粟窪あわくぼ

粟窪神社

  「粟窪(あわくぼ)神社」の祭神は粟窪大神と建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)である。創建は宝治6年(1251年)9月と伝えられ、永禄3年(1560年)に足利義営が再興した。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると粟久保村の鎮守は「第六天社」とあり、吉田家配下の多田勘解由が神主であった。多田家は第六天の社守をつとめ、勘解由の時に吉田家配下の神職となった。先祖の多田和泉はもと田中に住み、徳川家康の巡見の際に当家に休息したといういわれを持つ。天正19年(1591年)には社領として一石の朱印状が与えられ、境内地不入地の寄附はこの時の由。
  神社はそのほかに「八幡宮」もあり、寺院には下糟屋村普済寺の末寺である「梅秀山妙泉寺(臨済宗)」と「恵光山妙覚寺(臨済宗)」、同じく普済寺の末寺であったが江戸時代後期には廃絶した「西福寺(臨済宗)」があった。明治6年7月に村社となった。

粟窪神社鳥居
手水舎神楽殿
拝殿弊殿・覆殿
境内


例大祭

  『風土記稿』に載る「第六天社」の例祭日は旧暦の9月15日で、明治20年(1887年)の『下糟屋村外六ケ村地誌』によると4月1日になっている。昭和20年(1945年)代まで4月1日であった祭日はその後10月2日に移行したが、土地改良によって二毛作ができるようになったため氏子にアンケートを行って9月15日に決定するという経過をたどっている。



青年会

  成瀬地区においては明治44年(1911年)5月に成瀬村統一青年会が成立する以前から各集落に若者の組織があり、ムラの生活の中でさまざまな役割を担ってきた。この青年会に統一される以前の若者の組織は集落個々に名称を持ち、粟窪では「若連中」であった。  

囃子

  



粟窪の歴史

  永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』には秋山内粟窪分としており、当時は上粕屋村小名秋山の一部だったことが分かる。『中郡勢誌』では村名の由来を糟屋荘の総社であった八幡宮(高部屋神社)に粟を献上した値に由来するとしている。江戸時代当初は直轄地で、寛永年中(1624-44年)にその一部が伊丹康信領となり、元禄7年(1694年)に残りの直轄地が三枝守清領となって二給で幕末まで続いた。検地は延宝6年(1678年)に成瀬重頼と八木長信により実施され、この地は後に三枝領となる。
  『風土記稿』には「粟久保村」とあり、村内を矢倉沢道・大山道・八王子道など3本の道が幅八尺で通過していた。小名には「久保」・「林」・「谷戸」があり、高札場が2ヶ所あった。


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