈籠社殿
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神楽殿境内

囃子

  



神輿

  



例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の7月27日であった。近年は毎年8月27日に実施しており、現在は27日前後の土曜日に行われている。前日の宵宮に地区の役員と一般の人達によって櫓を組み、受付場所や太鼓連の櫓を作り、境内や社殿内の清掃や幟立て、注連縄作り、仮設トイレも設置する。
  大祭当日は神様への供え物を年番の人達が揃え、なみのはな(塩)、おさんごう(洗米)、野菜(大根・さつまいも・しょうが)、おすわり(おそなえ餅)、海の幸(こんぶ・するめ)、清酒一升、くだもの(りんご・夏みかん・バナナ)と瓶子で水を供える。
  式典は午前中に行われ、本殿で供え物の祭段の所に年番役員が席に着き、その後神主によって太鼓連櫓や神楽殿をお祓いする。
  18時より太鼓連によって太鼓が叩き出され、相模里神楽によって三番叟が始まる。また、素人による舞踊もある。昔は宵宮に神楽殿において義太夫や長谷の人形芝居を夜明けまで演じていたという。
  露天商は境内石段手前の両側に15店程並び、綿菓子・焼き鳥・お面・色付けリンゴ状のアメ・串に刺したウィンナーソーセージ等が売られる。昔は15〜20店ほど出て、おもちゃの刀やお面(おかめ・ひょっとこ)も良く売れたという。



愛名の歴史

  旧愛名村は厚木市域の南西部に位置し、村域は高松山丘陵東部にある。丘陵東側は恩曽川の支流によって大きく分断されており、部分的に段丘面が認められる。全体的に起伏に富んだ地形で、村域の半分ほどが山地である。恩曽川支流沿いの低地にいわゆる谷戸(やと)田が開かれ、その上の段丘面は畑であった。村域中央を大山道が南北に貫いている。周辺は、東側は温水村、南側は長谷村、西側は小野村・上古沢村、北側は下古沢村と恩曽川を隔てて飯山村に接している。
  中世資料では康安2年(1362年)の「沙弥行一打渡状」に載る「相模国愛甲庄内愛名村」が初見で、この頃は愛甲庄に含まれていた。永禄2年(1559年)の『所領役帳』では「中郡愛名」と記載されている。『風土記稿』では愛甲郡の巻頭で和名妙所載の郷について、愛名村を「英那郷」と遺名と考え、「○英那 郡の南方に愛名村あり、是なり英を安伊と唱へしは本書美作国の郡名、英多を安伊多と註せし證に拠べし」と記している。
  旧集落は浸食谷に部分的にある段丘面に点在しており、伝承調査では「カミ」・「キタケヤト」・「ナカ」・「ヒガシガワ」の呼称が確認されている。『風土記稿』では小名として「後谷」・「内堀」・「大下」・「桶瓦谷」・「北替戸」・「小高松」・「しんか久保」・「とうや塚」・「八かし台」・「荻原谷」・「ひゑ久保」・「みねたい」・「よし久保」を載せるが、これらは地名である可能性が考えられる。
  近世の支配は幕府・旗本領の2〜3給で、『風土記稿』によると幕末の戸数は35戸であった。明治22年(1889年)に戸室村・恩名村・温水村・船子村・長谷村・愛甲村と合併して南毛利村大字愛名となり、昭和30年(1955年)の合併に寄り厚木市大字愛名となる。昭和48年(1973年)に村域東南部から長谷・温水にかかる丘陵部で毛利台団地の建設が始まり、昭和52年(1977年)に当地区の一部に「毛利台」の住居表示が実施された。


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